東京の電車で、割と頻繁に遭遇するのが、足を踏まれたり、濡れた傘をなすりつけられたりする事だ。
自分も気づいてないのかも知れないが、感覚的にあり得ないと思っている。
足を踏まれるといっても、例えば満員電車で、靴のコバ部分を踏まれたりするレベルが多く、ガッツリ踏まれるのは年に一回もない。にしても、靴のコバという事は、高さにして5mm程度の段差に足をかけることになるので、普通、気づかない訳がないと思う。
また今、目の前に立っている人もそうだが、濡れた傘が膝や脛の辺りをスリスリしてくる。少し押し返したりもするが、気づいているのか、いないのか。これも、普通であれば、チョットした違和感や引っかかりがあれば、特に濡れた傘の場合には割とすぐに気付く類のもモノだと思う。
先日も近くの喫茶店で、長居している二人の若者に店員が、注意を促すシーンを見た。最近は、お昼時などには、店員が声を掛ける事はよくある。その若者たちは、至近距離で顔を見て注意されているのに、あえて視線を合わせず無視を続けていた。
ハッキリ言って、人としてどうなんだろうと感じたが、割とそういった人は多い。要は、自分に都合の悪い情報には、五感をシャットアウトしてしまうタイプだ。
有名人ではスティーブ・ジョブズがそうだったらしいが、どう考えても、そんなスケールの大きな五感シャットアウトタイプではない。
一般的な社会生活においては、迷惑なだけだろう。そんな人が増えていくと、どんどん住みにくい世界になって行くように思う。
2012年5月25日金曜日
2012年5月23日水曜日
2012年5月21日月曜日
白いリングから光が漏れる
今日は金環日蝕デー。ドリカムは20年以上も待ち続ける覚悟の歌を歌っていたようだが、曇り空で危うく20年越しの願いが成就できないところだった。
出勤を遅らせて、家族と天体ショーを楽しもうと、テレビの前に座り、時々刻々と変わる太陽の様子を見ていた。鹿児島は雨、串本は晴、富士山は吹雪、東京は曇だった。
横浜は曇り空。
テレビの中の東京は雲が薄くなってきており、徐々に欠けていく太陽がみえるようになってきている。横浜は小雨に。アメッシュというアプリで雲の動きを確認すると、東風で、しばらくすると晴れてきそう。
7時過ぎに確認して、雨雲の移動スピードから20分後ぐらいには多少晴れ間が覗きそう。。。なんだけど、金環になるのは7時30分過ぎなので、ギリギリ見えるかどうか。
雨が上がったので外に出て、空を見上げると、雲に覆われた空に細く白いリングが。日蝕メガネを使うと真っ暗になってしまうほどの薄い光が見えた。

確かに今まで見た事のない不思議な光景。
神々しいと見る事も、少し不吉な予感を感じる事もできる。知識がなければ、家の中で震えているかも知れない。しばらくすると雲が薄くなり、いよいよ日蝕メガネの登場かと思いきや、また真っ白に。それでも時々は明るい輪が見えるようになった。
まともに日蝕を見たのは初めてで、とても良い経験だった。金環ではなく白環だったが。
出勤を遅らせて、家族と天体ショーを楽しもうと、テレビの前に座り、時々刻々と変わる太陽の様子を見ていた。鹿児島は雨、串本は晴、富士山は吹雪、東京は曇だった。
横浜は曇り空。
テレビの中の東京は雲が薄くなってきており、徐々に欠けていく太陽がみえるようになってきている。横浜は小雨に。アメッシュというアプリで雲の動きを確認すると、東風で、しばらくすると晴れてきそう。
7時過ぎに確認して、雨雲の移動スピードから20分後ぐらいには多少晴れ間が覗きそう。。。なんだけど、金環になるのは7時30分過ぎなので、ギリギリ見えるかどうか。
雨が上がったので外に出て、空を見上げると、雲に覆われた空に細く白いリングが。日蝕メガネを使うと真っ暗になってしまうほどの薄い光が見えた。

確かに今まで見た事のない不思議な光景。
神々しいと見る事も、少し不吉な予感を感じる事もできる。知識がなければ、家の中で震えているかも知れない。しばらくすると雲が薄くなり、いよいよ日蝕メガネの登場かと思いきや、また真っ白に。それでも時々は明るい輪が見えるようになった。
まともに日蝕を見たのは初めてで、とても良い経験だった。金環ではなく白環だったが。
2012年5月18日金曜日
あまり見ない風景
新幹線に品川から乗ったら、C席の人が弁当を食べてた。東京からC席に乗って、品川に着く前に弁当を食べ始める人って初めて見たかも。
品川か新横浜で少なくともA席の人が来るのは目に見えており、テーブルを上げたり、弁当のすぐ上や横を通られたりして、普通に考えれば良いことない。少なくとも品川を越えないと落ち着かないだろう。
見るとキャスターバッグの大きな荷物に、弁当は牛タン。弁当はすでに7割方腹の中のようだ。仙台からの移動のようだが、弁当の減り具合を見ると、もしかしたら東京から食べ始めたのではないのかも。
普通のペースで考えると、上野に着く少し前にフタを開けたのかも知れない。計画性がなさ過ぎるが、よっぽど腹が減ってたのか。
まぁ、世の中には色んな人がいるもんだ。
品川か新横浜で少なくともA席の人が来るのは目に見えており、テーブルを上げたり、弁当のすぐ上や横を通られたりして、普通に考えれば良いことない。少なくとも品川を越えないと落ち着かないだろう。
見るとキャスターバッグの大きな荷物に、弁当は牛タン。弁当はすでに7割方腹の中のようだ。仙台からの移動のようだが、弁当の減り具合を見ると、もしかしたら東京から食べ始めたのではないのかも。
普通のペースで考えると、上野に着く少し前にフタを開けたのかも知れない。計画性がなさ過ぎるが、よっぽど腹が減ってたのか。
まぁ、世の中には色んな人がいるもんだ。
2012年5月16日水曜日
ログとシェアの位置関係
ソーシャルという言葉が非常に大きな力を持ち、それに伴いシェアに注目が集まっている。
FacebookやTwitterを始めとして、Pinterest、Foursquare、Instagram、Miilなど、最近話題になるサービスは、シェアを目的としたものが多い。何をどのように他人に知らしめたいか、共有したいか、という事だ。
個人的には多少違和感を持っているのは、自分自身がこういったサービスの価値に対してキャッチアップできないほどに年を取ってしまった証拠かも知れないが、あえて重要なのはシェアではないと考えている。
最近、マクドナルドで聞いた女子高生の会話にスカイプというワードが出てきたのには驚いたが、友達と連絡を取る手段がFacebookではないようだった。スカイプの利用は電話代の節約という意味合いが強く、必ずしもシェアという概念とは一致しない。
自分自身を振り返っても、いちいちの行動を見られたいとも、他人のそれを見れるようにしたいとも思わない。連絡を取る手段としては、メールや電話で十分だし、その意味でFacebookやTwitterが置き換わるとは思えない。
本ブログにしてもシェアの意味合いは薄く、単に自分の日常のログを残しているにすぎない。
シェアに価値がないとは思わないが、シェアに大きな期待を抱いていない、というのが個人的なスタンスになる。
このブログを続けていて、一つ分かるのは、ログを残すことの価値だ。
ブログというのは、圧倒的に書いた本人が読み返している頻度が高い。その当時何を考えていたのか、何があったのかを振り返る手掛かりにして、自分の考えをまとめて行く手段の一つにしている。
先日、友人が若くして亡くなったが、居なくなってから本人が何を考えていたのかを知ることは容易ではないし、生活や環境変化のログを残していたら、少しは対処が違ったかも知れない。
ただし、ログというのは意外に残すのが難しい。意思や目的がはっきりしている人しかできない、割と高度な行動だと思う。自分自身も体系的に残しているログはない。
たぶん、普通の人にとって意味があって、誰もが潜在的には必要としているが、その手間の大きさから実行に至っていないのは、シェアではなくログだと思う。
FacebookやTwitterを始めとして、Pinterest、Foursquare、Instagram、Miilなど、最近話題になるサービスは、シェアを目的としたものが多い。何をどのように他人に知らしめたいか、共有したいか、という事だ。
個人的には多少違和感を持っているのは、自分自身がこういったサービスの価値に対してキャッチアップできないほどに年を取ってしまった証拠かも知れないが、あえて重要なのはシェアではないと考えている。
最近、マクドナルドで聞いた女子高生の会話にスカイプというワードが出てきたのには驚いたが、友達と連絡を取る手段がFacebookではないようだった。スカイプの利用は電話代の節約という意味合いが強く、必ずしもシェアという概念とは一致しない。
自分自身を振り返っても、いちいちの行動を見られたいとも、他人のそれを見れるようにしたいとも思わない。連絡を取る手段としては、メールや電話で十分だし、その意味でFacebookやTwitterが置き換わるとは思えない。
本ブログにしてもシェアの意味合いは薄く、単に自分の日常のログを残しているにすぎない。
シェアに価値がないとは思わないが、シェアに大きな期待を抱いていない、というのが個人的なスタンスになる。
このブログを続けていて、一つ分かるのは、ログを残すことの価値だ。
ブログというのは、圧倒的に書いた本人が読み返している頻度が高い。その当時何を考えていたのか、何があったのかを振り返る手掛かりにして、自分の考えをまとめて行く手段の一つにしている。
先日、友人が若くして亡くなったが、居なくなってから本人が何を考えていたのかを知ることは容易ではないし、生活や環境変化のログを残していたら、少しは対処が違ったかも知れない。
ただし、ログというのは意外に残すのが難しい。意思や目的がはっきりしている人しかできない、割と高度な行動だと思う。自分自身も体系的に残しているログはない。
たぶん、普通の人にとって意味があって、誰もが潜在的には必要としているが、その手間の大きさから実行に至っていないのは、シェアではなくログだと思う。
2012年5月14日月曜日
統合アプローチ/分断アプローチ
スティーブ・ジョブズの正式評伝を、遅ればせながらよみおえた。様々な形で目に触れた事のあるストーリーで、目新しさと言えば、闘病風景ぐらいかも知れないが、その波乱万丈の人生やメチャクチャな性格に、改めて、二度と現れないカリスマの喪失を感じた。
マイクロソフトやグーグルとの闘いの中で、彼らは分断アプローチを取っているが、自分たちは統合アプローチの正しさを信じている、というフレーズがよく出てくる。
分断アプローチは、いわゆるオープン戦略でライセンス戦略とも言える。つまり、ライセンス契約さえ結べば誰でも使えるようにするという方針で、プレイヤーを増やし多様性を生み出す事ができるが、それぞれがある決まり事の中で動かなければいけないので、全体としての洗練度は落ちるし、バグも増える。
統合アプローチは逆で、自分たちで閉じた世界を作るクローズド戦略だ。一つの会社が全ての面倒を見るわけだから、当然、多様性は損なわれるし、先端技術の取込には偏りがある。一方でソフトウェアとハードウェアの一体感は揺るぎないものになり、それぞれの能力の限界まで活用できるため、一つひとつの機能が深化する。
分断アプローチのカギはオープン性をいかに担保するかで、そのなかでいかに収益に繋げていくかだろう。最後には結局、資本主義的価格競争になるのは目に見えているいるので、マイクロソフトやグーグルのように、価格競争から一歩引いたポジションを確保できない限り、旨味はない。
統合アプローチは、閉じた世界の妥当性がカギだ。誰かが作った箱庭を素晴らしいと思えるかどうかは、製作者のセンスやデザインや拘りにかかっている。多くの人に共感してもらえる箱庭を作れるかどうかが、市場規模も価格も全てを決める。
スティーブ・ジョブズは、そこに「テクノロジーとリベラルアーツの交差点」という立ち位置とともに、「シンプル」という方向性を設定した。そして、そこに拘り抜くことができたから、統合アプローチでも成功できたんだろうと思う。ここに多少でも揺らぎが発生すると、分断アプローチの多様性の罠に引っかかって、徐々に衰退に向かうと思われる。今後のアップルは、拘り抜ける意思決定者の存在に掛かっている。
個人的にも現在、統合アプローチ型サービスを考えているが、立ち位置・方向性の設定と拘り抜けるかを見つめ直す必要がある。
マイクロソフトやグーグルとの闘いの中で、彼らは分断アプローチを取っているが、自分たちは統合アプローチの正しさを信じている、というフレーズがよく出てくる。
分断アプローチは、いわゆるオープン戦略でライセンス戦略とも言える。つまり、ライセンス契約さえ結べば誰でも使えるようにするという方針で、プレイヤーを増やし多様性を生み出す事ができるが、それぞれがある決まり事の中で動かなければいけないので、全体としての洗練度は落ちるし、バグも増える。
統合アプローチは逆で、自分たちで閉じた世界を作るクローズド戦略だ。一つの会社が全ての面倒を見るわけだから、当然、多様性は損なわれるし、先端技術の取込には偏りがある。一方でソフトウェアとハードウェアの一体感は揺るぎないものになり、それぞれの能力の限界まで活用できるため、一つひとつの機能が深化する。
分断アプローチのカギはオープン性をいかに担保するかで、そのなかでいかに収益に繋げていくかだろう。最後には結局、資本主義的価格競争になるのは目に見えているいるので、マイクロソフトやグーグルのように、価格競争から一歩引いたポジションを確保できない限り、旨味はない。
統合アプローチは、閉じた世界の妥当性がカギだ。誰かが作った箱庭を素晴らしいと思えるかどうかは、製作者のセンスやデザインや拘りにかかっている。多くの人に共感してもらえる箱庭を作れるかどうかが、市場規模も価格も全てを決める。
スティーブ・ジョブズは、そこに「テクノロジーとリベラルアーツの交差点」という立ち位置とともに、「シンプル」という方向性を設定した。そして、そこに拘り抜くことができたから、統合アプローチでも成功できたんだろうと思う。ここに多少でも揺らぎが発生すると、分断アプローチの多様性の罠に引っかかって、徐々に衰退に向かうと思われる。今後のアップルは、拘り抜ける意思決定者の存在に掛かっている。
個人的にも現在、統合アプローチ型サービスを考えているが、立ち位置・方向性の設定と拘り抜けるかを見つめ直す必要がある。
2012年5月11日金曜日
新幹線の検札の不思議
東海道新幹線は、検札が回ってくる。これって必要なのか?
改札を通る時点でどの席に人が座っているべきで、どの席は空席でなくてはならないのかは、データとして明確なハズだし、事実、車掌は席のリストをもってチェックしている。
この席が、そこに座っている人が買った席なのかをチェックする意味は何だろう?
不正な人が座ってないか?例えば自由席の人も含めて、そこにいるべきでない人をピックアップするためだとしたら、別に検札する必要はなく、見た目でリストとの照合をすればいいだけだろう。わざわざ切符を確認する必要はない。
他に思い当たる理由がないし、検札の意味は不明だ。
大阪から東京行きの新幹線で、京都を越えたところで検札があったが、ちょうど寝入りばなで面倒だから放っておいたら、名古屋を過ぎてからの検札で声をかけられた。正直、どうでもいいと思うのだが、何が目的なんだろう?
誰か知っている人がいたら教えて欲しい。
改札を通る時点でどの席に人が座っているべきで、どの席は空席でなくてはならないのかは、データとして明確なハズだし、事実、車掌は席のリストをもってチェックしている。
この席が、そこに座っている人が買った席なのかをチェックする意味は何だろう?
不正な人が座ってないか?例えば自由席の人も含めて、そこにいるべきでない人をピックアップするためだとしたら、別に検札する必要はなく、見た目でリストとの照合をすればいいだけだろう。わざわざ切符を確認する必要はない。
他に思い当たる理由がないし、検札の意味は不明だ。
大阪から東京行きの新幹線で、京都を越えたところで検札があったが、ちょうど寝入りばなで面倒だから放っておいたら、名古屋を過ぎてからの検札で声をかけられた。正直、どうでもいいと思うのだが、何が目的なんだろう?
誰か知っている人がいたら教えて欲しい。
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