2009年4月24日金曜日

介護と安楽死

最近、介護疲れで自殺したり、被介護者を殺めてしまったり、心中を図ったりする事件が増えてるらしい。

すごく本末転倒な気がする。

誤解を恐れずに言うと、未来の無い人を大事に思うあまりに、未来のある人が少なくとも人生を費やし、場合によっては犯罪者になったり、未来を棄てる羽目になるなんて、おかしい。

これって、単に選択肢がないからなんだと思う。つまり、尊厳ある死を選ぶ権利を与えられていない事が問題なんじゃないかな?

介護する側からすれば、自分を納得させ、後悔しない為にも全力を尽くさざるを得ない。しかし、寝たきりで介護を受けている人が、子供にお金を使わせ、時間を使わせ、体力を使わせて、無為に生きる事を望んでいるとは思えない。介護を受けている間中、葛藤に苛まれる事は間違いないだろう。逆に無為に生きている時間を権利と感じてたら、その人の人間性を私は疑う。

人口構成を見ても、長寿が社会を狂わせていることは明らかだ。また社会は、過去から現在まで伸びる線分を、未来に伸ばして行く努力を皆でするものだと思う。老人がある時期で社会的役割を終え、後は余禄だというのは過去の考え方で、今後は線分を少しでも伸ばす役割を死ぬまで負うべきだろう。

そのためには、楢山節考のような考え方は不可欠で、そこにどんな意味付けをしてあげられるか、というその一点に議論は絞られる。その死が社会的にどんな意味を持つのか、そのためにはどんな準備が必要なのか?かつて、特攻で死んだ若者と同じく、社会として尊厳ある死を認め、敬う習慣と手法を提供してあげる必要があると思う。

こういったことの積極的な取り組みが、個人の人生設計を助け、不健全な世代交代を健全化させ、社会に尊敬や思いやりをもたらし、活力を生み出す事になると思う。

制度設計としては、極めて難しいとは思う。尊厳ある死を選んだ人と生き続ける人を比べてドウコウは当然あるだろう。社会保障と一緒に考えないと、検討の俎上に上ることもないだろう。でも、やらなければいけないんじゃないかな。

何と言っても、未来は若者のためにあるのだから。

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