2011年8月31日水曜日

前に進む事を怖がる人

パソコンが苦手な人がいる。身近にもいるし、多くの高齢者はそうだろう。そういった人たちを見て気づいた共通点は、彼らが「Enter」や「クリック」を怖がっていることだ。

パソコンの作業で「Enter」や「クリック」は、何かを決めて、前に進む時に使う。つまり、これらの人は何かが起こる事に、やや恐れを抱いているのだろう。クリックしたらクラッシュするかもしれない、変なサイトに飛んで架空請求に引っかかるかもしれない、という事なのかもしれない。きっと本人に聞くと、そんなに深刻な恐れではないのだと思うが、無意識下にインプットされているんだろう。

そう考えると、パソコンを触るのは結構なリテラシーが必要だとも言える。iPadにしても同じだという事が最近明らかになった。つまり、パソコンを使い慣れた人からすれば、非常に直感的に使えると一般的には言われているタブレットPCでさえ、そうでない人にしてみれば、変わらず敷居の高いものなのだ。

考えてみれば、そのように感じるものはデジタルガジェットに限らず、ある。

人それぞれの苦手意識の中で、これより先に進むと何かしら不測の事態が生じるかもしれないという感覚があり、それが行動を止めてしまうということだ。

別に珍しい事ではない。自分を振り返っても、よくある感覚だと言える。

一方で、自分が苦手と感じていない領域において、苦手意識から二の足を踏む人の気持ちが分からず、上から目線の対応をしてしまうことがある。相手が家族だと尚更だ。

自分も同じように一歩が踏み出せない事が多々あるくせに、そういった態度を取ってしまった時は、非常に情けない気持ちになる。

今後は、そう言った事を念頭において、もう少し人に優しく接していく必要があると、強く感じた夏の夜。

2011年8月29日月曜日

日本の未来を選ぶプロセス

本当に国民を小馬鹿にしてるとしか思えない日本のリーダーを選ぶプロセス。完全に国民を無視して、一体誰のための政治なのかと問いたい。

国民が党を選び、党がリーダーを選ぶ。議院内閣制とはそういうものだが、日本独自の進化を遂げてしまったのだろうか。あまりに情けない。

国民の意思が反映された党という存在は、選挙の時に約束した形を失っている。自分は、そもそもマニュフェストに固執すべきではない、と考えているが、マニュフェストを変更していいのは、変更が事態の好転を促す場合に限りたい。最初に掲げた段階での検討が甘く、財源が確保できないから止めますなんて、ちょっと許せる形ではない。

(個人的には最初から支持してなかったが)党が当初の形から変わった時点で、元々の支持は反故になったと思っていいだろう。

にも関わらず、政権党は変わらない。政権党党首が持つ最大の権力である、衆議院解散権を行使しない限りは。つまり、政権与党が厚顔無恥であれば、衆議院任期の4年間は、政治と国民にコミュニケーションを取るタイミングはなく、しょうもない小競り合いと無意味な独裁が続く。

二年前に予測したとおり、小悪人を一年ずつ上がりポジションに追いやって、日本という国に無為な時間を過ごさせ、ただ破滅へと突き進むだけに成り下がった民主党に、一体何を期待したら良いのだろうか。

松下政経塾出身の野田氏は、政治が果たすべき役割を強く認識しているだろう。自分の利益のために寝技を弄する政治屋ではないとも思う。今までと変わらぬメンタリティの民主党議員を率いての船出には不安が残るが、長い目で見守りたい。野田氏には、少なくとも2年間は踏ん張って欲しい。

2011年8月26日金曜日

BJ/AJ

世界はJobs前後で大きく変わった。

Jobsがいたからマウスが日の目を見て、GUIが発達した。それ以前は、というかその当時のJobs以外の人間はCUIで十分だと考えてたし、まさかコンピュータが、こんなに個人生活に不可分なものになるとは思ってなかった。

その意味では、Jobsがパーソナルコンピュータを作ったと言えるし、そもそものコンピューティングの概念を再定義したと言える。

でも、新しい概念がマスに届くまでには時間がかかり、その間に他社が追い上げ、結果として戦略的にゲイツがグローブと組むことで、世界を支配した。それでもPCの世界で、BJ/AJという形でJobsが歴史上の転換点になっていることは間違いない。

言うまでもないが、その後もフロッピーディスクを葬ったり、USBに日の目を見せたりしつつ、パソコンを機能から価値に変換したのもJobsだろう。それまでのパソコンは、単に機能の寄せ集めでしかなかった。機能が高いものが良いパソコンだった。iMac以降は機能ではなく、それがもたらす価値に、より重心が置かれるようになった。

iMacでコンピューティングは二度目のBJ/AJ転換を迎え、そして今、iPadが次なる転換を起こそうとしている。

業務用途でしかなかったコンピュータを個人用途に開放したMac、ネットにつなぐ事で価値が飛躍的に拡大させたiMac、そしてデバイスが持つ力を何倍にも拡張するクラウドとの付き合い方を提案しているiPadと、Jobsはコンピューティングの歴史において3度の再定義を実現している。

その間に、音楽、映像を製作から配信に至るまで再設計し、それに伴うデバイスのあり方も作り変えた。そのデバイスとデータのハンドリング方法は携帯電話を再発明するに至り、iPhoneを生んだ。

Jobsがいなければ、コンピューティングは今とは比較にならないぐらい小さなものだったに違いない。そして、インターネットは、未だにただのネットワークだったかも知れない。

Jobsが引退した今、1976年から続くコンピューティングの歴史に一つの幕が降りた。Jobsによる再定義・再発明が二度と見られないと思うと一抹の寂しさを感じるが、次の世代が生み出すコンピューティングの進化に期待したい。


2011年8月24日水曜日

平時と非常時

今日、とあるセミナーで、日本人は非常時に対する備える力が遺伝子レベルで存在していない、という話を聞いた。その人が言うには、地震や台風などの自然災害に備えることは、戦争や暴動などの人的災害に備えるより難しいとのこと。

遺伝子まで話を広げるのは、ちょっと暴論だとは思うが、主旨は理解できる。

日本的な意思決定は極めて極端なゼロイチで、ゼロでなければイチ、白じゃなかったら黒というものだからだ。こんなメンタリティで非常時の判断なんかできるわけがない。

非常時の備えというのは、万が一の時のゼロ限りなく近いがゼロでない場合を想定して行う。これを日本的なメンタリティに置き換えると、どんなにゼロに近くてもイチという事になる。で、イチというのは非常時ではなく、平時だ。

つまり、非常時への備えは、どんなにレベルが高くても、逆にどんなに発生確率が低くても、平時の備えと同義になる。

結局、Fukushimaに見られるように、その当時の知的レベルにおいて想定された問題以外の問題(または、コスト等の観点から意図的に想定したくなかった問題)は、全て想定外として、人知の及ぶ世界ではなかったとしてしまう他ない。そうしないと想定しなかったことの責任を問われるからだ。

そんなこんなで、対応できる問題だけを選択的に想定し、100%確実な対応を実現する。この結末が、津波被害であり、放射能汚染だ。

間違いなく、日本は同じ道を進んでいる。

また以前とおなじように、想定しうる中で100%の対策を講じようとしている。そこには景観に対する配慮も、生活に対する配慮も、建前上は謳っていても、本質的にはない。

キッシンジャーは言ったそうだ。
「日本と安全保障の問題は議論できない」
チャーチルも言ったらしい。
「日本語は近代戦争(クリティカルな状況)を議論するのにふさわしくない」

まさに、そういう事だろう。ゼロかイチしかない世界に、戦略も交渉も不要だし、不毛だ。日本はいつまでもこのままで良いのだろうか?ゼロとイチの間にある状況は無視し続けて良いのだろうか?この判断による未来は、生活も文化も歴史も景観も、人間の思考能力さえ奪って、全てを破壊して、最後には何も残らないように思えてならない。

遺伝子が問題なら、遺伝子を進化させよう。思考能力が問題なら、思考能力を鍛えよう。判断基準が問題なら、判断基準を変えよう。日本語が問題なら、状況に応じて英語で議論すれば良い。破綻しない可能性がゼロでない日本国債を信じ続けることの意味を考えてみよう。

ゼロかイチに結論を収斂させることで、思考は止まる。思考停止からの脱出に必要なのは、ゼロとイチの間にある存在に気付くだけでなく、それをゼロに持っていくでもなく、イチに持っていくでもなく、ありのままに理解することだろう。

思考を停止させず、ゼロとイチの間にある存在を考え続けること、これこそが今、求められている。

2011年8月22日月曜日

商品開発の三原則

以前も書いたことがあるが、商品開発には三つの要素があると感じている。
コンセプト、デザイン、技術だ。それらのうちのいずれかは卓越している必要があるが、全てがそうである必要はない。

つまり、コンセプト、デザイン、技術のいずれかに他社/他者と異なる部分があればそれでよく、それ以上ではないということだ。

実はこれって、あまり理解されていないようで、通常は全てにおいて新しいことが期待される。特に技術的に新しくないと、なかなか納得してもらえないように思える。しかし、この三者の中で最もプライオリティが低いのは「技術」だろう。なぜなら技術だけで商売になることが、極めて稀だからだ。

デザインだけで買ってもらえること、コンセプトだけで使ってもらえることはあっても、技術だけで人の目を惹きつけるのは難しい。つまり、技術はそれ単体では、商売にならないのだ。

だから、コンセプトやデザインが大事で、そこでユニークな価値を見つける必要がある。

2011年8月19日金曜日

節電キャンペーンの顛末

結局、節電ってなんなんだろう?
一部営業が始まっていたとはいえ、お盆休み期間中の昨日、東京電力管内で電力使用量は制限令発令後始めての90%越えを記録した。

産業部門での使用量は平時に比べるとかなり低かったに違いないにも関わらず、今夏最大の使用量を記録したということは、今までやってきた節電の方向性が間違っていたのではないか、と感じる。

昨日と同じレベルの猛暑が、国民的夏休み期間から外れてたらどうなるんだろう?たらればかも知れないが、猛暑日が訪れるタイミングなんて確率でしかないので、「今年はラッキー」で済まされる問題でもないと思う。

今後に向けた節電行動はどのように考えればいいのだろうか?

産業部門の使用量が少ない日でもギリギリだから、供給力としての原発が不可欠ということか、それとも家庭部門ももっと真剣にやらないと今後の電力不足は解決できないよ、というメッセージなのか、それ以外なのか、どうなんだろう?

いつもそうなのだが、メッセージが不明瞭かつ片手落ちで皆が主体的に動けるものになってないことに大きな問題があると思う。我が国で電子化が進まない理由の一つも、この片手落ちメッセージにあると感じている。サーバーを集約化・仮想化したり、タブレットPCなどの最新デバイスを導入することは簡単に決まるのだが、そういったスタイルを受け入れる行動定義が共有できず、一向に電子化が進む気配はない。オフィスも医療も教育も。

電力も同じで、需要と供給の技術的な問題を解決すると同時に、ライフスタイルを明確に定義しないと意味がないし、効果がない。今夏の節電キャンペーンと電力使用量実績を元に、早急に方針決める必要がある。供給力、需要側デバイスのあり方、そして行動様式とライフスタイル。これらについての明確な意志を持った人が次の首相になるべきだろう。

そんな人、いないけど。

2011年8月17日水曜日

破壊と創造の奇跡

アメリカの財政状況悪化にともない、世界が混乱に陥っている。特に日本が。

アメリカに連動して、株式市場の大きなポーションである輸出産業の株価が下がっている。また、相対的に安定していると判断されて円が強くなっている。日本は今、デフレ、円高、株安という困難に直面している。

よく購買力平価仮説を盾にとって、まだ日本は円安だと主張する人がいるが、その判断は果たして正しいのだろうか?

これ以上の円高が進んだ場合、日本の産業構造は大きく変わらざるを得ないだろう。円高は輸出品の競争力を落とすので、国内で生産を続けることは事業継続上不利なのは間違いない。

ともあれ、理想はゆるやかなインフレ、円安、株高だろうから、真逆への転換になる。日本の状況が好転するには、奇跡を待つしかないだろう。

以前も書いたが、日本が変わるきっかけは二つ。徹底的なカタストロフィと外部からの価値観の(強制的な)輸入だ。不透明なものに対峙することが苦手な日本は、一旦破壊されなければ先に進めない。また、先に進むには外から下敷きを持ってこなければいけない。

徹底的な円高で、輸出産業(主には二次産業)の生産拠点海外移転は加速し、国内は空洞化するだろう。同時に、一次産業の輸入と三次産業のガラパゴス化が進むだろう。

破壊と創造の時が近づいている。

2011年8月15日月曜日

鎮魂の原野

先日、初めて被災地を訪れる機会があった。女川、石巻、閖上、仙台港、仙台空港...

大きな衝撃は、ゼロになった土地にかつては住宅がいっぱい建っていたという事実と、その全てがガレキと化し、いたるところに高さ10mはあろうかという山を堆く作り上げていたことだ。

正直言って、かつての風景を知らない人間からしてみると、そこに何があったのかを想像することすらできない。この5ヶ月の関係各位の努力によって、ガレキが綺麗に片付けられているので、今更ながら現地を訪れる自分のような人間にはリアリティが薄く、ただただ荒野が広がっているのみだった。

それにしても被災地というのは、一緒くたに語れるものではないということが良く分かった。

基礎自治体が完全に破壊されている場所、街の9割方は今まで通りの生活をしている場所、高地移転に適した土地がある場所、逃げ場のない平野部、漁港、農地...

様々な被災地の形があり、また同時に復旧・復興の形があるんだろうと感じた。いずれにせよ、長い時間がかかるのは間違いない。復旧・復興の形についてコンセンサスを得るだけでも、かなり難しい。

戦後66年、もしかしたらもっと長い時間をかけて作り上げてきた社会資本がゼロになってしまったのだから、相応のコストと時間がかかるのは当然だろう。今までの投下資本量を考えると、完全に復旧するのは無理だろう。中途半端な復旧はサステナビリティを損なう可能性が高い。

街が衰退していくことを、かつてそこに住んでいた人々は望んでないだろう。新しい街づくりに向けたグランドデザインが求められている。鎮魂のためにも。

2011年8月12日金曜日

ネットにおける存在

検索されなければ存在しないも同然といわれて久しい。

SEO/SEMなどがビジネスになるぐらいに、皆がそういう意識でいるように思える。しかし、ネットショップならまだしも、リアルに存在するお店の場合に検索されなければ存在していない、ということはない。リアルへの誘引力を期待してネットに力を入れるお店も多い中、やはり検索というかお店を見つけるパラダイムを見直す必要があるように感じる。

ネットは空間を超えられることが特徴なので、ネットで検索されることの前提には、距離の概念が欠かせず、特に物理距離が遠く離れているほど効果が高い。つまり、近くの客はリアルで、遠くの客はネットで、ということが基本ルールだろう。では、ネットは近距離に弱いのか、というと必ずしもそうではなく、ネットの使い方を近距離に合わせていないだけではないか、と思う。

遠距離を対象にしたネットショップは単純だ。その昔はカタログ通販やテレビショッピングがやっていたことを、よりダイナミックにした、ということでしかない。情報流と物流を分けることで、それぞれを最適化して、運用しているに過ぎない。大切なのは、情報選択において利用者のリクエストにぴったり合った商品を導き出すことで、商品の差別化と差別化された商品を適切に抽出できる検索方法が鍵を握る。最も効果的なのは、やはり物販だろう。

中距離を対象としたものの代表格はグルメだ。渋谷にいて、品川と池袋のお店は等価だろう。多くの選択肢の中から、自分の好みのお店を選び、実際に足を運んでサービスを受ける。ここで大事なのはクーポンなどのおトク情報で、それが利用者の足の向きを決めることもある。ここでは等価な選択肢を多く並べておくことがサービスとして重要で、情報を提供するお店としては、その等価な情報の中で目立つことが重要だ。

では、近距離はどのように考えればいいだろうか?

半径300mぐらいを対象にすると、等価なお店は多くない。また、存在する情報量に限界があるので、差別化された商品を適切に抽出することのプライオリティはさほど高くない。そのような環境においてはネットは無意味だろうか?

昨今は手元にネット環境があり、どこからでもアクセスできる。ただ、リアルな存在としての人の行動には限界があって、遠距離、中距離の情報を活用することもあれば、近距離の情報が大事なときもあるだろう。その近距離情報を取り扱う手段というのは、今までのような「検索」を中心としたパラダイムでも、「おトク」を中心とした情報構成でもないはずだ。

そんな近距離におけるネットの活用と、情報の存在について、考えている。きっと今までとは違う情報のハンドリング方法が、そこにはあるはずだと思っている。

2011年8月10日水曜日

文化を滅ぼす考え方

京都五山送り火に陸前高田の松を使うというプランがあったが、受け入れ直前に断られ、8日に陸前高田で迎え火として燃やされたそうだ。

断りの理由は「放射能」。

もともと含まれていたとしても、ごく微量だろうが、受け入れ側としては一応検査をして、汚染されてないことの確認は済ませていた。

にも関わらず、ということらしい。

陸前高田はいわゆる計画的避難区域にも入ってないし、基本的に放射能汚染に対して過度に警戒するよ必要もない。また、仮に汚染されていたとしても、野焼きした薪からでる灰が、さほど広範囲に広がるとは思えない。

そのような地域から送られる鎮魂のための松明。

京都五山送り火は、今となっては一つの観光事業だが、元々はお盆で帰ってきている死者の霊を、お盆の終わりにお見送りする儀式だ。

今年は、東日本大震災で亡くなられた方が身内や知合いにいる方にとっては、特別な、本当に特別なお盆だと思う。その鎮魂の場の一つとして京都が選ばれたのは、すごく意味のあることだし、実現していれば、被災された方への癒しにもなるし、五山送り火の価値が高まるとともに、少し質が変わったかもしれない。

観光色よりも儀式色が強まり、より厳粛な、宗教色の薄い日本にとって意味のある行事になったのではないか。

京都は新しい価値を築くチャンスを逸した。

この下らない決定は、そもそもの送り火の意味を毀損し、京都の価値を貶めたと思う。これからも、歴史遺産に寄りかかって、過去を振り返ることでしか存在意義を見出せない、レベルの低い都市になっていくのだろう。

こういった決定を促してしまう民度の低さと、東北の産物を全て拒絶する思考停止ぶりに、驚くばかりだ。

2011年8月8日月曜日

鶏口となるも牛後となるなかれ

最近よく思い出す慣用句。史記の一節だが、昔の人は正しい。

頭が何を考えているか分からない尻尾の辺りにいると、自身の存在意義も疑問に感じる。牛の尻尾であることの意味は、牛の一部だということ以上ではなく、牛の行動に対してなんらの影響力を与えることはない。

対象が何であれ、主体的に動くのと、そうでないのではまったく意味が違うということだろう。このように考えると、牛そのものを対象にすると対象が巨大すぎて、尻尾にならざるを得なくても、牛と共生している何らかの生き物を対象にすれば、頭となって主体的に行動することも可能だと思える。ただし、牛に取り付いている以上、牛の行動がベースになるのは変わらないのだが。

実は、牛の頭たち(牛口?)も、ほとんど牛の行動に責任を持っていないし、ポジティブな影響を与えていないのは、尻尾にいても理解できる。

例えば、東電の経営陣が震災前に作り上げた組織は、極めて内向きな自由競争を無視したものだったことは、周知の事実になった。とりわけ、社長になれるのは秘書、総務、企画畑の人たちだけで、具体的には社内外の事情に詳しい人、総会などトラブル諸事を仕切れる人、発電所立地に際して地権者などに大して上手に立ち回れる人、ということが全てを表している。

別に、東電を批判したいわけではない。日本の企業は多かれ少なかれこのような性質をもっている、ということだ。つまり、組織の結束を強めるために、極めて内向きな行動を取ることが是とされており、そのことがもたらす影響は、社会的にはゼロだし、社内的にはネガティブだということに対しては関心を持たない、ということになる。

これは牛がでかくなればでかくなるほど、また、インフラ企業ほどその傾向は大きくなる。鶏口というのは、そこから脱却した自由な存在としての鶏を指すのだろうと思う。自分の体を維持することだけが目的と成り下がった牛ではなく、社会にポジティブな影響を与える鶏。それは牛とは独立した存在だと言える。

今の自分は完全に「牛後」にいることを、つくづくと感じる。

2011年8月5日金曜日

急性心筋梗塞

松本山雅FCの松田直樹選手が急性心筋梗塞で亡くなった。34才というあまりに早い旅立ちに言葉を失う。

先週火曜日に突然飛び込んできた突然のニュースに、二つのことを思った。

一つは、自分が松田を応援していたこと。

松田のような親分肌の人間には、いつも憧れを感じる。自分にはない要素だからだろうか。何かに突出して、才能と努力でトップに立ち、そのことを鼻にかけるでもなく、ひたすら自己を貫き、その価値観を情熱を持って周りの人に伝え、影響を与えていく。そんな風になりたいと思いながら、そのいずれのポイントにおいても力を持っていない自分には、見果てぬ夢のようにも感じている。だからこそ、そのような人間を見ると、尊敬というか畏怖というか、そんな感情を持つ。そして、こういう人に巻き込まれてみたい、そして少しでもその人に影響を与えてみたいと思う。

実は、そういった人はさほど多くなく、自分のサラリーマン人生の中でも数えるほどしかお目にかかっていない。そういう人は、周りに押されて、リーダーの地位に立つ。その時に、そのリーダーが作る世界観の中で一緒にいたいと誰もが思うのだろう。

きっと松田はそういった人で、皆が松田の世界観に巻き込まれる事を楽しんでいたのだと思う。口では「あいつ、うぜー」とか言いながらも、巻き込まれる事に喜びを感じていたのではないだろうか。

そんな松田を応援していた。というか気にかけていたということを改めて感じている。

二つ目は、AEDがあれば死なずに済んだのだろうかということ。

AEDは割と一般的になってきていると思うが、当然使う機会も少ないので、一つの街の風景になっていると感じる。AEDが活躍するニュースは数年に1回あるかどうかでしかない。今回のような、突然多くの血栓が心臓の血管を塞いでしまうような場合に、AEDで蘇生するものなのだろうか。印象としては心室細動を除去するためにあって、血栓を取り除くことができるのかどうかはよく分からない。ただ、蘇生する可能性が高まったことは確かだろうと思う。

AEDのような予防措置がなければ、人は意外にあっさり死ぬ。どんなに鍛えていても、どんなにストイックに自己を律していても、それは変わらない事実なんだろう。

社会的にはAEDをより普及させるのも重要だろうが、個人としては、いつ死ぬか分からない、その現実を受け止めて、強くまっすぐに生きるしかないのだろう。

その意味で、松田は十分に天命を全うしたのかもしれない。
心より、ご冥福をお祈りします。

2011年8月3日水曜日

国民栄誉賞の形骸化、無価値化が進む

なでしこジャパンが国民栄誉賞を受賞するらしい。初めての団体での受賞。何となく違和感があるが、まあ本人たちは貰う気だし、喜ばしいことだと思うし、この時期に成し遂げた功績として称えるのに異存はない。

もともと定義がなくて、その時々の宰相が人気取りも兼ねて贈るもののようなので、余命いくばくもない菅内閣にしてみれば、格好の的ということだろう。

正直言って、このタイミングだからという事と、全く予想もしてなかった事がが大きかったのだろう。

スポーツで言えば、北島康介のオリンピック2大会連続で2種目金メダルなんて国民栄誉賞ものだと思うし、浅田真央とか安藤美姫とかもそうなんじゃないか、と思う。柔道の野村忠宏なんてオリンピック3大会連続金メダルだよ。女子の場合、サッカーに比べるとバレーの方が競技人口が多いので、最近の女子バレーの躍進も目を見張るし、錦織圭もいよいよ日本人最高位だし、頑張ってるスポーツ選手・団体はいっぱいある。

違和感があるのは、「なでしこジャパン」としてしまったことで、今後の活動に影響が出ないか心配する。何となく、今までの功績をそれぞれの業界並びに社会への影響大なることを祈念するものだろうと思うので、少なくとも競技なり活動を辞めるもしくは一定の地位を築いた段階で、ということが普通だろう。そうでないと、せっかくの喜ばしい顕彰が、足を引っ張りかねないからだ。

引退後ならば、素晴らしい人がいた、という以上の事はないのだが、「なでしこジャパン」としたところで、素晴らしいチームが永遠に存在することになる。それとも、金輪際「なでしこジャパン」とは付けないつもりかな?

国民栄誉賞を受賞した王貞治はスゴイ選手だったという事と、国民栄誉賞を受賞したなでしこジャパンはスゴイチームだったというのは、同じかな?例えば5年後にも同じように言われるのだろうか。王貞治は5年歳を取るだけだが、なでしこジャパンは全く別物だ。なでしこジャパン2011としてみたところで、これから日本代表になる人たちは、過去の亡霊と戦うことになる。それも、追いつくことはできても追い抜けない亡霊と。

なでしこジャパンの今後も心配だが、もともと曖昧な国民栄誉賞が更にグダグダになっていくのも気になる。菅直人のやり方は、全てをグダグダ、グズグズにして、周りの人を巻き込みつつ無価値化していく。

2011年8月1日月曜日

リスクを取り込む時

日本はリスクを排除したがる傾向がある。排除できない場合には、なかったものにするという行動を取る。それは政治も民間企業もみんなそう。

きっとリスクを押さえ込むことでしかコントロールする術を知らないんだろう。そのコントロールを超えた事態は、想定外として思考を止める。先日の地震やそれに伴う津波や原発災害もそう。その後の行動は、想定外だった事象を想定内に入れるだけ。想定外を取り込んだ形での想定はしない。

最近だとSonyの顧客情報漏洩とハッカーに対する対応、ホリエモンやLibrahackの事件も同じだろう。とにかく想定を超えたモノに対しては、異常なまでにエキセントリックに対応し、なかったことにする。想定を超えるような事象があり得るというアタマがないので、取れるリスクを線引きして、それ以上は関知しない事で対応する。

かつての黒船来航もそうで、それ以前に多くの兆候があった訳だが、それらを一切なかったものとして無視し、いざ起こったときに慌てる。想定外を排除する形に慌てて修正しようとするものだから、非常に極端な対応になってしまう。実はそれが思いもかけぬ奇跡を生み出すこともあるから不思議で、極端な対応が明治維新や高度成長に繋がっている。

欧米が、日本のような奇跡を起こせないのは当たり前で、彼らは想定外をしっかりとリスクの中に取り込んでいるので、想定外と思えるような巨大な事象が発生した後も極端な行動に走らない。だから、歴史には連続性があるんだと思う。

これらは一見、一長一短あるそれぞれの国民性のようにも思えるが、その時代を生きている人にしてみれば、ある程度読める未来と読めない未来では大きな差がある。

江戸末期、終戦に至るまでの期間、そして現代は、そうした日本人のDNAによる停滞時期でもある。異常な円高も想定外だろう。為替対策はせず、無視している。富士山大噴火も東海地震も想定外だろう。実質的には何の対策もしていない。想定外を無視し続ける間は社会が停滞し続けるのは、歴史が証明している。

様々な想定外が起こり、それらを全て取り込めた時、次の歴史が始まるハズだが、いつ始まるのかは誰にも分からない。そして、それがどれほど大きな波になるのかも。

日本の未来は読めない。