2011年3月30日水曜日

電気と情報

情報は多くの場合、電気がないと伝わらない。インターネット時代になってなおさらだ。今回の地震でよく分かったのは、情報の大切さとインフラの不安定さだ。

阪神大震災以降、様々な地震があり、その度ごとに情報伝達は洗練されていった。インフラの中では通信と電気が真っ先に復旧し、それらが情報を支えていたからだ。しかし、今回の地震では通信も電気も含めて一切のインフラが消滅し、かつ復旧できない状態にある。結果、情報が伝わらない。

被災地からの情報も被災地への情報も、ほとんど伝わってないんじゃないだろうか。未だ被害の全容は分からないし、燃料や食料の逼迫は収まらない。

そう考えると、電気を使わない情報伝達の仕組みを作っていく必要があるように思う。少なくともアナログとデジタルの変換について、様々なパターンで取り組んでいく必要があるだろう。被災地のアナログ情報を吸い上げてデジタル情報へ。デジタル情報を整理してアナログ情報へ。そういった流れの一つの例がGoogleの取り組みだ。

ハード面では、自律分散型の自然エネルギーの利用と細くてもロバストな通信網の確保も課題だ。この二つが揃えば、少しは状況が整理されるのではないだろうか。

いずれにせよ、災害対策はまだまだ課題が多い。最大の課題は、非常時用として用意するアイテムが、性能的に日常利用に耐え得るかという点で、そうでなければ乾パンのように、年に一回の訓練時に在庫処分される運命になる。

2011年3月28日月曜日

元に戻さず、土地に合わせて、未来へ

そろそろ復興の形が議論され始めているが、元に戻さない事が大事だ。よく早期の「復旧」をと言われるが、旧に復するのでは、神戸の失敗を繰り返すだけだろう。

神戸は単に復旧し復興した。県や市にリーダーシップやビジョンがあれば、新しい都市のあり方を見出せたはずが、復旧を焦り何らの新しい方向性も提示できなかった。できたのは、災害に対する行政の取り組み方だけだった。つまり、目の前の火事を消す事だけ。

それも、役に立ったのは前回の災害まで。今回の大震災においては、基礎自治体すら崩壊し、阪神大震災以降培われてきた行政の対応方法では明らかに不十分だった。

今の段階でまごまごしていると、神戸の二の舞になる。新しい都市のあり方を見出せずに、単に復旧し、100年後に禍根を残すだろう。しっかり国が主導し、新しい日本のモデルとなる都市のあり方を造り上げなければならない。今の政府に求められているのは、もはやその一点だろう。

2011年3月25日金曜日

これからの日本の形が決まる時

福島県がこの先ずっと抱え続けるリスクがある。それに対して、どのように対処すれば良いか、考えなければならない。事は県で収まる話ではないので、国が道筋をつける必要があるだろう。

原発事故の進展次第では、アメリカが言うように80km圏内は汚染地域となり、今後、数十年は立入禁止だし、その後もおそらく100年単位で産業は成立しないだろう。つまり、行政機能が成立し得ない状態になる。既にその未来に近づいている。

とすれば、最悪の事態において福島県、近接県、さらに東京の首都機能をどうするのかを考えなければいけない時期にきているだろう。

まず福島県だが、ある程度(例えば100km圏)で線を引いて、圏内は国の直轄地となるのかも知れない。直轄地は、基本的に人が入れないとすれば、放っておいても自然に帰っていくだろう。そうして、自然の浄化を待つより他ないように思う。

近接県は一次産業の成立が、かなり難しくなるだろう。少なくとも、漁業、農業はダメだ。洗えば済むとか、内臓を食べなければイイと言うような論理的な解は、たぶん通用しない。県としての財政はかなり苦しくなるので、国からの補助が不可欠になるだろう。

そして東京は、外国からの投資がなくなり、企業は本社機能を分割してリスクを分散させようとする流れが加速するだろう。ディズニーリゾートですら、移転を考えざるを得ないかも知れない。それに伴って居住者も減り、税収も減る。

そのうち首都移転が本格的に議論され、県ごとの自立が困難になった東北地方を守るために道州制が採用されるかも知れない。

余計なことでムダを出せる状況ではなくなってきたので、電子政府化が進むだろう。一方で、公共事業を東北地方に集中させる必要から、新規事業もそうだが、メンテナンスについてもかなり制限され、行財政および公務員制度改革がドラスティックに進むかも知れない。

今の状況が改善するのなら、大抵の事は我慢できると思う。日本全体で、皆で分かち合おう、なんていう中身のないヌルい言葉ではなく、しっかりとした方針を打ち出して欲しい。

日本が一皮も二皮も向けるための、大胆な政策を必要だろう。

2011年3月23日水曜日

津波災害の被災地復興にむけて

今回の地震で何より恐ろしかった津波。津波が、あのように海が盛り上がって辺り一面の水位を上げてしまう、海が傾くような事象だとイメージしていた人は少なかったのではないかと思う。

津波は英語でもtsunamiだし、ある程度日本固有の災害なんだろうとは思うが、その割に、正確なイメージを共有できていなかったのは、最近は日本に大きな津波が来ていなかったからだろう。

それにしても、今回の津波被災地を含め、一度でも津波被害を受けた土地には、本当は人が住んではいけない場所なのかも知れない。今までの被害をベースにした言い伝えが残っていたりするのだろうと思う。

にも関わらず、万人規模の居住地になってしまっているのは、そこが良好な漁場であって、それに関連する産業が栄えていったからだと思う。また、安い土地を探し、船による輸送を活用したい産業が工場を作っていったこともあるだろう。

天災は、かつての痛みが消えた頃に、想定外の規模でやってくる。今回の震災で自然の力を、そして日本という国が不安定な環境の上に立っている事を思い知った。

でも、落ち着いたら忘れてしまうんだろう。正確には、忘れはしないが痛みが和らいでしまう時が、いずれくるだろう。そうした時に、この悲惨な災害を二度と起こさせないようになっていて欲しい。

それは決して、堤防を二倍の高さにする、といった解決策ではなく、もっと抜本的なものでなくてはならない。もちろん、放射能が検出された野菜を、盲目的に廃棄することで安全性を担保することでもない。

リスクを排除することで身を守るのではなく、リスクと向き合い、リスクを受け入れて対応する、そういう意思決定のできる日本であって欲しい。

2011年3月21日月曜日

第四次産業

先日、気になるキーワードを聞いた。第四次産業。

第一次産業の生産性向上が人余りを生み、第二次産業が発展した。同様に第三次産業も生まれ、今、第三次産業においても人が余っている、と。

つまり、第四次産業が生まれる余地ができた、ということ。

それぞれの産業にはそれぞれの価値がある。第一次産業では人間の生存に対する基本的な価値を提供している。第二次産業はそこに便利という価値を、第三次産業では生活の豊かさという価値をアドオンしている。

産業が高次化するにつれ、価値は複雑化する。パソコンなんて端的で、CPUのクロック数を競ってた頃は、それが便利の代替指標で、極めて画一的に表現されていたが、今となってはクロック数なんて気にする人はほとんどおらず、何ができるかに焦点が絞られている。

そういった意味で第四次産業には、より複雑な第四の価値が求められるだろう。

今回の震災を経て、少なくとも日本人の価値観は変化の時機を迎えている。基本的な生存は当然のものとして、便利や生活の豊かさを超越した精神の豊かさが第四の価値なのかもしれない。つまり、精神の豊かさを作り出す産業が第四次産業となり、人々はそこにお金と時間を投入するようになる、ということだろう。

未だ1.5次産業である建設業で働く身としては、儚い夢かも知れないが、第四次産業にジャンプしてみたいとも思うし、ジャンプできる道を探している。

2011年3月18日金曜日

メールがなくならない訳

twitterやsns、imやチャットなど、メール代替のコミュニケーションツールが生まれているが、一向にメールがなくなる気配はない。

これらのツールはいつも、メールは淘汰されるべきレガシーツールだと言って、華々しくデビューするが、大抵はイノベーターを掴まえて、ある一定のユーザー数を確保した段階で飽和する。もしくは、メールを置換するものではない別のコミュニケーションツールとしての地位を確立する。

理由は簡単だ。メールを置換する程の浸透力を持っていないからだ。

多くの日本人は、会社/学校のメールアドレスと、携帯電話のメールアドレスしか持ってない。この二つは、組織に所属するなり、携帯電話を買うなりした時に、半ば自動的に付与されるものだ。これで、十分にコトが足りているのだ。

メールの初期を思い出して見れば、今の例えばfacebookと同じで、いわゆるイノベーターのオモチャでしかなかった。そのうちに会社で標準的に使われるようになり、iモードの普及とともに携帯電話でも当たり前になった。

メールで特徴的なのは、利用者の自由度は低く、運用者の自由度が高い、ということだろう。企業や学校、そして携帯電話のメールを取得する際の利用者の自由度はさほど高くない。与えられたものを活用するというスタンス以上ではない。逆に運用者側からすればサーバを構築し、ドメインを取得すれば誰でも運用できるのだから、自由度は非常に高い。

TwitterやSkypeの特長はメールとは逆で、利用者の自由度が高く、運用者の自由度が低い。つまり、個人で試してみるには容易だが、事業者が活用してみようというトライアルを始めるのは難しいという事だ。

TwitterやSkypeの有用性が、今回の震災によって明らかになったが、果たして普及するかと言われると、かなり疑問符がつく。今後、企業や学校で半ば強制的に付与するアカウントになれば、そしてそれを通じて日常的な連絡が行われるようになれば話は別だが、そうでない限りは普及に限界があるだろう。

やはり、今後もメールはコミュニケーションの中心であり続けると思う。新しいサービスの提案はもちろん重要だが、メールの改善・改良も必要だと思う。

2011年3月16日水曜日

震災対策としてのコミュニケーション手段の確立

先週金曜日に発生した大地震。電話とメールのダメさには目を覆わんばかりだった。繋がらない電話、届かないメール。

電話には110や119といった緊急連絡を行うという重大な役目が期待されているにもかかわらず、輻輳によってその用を為し得ない状況にある。

電話の輻輳は、昔から問題とされていたが、解決不可能であることが今回実証された。しかしできれば、緊急連絡のために電話の帯域を空けておくべきだろう。

電話の帯域を空けるためには、そこを占領している会話を横に押しやる必要がある。

その意味で、今回の地震において極めて有効だったのはTwitterやSkypeだ。これらは遅延のないサービスを提供していたと思う。mixiやfacebookといったsnsがどうだったかは知り得ないが。

今後、TwitterやSkypeを日常生活に積極的に取り込んでいくことが、災害に強いコミュニティ作りにつながると思う。

2011年3月14日月曜日

Pray for Japan

被害の状況が明らかになるにつれ、背筋の凍るような大災害だった事が分かってきた。そして今なお、その危険な状態は続いている。

東京は、確かに今まで経験した事の無いような大きな揺れを感じたが、実質的な建物/施設/インフラの被害はほとんどなかった。東京を中心とした首都圏において最大の被災地は、東北地方福島の原子力発電所であり、その被害による影響が、日々都民を苦しめている。

ただ、この苦しみも、便利に慣れすぎた体には不自由だ、という程度のものであり、経済活動などには甚大な影響があるとはいえ、生活を脅かされるレベルのものではない。

一方で、地震/津波被害の中心にあった地域においては、基礎自治体そのものが崩壊するという、かつてない事態に陥っている。日々、そして一日中繰り返される被害の状況を見るにつけ、胸が苦しくなる。

自分にできる事はないのかをいつも自問自答する。彼らの役に立つような能力をもっていない自分が不甲斐なくて、腹立たしい。今は、彼らを、そして彼らをサポートするべく世界中から集まっている人々を励まし、祈る事しかできない。たぶん、世界中の人がそう思っている。

Pray for Japan.
世界中の人たちの祈りが届きますように。

2011年3月12日土曜日

大地震発生!

2011年3月11日(金)14時46分ごろ、三陸沖深さ10kmを震源とするマグニチュード8.8、最大震度7の東北地方太平洋沖地震が発生した。

震源地近くの被災状況は、時間を追うごとに酷くなり、特に津波の恐ろしさを改めて実感する事態となっている。

深刻な被害に遭われた方も多く、言葉もない。ただただ、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げるとともに、家屋などを失われた方に一日でも早い心の平安が訪れんことを願ってやまない。

東京にいると、見える部分の被害はほとんどなかったが、とにかくインフラがメタメタで話にならなかった。

余震を警戒してか、全く動かない電車。地震直後から酷い輻輳で、ほとんど役に立たない電話。

結果、かなりの人が夜道に彷徨い出ることになった。

東京の避難状況は、東北地方の惨状が伝わってこなかったこともあり、さながら初詣のようだった。

自分も浜松町を出て、とにかく西へ西へと歩みを進めた。慶応大学の前を通り、白金高輪から目黒へ。山手線を越え、都立大学を経て二子玉川に到着。途中何度もバスに乗るべきかを迷い、それでもひたすらに歩き続けた。

この頃、横浜、川崎はかなり広い範囲で停電しているとの情報が入り、川を渡る前にコンビニに寄って、おにぎりやパンを買って食べた。

二子玉川に着いて、東京を脱出した、と喜んでいたものの、後で確認すると、全行程の折り返し地点に過ぎす、まだ全くの道半ばだった。ちょうどここまでで3.5時間。

その後、246号線を歩き、横浜市に辿り着いたのが、その2時間後。さらに1.5時間かかって、結局、7時間で30km超を踏破することになった。

今回のような事態のときに、どういった行動が正しいかは分からないが、三つの教訓を得た。

一つは、できるだけ複数人での行動を心掛けるべきだということ。心身ともに疲弊する状況下において、一人でいるのと、誰かと話をしながら移動するのでは、疲れ方が全く違うし、得られる情報量や折衝力にも大きな差が出てくる。

二つ目は、いざという時には公共交通機関は全く期待できないということだ。何よりも早く使えなくなる上に、何よりも長く使えない状態が続く。なるべく早い段階で見切ることが大事だろう。

第三は、電話も一瞬で使えなくなるということだ。悲しいぐらいに役立たずだった。きっと被災の中心にいたらもっとそうだろう。そして、メールもバカだった。遅延しまくって、ほとんどメールに期待する用を為してなかった。

今回の教訓をみると、電話やメールに頼らないコミュニケーション手段を持つことが、個人としてできる震災対策だと思う。

2011年3月9日水曜日

7×7=49

先日に続いてiPadの話題。

かけ算を習った時から7×7=49は気になっていた。「7」という微妙な数字を掛け合わせると、ほぼ50になるという事実が、どことなく不思議だった。10×5や、5×10と結果はほぼ同じだが、内容が全く違う。

そして、iPadは7×7なんじゃないか、と思っている。

電子デバイスの価値を「使える状況」×「使える機能」で考えたときに、例えばMacbookは、立っては使えないし、公園のベンチでもやや苦しいので、使える状況=5ぐらいかな、と。一方で、使える機能を考えると、コンピューティングに関しては「10」だろう。そして歩きながらでも使えるiPhoneは、使える状況は「10」だが、使える機能はかなり限られており「5」ぐらいかな。

いずれも掛け合わせると「50」になる。

iPadの価値は、使える状況=7、使える機能=7であるところにあるのではないかと感じた。歩いては使えないけど、立った状態では使える。イラストレータは使えないけど、フォトショップやiMovieは使える。

そして掛け合わせるとほぼ「50」になる。

実はこのあたりが、いい頃合いなんじゃないかと思ったりもする。Windowsは10×10=100を目標にしているように思えるが、現実的にはあり得ないのかもしれない。AndroidもiOSよりも少し高めの8×8とか9×9とかを狙っているのかも知れない。すっかり廃れたネットブックは中途半端な6×6ぐらいかな?

PCや携帯電話のもつ価値に匹敵する価値を、バランス良く作り込む事ができるのは、その両者において明確で揺るがない価値を提供し続けたAppleしかないのかもしれない。どのデバイスも、得られる価値の量は同じだけど、使えるシーンや機能が明確に分類されている。だから全てが共存できるし、使い分けられる。

他社の知らない、そして今後も知り得ないバランス感覚がそこにはあるような気がする。

2011年3月7日月曜日

What's Android-au?

JRに乗ると、トレインチャンネルという扉上の画面で良く流れているCM。auが満を持して放つ一連のスマートフォンに関するものだ。感想としては、自身のApple好きを割り引いても、What's Android-au?という感じ。

つまり、何が言いたいの?

よくあるパターンは、Google音声検索を使って、乗り換え情報や画像を検索するというもの。これってAndroidの機能じゃなくてGoogleの機能だし。確かにAndroidはGoogleが作っているOSだからそれで良いとも言えるが、Google音声検索はiPhoneでも使える。他のCMも同じようにAndroidではなくGoogleの機能紹介をすることが多い。一体、何を紹介したいのかな?

iPhoneは、Retinaディスプレイとか、App Storeとか、マルチタッチとか、A4プロセッサとか、ハード、ソフト、OSのそれぞれの特長をアピールしているが、Androidではそれらがない。

結局、Androidの特長、つまりは他のOSと比較して優位な点って無いんじゃないかと思ったり。AndroidはGoogleであり、それ以上ではない、ということなのかな。

ほとんどの機能はiPhoneのコピーであり、Androidとして先進的なものは生み出せていない。そして、さらに問題はGoogleが最近はアッと驚くようなものを生み出せておらず、Microsoft化が進んでいるように見える事だ。大丈夫かな?莫大な現金資産を持つ、平凡な大企業になってしまったとしたら、Androidがその象徴的なアウトプットだとしたら、少し残念だ。

Google/Androidに対する残念な感想もそうなのだが、さらに残念なのは日本の携帯キャリアauだろう。何一つauとしての独自性もなければ先進性も無い。進歩を止めたGoogle/Androidにおんぶにだっこで、iPhoneをはね除けて、docomoを蹴散らして、使ってみたくなるような魅力って何一つ無い。MNPできない既存au利用者にしかアピールできてないんじゃないかと思う。

そういう意味で、すごく秀逸なコピーだと思う。What's Android-au?
Androidもauも、その存在意義を問われている。

2011年3月4日金曜日

iPad2

これは素晴らしい!

また、世界を変えるガジェットが生まれた、と感じた。今後、ITの世界はiPad2を中心に回っていくだろう。

iPad1は、個人的な評価として、あくまでもビューアであり、コンテンツクリエイションには向かないモノだと感じていた。また、アウトプットもiPadの画面だけなので、サイズ的にも何かと限界があると、思っていた。

文書でも何でも、何かを作りたい人には向かず、できあがったもの、例えば写真、映像、pdfなどを、どちらかと言えば個人的に見るものに過ぎなかった。

とはいえ、そういったポジションに当てはまるアイテムも無かったので、革新的だったのは間違いないところだが。

iPad2では、その壁を踏み越え、コンテンツクリエイション側、アウトプット側の両方へ機能を拡大した。

ここまでできると、ほとんどの人の日常的な行動の90%ぐらいはカバーできてしまうのでは、と思う。今までは60~70%ぐらいのカバー率だったので、多くの人にとって、帯に短し襷に長しだったが、そうではなくなりつつある。

HDMIでのミラーリング出力は、iPadでコンテンツを作る、大きなトリガーになるだろうし、充実したiMovieは大画面に映し出したくなる気持ちを強めるだろう。

また、ここまで領空侵犯されながらも、iPhoneとMacbookの存在感と必要性は揺るがない。

機能を限定することでデバイスの魅力を落とすのではなく、必要十分な機能を見極めることで、それぞれを機能的に満足させながら、差別化を図っている。

その絶妙な差配の真髄が、iPad2だ。
素晴らしい。

2011年3月2日水曜日

肉体労働

時間とか体力とか、もしかしたらお金とかが解決してくれるのが、肉体労働。

最近、肉体労働的な仕事が多い。全ては時間が解決してくれる。面白いとは言えないが、肉体労働的作業には疲れを伴う満足度がムダに高いので、困る。

即物的な成果が見える肉体労働は麻薬だ。先の見えない満足感だけが残っている。ライン部署ってのは、こういった中に身をおいて、ムダに満足感を味わって、抜け出せずにいるんだろう。

先の見えない満足感より、未来を感じられる不満足感の方が性に合っている。