2011年5月30日月曜日

商品で一つ、サービスで一つの拘り

スターバックスに限らず、今、街中で普通に見かけるお店と言えども、最初期の段階では、誰も知らなかったハズ、なんてことを考えることがある。

コーヒーなんて、世界中どこでも過当競争になってて、どこで飲んでも同じ、差別化されてない商品の代表例だったんではないだろうか。

シアトルのどこかにお店を広げて、評判を呼ぶまでにはそれ相応の時間がかかったものと推察する。それまでに、何度も自分を振り返り、一つは商品としてのコーヒーの質に拘り、もう一つとして提供する空間の雰囲気に拘った。

提供する商品の質に拘るのは当然だが、それだけでは競合に勝てない。でも、だからと言って闇雲に勝負を掛けてもしかたがない。今まで、競合が意識的には作り込んでこなかったけど、実は利用者からしてみたら結構重要なポイントになるものが、一つのカギになるのだろう。

確かに、喫茶店に求めるものは、コーヒーの美味しさだけではない。むしろ快適に過ごせるかどうかが非常に重要で、そこで出されるコーヒーが美味しかったら通っちゃうよねー、という感じかも知れない。

これは大きなヒントに思える。

サービスで一つ、商品で一つの拘りがあって、それらが利用者の潜在的な継続利用を促すスイッチを押すようなポイントであれば、利用者としては、そのサービスなり商品なりを断る自分の中の言い訳を失うのだと思う。

ファインド・アラウンドは、お店や施設が発信する情報を、他のどのサービスより素早く利用者に届けることができる。このスピードと質を磨き続ける事が商品としての一つの解だろう。

サービスとしては、どこでも使えるようにする、とにかくアクセスポイントを増やし、空気のようにそこにある、という状態を作る事が答えのような気がする。

これらは相手をだれと設定するかによって、大きく変わるんだろう。要検討。

2011年5月27日金曜日

満員電車に乗る資格

満員電車は時間と空間の極端に制限されたシチュエーションなので、そこに参加する人間には一定のルールが必要だと思う。

狭く、暑く、苦しい時間、空間を共有する時に必要なのは、同じ環境の中で身を寄せ合っている人々への配慮だろう。

足を過度に広げたり投げ出したりは論外だが、荷物の配慮や素早く乗り込み、なるべく奥に進む事なども重要だ。また、座っているときは無闇に深く腰掛けず、肩同士がケンカにならないようにした方がよい。逆に立っているときは、入ってくる人の圧力に対抗する為に、吊り革を持ったり、ある程度は肩同士が支えになっていた方が良いと思う。

先日いたのは、立っている時に不必要に足を広げ、肩を押し当てると肩を逃す人がいた。これが一番困る。足下が不安定な上に上半身も圧力に対抗できないので、こちらの体勢は非常に不安定になる。こういった人って、自分の安定しか頭に無くて、周りにいる人はその平穏を脅かす外乱としか考えていないんだろうな、と感じる。

満員電車って難しい。日常なんだけど非日常で、個人としてはプライバシーが極端に制限された苦痛なシーンだ。自分を取り巻く環境の快適性を最大化するのか、最適化しつつ確保するのか、何も考えずに流されるのかで、大きく行動が変わる。皆が最適化しようと考えながら行動すれば、かなりましになると思うのだが、当然そういう訳にはいかない。

そんなこんなでカオスは続く。
こんなことを考えている自分は、逆に、満員電車に乗る資格がないんだろうなぁ。

2011年5月25日水曜日

情報の到達距離

ファインド・アラウンドは、情報の到達距離が料金設定の鍵だ。これは一つのパラダイムシフトで、既存のサービスにはない視点だと思う。

情報の到達距離はコントロールが難しく、それが何らかの指標になる事はあまりない。

通常のWebサービスは基本的にどこでもアクセスできることが一つの特長なので、到達距離に制限は無い。携帯のサービスは少し狭く、国内に限定される。また、チラシ配りのような物理的な情報伝達手段を使うと、手配りだと到達距離は1mぐらい、ポスティングだと1kmぐらいになる。

逆にチラシ配りの情報到達距離を無制限に伸ばせるかというと不可能だし、Webを1mや1kmに絞れるかと言われてもムリだろう。

つまり、情報の伝達距離っていうのは、情報を運ぶメディアの特性に依存して、一意に決まる。だから、情報到達距離が何らかの指標になることは通常無いし、できない。

では、ファインド・アラウンドではなぜ可能かというと、情報のアクセスポイントは物理的な「店頭のステッカー」でありながら、情報そのものはWebから引っ張ってくるからだ。

この引っ張ってくる情報に、その人限りなのか、それとも物理的距離として半径30mに広げるのか、人伝えで距離を稼ぐのか、無制限に距離を伸ばすのか、が設定されている。

情報到達距離の設定は、誰を相手に商売を考えているのかによって変わる。人通りの多い場所にある店舗なら近くを通る人だけでもいいかも知れない。可能性を広げたかったら到達距離を伸ばせばいい。

情報の到達距離と言うのは、情報を発信する主体にしてみれば、かなり意味のあるものだろう。

今まではアクセス権の設定で、個人か友人か誰でもかといった、情報の公開範囲を決めてきた。これからは到達距離と言うのも一つの考え方になってくると思う。

そして今のところ、情報の到達距離が設定できるのは、ファインド・アラウンドしかない。

2011年5月23日月曜日

人それぞれ

3.11からしばらく、足が痛かった。というのも、震災当日に30km、7時間歩いて帰宅した、その影響が残っていたからだ。

歩いて帰ったことは良かった。何せ初めての体験だし、一つの経験として必要だと感じた。徒歩帰宅に関して気づいたことは既に書いたが、後日談としての教訓が二つほどあった。他の人にしてみれば当たり前のことかも知れないが。

一つは、体力って動き回るのに必要な筋力、というだけではないことが分かった。

足の痛みは、本当に長引いた。震災翌日の土曜日に、様子を見に会社に行ってみたが、亀のようにしか歩けなかった。その後も平地はある程度歩けても、上りや下りになると、途端に足が動かなくなり、かなり苦しんだ。その痛さは、膝裏の腱と足首の関節に集中していた。両足。

正直言って太ももや脹ら脛といった、通常の歩行や走行に必要な筋肉に関しては、全く問題なく、いつでも走り出せそうだった。が、腱や関節が言う事をきかなかった。あの時、現地に調査に行けと言われても、たぶん見て回ることすらできず、何の役にも立たなかっただろう。

そのような状態の中で、体力って言うのは筋力だけではなくて、しっかり動ける状態を指すんだな、としみじみ感じた。

今回、歩いて帰ったのは間違ってなかったが、今後は体力の維持も念頭に入れて動かなければならない。それが、自分の為だし、周りの人の為だろう。

二つ目は、人には様々な事情がある、ということ。

震災後は、節電でエスカレーターがかなり止まっていた。でも、自分の足は流れに乗れないほど痛かったので、なるべくエレベーターを使っていた。

足が痛くなる前は、若いのに駅のエレベーターに乗る人を見て、なんだかな〜と感じてたが、自分がそのような状態になると、外聞も無ければ、ポリシーも関係なかった。人それぞれの状態に合った移動手段って、あっていい。そして、その移動手段の選択理由が他人から理解できなくてもいい。

人それぞれ、健康状態や体力は違うし、考え方も違う。誰が何をどのように言う事もできないと思う。そんな基本的な事を考えながら過ごした3週間だった。

それにしても、腰もそうだが足の痛みは、体験してみないと分からない辛さがある。上りより下りが辛い。エスカレーターも、多くは上りを残して下りを止めていたが、実は逆の方がいいんじゃないかと思ったりした。大きな荷物のある人はどうせエレベーターを使うのだから。

2011年5月20日金曜日

偶然の出会い、とは

有意義な出会いの多くは偶然だったりする。計画された出会い、出会うつもりで出会ったものは所詮想定内で、新しい発見や新鮮な驚きは少ない。

そう考えると、偶然の出会いって本当に大切。でも、偶然で気をつけなければいけないのは、これも所詮偶然なので、コントロールされていない事だろう。いわゆる玉石混淆という事になる。

こういった玉と石が入り交じった状態の中から、どうやって玉を選り分けるかは大事だ。それ以上に大事なのは玉の比率を高める事。玉ばかりが並んでいる中からだと、逆に石を見つけるのが大変なぐらいだろう。

つまり、最も良い形は単なる偶然の出会いではなく、計画された偶然の出会い。「計画された偶然」というのが肝心だ。ただ、偶然を計画するのは難しい。

まあ「計画された」っていうぐらいだから、偶然の出会いを積極的に求めに行った結果ということだろう。単なるラッキーではないということ。簡単に言うと「犬も歩けば棒に当たる」という事かもしれない。

ファインド・アラウンドは、長さや太さや色の違う棒をなるべく多く立てておいて、一つの棒に当たった時に、周りの棒が連鎖的に反応するような事を意図したもので、街歩きにおける偶然を誘発することが一つの目的だ。そういった意味で、計画された偶然を生み出す仕組みと言っても良いかもしれない。

大きく言うと、計画された偶然が導く豊かな未来を提供して行きたいと考えている。

2011年5月18日水曜日

正確な位置情報、とは

最近は位置情報を使ったサービスが多い。とは言え、位置情報として簡単に使えるのは、曖昧な住所と、不確実なGPSだけ。

住所はもともと10m単位で付けられている番号なので、10mメッシュの解像度しか持っていない。ららぽーとやイオンなどといった集客施設は、全体で一つの住所しか持っていないので、100m四方ぐらいが一つの住所として表現されていることも多い。さらにいうと、地図上での住所標記は、その住所が指し示す範囲の重心に置かれているので、道に沿っているわけでもない。

このような理由で、お店や施設を住所標記でマッピングすると、地図が表現する土地の形状とは全く異なる上に、同じ位置に複数のピンが立つことになる。ましてや集客施設では、施設内にあるという事以上の情報を得られる事は無い。

GPSは精度的に言うと、50mは誤差を覚悟しなければいけないもので、特に天候が悪かったり、遮蔽物などで電波が乱れる環境にあると、誤差が大きくなる傾向がある。条件が整った時の精度で10m程度。つまり、住所標記と同じ程度の解像度しか持っていないことになる。さらに、GPS電波が届かない屋内では使えない。

つまり、GPSで言える事は、自分は大体この辺りにいる、という事だけだ。隣のお店のお得な情報とか、一筋向こうでイベントとかは分かるはずも無い。

これらの事から分かるのは、正確な位置情報を天候等の環境条件に左右されない形で取得できる方法って、今まで一般的にはないと言うことだ。

では、集客施設を対象にした場合に、正確な位置情報の把握は必要ないだろうか?また、商店街等お店が密集した地域で、情報をお客さんに届けるのに、正確な位置情報が合った方が便利ではないだろうか?

ファインド・アラウンドは、正確な位置情報を使った、屋内でも使える唯一のサービスである。正確な位置情報が分かっているからこそ、自分の居る場所とその周りの情報を、使える精度で提供する事ができる。だからこそお客さんの回遊を促す事ができ、滞在時間を伸ばす事ができる。

住所とGPSに頼っている他のサービスには真似のできないサービスが提供できる。

2011年5月16日月曜日

つながる、とは

東日本大震災を機に、「つながる」というキーワードが目立つようになった。ここで言う「つながる」とは、人と人がつながる、もしくは気持ちと気持ちがつながる、といった意味だと思う。

震災で存在感を高めたSNSやTwitterやSkypeは、いずれも人と人をつなげるためのサービスだ。古くは郵便に始まり、電子メールを経て、これらのサービスに進化して、段々と、時間や場所やデバイスを選ばずに使えるようになってきた。

そうする内に、人を選ばなくなりつつあり、どんどんとネットの中だけでのつながりも増えてきたりしている。

なんともスゴい時代になったものだ。

ほんの10年前には、そのほとんどが片鱗も見せておらず、つながりと言えば、リアルな知り合いがほとんどがだし、ネットのコミュニケーションと言えば、せいぜいが携帯メール程度だったことを思えば、隔世の感がある。

ここ1〜2年で「つながる」も次のフェーズに入ってきており、人と人から人と場所に、つながる対象が変わってきている。

そして、「つながる」にはトリガーが必要だと思う。

対象が人の場合は、知り合いだったり、意見を聞いてみたかったり、といったことかも知れない。場所やモノの場合は、馴染みだったり、お気に入りだったりするかも知れない。いずれにせよ、人という意識を持った主体からの「想い」がきっかけになることが多い。

そうでない場合は、相対的な位置関係がきっかけになっているように思う。

中学校に入学するとき、公立の場合は、相対関係というのは小学生の間に培ってきた人間関係だろう。それは先に書いたような「つながり」のトリガーだ。私立の場合は、周りには知らない人ばかりで、つながりに必要な「想い」はない。だから、隣の席や同じクラスの人など、相対的に近い関係を「つながり」に必要なきっかけとすることになる。

つまり「想い」がない場合は、相対的位置関係が「つながり」への第一歩だということだ。

近くのお店や施設をつなげて見せるというファインド・アラウンドの仕組みは、「想い」を持たない主体同士をつなげるための、普遍的な手法だと言えるかも知れない。

人と人、人とモノ、モノとモノの三者のうち、モノとモノだけはまだシステムとして、ほとんど確立されていない。しかし、三者三様のつながりが、全体系としての最適化には必要だと思う。

ファインド・アラウンドは、そんな時代に必要な、場所をつなげるサービスとして認知してもらえることを確信している。

2011年5月13日金曜日

メルトダウン

とうとう東電が炉心溶融を認めた。微妙な言い回しではあるが。

この期に及んで「燃料棒が溶け落ちた状態を炉心溶融というなら、結構です。ただし、チャイナシンドロームのような状態を炉心溶融とするなら違います。」なんて、詭弁以外の何者でもない。炉心溶融=メルトダウンは、燃料棒が溶け落ちた状態以上の意味はないだろう。

そういった詭弁を使いたくなるぐらい、メルトダウンという言葉は重い。もう、原子力としては最も恐れるべき状況、すなわち原発が放射能を撒き散らすゴジラと化してしまった、と言えるのかも知れない。

ただ、こういった時だからこそ、より冷静に状況を見極めなければならないと思う。メルトダウンが起こった状況で、我々はどのように行動すれば良いのか、また、こういった事態に陥った国が国際社会からどのように見られていると理解すれば良いのかなどを、よくよく考えなければいけないだろう。

東電や原子力保安院やメディアの言う事を鵜呑みにしてはいけない。恐れすぎては行けないが、鈍感になりすぎてもダメだろう。正しい情報が欲しい

2011年5月11日水曜日

大規模集客施設への適用可能性

ファインド・アラウンドは大規模集客施設で使ってもらうのが、第一段階としては正しいのではないかと考えている。ららぽーとのような施設がベストだろう。

先のたまプラーザでの実証を経て感じたのは、商店街は、そこを通る多くの人にとっては一つの通路である、という事だ。つまり、滞留したり回遊したりしている人はさほど多くない。理由は簡単で、商店街の利用者は多くが地元の人だからだ。もちろん、買い物をする機会はあるだろうが、日常的には通勤・通学で通り抜けるだけ、という方が多いだろう。

ファインド・アラウンドは、テナントや施設を繋げて相互連携の中で、エリアに利用者をつなぎ止めるような事を意図したサービスだ。そういった意味では、商店街というのはエリアと利用者のつながりは元より強く、あえてつなぎ止める必要はない。

一方、大規模集客施設はどちらかというと非日常の施設であり、様々な場所から集まった人々に対して、滞留と回遊を求める。長く滞在してもらう為に、エンターテイメント、ショッピング、食事、リラクゼーションと、多様なテナントを用意し、一日の行動の全てをフォローできるような仕掛けを持っている。だから駐車は実質無料に近いし、子どもは子どもで遊べるような施設を組み込んでいる事も多い。

こういった施設は、多様であるがゆえに複雑で、情報が多い。実際300店舗もあると、全てを把握する事は困難だろう。

にも関わらず、客に対するサポートは意外に薄い。せいぜい案内板程度で、あとはインフォメーションで確認するぐらいだ。実質的にお得な情報などは、ほとんど、その場に行ってみないと分からない。探すという行為を楽しむ意図があるのかもしれないが、客の方からすれば、効率的に見つけたいというのも実感として、ある。

施設で案内サービスを用意すると、どうしても施設ごとに異なるサービスにならざるを得ない。施設ごとに異なるサービスは、お客さんに認知してもらい、利用してもらうのが難しい。だから、あまり有効なサービスが無かったんだろうと思う。

ファインド・アラウンドはテナントごとに情報管理を行い、施設はどちらかというとスーパーバイザーのような形になる。だから、どんな施設にも適用できるし、施設が中心にならなくても適用できる。拡張して考えると、施設外の商店や商店街とも自然と連携が取れるという訳だ。

少し話を戻すと、大規模集客施設でファインド・アラウンドを経験した利用者が、最寄りの商店街で同じステッカーを見つけたときに、その商店街の使い勝手は格段に向上するだろう。そして、商店街での利用がたとえ頻度が低くても、大規模集客施設で同じステッカーを見つけたときに、その施設の使い勝手が格段に向上するのは間違いない。

緩い連携が全体の効率性を高める、そんなループが作り出せれば、と考えている。

2011年5月9日月曜日

浜岡原発停止

個人的には良い決断だと思う。たくさんある原発のうち、地震リスクが最も高く、備えが最も甘い場所だと言われている浜岡をいつまでも放ってはおけないだろう。

何より評価したいのは、今回の震災の影響エリアを50hz地域から60hz地域に拡大できる事だと思う。何度か書いているが、中部地方や関西地方を訪れると、その明るさに驚く。震災はエネルギー転換のきっかけとなりうる一つの出来事だったが、地域間意識差がそれを阻んでいた。

意識差が生まれた原因は、電力周波数の違いである。先のエントリーでは、周波数を統合する作業が最も大事だと書いたが、もっと簡単な方法は、震災に乗じて人為的に同じ状況を作り出す、すなわち原発を止める事だ。

その意味で、浜岡は止める理由も分かりやすく、国民の合意が得られやすい。浜岡の停止が実現できれば、次は美浜を始めとする70年代前半に運転を開始した、比較的古い原発がターゲットだろう。

産業への影響は避けられないが、それを言っていると何も始まらない。日本全体で危機感を共有してこそ生まれるものに期待したい。これこそが皆が言う、明治維新、戦後と同じ状況ではないだろうか。這い上がる為に必要な「どん底」ではないだろうか。

日本が一皮むける為の、そして、第四次産業を生み出す為の決断だと信じたい。

2011年5月6日金曜日

自由っていったいなんだい?

尾崎豊の曲「Scrambling Rock'nRoll」の一節。最近、結構頭の中を廻っている。

中学生の頃、尾崎にはまって、結構聞き込んだ。なので初期の十代三部作しか知らない。四半世紀も経って、すっかり大人になってしまった自分でも、尾崎の歌には色々考えさせられる事がある。つまり、思春期からほとんど変わってないということか。

さすがに、校舎の窓ガラスを割って...といった感じは、時代背景を感じさせる懐かしい匂いしか感じないが、この曲の「自由って何か」「どうすれば自由になれるのか」という問いは、相変わらず、というか今になってリアルに感じるものもある。

最近、ホリエモンの有罪判決に伴って開かれた自由報道協会の会見で、「かつてはやりたい事をやれる力もなかったが、ライブドアの上場とともにできない事はなくなった。何でもできるようになると、何でもやりたくなって、結果、お上に睨まれた」という事を言っていた。

ホリエモンが地位、名誉、金を手に入れた事で得られた自由。これは極めて本質的な話だと思う。こう書くと、大きな誤解を産みそうではあるが、自由っていうのはそういうものだろう。

例えば映画を作りたい人が、映画監督になったとして、それで全ての自由が得られるかと言うと、そうではないと思う。結局、金策に走ったり、技術力のある人を捜したり、何よりすばらしい役者の協力を得なければならない。じゃあ、誰が一番自分の作りたい映画を作れるかというと、監督ではなく、夢とビジョンをもったスポンサーだろう。それ以外の人は、自分の持てる能力を切り売りする職人に過ぎない。

職人としての技を磨く事は、一つの自由への道かも知れない。でも、それ以外の道はカネで解決するしか無い。自由への道は狭く険しい。

2011年5月4日水曜日

クリティカル・ディシジョン・レス

今の大企業にクリティカルな意思決定をする力ってあるんだろうか?東電は全く人ごとじゃない。

ライン業務に就いている方は、チームで動いておりそれなりに明瞭なヒエラルキーがあるし、明確なミッションもあるので、そのチームにとって重要な意思決定をする必要性は高いと思う。

しかし、現在の日本企業で最も大きな課題は、ラインよりもスタッフが増えてしまった事ではないだろうか。

スタッフ部門の社員は、チームで動く必然性がライン部門ほど強くないし、明確なヒエラルキーもない。また、チームとしてのミッションはもちろんあるが、それがすぐに当該企業に直結するようなものでもない。

枝野氏的に言うと「ただちに会社業績に影響の出る」作業ではない。もちろん、当該業務が将来的に会社業績に影響がある可能性はあるが、別にそういった意図で業務をこなしている訳ではなく、書類の為の書類を作ったり、社内の調整作業がほとんどだったりする。

そういったクリティカル・ディシジョンをこなすことなく過ごしてきた人々が大勢いる会社って、いざという時に何も出来ない。

東電を見れば明らかだろう。社員の優秀さは、疑う余地もない。ただ、社内調整や書類作成に日々を費やしてきた人々に、瞬発力を要求される有事の対応は無理だろう。

スタッフ業務に就いている自分を振り返って、何もできない人になっている事への危機感を抱かざる得ない。

人はその真価を、一人になった時に問われると思うが、今のまま大企業の中で調整と書類の中で生きていては、そういった意味での成長は期待できないと思う。

理想は、会社組織の中でクリティカル・ディシジョンが必要な部署に異動する事だが、今の自分の立ち位置で考えると難しいかも知れない。

2011年5月2日月曜日

Not alone, but selfish

Webサービスの提供方法は、大別するとプル型とプッシュ型がある。プル型は利用者がコンテンツを引き寄せるタイプで、プッシュ型は事業者がコンテンツを送り込むタイプである。つまり、プル型とは利用者主導で「意思」があり、プッシュ型は事業者主導で「出会い」があると言える。

プル・プッシュのいずれも善し悪しがあるが、言えるのはどちらも一方だけでは不十分だと言う事だ。

人は一人だけでは生活の一片たりとも成立しない。皆が意識的・無意識的に関わらず協力し合うことで、この社会が出来上がっている。これは今回の震災で、多くの人が実感した事実だろう。

一方で、どんな人でも多かれ少なかれ地球は自分中心に回っていると考えている。当然だろう。マクドナルドで注文すれば、その人の注文をトリガーにしてハンバーガーが作られる。店員がハンバーガーのパテの不足を本部に情報として送る事で、倉庫から材料が動きだし、物流システムに乗って、材料が届く。自分の意志がきっかけとなって、人・モノ・カネ・情報などが動き出すのは、日常的な生活行動のプロセスだ。

つまり人って言うのは、互いに協力し合う相互扶助的な社会に生きながらも、自己中心的に行動せずにはいられない生き物なんだろうと思う。

このように考えると、プル/プッシュのいずれか一方だけだと意味がないことが分かると思う。利用者の立場で言えば、プルは自己中心的な行動の結果であり、プッシュは他者からのレコメンドだったりする。つまり、プルだけだと他者の視点が入らず、狭隘な世界に生きることになるが、プッシュだけだと極めて雑音が多く煩わしい状態になってしまう。

個人的にベストだと思っている解はプル・プッシュ。つまり、動き出しのきっかけは自分の「意思」だけど、結果は誰かが提供してくれたより良い情報との「出会い」によるもの、という形。

最近多く開催されるチャリティも、多くはプル・プッシュだと思う。きっかけは自己中心的だが、結果は社会的。

そういえば先日、「Songs for Japan」という二枚組のアルバムを買った。これって代金の全てが赤十字に寄付されるというが、購入のきっかけは40曲近くも入って1000円ちょっとというおトク感に過ぎない。

そして、ファインド・アラウンドは、Webサービスで初めてのプル・プッシュ型サービスだ。