2011年10月31日月曜日

行動の目的ときっかけ

どこかに行くと決めた時、そのきっかけは人、店、街の3つに分かれるように思う。

「人」は、友人知人から有名人、無名の講演者など色々いるが、その人に会う、もしくはその人の話を聞くことを目的に、決められた場所に行くことになる。「店」は有名店や新しいお店や馴染みの店などだろうか。そして「街」の場合は通常、有名な街に行くものだろう。端的に言うと名前の売れている街だ。

それぞれは何となく、人と場所の要素が混ざり合う割合の違いでしかないようにも思えるが、「街」が最終的に行動を決めている場合が多い。人が行動のきっかけになる場合も多くは「さてどこに行こうか?」となるし、集客力のあるお店の多くがチェーン店で、それ自体が行動のきっかけになることはあっても、行き先を決めるほどの力はない。

そう考えるとやはり、街の魅力が集客力のベースになるんだろう。街が本来持つ魅力に加えて、バラエティ豊かな多くのお店が集まることで、その力を倍加させていると言える。

翻ってサービスという観点ではどうだろう?

行動のきっかけとしての「人」をサポートするサービスは、Facebook、mixiなど数多い。ソーシャルグラフという言葉が使われ出してから「人」に向けたサービスは増える一方だ。同じく「店」を紹介するサービスもタウンページ、e-まちタウン、ぐるなび、ケイティに代表されるように数限りなく存在する。これらは全て行動のきっかけになるように設計されている。


また「人」と「店」をつなぐサービスとして、友人・知人とのつながりと場所への帰属に着目したFoursquareやロケタッチ、利用者の視点で店を評価する食べログ、30min.、イベント性を組み込んだGroupon、イマナラ!というサービスもある。一方で「街」を紹介するサービスはほとんど存在せず、それぞれの街がそれぞれにホームページを立ち上げて周知に励んでいる程度だ。これらのホームページは、お世辞にも行動のきっかけになるとは感じられない。

つまり人の行動として、「街の魅力+多彩なお店の存在」が重要なファクターになっているにも関わらず、そこを掘り下げることのできるサービスは存在していない。

ごのギャップは埋め難い。

なぜなら、サービスの対象を「街」とした途端に、誰に向かって話をしたらいいのかが曖昧になるからだ。特に我が街の魅力に対して無頓着であればあるほど、サービスの受け皿としては頼りないものになる。どの街も「色んな人に来て欲しい」「街を活性化したい」と考えてはいるが、実際の所何をすべきか、どこにフォーカスすべきかを深く検討してはいない。

街の魅力をアピールして、多彩なお店に集客をもたらすようにするには、街のどこにいても、迷子にならないことが重要だ。そして、街の意図に沿って効率的に誘導することも必要だ。見せたい場所、来て欲しい場所を、人が歩ける範囲で近い順に提示してみせることができれば、街にも店にも人にも有益だろう。あっちにもこっちにも良い所がありますよ、ではなく、こっちに行けば、そことそこに良い場所がありますよ、という提示の仕方が、歩ける距離感にあるローカルサーチには不可欠だ。

2011年10月28日金曜日

昔は「体験」を提示するのがうまかった?

体験だの施設だのと書いていたら、回覧で回ってきた日経ビジネス(2011.9.26号)に同じような内容が書かれていた。これからは単品の製品を販売するのではなく、体験を売りたいと日本の大企業がこぞって考えているそうだ。

先に書いたように、そう簡単なことではない。例えばガラパゴスも、液晶テレビの単品売りに飽きあきしたシャープが出した、体験売り型の製品だったが失敗。

体験を売るには、前段取りと構成を綿密に考える必要があるんだと思う。つまり、解決したい課題とそれを煮詰めたコンセプト。次に体験。体験を構成するサービスと製品といった形だ。

そして、「体験」はうまくいけば長い期間収益を上げれる可能性があるが、ヘタをすると長いながい我慢の時間が続くかも知れない。そういった事を念頭においた、勇気と覚悟が必要になる。

同じ雑誌の中で、元ソニーの久夛良木氏が、ウォークマンの頃のソニーは体験を提示するのが上手だったと言っているが、決してそんなことは無いと思う。意図して体験を提示していた印象はない。現在のAppleのCMと見比べるとよく分かる。

iPadやiPhoneは、それを持つ事でどんな事ができるようになるのか、まさに体験を全面に出したCMを流している。かたやソニーは、思い起こせば、猿もうっとりするほど音が良いウォークマンや、スゴく発色の良いテレビなど、あくまでも高性能な製品にフォーカスしたCMだったと記憶している。

つまり、利用者が今の延長線上にある「より良い体験」「より新しい体験」を想起しやすい製品を作れたのが、昔のソニーだったんだと思う。

問題は、体験を想起しやすい製品を作れてない事、昔は体験にフォーカスしたモノづくりをしていたと勘違いしている事、何より現在の延長線上にある高性能化に対するニーズが減退している事にあるんじゃないかな?

体験を想起させる事は、体験をダイレクトに伝える事よりもレベルが高い。ウォークマン時代は高性能化ニーズが高かったので偶々うまく行ったが、今後もうまく行くとは思えない。

早く勘違いを解いて、体験にフォーカスできる体制をつくるべきだろうが、巨大企業になってしまったソニーが、カリスマなしに実現するのは難しいだろうな。

勘違いしたまま堕ちていくだけなんだろうか?

2011年10月26日水曜日

隣人との距離感

あるブログを読んでいて、新幹線でパソコンを広げて作業していたら、前の席に座った男が目一杯背もたれを下げてきてムッとした、という話があった。

そこで、ふと思ったのが、自分の座席の前のスペースって誰のものなんだろう、という事。

前の席に座る人からすれば、目一杯背もたれを下げる権利はありそうなもんだが、一方で自分の前に広がるスペースは自分のもので、優先権はこちらにあるようにも思う。特に作業してたり弁当を食べてたりすると、そう感じるだろう。

まぁ、当事者間で妥協しながらシェアするしかないのだが、行動のトリガーも意思決定も前の席に委ねられ、こちら側でできる事は注意して交渉することぐらいだ。なんだかすごく不公平。

そう考えると、そういった微妙な境界線は、いたるところにあるような気がする。そもそも社会生活における人間関係なんて、何かしら片務的なんだろう。

少なくとも自分の行動が、どんな形で周りに影響を与えているかを、常にモニタリングしておく必要はあるんだろうな。

人に迷惑を掛けないって、難しい。

2011年10月24日月曜日

400回達成

特に目標にしていた訳ではないが、このブログも400エントリーを迎えた。

誰に伝えるでもない独り言のようなブログなので、カテゴライズもしてない。その時々に自分が感じたことを記録に残すつもりで続けている。

この400回、2年半の間にも、部署が変わったり、勤務地が変わったり、震災が起こったり、政権が変わったり、デバイスが変わったり、Steve Jobsがいなくなったりした。

これからも色んな事が起こるだろうから、日々思いつくままに書こうと思っている。

こんなブログだが、読んでくれている人もいる。ありがとうございます。まずは三年間継続する事、そして、500回を目標に続けたいと思います。

2011年10月21日金曜日

コンセプトからパーツに至る段階

ディズニーの「体験」とシーパラの「施設」という二つの異なるコンセプトを考えながら、それらをつなぐ段階的な流れについて整理してみた。

大きくはハードとソフトで分類される。ハードは「施設」「製品」「パーツ」に分かれる。一方ソフトは、「サービス」「体験」「コンセプト」に分類できる。製品は多くのパーツでできており、施設は製品を組み合わせてつくる。その施設なり製品の使い方がサービスであり、そのサービスで得られる効用が体験となる。体験を設計する際の軸になるのがコンセプトだ。

逆に書くと、コンセプトは体験の集合、体験はサービスの集合、以下、サービスは施設の、施設は製品の、製品はパーツの集合になる。

収益を上げる方法論におけるハードとソフトの違いは、ハードは基本的に売り切りで、ソフトは運用で継続的に、という辺りだろう。つまり、ハードはすぐに結果がでるが、ソフトは結果が出るまでに時間が掛かる。長期間に亘ってマネジメントを続ける勇気と覚悟が、ソフトには必要だ。メーカーを始めとした日本企業の多くは、製品もしくは施設などのハードしか取り扱わない。

高収益を上げやすいのは、一般的には最終消費者に近いポイントだと考えられるが、Appleのように垂直統合しているとハードに利益ポイントを置くことができる。

結局、自らのビジネスの対価としての限界価格はおおよそ決まっており、その限界価格に見合う競争力のある価格設定をした中で、自分の手の内にある工程における最もグレーな部分に利益ポイントを持ってくることになる。通常、ものを作る場合の製作コストにグレーな部分は少なく、そのことがハードにおける利益率の低さに直結している。

だからこそソフトに手を伸ばし、ソフトで収益を上げるとともにハードでも収益が上がるような仕掛けをしていくべきだと思う。

それには勇気と覚悟が必要で、今まさに、そこが問われている。

2011年10月19日水曜日

日本的サービスの限界点

最近、八景島シーパラダイスによく行く。ここは、水族館を中心とした総合アミューズメントパークで、水族館好きには中々楽しい場所だ。イッテQ!水族館もここにある。

八景島という人工島を開発し、海をテーマにしたアミューズメントパークを作ろうという構想は理解できるが、ここに行くと、日本的サービスの限界点を感じることが多い。日本的サービスは総合的ではなく、単発的だ。企業は総花的な総合企業化を目指すパターンが多いのに、サービスの総合化が得意ではないのは不思議だ。米国的サービスの代表、ディズニーリゾートと比較すると理解しやすいかも知れない。

ディズニーリゾートは「体験」を中心に考えているが、シーパラダイスは「施設」を中心に考えていることが大きな違いだ。


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「体験」には施設、サービス、スタッフなど、様々なものが含まれていて、その全てをマネジメントすることになる。ベンチマークするべきは、一日を過ごす「体験」であって、その体験の質が、他の体験に比べて差別化されていて、なおかつ最高であるように設計される。一日を過ごす体験とは、例えば動物園かも知れないし、南の海のリゾートかも知れない。もしかしたらオーロラツアーや山登りや温泉やウィンドウショッピングもライバルになるのかも知れない。少なくともそこを訪れる人は、それ以外の選択肢を全て捨ててきているのだから、後悔させないだけの「体験」の設計は必要だろう。

一方で「施設」も、その中の設備、動線、サービス、スタッフなどが含まれている。そして、水族館という施設でベンチマークして、水族館として差別化されている事が最重要課題になる。「体験」の時と同じく、他の水族館を選べば良かったと思われないような施設にする必要がある。だから、シーパラダイスではジンベイザメをイルカプールで飼育し、鑑賞するだけでなく、芸を仕込もうとしている。


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施設中心の考え方の欠点は、施設間の一体感がないことだ。それぞれの施設として、類似施設をベンチマークした上で、他にないものを作っただけで、それ以上ではない。すごく縦割りな印象だ。だから、施設間でサービスレベルが大きく異なり、しっかりしたサービスを受けられる施設から、ほとんどボッタクリに近いようなものもある。そして、その不均質感が全体としての体験の質を下げている。

また、施設は飽きるというのも大きな問題だ。施設というハードを中心に考えると体験が画一的になり、いつ行っても同じなので、何度も行く気にはなれない。子供は別だが。体験というソフトで考えると、バリエーションが無限に存在し、いつ行っても何かしら新しい発見があるので、リピートする意味が出てくる。

つまり、施設は一見さんをいかに呼びこむかが重要であり、体験はリピーターをいかに増やせるかが大切になる。ビジネスととしての拡がりと安定感は、間違いなく後者が上だろう。

逆に、施設中心で設計すると、その施設はレベルの高いものになる場合も多い。例えばミシュランの三ツ星レストランは日本が一番多い。個々の施設が同じ業態の施設をベンチマークし、切磋琢磨した結果、非常にレベルの高い飲食店に成長する。


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そう考えると結局、日本は職人の国で、腕の良い職人が自己研鑽を深めて、高レベルなサービスを個別に提供することしかできていないと考えられる。どの分野も総合化・体験化・サービス化できずにいて、単に使われている職人として、その腕が良い事だけを自慢にして、報酬は二の次といきがっている。iPhoneがいい例だろう。部品は日本から調達して、体験を売って、ハードで稼いで、サービスを総合化している。

いつまでもこんなことで良いのだろうか?

2011年10月17日月曜日

街歩きのセレンディピティ

セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。

セレンディピティの有無は、人生の広がりにおいて、大きな意味をもちそうだ。ほんの些細な事の観察から、別の意味ある何かを発見する力をもつというのは、才能や観察力だけでなく、幅広い興味や価値観を求められる。人間は極めて合理的にできているので、興味がないものに思考力を使うことはないばかりか目にも留まらないというのが普通だろう。

にも関わらず、求めているものとは違う何かの価値を見出すのは、言葉で言うほど簡単ではない。まさに「セレンディピティ」という能力があればこそだろう。

インターネットの世界は実に混沌としていて、実はセレンディピティを発揮するのに適したフィールドなんだろうと感じていた。つまり、一つの情報を目的を持って探しても、別の情報が抽出されてくるからだ。自然と多くの情報に触れる機会が生まれ、それがある種のセレンディピティアクセラレータになっていたように思う。

一方で、最近の検索は非常に精度が高くなっており、探している言葉に対して、かなりの確率で答えが導き出せるようになってきている。逆に、トンチンカンな答えというものが減って、「別の意味ある何か」を見出すことは非常に難しくなってきている。

精度の高い検索が示す未来は、寄り道のない人生のようなもので味気ないが、精度の低い検索なんて利用価値がないと思う。

全てのフィールドでセレンディピティを生むような仕掛けを埋め込むことは難しいだろうが、一部に限定すればできそうだ。実にKozchi-mecke!-がその一つの解になると考えている。

Kozchi-mecke!-が以前より提唱しているように、お店を偶然に見つけることは、街歩きの本質だし、非常に重要な行動だと思う。この記事がそれを証明している。

iOS執事のAlfred、レストランのおすすめは偶然から
しかし、最も重要なデータはユーザーが実際どのようにアプリを使っているかに関するものだ。具体的には、Alfredに送られるリクエストの94%は「セレンディピティー」[偶然の巡り合わせ]によるもので、明確な検索はわずか6%だった。

つまり、94%にも及ぶ人が、明確な目的を持ってお店を探していないということで、何らかの情報トリガーによって「偶然に」見つけ出しているということになる。

Kozchi-mecke!-は偶然の出会いを促すことを一つの目的としている。

同じく、この記事も示唆に富んでいる。

成長まちがいなしのセレンディピティ分野? SNS情報を統合して、今いる場所の「再発見」を目指すRoamz登場
いずれにせよ、現在は位置情報に基づく「新たな出会い」(セレンディピティ)をうまく演出できるアプリケーションはない。今はまさにそうしたサービスが待ち望まれているのではないだろうか。

Kozchi-mecke!-は「街の再発見」が一つのテーマだ。戦略ストーリーを考えたときに、明確に示している。

そう。言いたいのは、街中でお店を見つけるというフィールドにおいては、セレンディピティを補完することができそうだ、ということ。そしてKozchi-mecke!-も、そういったセレンディピティ補完サービスの一つだということである。

2011年10月14日金曜日

Jobsが守ろうとしたもの

毎日.jpの「時代の風」を読んで、少し違和感を感じた。

実際iOS上のソフトやコンテンツの流通に対し絶対的な決定権を維持し、維持し続けるために自らの支配の及ばないアプリケーション流通を可能にするFlash等の技術は、どんなにユーザーの要望が強くても受け入れなかった。(中略)しかし、ネットの世界の変化は早い。アップル社が推していたインターネット上の最新技術であるHTML5は、Flash以上にアプリケーション流通をOSから自由にする技術に成長した。ジョブズが必死で維持していたiOS上での流通支配権は早晩崩れる運命にあった。


はたして、Jobsが守ろうとしていたのは流通支配権だったのだろうか?
ここ数年のJobsは、以前にも増して達観していた。もちろんAppleの収益が伸びることはうれしいが、それが目的ではなく、もっと大きなビジョンの下でどうすればより良い世界を作れるか、ということに腐心していたように思う。そう考えると流通支配権なんてせこい話はどうでも良かっただろう。

Jobsが守ろうとしていたのは、ユーザーが安心して使える環境だと思う。その証拠は、Pixer時代の逸話にある。

ジョブズが創業したもう1つの会社。ピクサーアニメーション・スタジオのジョン・ラセター氏が以前、こんな話をしてくれた。

映画「ファインディング・ニモ」の試写を見に来たジョブズが、「海の中の海藻の動きが不自然だ」と指摘したところ、そのコンピューターグラフィックスを担当しているエンジニアが「バレたか」という顔をして「今の技術で、その海藻を自然な動きにしようとすると、映画の公開が1年遅れるか、膨大な追加予算がかかる」と言い訳をした。

ジョブズはそれを制し、素晴らしいストーリーとリアルなグラフィックスで、すっかり作品の世界に没入している観客を、たった1本の海藻の不自然な動きで夢見心地からさませて本当にいいのか、といったことを問い返した。


コストよりも時間よりも、観客のエクスペリエンスを重視する姿勢が伝わってくる。
Jobsにとって、利用者に最高の体験を提供するにはどうすればよいかが最大課題であって、そこでどの程度儲けるかは二の次だったのだ。ましてや支配権なんて言葉は、まったく当てはまらない。

携帯電話業界に参入することを決めた段階で、iOS(当時はiPhoneOS)端末がかなりのボリュームになることは見えていたはずだ。また、市場がつくりあげる段階であることを考えると、シェアも相当なものになることは想定内だろう。今までのPCビジネスを考えると、それはすなわちウィルスなどとの戦いになるということだ。しっかりコントロールしなければ大変なことになることが自明だったとすれば、Webアプリしか許可しなかったり、AppStoreの規制を強めたりすることは、当然の策だったのだろう。

もともとWebアプリしか使えなかった時代もあったことを考えると、HTML5によってアプリ並みの機能を持たせられることは福音なのかもしれない。本来あるべき姿に近づいたと考えれば。

iOS端末の利用者はJobsのポリシーによって、様々な攻撃から守られてきた。そしてそれによって、最高の体験を得てきたことに感謝したい。

2011年10月12日水曜日

スモールライト

東京の地下鉄を使ってると、時に非常に中途半端な動きをする人がいる。例えば、乗車する時のタイミングが遅かったり、人の流れに乗らずに少し抵抗してみたりして。

こういう人は大抵、ドア脇のスペースが好きか、すぐ降りるかなのだが、少し不愉快に感じる。

クルマのスモールライトは何のためにあるか、と良く似た議論になると思うのだが、自分の事だけを考えると、スモールライトは必要ない。つまり、自分にとっては、計器や道路が見やすいか否かの二元論でしかないので、ライトも点けるか消すかの二つのパターンがあればいいはずだ。

それでもスモールライトが必要な理由は明白で、他車に自車の存在を気づいてもらうためだ。

ウィンカーもそうだが、クルマの場合、自分のためというよりは周りの人のための装置がいっぱい付けられている。それは、周りに配慮する事が結果的に自分の利益になるためだからだ。

クルマの運転は、不特定多数に囲まれた環境で、どのように行動するべきかを端的に教えてくれる。

要点は3つだけだ。ルールを守る事、流れに乗る事、周りに気づいてもらう事。

東京を始めとする都市圏の満員電車での行動原則も、この3つに集約される。もう少し領域を拡大して、社会生活も同じ原則を適用する事ができるだろう。

生きていくためには、スモールライトが必要だ。

2011年10月10日月曜日

CEATEC2011

幕張メッセで開催されているCEATEC2011に行ってきた。

最も印象に残ったのはAppleだった。もちろんAppleはCEATECに出展していない。が、あらゆる場所で、Appleの匂いを強く感じた。

今年は色んなブースでタブレットPCが展示されていた。スマートフォンもタブレットPCもAppleに端を発している。

それだけではなく、今までプラスチック筐体だったものをマグネシウム合金にしたり、シールだったロゴや認定マークなどをエッチングにしてみたりと、何とかApple流モノづくりに追いつこうと必死になっている事が、あからさまな模倣から伝わってきた。

インテルのブースで展示されていたパソコンも、MacbookAirソックリだった。薄さ、ポートの配置、大きなトラックパッドやキーボードの形など、どこを切り取っても、MBAの模倣にしか見えない。

それだけでなくパソコンやテレビとつないで、自由にコンテンツを楽しもうというメッセージのプレゼンテーションが各所で行われていたが、このコンセプトもAppleTVで、すでに実現しているものだ。





それぞれに決定的な違いがある。

スマートフォンやタブレットPCは、OS、ハード、プラットフォームを一体開発しているAppleと、Androidのライセンスを受けてハードだけを作っている各社の違いは、当然、完成度に表れている。

美意識を共有していないモノづくりには魂が宿らない。性能だけ良ければ受け入れられる時代はとっくに終わったのだという事に気づく必要があるだろう。

パソコンも同じで、スタイリッシュになったという事だけでは、何も解決していない。

どんどん作り出される、様々な技術を取捨選択して、本当に必要なモノは何かという議論をする事なしに、意味あるプロダクトが作れるとは思えない。ハードだけでできる事もあるはずだが、おそらく、パソコンを再定義しようなんて考えてもいないんだろう。

最後のデバイス連携なんて、ほとんど説得力がなかった。致命的なのはコンテンツを持ってない事。その意味で、ソニーは少しだけ先行している感じがした。

それにしてもBravia、PlayStation、スマートフォン、タブレットPCと、どれだけ投資すれば、その未来に辿り着けるのか。東芝やパナソニックは、コンテンツサーバーも持つ必要があるので、気が遠くなる。スマートフォンとタブレットPCを抜いても30〜50万円ぐらいだろうか?

囲い込みたい気持ちはわかるが、そのエゴが導入の足を引っ張っている。高機能な大物家電を導入しないと実現できない未来は、本当の意味での未来なのだろうか?もしかして、ただの幻想ではないだろうか?

Appleで同じ事を実現するのに必要なコストは、AppleTVの8,800円だけだ。Appleが想い描く未来は、誰の手にも届くだろう。

どんなに素敵な未来でも手に届かなかったら意味がない。勝負になる訳がない。

みんなAppleが設定した土俵で相撲をとろうとして、ことごとく負けている。しかも、完敗。横綱vs.幕下という感じじゃないかな。

Jobsがいなくなった今こそ進撃のチャンスかも知れない。そして、そのために必要なのはパラダイムを変えることだろう。Appleの土俵から離れる事だ。

今の所、その兆しは見られない。

2011年10月7日金曜日

Mac遍歴

所属していた組織が入社当時、Macを標準として導入していた事もあり、様々な機種を使ったことがある。

どれも好きだったが、中でも思い入れが強いのは、初めて使ったPowerbook540c、まだまだ作りは荒かったけど、よく持ち歩いていたPowerbookG3、完成度が高かったMacbookAir、ほとんどの人がその可能性に気がつかなかったiPhone3G、コンピューティングの概念を変えたiPadかな。

このブログはほとんどを、iPhone4かiPadで書いている。

ColorClassicII
PowerMac7200
PowerMac7600
PowerMacG3
Macmini 1st
Macmini core5i

Powerbook540c
PowerbookG3 12inch
Macbook White
MacbookAir 11inch

AppleTV 1st
iPhone3G
iPhone4
iPad
iPad2
iPod 2nd
iPod nano 1st
iPod shuffle 1st

ありがとうございました。
そして、これからもよろしく。



2011年10月6日木曜日

一つの時代が終わってしまった…

Steve Jobsが亡くなった。56歳の早すぎる死に言葉もない。

これまで、このブログでも何回もJobs/Appleについて思うところを書いてきた。Jobsは間違いなく世界を良い方向に変え、自分もその恩恵に浴してきた。

Appleは自由の象徴であり、Jobsは未来を見通す神のような存在だった。だからこそ世界はBJ/AJで分類できる。

二度とJobsの「One more thing」が聞けないかと思うと、非常に寂しい気がするが、これも予想された結末ではある。

今はただ、ご冥福をお祈りするしかない。

さようなら、Steve Jobs。今まで素晴らしい夢と、もっと素晴らしい多くのプロダクトをありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

2011年10月5日水曜日

正統進化

iPhone4Sが発表された。

A5プロセッサ、8Mカメラ、音声認識、au、そして、iPhone5が大方の事前予想だったので、サプライズがないばかりか、かなり期待外れだったのではないだろうか?その証拠に株価もかなり下がったようだ。

しかし、今まで何度か書いている、商品開発の3要素に当てはめると、今回の発表は予測できたし、正しい進化だと確信できる。

商品開発の3要素とは、コンセプト、デザイン、技術のことで、商品開発にはその3つの要素が大切であるとともに、どれか一つしか(大きく)進化させてはいけない、という原則があると考えている。

なぜなら、二つ以上の要素を動かすと、ユーザーがついていけないからだ。Windowsなんて悪しき例だと思う。進化の度にコンセプトを変え、デザインを変え、技術を変える。新しいだろとばかりに出されても、ほとんどついて行けず、未だに約10年前のOSであるXPを使っている人すらいる。

MacOSで10年前と言えば、OSXができて間もない頃だと思うが、10.1とか10.2を現役で使っている人がいるとは思えない。Windowsは全てを変化させるので、単なるバージョンアップなのにスイッチングのハードルが高い。なので、それぞれのバージョンで取り残される人がいて、それが様々な弊害をもたらしている。

Appleは、そこのコントロールが絶妙で、だからこそ在庫を残さず、利益率も高く、バージョンアップに皆が付いてきてくれる。ハードもソフトもOSも。そんな目で今回の発表を見ると、全く正しい進化だと言う事が分かる。革新と熟成を交互に行うことで、浸透とスイッチングをスムーズにしている。

今回味わった若干のガッカリ感も、おそらく来年6月に発表されるだろうiPhone5への一つのスパイスになるだろうし、CPUが強化されて使いやすくなると共に、auからも発売されるiPhone4Sは、意外によく売れると思う。来年、iPhone5が発売された後も。

ただ、iOSデバイスの種類が増えることで、革新と熟成のサイクルを維持するのが難しくなるのも確かだ。例えば、iPadでは革新だったものを半年後に発表するiPhoneに載せても熟成でしか無い、とか。

このサイクルを好循環させるには、ユーザーの期待を良い意味で裏切らなければいけない。つまり、ユーザーにできるだけ正しい想像をさせないようにしなければならない訳なので、iOSデバイスをバラバラと発表する事はできるだけ避けたい。

しかし、少なくともiPhoneとiPadはどちらも訴求力があるので、できれば別々に、半年ぐらい離して発表したい。となると、そこのバランスを取りながら、うまく革新を作りこんでいく必要がある。

絶好調のAppleはMacも含めて、革新のバランスを取る事が目下最大の懸案事項になるのだろう。贅沢な悩みだ。

2011年10月3日月曜日

アンノウン

事故によって記憶に混乱をきたした男の話。

記憶が部分的になくなり、自分の置かれている状況が分からなくなるだけならまだしも、記憶を取り戻した後に、従前の価値観を失うのは、少し違うと感じた。もしそうであるなら、今までも自分の生き方に疑問を持ちながら、過酷な職務を遂行していたことになる。部分的に描かれる当時の様子にそのような悩みや葛藤は存在しない。

リーアム・ニーソンと言えば、「96時間」も面白かったが、凄みのあるアクションと優しそうな表情・人柄のギャップが、ストーリーの謎を深めているように感じる。

事故で生死の縁をさまよい、そのため記憶が混乱する。病院で目覚めても、自分が何のために、そしてなぜここにいるのかも分からない。テレビを見て断片的に思い出していくのだが、その断片感が少しご都合主義的で、より事態が混乱していく。後で考えると合理的な、様々な登場人物の行動も、その理由はようとして知れない。

最後の最後で全てを思い出すのだが、その期に及んでも、かつての価値観を取り戻すことはない。なぜ?一見楽観的な未来への旅立ちに向けた最後の仕掛けも、どうやって?という疑問は免れないし、そもそも楽観的な旅立ちにはなり得ないだろう。

途中までは面白かったが、最後に失速。少しシナリオの詰めが甘いかな。