2010年7月30日金曜日

スマートグリッドの危うさ

ここの所ずっとスマートグリッドの、少し広く言うとエネルギーについて考えている。

再生可能エネルギーや原子力、バイオマスなど、現代はエネルギーを選びたい放題なんだけど、コストとの見合いで、化石燃料メインで落ち着いている。

スマートグリッドは、大きく分けると(1)発電(2)送配電(3)デマンドサイドマネジメントに分かれる。スマートグリッド的には(1)はメガソーラーやウィンドファーム、(2)は直流送電、(3)はデマンドレスポンス、になる。

結局、何を選択しても莫大なコストがかかる。省CO2という目的に対しては正しい方向に進んでいるが、一体誰がそのコスト負担をするのかという事になる。まぁここには議論の余地がなく、最終消費者だと言える。つまり、省CO2な取り組みを許容するためにはカネが必要で、省エネを推進して、その原資を稼がなければいけない。省エネなくして省CO2はないのだ。

人々が省エネに取り組んできたのは、何よりカネの節約になるからで、その結果として個人の懐が暖まるからに他ならない。しかし、省エネはもはや節約の手段ではなく、カネを稼ぐ手段として期待されている事になる。そして問題は、省エネを推進しても、高コスト発電を使うようになった結果、電力単価が上がり、消費者の懐は何ら暖まらないという点だろう。むしろ、お寒くなる可能性の方が高い。

この先化石燃料の価格が上がり、再生可能エネルギーの価格は下がる方向にあることは間違いない。よく言われるのは、高コストと言われる再生可能エネルギーの価格がグリッドパリティに近づき、越える時期が遠からず来るだろうということだ。(グリッドパリティとは両者の均衡点を指す言葉)

これって化石燃料を使い続けても電気代は上がるんだから、相対的に安くなる再生可能エネルギーを積極的に使おうよ、ということだが、個人の電気代は否応なく上がって行く事になる。電力使用量は減ってるのに、上がって行く電気代。

頑張っても頑張っても、電気代をは下がらない。良くて現状維持。高いお金を出して省エネ家電に買い換えてもダメ。気を抜いてもダメ。絶対的なお得感もなければ、何年使えば元が取れるという計算もあまりリアリティのある話ではなくなる。

そんなスマートグリッドにみんな乗っかりたいと思うのだろうか?

可処分所得が減る中、上がり続ける電気代。やらなきゃ損する、という詐欺のような言い方しかできない省エネではなく、やると得する、という言い方ができるようにならないと、人々は積極的に参加できない気がする。

エネルギーは全て共有化して、みんなで作って、みんなで使う。賢い使い方をして「エネルギーポイント」を稼ぐと、ポイント数に応じたご褒美がある。エネルギー使いが荒いと、単価が上がるなどのペナルティがある。と言った仕組みがないとダメじゃないかな?

スマートグリッドを中心としてエネルギー問題を考えると、どうしても社会主義的になってしまうが、今後は資本主義と社会主義の使い分けが大事だと思う。また、日本はそういった曖昧な使い分けが得意な国だとも感じる。

政治力次第だが、意外にスマートグリッド的な社会構造は日本にフィットするのかも。

2010年7月28日水曜日

小さな命が呼ぶとき

面白さという観点では、5段階評価で3ぐらいか。

実話ならではのリアリティのある情熱や行動力に、自分が同じ境遇だったら、という想像が絡み付いて、見入ってしまう映画だった。ハリソン・フォードが演じるストーンヒル博士の濃いキャラクターがなければ、映画としては成立しづらい感じだったかもしれない。

障害を持つ子供の親の行動力が、世の中を前に進ませる原動力になることはよくある。北朝鮮拉致被害者も同じような感じなんだろう。

状況を打開するためについた軽い嘘を現実のものにする為に、西奔東走することになる主人公。でも、その頑張りが、新たな繋がりをつくり、情熱の相乗効果が良い結果を生み出す。

何より、ビジネスを前に進ませるのは、並大抵の決断力では間に合わない事がよく分かった。何をゴールにするかによっても、随分と方向が変わる。

博士は、自分の理論の完成をゴールと考えている。自分のアイデアに固執しているので、なるべく秘密にしたいし、事業化するなら自分の利得を最大化したい。つまり、事業化するための金は欲しいけど、口を挟まれたりして、自分の思うようにできなくなるんだったらノーサンキューというタイプ。

一方の主人公は、子供の病気を治す事しか考えていない。子供の病気を治すためなら、法に触れない限りは、何をしてもいいだろうというタイプ。

子供のために、パートナーにとって非情な選択を繰り返す主人公。パートナーにして見れば、こいつと出会わなければ、、、と感じるシチュエーションの連続だろう。

主人公の行動や言っていることは正しいが、パートナーの気持ちも分かる。主人公がこの映画の状況でのインサイダー(障害を持つ子供の親)なので、余計に正論を言われると戸惑うだろう。こいつは客観的に判断しているのか、それとも自分の子供を助けたいがための詭弁を操っているのか。。。

ミステリーのように伏線やどんでん返しがないので、ストーリーに深みが無い、と言ってしまえばそれまでだが、軽いジャブのような揺さぶりは最後まで続く。

実話だけに下手に間引くと、とんでもなく平坦なストーリーになる可能性があり、2時間弱の中に収めるのは難しかったのではないかと思う。できれば、ドラマで見たい。

2010年7月26日月曜日

ビジネスの立ち位置と方向性

「どんなビジネスでも、上質とお手軽の二択でどちらを選ぶのか、その方向性を明確にしなければいけない」とは、「トレードオフ」というビジネス書の内容。まだ購入していない。

最近、色んなセミナーに行く機会がある。主にエネルギーやイノベーションが主題のものだが、導入部分として共通しているのは、現在の日本が直面している閉塞感。その閉塞感の原因も解消方法もほとんど一致している。ビジネス的なセオリーで言うと、満場一致に近いような解は正しくないハズだが、どうなんだろう?

良く言われるのが、「技術で勝って、事業で負けた」という事。そして、その解決方法はインテル・インサイドか、アップル・アウトサイドか。いずれにせよ「コアを握って周りを振り回せ!」と言うのが、勝利の鉄則らしい。

別の視点から「イニシャルからランニングへ」というのもよく言われる。技術が主導的な時期はイニシャルで稼ぐ事が優位だが、ビジネスモデルが主導するタイミングではランニングで儲ける必要がある。当たり前だ。

両者は結局同じ事を言っている。

うまくやっている国や企業を横目で眺めて、「ああすれば、うまく行くハズだ」と評論する事は簡単だが、そこには高いハードルがある。今までイニシャルで収益を上げてきた企業がランニングに移行するために切り捨てなければいけないモノもいっぱいあるのだ。垂直統合を水平分業に変える時も同じだ。

今まで技術で食ってきた人に、もう技術はサチっちゃってるんだから、新しい技術を作ろうとせず、枯れた技術の組合せを考えて、それに儲かるビジネスモデルを被せなさい、と言うのが正しいのか?そして、可能なのか?

サムソンでは、リバースエンジニアリングから商品開発が進むそうだ。新しい事は何もない、と。そして、リバースのリバースはフォワードでしょう、という解釈をしているようだ。

先日のセミナーでは、そんなサムソンに完敗している日本企業は、新しい技術を開発しようと躍起になるのではなく、リバースに専念するべきだ、プライドや先入観は捨てろ、という事を強調していた。だが、全てのプレイヤーがリバース志向でビジネスを考えた時、技術の向上や価格下落からの脱却は、どのように、誰が成し得るのだろうか?

日本企業は何でもやろうとして、また、何でもできてしまうので、結果として全てが中途半端になってしまっている。全部をやろうとせず、うまい役割分担を目指して、コアの部分を握る。それが、水平分業だと思うが、そのためには自分がどこのパートを担当して、そのパートに関して他の誰よりも上手くやれる事を証明しなければならない。

技術に特化して高級路線を追求するのか、それともリバースエンジニアリング主体でお手軽路線を突き進むのかは、企業もしくは事業単位で方向付けしておく必要があるだろう。

そのいずれの路線においても必要なのが、ビジネスモデル、つまり儲けの仕組みを作る能力・機能だ。自社の得意領域を見極め、追求するとともに、それ以外の領域を大胆に捨てられなければならない。

アップルも大きくなって、全てを自社リソースで賄う内製化を進めているが、これは、大きな会社だけが取り得るリスキーな作戦だろう。一歩足を踏み外せば、資産を積み上げている分だけ、坂道を転げ落ちるスピードも速い。

一般的な企業は、立ち位置(どの領域を担当するのか)と方向性(高級/お手軽)を明確にして、目的とともに、常に振り返る必要がある。

2010年7月23日金曜日

脱藩とは

脱藩を考える時、重要なのは「藩」をどのように定義するかだろう。国なのか、会社なのか、それとも自分なのか。それぞれの危機に対して、するべき事とできる事を整理すれば、分かるのかもしれない。

茂木健一郎先生のクオリア日記には最近、わが国に対する憂いが頻繁にアップされている。「日本は今、劣化しつつある。明治維新以来、紆余曲折を続けながらも躍進し続けてきた「近代日本」の「賞味期限」が切れつつあるのかもしれない」だから「自分という殻を脱ぎ捨てよう」と、自分からの脱藩を勧めている。

つまり、日本の危機に対して、自分の殻を破る事に解決策を見出そうという事だ。

ちっぽけな自分ができる事と言えば、自分を変える事ぐらいなので、当然と言えば当然だ。自分すら変えられないのに、会社や国を変えようなんて、おこがましすぎる。

福沢諭吉は「国を支えて国に頼まず」と、独立自尊の心構えが肝要とした。坂本龍馬は土佐藩からの脱藩を利用して自分の殻を破った。そうして作られた近代日本の全てが、しゃぶり尽くされ、出汁殻になってしまったのかも知れない。実は、三島由起夫が嘆いたように40年前から、つまり、福沢諭吉や坂本龍馬が作り上げてから100年ほどで、日本は既に空疎になってしまっていたんだろう。

鮮烈な印象を残す明治維新ですら100年しか持たない。その事に驚くと同時に、次の維新を起こす事に対する不安が増大する。明治維新は外国に侵略されるかも知れない、その巨大な恐怖がトリガーになったが、それに匹敵しうる脅威があるのか。

もの作りは韓中台にやられ、コンセプトや事業化は欧米にやられている、そんな中でも他人事な机上の戦略論に終始している産業界。リアルな脅威無くして動くことのない国民性。危機感を感じる感受性に乏しい社会。果して、IMFの介入をもってしても動けるのか。

もし、人々に行動を促すような具体的な脅威が表面化しなければ、日本の破綻懸念が国民に変化を起こさなければ、日本は次の危機がくるまで、江戸後期のような退廃した期間を過ごさなければならないかも知れない。

そんな事を考えていると、国や会社の事を考えている場合ではないと感じる。やはり、自分が変わる事が社会のためになると信じて、自分からの脱藩を試みるしかないだろう。その時に、自分と会社のベクトルが合えば、自分の変革はそのまま会社の変革に繋がるだろうし、そうでなければ、自分からの脱藩は即ち会社からの脱藩でもある。

いずれにせよ、卵の殻は自ら割らなければならない。自分で割れば命を得られるが、他人に割られる時は食べられる時だ。

2010年7月21日水曜日

スポーツとベンチャービジネス

W杯前後で、本田選手が様々なメディアに露出し、自らの考え方を語っていた。彼のような、口に出して自らにプレッシャーを与えることで成功確率を高める、有言実行タイプには、おそらく必要なプロセスだろうと思う。自分への自信を一定以上に持ってないと取れないスタイルだが、うまく回れば成長は早い。

その中でも、とても気になった幼少期のエピソードがあった。

子供の頃から当然、上手下手の差はある。大人のそれよりは遥かに小さな違いだが。多分、本田選手は足はダントツに速かった訳ではないんだろうと思う。自分には好きで得意な分野がある。そこに自分よりも才能があるように見えるライバルがいる。そんな時、どうするだろう?

何となく、あくまでも主観だが、日本人的メンタリティとしては「あいつにはかなわない」として諦めるか、「あいつを負かしてやる」と足の速さを追求するか、どちらかのように思う。つまり、才能は努力に勝ると考えるか、努力は才能に勝ると考えるかの二択で物事を判断してそうな気がする。特に子供の頃は、得意な才能を活かす役割分担なんかは頭にないから、一つダメなら全部ダメ、となりがちだ。

本田選手は、そうじゃなかった。「足が早くないと、世界レベルになれないのか?」「足の速さが一番じゃないヤツは夢を諦めなきゃいけないのか?」と考えたという。結論は当然、「そうじゃないだろう!」

多少足の速さで劣ったとしても、別の才能とそれに見合ったポジションが見つかれば、十分に世界レベルで活躍できるはずだ、と。才能とポジションを見つけられたら、世界一の練習を積め重ねていくだけだ、と。

多分、指導者なり保護者のアドバイスがあったんだろうとは思うが、幼少期に正しい方向付けがされた訳だ。ベースに本人の気持ちや練習に取り組む態度があるのは間違いないが。

少し話は変わるが、ベンチャーキャピタルのIVSで代表をしている小林さんも最近のブログで、ファンド資金を集めるのに、なかなか苦労されている様子を書かれていた。小林さんは前職グロービスVCでグリーを発掘した事でも有名だが、前職の実績が資金集めの役に立つ事はあまりないそうだ。とにかく、現職でのトラックレコードがないと話にならない、と。

新しいビジネスを立ち上げようとすると、必ず出てくるのがトラックレコードの問題。資金を持ってそうな人やアドバイスをくれそうな人に話をすると、今までどういった事業の立ち上げてきて、その結果はどうだったのか?を問われる。

「トラックレコードが無いと、何にもできないのか?してはいけないのか?」と言うと、決してそんな事はないと思うが、サラリーマンでいると、事業立ち上げのチャンスなんてなかなか遭遇しないので、社内外から様々な形で試してみるしかない。人様に胸を張って紹介できるほどの実績を作るのも、かなり難易度が高いが、やるしかない。

逆に言えば、トラックレコードさえできてしまえば、こっちのもんだ。動かし始めは大変だが、動き出してしまえば何と言うことのない話だろう。

今は、人様に紹介できるトラックレコードをいかに作るか、それに注力したい。

2010年7月19日月曜日

アンチ産業構造ビジョン

6月に出された「産業構造ビジョン2010」の中で、韓国との比較をした上で、一社あたりの国内市場が少ない事を指摘している。最近、よく聞かれる議論だと思う。

この議論の帰結は、多すぎる企業もしくは事業領域は積極的に合併や統廃合、要は整理する必要がある、ということだ。

数字のお遊びとしてはYesと言えるが、一方で実際的な効用としてはNoとも言えるのではないか、と感じている。

つまり、日本企業が創り出す製品、サービスに何を求めるかが、大きな判断基準になると思うのだが、企業なり事業を整理した場合に、そこから生み出される商品なりサービスは、国際競争力を持ち得るのか、という疑問がある。

韓国を範として、国内市場を一社もしくは少数の企業で寡占化することは、国内競争をグローバル競争に置き換えるだけで、結局はより厳しい競争環境に身を置くことになるだけなんじゃないか、と思う。

従来の日本国内の競争は、一見消耗戦なんだが、他国に類を見ない品質向上、オリジナリティの追求につながる土壌ともなっていることを忘れてはならない。

飲料品、お菓子から家電や携帯電話などを見ても分かるように、ガラパゴスと言われる一方で、日本国民は非常に大きな選択の自由を得ている。しかも、世界的にトップの技術が、比較的安価で選り取りみどりな訳だ。

つまり、過当競争が差別化や顧客満足につながる商品開発や企業努力を促していると言える。企業や事業の統廃合は、我々からこういった選択の自由を奪うことになる。

そして、企業にしても、これからの競争相手は韓国、台湾、中国のローコスト商品だ。それこそ企業体力は再起不能なまでに削ぎ落とされ、労働市場、雇用環境はボロボロになることが予想される。

ローコスト商品は他国に委ねて、高機能、高収益商品に特化すればいいじゃないか、という意見もあると思う。が、国内市場での消費者の厳しい目をくぐり抜けるというプロセスを経なくなった商品が、どこまでグローバルな消費者の支持を集められるかは疑問だ。

私たち日本国民は、高レベルで多様な選択肢を経済発展の、ある意味副産物として自然に得てきた。その過当とも言える国内市場の洗練を受けた商品が、グローバル市場の厳しい評価をものともせず、躍進してきた事実を考えると、行政がするべき事は、企業もしくは事業の統廃合ではないだろう。

国内競争とそれに伴う商品開発が維持できるよう税制などで支援する事、グローバル市場の中に漕ぎ出すための手助けをする事、著作権なども含めた知的財産をしっかり守る仕組み、体制を作る事。

そういった事が、企業もしくは事業の整理を促すといったお節介な施策よりも強く求められている。

2010年7月16日金曜日

ブレーン・ハッカー

なかなか面白い本だった。「ブレーン・ハッカー -巨人の「肩」に乗れ!-」

自分の考えに近く、全く違和感がないので、ある意味、新鮮味も少なかった。が、考え方が整理されているので、自分の頭の整理にも使えて、有用だった。

この本で言いたいのは、「本当の意味でオリジナルなアイディアなどない。独創性とは、他の概念の上に構築されるものだ」という事。だから、他の概念からうまく流用、転用、援用するやり方を提案します、というスタイル。

自分もオリジナルなアイディアなんて、世の中には無いと思っている。あったとしても、他の人には理解できないから、日の目を見る事はないと思う。多くの理解者が必要な「ビジネス」という領域ならなおさらで、元となるアイディアをメタファーとして、使い回して行く事が大事になるだろう。

その意味で、本書で示される6つのステップは分かりやすいし、思考のレールとして有用だと思う。

曖昧にしがちで、でも曖昧にすると決して解が得られない第1ステップ「定義する」がもっとも大事だろう。

解決しようとしている問題は何なのか?範囲が広すぎるとボンヤリして解に辿り着かないし、狭すぎるとただのToDoになってしまう。適切な大きさの問題を定義する事が大切だ。

突如として話は飛ぶのだが、以前に読んだ任天堂岩田社長、糸井重里、梅田望夫の3者対談でも同じ事を言っていた事を思い出した。確か、エンジニアは皆、目の前にある問題を解決したがっている。それは本能のようなもので、解決せずにはいられない。ただそれが、適切な大きさの問題でないとダメで、適切に切り分ける能力こそが大事、みたいな話だったと思う。

本に戻ると、次は「借りる」というステップになる。同じような問題を抱えて、しかも解決している業界や商品やサービスを、想像力を最大限に使って広く探してくる、という事。そして、それらをメタファーとして認知し、組み合わせる。ここで、認知レベルをあげる事も一つのコツだろう。

で、しばらく寝かせる。。。
複数の業務を同時進行していれば、自然と寝かせる期間を作る事になるので、できればいろんな事に首を突っ込んで、思考を入れ替えながら進めるのが、良さそうだ。

しばらく頭を冷やした後で、冷静にプラスとマイナスを考える。ここでは極端に判断する必要があって、中間的で中庸な意見は必要ないだろう。冷静な、そして要素分解的な分析の上で、直感的で総合的な判断を行う。

そして、これらを繰り返す。

オリジナルなんて無いんだよ、模倣が大切だよ、としつこく迫るので、人によっては、やや素直に受け入れ難いような部分もあるかもしれないが、総じて真っ当で普遍的な考え方だと思う。

あと、洋書の翻訳本によくありがちだが、言い替え、繰り返しがすごく多い。多面的な理解を深めるには良いが、ややかったるい。

まあ、それを差し引いても良書だと思う。

2010年7月14日水曜日

チームの温度を下げない

plan do seeの社員心得の一つに「チームの温度を下げない」というものがあるらしい。(日経ビジネス2010.6.28 p29)

その行動規範というか作法は、「仕事場のドアを開ける前に自分のテンションを一度上げること」「常に仲間をモチベートすること」「どんな会話も否定から入らないこと」といった事のようだ。

最近、一橋大 野中名誉教授の講演を聞いた。前半はSECIモデルを使って、知の結合による新たな知の創造のような話をされていた。最近は特に実践知というのを重視しているらしく、その高め方としてホンダが提唱しているワイガヤの効用について熱を入れて説明していた。

マネジメントを論理的に体系化する手法はこれまで様々作られてきたが、結局最後は人のつながりがカギになる、というのは興味深い。

多くの日本企業はバブル崩壊と相前後して、論理的なマネジメントを志向する傾向を持ち、人のつながりを排除する施策を取り続けている。その多くが今、存亡の危機にあると言える。

福利厚生の縮小は従業員からウェットな関係・意識を捨てさせ、会社への帰属意識を薄れさせた。成果主義は個人プレーを助長し、チームワークという言葉を有名無実にした。四半期評価は短期での実績にフォーカスする事で、長期的な視点を失った。

そして今、高名な経営学者も昔に帰ろうと言っている。昔の日本企業が持っていた労使一体化したウェットな関係が、マネジメントにおいても、イノベーションにおいても重要である、と。

plan do seeの行動規範のように、チームの温度を下げないために、個々人ができる事をもう一度見つめ直して、個人と個人、個人と会社の関係を仕切り直せば、会社は良いようにしか変わらないだろう。

ただ、既に舵を切ったタンカーのように重鈍な大企業にそれを求めるのは無理がある。なぜなら日本の多くの企業は、変化する事をDNAとしてビルトインされてないので、自らが自律的に変化していく事ができないからだ。変われるのは、前任者を否定できるタイミングで、トップダウンでドラスティックにというのが、歴史の教訓だろう。

2010年7月12日月曜日

200

なんやかんやで、200エントリー目。1年と3ヶ月で達成。

相も変わらず、毎週月水金と更新を続けている。始めた頃と違うと言えば、手持ちのストックが少なくなったことか。元々、始める時にネタの枯渇を懸念して、事前にネタのネタを溜め込んでからスタートした。今ではネタとして古いものもあるし、単に一言キーワードのようなもので文章として膨らませられないものもある。

最近は、割と直近で感じたことをそのまま上げているパターンが多い。本業、通勤、時事、そしてKozchiに関する事がメインの4本柱かな。今後はKozchiを多めにして行きたいが、どうなることやら。

これからもよろしくお願いします。

2010年7月9日金曜日

5-why@kozchi

トヨタ式として挙げられる問題解決手法に5-whyというものがある。正式名称は知らないが、5回「なぜ」を追及すると、根本原因に辿り着ける、というものだ。

こう言った手法は、本を読めばいくらでも出てくるが、実は実践はすごく難しい。SWOTやブルーオーシャン戦略マップも、実際に使ってみようとすると、すぐに挫折することになる。

その理由は、対象物への理解や定義が足りないからだと思う。本に書かれている内容を読むと、ボンヤリした対象物の輪郭をクッキリさせることができるように感じるが、この対象物のボンヤリさが問題だ。

全く外形も見えていないものをSWOTにかけても、何も出てこない。ブルーオーシャンにしても、その対象物の構成要素が明確でないと、削る、減らす、増やす、付け加えるの各行為が意味を持たなくなってしまう。

これまでKozchiを題材にいくつかトライしてきたが、今回は5-whyを実践してみた。お題は、「Kozchiは何を問題と捉え、どのように解決しようとしているか? 」である。以下のようにざっくりまとめてみた。

自分の頭を整理する分には有用で、次にするべきタスクや検討課題が明確になって良いと思う。ただし、一人で「なぜ?なぜ?」とやっても、なかなか発想の飛躍は得られない事が分かった。当たり前か。

(問題)
 ・初めての場所で適切なお店を見つけられない
 ・なじみの場所でフレッシュな情報を得られない
(解決の方向性)
 ・どんな場所でも自分の望む店を素早く、簡単に見つけだせる
(解決策)
 ・お店を繋いで、情報のパスを作り、目の前の人を誘導する
  ・Connecting the Shops/Customers
(具体策)
■ 簡単、便利なサービスになる(機能を絞る)
  ・PC/WWWを使わない
  ・目の前のお客さんに向けたサービスとして提供する
 ■ ニーズをしっかり把握する
  ・物販店でも使えるサービスにする
  ・街歩き用サービスとして確立する
 ■ 面倒な仕組みがない
  ・メンテナンスは最小限にする
  ・登録情報は最小限にする
  ・分かりやすい使い方を提示する
 ■ 利用者/シーンを明確にする
  ・利用シーンを絞る
  ・利用者を明確にイメージする
 ■ 営業は最小限にする
  ・営業せずにすむスタイルを目指す
 ■ 費用対効果を明確にする
  ・費用も効果も透明化する
  ・最安価格を目指す
  ・反応率を捕足する

以上

2010年7月7日水曜日

たまプラーザ3商店街で、Kozchi導入内定!

9月から、横浜市青葉区の東急田園都市線たまプラーザ駅前にある3つの商店街で、Kozchiを導入することが内定しました。

たまプラーザは東急田園都市線を象徴する駅で、80年代にはドラマの舞台にもなり、全国的にも有名な住宅街です。最近では近隣駅も含めた宅地開発が進み、居住者層がやや若くなったのを受けて、駅前というか駅上の開発による活性化を図っています。

その駅前には3つの商店街が共存しています。あくまでも推測ですが、商店街加盟店舗はおおよそ250店舗、非加盟店舗も含めると500店舗超の一大集積地となっています。

一般に、集客力の高い駅前/駅上/駅中が発達すると、その周りにある商店は売上が落ちる傾向にあると思います。そのような中にKozchiを導入することで、駅と周辺商店街の連携が密になり、お互いに足りない機能を補い合うことができるようになると考えられます。

例えばラーメンなら、たまプラーザ駅を出てすぐにある一風堂が目につきますので、集客という意味では圧倒的に有利です。しかし強すぎるがゆえに、違うラーメンを食べたい時の選択肢が見つけづらい、という側面もあります。Kozchiを使えば、そんなお客さんのニーズに沿った、お店の選び方ができるのです。

そんなKozchiの第一歩を、たまプラーザから始められることは非常に光栄であると考えています。ここから一段々々、階段を上るように普及させて行ければ良いな、と思います。

ぜひウチでも使ってみたいという商店街やお店があれば、お気軽にお声掛け下さい。いつでもご説明に上がりますので、よろしくお願いします。

Connecting the Shops/Customers
http://www.kozchi.jp/

2010年7月5日月曜日

サービスのスピード

日本の銀行はサービスのスピードがすごく遅いと思う。海外の銀行を使ったことがないので、本当のところは分からないが。

最近、様々な用件で銀行に行くことある。大体の場合は、2時間位は見ておかないとヒドい目に会う。携帯ショップも同じだが、サービスの内容とリソースの関係が極めてアンバランスで、かつ、見直しが掛かってない気がする。

それにしてもスローすぎる。普通に考えれば、1時間で済む作業には1週間、1日で済む作業には1ヵ月掛かる。とても、国際競争力があるとは思えない。

そのうち誰にも相手にされなくなるんじゃないかと思う反面、これは時間と金のある高齢者を前提にしたサービスなのか、とも感じる。今後、高齢者比率が高まってくると、これぐらいスローなサービスでないと、消費のマジョリティに到達できないのかも、なんて思ったり。

スローでも高コストでも高品質であれば許された時代はとっくの昔に終わり、今は十分な品質をより早くより安く提供しなければいけないはずだ。

でも、日本企業の凝り固まったビジネスに対する意識は、まだまだ変わりそうにない。そしてプアなサービスに必要以上の時間・コストを投入して、日常に汲々としながら人生が終わる。

この負のループから抜け出す策を皆で考えないと、日本はただ「生きる」事のみを目的化した国になってしまう。いや、それすら怪しい。明治維新が西洋文明を参考にしたように、海外の文化・思想に活路を見出すしかないんじゃないかな。

2010年7月2日金曜日

成果と期待

成果が出ているときだけ期待するのは間違っている。成果が出ていない時こそ、信じて、勇気付けてあげなければ。成果を出すのに、ショートスパンで見てはダメだ。ロングレンジで、期間を区切ってジッと見守る、そんな姿勢も大事だろう。

岡田ジャパンを見て、そんな事を思ったが、このスタンスは正しいのだろうか?

W杯直前の試合では、周りにポジティブな印象を与えるパフォーマンスは見られなかった。それ以前の試合でも、際立って将来を期待させる結果を作り出せてきてはいない。

そのような中でもグッと堪え、成果とすべきタイミングでのパフォーマンスを期待する、と言うのが周りにいる人の持つべきメンタリティなんだろうか?

それはすなわち、W杯で考えると、4年間を丸ごと預け、最終結果だけでそのプロセスの全てを評価する、と言う事になる。代表監督は基本的に勝っても負けても、目標とする大会が終了すれば退任する。評価はボーナスと名声ぐらいだろう。

これだと、監督選出が決定的に大事になるので、誘致合戦で契約金の高騰だけを生むことになり、うまくない。

だとしたら、一つひとつの結果に一喜一憂するべきなんだろうか?

これも、毎度々々W杯決勝トーナメントのような環境だと、新しいチャレンジはできないし、戦術としては守備的になる一方だろうから、得策とは言えない。

では、どうしたら良いか?

やはり、対象期間を幾つかに分割して、その時点までの目標と成果の比較をする、いわゆるMBOしかないかも知れない。ゴールと、そこに至るまでの個別目標/プロセスを可視化して、評価する事になる。

にしても、外から見て個別の目標やプロセスが理解できる訳もないので、結局、外野は一喜一憂せざるを得ないんだな~。

要は、内部でゴールや期間ごとの個別目標/プロセスなどがシッカリ共有されていて、外野の騒音に負けない事が大事だ。