2011年1月31日月曜日

アジアカップ優勝!

サッカー日本代表がアジアカップを制した。

今大会は、やる気の無かったサウジアラビアを除き、楽な試合は一つもなく、むしろ苦しい展開が多かった。先行されたり、退場者を出して10人になったり。今までの日本代表だとおよそ勝てる感じがしない展開だが、今回は違う。

全てを乗り越えて決勝に到達し、完全にオーストラリアのペースだった120分間をしのぎ、少ないチャンスをものにして得点した。高さのあるオーストラリアに対して、岩政を投入し、長友を前めにもってきたことは、今後も使えるオプションなんじゃないだろうか。

南アW杯に続き、収穫の多いカタールアジア杯だった。今までの様々なトラウマを乗り越えた価値ある優勝だと思う。1994年アメリカW杯アジア最終予選のドーハの悲劇、2006年ドイツW杯オーストラリア戦の屈辱、2010年南アW杯パラグアイ戦のPK負け、負け越しているライバル韓国との対戦。

しかし、タレントが多く、層が厚くなったもんだ。皆が複数のポジションをこなせるから、試合中のポジション交換の頻繁で、キューウェル、ケーヒル頼みのオーストラリアとは、全く違った。フィニッシュをシュートで終わらせられない慎重になりすぎる癖はまだまだ健在だが、今回の優勝を自信に、さらに攻撃的に、さらに躍動感のあるサッカーになっていくことを望んでいる。

これで、次回アジア杯2015は予選免除されるし、コンフェデレーションズ杯2013にも参加できる。その前にコパ・アメリカ2011もある。2012年にはアジア最終予選が待っている。

ザックジャパンは未だ無敗。

遠藤がどこまで頑張れるかが一つの鍵になるかも知れないが、今回のチームはかなり期待できる。またサッカーが盛り上がってきた。今まで積みあげてきた壁を乗り越え、新たな一歩へ。ガンバレ、ニッポン!!

2011年1月28日金曜日

ハッピーセット

マクドナルドのCMの話。一番最新のハッピーセットのおもちゃはスポンジ・ボブをフィーチャーしたものだ。

吸うとスポンジ・ボブがしゃべるストローだったり、置くとしゃべり出すコップだったりする。そのCMだが、少し疑問を感じる。

最近はマクドナルドも随分とイメージが良くなった。昔は肉の質を疑われたり、ムダに店舗を増やしたり、衛生的にかなり怪しい店舗だったりと、言ってみれば、安かろう悪かろうの典型企業だったように思う。

社長が替わってからは、ラインナップを整理したり、料金を分かりやすくしたり、新機軸を打ち出したりして、商品を明確化してきた。加えて、店舗を効率化して、キレイにして、減らす事で、運営をクリアにしてきた。相変わらずの油臭さはやむを得ないとして、決して安かろう悪かろうではない、高成長企業というようにイメージを高めてきたように思う。

そこで件のCMだが、良かったのだろうか?子供に優しいというイメージが壊れていくようにも思えるが。。。スポンジ・ボブを見た事が無い人には、あのCMの異様にハイな子供たちの意味が分からないと思う。

ハッピーセットのメインターゲットは、スポンジ・ボブを見た事のある子供とその親だとは思うが、マクドナルドのターゲットは、そこだけではないはずで、ハッピーセットのCMを目にする人もスポンジ・ボブを知っている人だけではないはずだ。

一か八かの勝負をかけるような企業ならば、インパクト狙いであのようなCMもあり得ると思うが、既に全国民が認知している外食企業であり、今更インパクトでお客さんを増やす必要の無い企業である以上、不必要に不安を煽るCMなんじゃないかと懸念する。

昔々、ユニクロがまだ大きくなかった頃、関西のおばちゃんが二人で、返品可能な事をアピールするベタベタのCMに良く似ている。インパクト勝負。

まあ、スポンジ・ボブをキャラクターとしてフィーチャーした以上、こういったスタンスのCMしか作れないのかも知れないが、企業イメージを損なう可能性があるのであれば、スポンジ・ボブを取り上げた事自体が間違っていたのではないか、とも思える。

子供たちに人気のキャラクターであっても無分別に採用しない方がいいのではないか、と感じているが、どうなんだろう。。。

2011年1月26日水曜日

街の再発見

「街の再発見」をコンセプトにしたサービス「マチカドサーチエンジン」は、簡単に言うと、どこでも使えるデジタルガイドマップに、ホットペッパー的な機能をつけたサービスになります。

大規模集客施設における最大の弱点は、利用者に対するナビゲーションが不十分である事だと思います。もちろん、案内板やインフォメーションなど、考え得る手を打たれているとは思いますが、実際の所「お店を見つける為にインフォメーションを探す」であったり「案内板で目的の場所と同時に自分のいる場所を探す」といった行動を利用者は取っています。

つまり、利用者は目的地はおろか自分の場所さえも素早く見つける事ができないでいる、ということです。この原因は、案内板上で記号化された場所表示であったり、固定設置された案内板やインフォメーションであったり、利用者の自己位置認識の難しさであったりします。

一方で、ガイドマップの必要性は現場検証から明らかであり、自己位置と目的地を探している利用者は相当割合存在します。つまり、自己位置や目的地を適切にガイドしてあげることで、施設内での回遊性が高まり、滞在時間が延びることが考えられます。結果、個々のお店の売り上げ向上に寄与することができ、施設としての価値向上にも役立つものと考えられます。

当然、利用者にとっても、自分がどこにいるかが迷う事無く分かり、自分の探しているお店や施設が簡単に見つけられるサービスが役に立つ事は間違いないでしょう。自分の周りにどのようなお店があるのか、自分が望むカテゴリーのお店は近くにあるのかなどの情報が、メールで取り寄せられるマチカドサーチエンジンは、今までに無い次世代のナビゲーションシステムと言えます。

https://files.me.com/okazawa/lsebds

マチカドサーチエンジンは、お店や施設にステッカーを貼って、情報登録するだけで準備完了です。電源、ネット回線、GPSなど一切不要ですので、屋内/屋外、店内/店頭などサービスを設置する場所を問いませんし、運用も極めて簡単です。また、利用者にしてみても、携帯電話のメールしか使いませんので、老若男女問わず誰でも使えることも大きな利点となります。

商店街を含む大規模集客施設の更なる利便性向上とお客さまの滞在時間向上に向けて、ご活用頂ければ幸いです。

2011年1月24日月曜日

明るい未来

「Keep Crazy;shi3zの日記」で「#givemac 全国の小中学生、高校生の諸君!欲しいという人に一番安いMacBookAirを一台あげます」という企画が行われ、結果が先日「#givemac 全国の小中高生の中から、この方にMacBookAirを進呈します」という形公開された。

最近流行の伊達直人に乗って、shi3zさんなりの慈善活動として小中高生に向けて発信された企画。小論文を自分の好きな形式で作成し、自由な形で応募するというもの。テーマは以下の6題から選択で、いずれもコンピューティングの未来と不可分な深遠なテーマ。

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A・2030年に人類の生活はどう変わっているか
B・コンピュータが社会の幸福に貢献できるとすればどのようにしてそうなのか
C・コンピュータのまだ誰もやってないアッと驚く活用方法
D・正義とはなにか?
E・人類の幸福とはなにか?
F・あなたはコンピュータをどのように活用していきたいのか
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優勝者は自分の想いを自作のプログラムによって暗号化した論文を提出していた。その発想力に驚いた。

自分の想いを小論文で提出せよという制限の中で、文章力以外で自分の技術力や熱意を伝えるのって難しいと思う。しかし、文章力だけの勝負かと言えばそうではなくて、あくまでもコンピューティングの未来に対する想いが重要になる。それを上手く盛り込み、さらに、ある種のサプライズを込めようという遊び心が素晴らしいと感じた。

また、他の受賞者もそれぞれに、その人なりの考えをその人なりの提出方法で応募しており、それぞれに非常に良く書けており、考えさせられるものがあった。

何より驚くのは、15〜6歳の彼らが書く、論文の完成度だ。少なくとも自分がその時代に、このような文章を書けた記憶は無い。もっと稚拙で日和見で妥協的で情けない文章しか書けなかっただろう。

彼らのような、積極的で主体的で、かつ才能にあふれた若者がいるのなら、日本の未来は明るいだろう。大人の役目は、彼らの邪魔をしないことだと思う。

2011年1月21日金曜日

ステッカーの効果

マチカドサーチエンジンは、ステッカーを使ったサービスだ。たぶん、ステッカーをビジネスのメインアイテムに据えているのは、セコム以来じゃないかと思う。


テレビ広告やかなり前のWeb広告は、認知力だけが広告の力だった。今、広告は認知させるだけではダメで、購買行動など企業が求める行動を消費者がおこさせるまでが役割になっている。消費行動理論のAIDMAで言うと、以前はせいぜいA(ttention)からI(nterest)ぐらいまでだったが、現在のWeb広告は最後のA(ction)までを求められている。最近はAISASなんていう言葉もあるので、S(hare)まで面倒を見る必要があるのかもしれない。

デジタル情報はトラッキングが可能なので、ActionやShareまでの厳密な広告効果が求められるが、テレビに代表されるアナログ情報は相変わらずAttentionからInterestまで、欲張って言えばDesireまでしか相手にできない。

マチカドサーチエンジンはWebサービスだが、そのアプローチは極めてアナログ的だ。

Web上で認知されようが、街角で認知されなければ意味が無いサービスなので、あえてステッカーを使ったアナログ認知方法を取っている。うまく浸透すれば、他のどんなサービスよりも、施設(お店)の近くにいる、もっともお客さんになる確率の高い人にアプローチできるハズなのだが、そこまでの道のりが長い。。。

いつもマチカドサーチエンジンの未来を夢想している。

日本中のあらゆる街角に、施設に、お店にステッカーが貼られており、皆がそれが何であるかを理解している。初めての場所も通いなれた道も変わらず、自分の周りに何があるのかが分かる。街に訪れた人は、自分が行きたい所、買いたいものを簡単に見つけられ、一方で偶然の出会いを楽しむ事ができるようになる。

街は、それ自体がWeb化し、お店は互いに影響し合う。お客さんに対して適切な情報を提供しつづけることで、その場所に対するロイヤルティが醸成される。街は真の意味で有機的な生命体のようになり、共存共栄のコミュニティとなる。

利益は最大化され、また、適切に配分される。小さなお店でも生き残れるようになり、大きなお店も集客に貢献する事で地域での存在意義が高まる。

旧来の商店街といった枠組は、マチカドサーチエンジンの中では関係なく、シームレスに日本中が大きなコミュニティとして、お店や人を包み込んで、全ての主体がその主体なりの最大級の幸せを享受する事ができる。

マチカドサーチエンジンが創り出す未来はそんな感じで、全ての人にやさしく、全てのお店にやさしく、大きなコミュニティとして理想的な相互依存の形が実現できると信じている。

そんな未来への第一歩は、施設やお店や利用者への認知を進める事だ。
前途多難ではあるけれど、やるしかない!

2011年1月19日水曜日

GPSに頼らない意味

マチカドサーチエンジンは自己位置認識にGPSを使わない。

一つにはGPSの精度がイマイチで不確実であるからだ。数年前までは、GPSというのは軍事色が強く、意図的に精度を下げていた。その精度は誤差100mほどはあったと思う。GPSを活用したシステムとしてカーナビが代表的だ。カーナビは非常に高精度に自己位置をトレースするのだが、GPS精度が低い時代には加速度センサー、ジャイロ、マップマッチングといった様々な技術を複合する事で精度を確保していた。

最近では、米国が規制を緩め、おおよそ誤差10m程度にはなっているはずだ。また先日、日本もGPS衛星を準天頂軌道上に打ち上げ、更に数年に渡って複数機打ち上げる事で、精度を1mにまで向上させる計画だ。

技術革新とともに向上するGPSの性能だが、どうしようもない課題もある。一つは屋内、特に地下はエリア外になることだ。最近の携帯電話は、基地局の位置からおおまかな場所を捉える事ができるようになっているが、折角の1mの精度は屋内では役に立たない。あと、余り知られていないが、大気の状態によっても誤差が生じる。GPSの誤差を利用して天気予報に役立てる研究があるぐらいだ。

また、GPSを活用したシステムは、アプリへの負荷が大きい。動きが緩慢になったり、一度捉え損なった場所で執拗に検索をかけたりして、意外にうまく動かない事もある。iPhoneやAndroidといったスマートフォンは、まだまだ電池が弱く、電池を長持ちさせるTipsに位置情報サービスをオフにする、というものもあったりして、携帯電話の本質的な機能とのトレードオフになってたりするのもイタい。

マチカドサーチエンジンでは、各施設(お店)にユニークなメールアドレスを割り振り、その属性情報として緯度経度を持っている。つまり、メールが位置を知らせてくれる。もちろん、正確な自己位置ではない。正しくは、ある施設(お店)の位置を示しているに過ぎない。ただ、このシステムの利点は、上記のGPSの弱点の裏返しだ。

・メールしか使わないので、老若男女の別なく、誰でも使える。
・メールしか使わないので、屋内/屋外に関係なく、どこでも使える。
・天候や大気の状況に左右されない。
・必要以上に電池を使わない。
・携帯電話の本質機能(メール)を使っているので、使われなくなることがない。
などなど

大変なのは、各施設(お店)に割り振ったメールアドレスを、利用者に認知してもらう事。そんな訳で、たぶん類似サービスとは競合しない。施設(お店)の情報へのアプローチが違うし、サービスを成立させるための力点が違う。

まあ、そんなこんなでマチカドサーチエンジンにGPSは不要です。(今のところ)

2011年1月17日月曜日

特異点としてのゼネコン

ゼネコンっていうのは、考えれば考えるほど不思議な業態だ。自分たちは全てを作っているような顔をしながら、作っているものと言えばアウトラインとリレーションだけだ。実は、建物って言うのは、それだけでできている。

アウトラインというのは、建物の詳細な概要と言ったら良いだろうか。詳細な、という部分が大事だ。国や施主からもらう仕様がある。土地の大きさや形、その土地の属性、建物の想定用途、建物高さや広さ・容積、各種法律・条例、もしかしたら建物の色や材質などが規定されることもあるかもしれない。それらをまとめて、工事できる形にまとめる。整合をとる。詳細化する。基本的な建物としての成立性について確証をとる。

その後は、リレーションが中心になる。人・モノ・金を情報でつなぎ、リレーションを充実させる。あたかも脳内のシナプスのように新しいリレーションを生み出したり、強く太いリレーションになったりする。でも、ここで取り交わされる情報で建物ができるわけでもない。上記の詳細でありながら幅を持った概要をもとに、協力業者がさらなる詳細を詰める。これは、本当に人やモノが動かせるレベルの詳細になる。

そんなやり取りを繰り返しながら、情報上では段々と建物は形になって行く。

さらにこの情報上の建物を実質的なものにする作業が入る。これが工事だ。工事では、既に役割も人もモノを割り付けられた多くの協力業者が、輻輳する形で入っている。ここでもゼネコンは、絡んだ糸を解きほぐすことが役割だ。協力業者は当然、自分の担当領域しか知らない。実際に人やモノを動かす主体は、全体像を知らないのだ。だから、全体像を唯一知る存在としてのゼネコンが意味を為す。

建物の全体像を俯瞰しながら、優先順位をつけ、作業がし易いように環境を整備する。いわゆる工程管理と仮設工事だ。ここだけが、ゼネコンの役割になる。よく考えてみるとテレビ番組で言う「消え物」だ。建物として残るものは何も無い。それでも、建物を造る主体はゼネコンだ。

では、ゼネコンが扱っているモノは何だろう?

情報だ。建物を造る上で必要な与条件の塊や、リソース群をまとめて、工事に必要な情報として再構築して、関係者に提示し、調整する。そう言う事をしているのがゼネコンだと言える。

では、ゼネコンが会社として拠り所にしている価値観は何だろう?

モノづくりだ。我々はモノづくりの会社である。社会のインフラを築き、構造物を通して社会に貢献することを使命としたモノづくりの会社である。そんな風に語るゼネコンマンが多い。

ここにギャップはないだろうか?
情報を再構築して調整する会社とモノづくりの会社って、あまり一致している感じがしないのは自分だけだろうか。僕たちは自分を見失っていると思っているのは、僕だけだろうか?実はこのギャップが、ゼネコンが特殊である事の一因だと思う。そして海外進出が難しい事にもつながっているように感じる。

グローバル競争に挑めるほど、地盤が整っていないのだ。海外の建設会社はいわゆるコンストラクター、建物を建てる事を請け負う会社だが、日本のゼネコンはゼネラル・コントラクター、全てを請け負う会社だ。海外の人が受ける建設会社のイメージと日本の建設会社は全く違う。そして、ゼネコンは何でも請け負う事を標榜しておきながら、建物を建てるモノづくり企業として立脚している。

つまり海外市場では、自分自身を正しく評価できていないので、正しい競争フィールドに立てない。ある意味ではブルーオーシャンだが、信頼が大事な請負業においては中々大変なポジションだと思う。いずれにせよ正しい自己評価に基づく競争フィールドを作り出すか、既存の競争フィールドに適応するような自己認識を持つしか無いだろう。

多くのゼネコンの前身である大工は、まさにモノづくりをする業種だったので、自己評価と競争フィールドが一致していた。現代のゼネコンの特殊性は、自分の捉え方を大工の時代から変えてこなかったことにある。

ゼネコンがゼネコン自身の定義を変えるだけで、見える世界が変化し、閉塞感溢れる業界に光が射すかも知れない。そんな、未成熟ゆえの希望を持つ事もできるが、実態は難しいかな。。。

2011年1月14日金曜日

アイドリング・ストップ

最近の自動車エンジン機関のパラダイムチェンジは示唆に富んでいると思う。

少し前までは、誰もがEVを叫んでいたし、その過渡期としてのハイブリッドを賞賛していた。その証拠に、プリウスの国内販売台数がカローラを抜き歴代一位になったそうだ。大衆車の権化とも言えるカローラを抜くってスゴい。

確かに、最近プリウスを見かける数は半端じゃない。個人的には嫌気が差していて、よくあんな車買うな、という感想を持っているが、単に自分のエコ意識が低いだけとも言える。先日も往復5kmほどの道のりを、1プリ、2プリと数えながら走って駐車場に入れる、その間だけで15台ほども見かけ、さすがに多すぎるだろうと感じていた。

プリウスはCO2至上主義で、自らの存在が地球環境に及ぼす影響を最小化することを命題にしている。そのために、より多くの資源を使っているが、それもこれもCO2排出量換算した数字だけが評価軸だ。

自分は以前から、環境とCO2をリンクさせて語るのに違和感を感じている。温暖化の理由はCO2ではないかもしれないし、CO2であったとしても、それを唯一絶対の価値にするのは間違っていると思っている。

世論や研究がどのように進んだとしても正しいのは、資源をなるべく使わないことだろう。資源を未来の人達が使えるように、使い切ってしまわない努力が必要だ。

そういった面で、プリウスやEVには非常に疑問を持っている。少なくとも電池という希少な資源を、通常のクルマに比べて余分に使っていることは明らかだからだ。

もちろんCO2って言うのは、多くの場合、建前でしかなくて、燃費が良くてランニングコストが安いのが、消費者にとっての本音の価値になると思う。そう考えると必ずしもハイブリッドでなくても良い、という結論もある。

フォルクスワーゲンなんて良い例だろう。小さなエンジンと出力を補う過給器、さらに効率の良いミッションを合わせることで、高効率機関を実現している。さらにアイドリング・ストップを加えることで、ハイブリッド並の燃費を実現している。

少ない資源で使えるように、効率を上げて行く。

決して、電池で見かけの化石燃料を減らすことを目的とせず、車らしさを残しながら、資源効率を高めて行く。つまり、資源効率の良い小さなエンジンを使って、どうやって消費者に満足してもらえる車を作れるか、これは正しい道だと思う。

この事で分かるのは、目の前の課題に対して、本質を削り出すことはパラダイムシフトを生む、という事実だろう。

どのように本質を見い出し、本質以外を勇気を持って削って行くかは、今後、商品やサービスの開発において、最も重要な価値となるだろう。

2011年1月12日水曜日

南禅寺水路閣

年が明けてすぐに、京都に行った。いわゆる家族旅行なのだが、なぜか最近は至近の京都に行く事が多い。

関西の北部は凄い雪で、よく行く湖北部は10年来どころか、80歳にもなる方が初めての豪雪と言うぐらいの、積雪量だったようだ。その煽りを受けて京都もかなり降ったとのこと。

待ち合わせの時間まで少し余裕があったので、久しぶりに南禅寺に行ってみた。



元来、寺社仏閣にさほど興味がなかったので、地元とは言え、あまり詳しくなかった。ある時、仕事で歴史的建造物を調べる機会があり、色々見ているうちに詳しくなっていったという感じ。

建設産業は歴史とともにあることが、歴史を勉強すると良く分かる。特にゼネコンは、歴史を蔑ろにすると何も残らない。なにせ、技術では差がつかない世界だから。

そんなこんなで、水路閣には思い入れがある。


明治時代、大きな河川が少なかった京都市内に水を運ぼうと計画されたのが、琵琶湖疎水。若干21歳、大学を出たての田辺朔郎に設計を任せた大工事だった。色んな初めてのある工事で、莫大なカネもかかり工事中はクレイジーだが、終わってみれば偉業である。

初めての発電、初めての浄水場、初めての電車、近代化の全てはここから始まった。

建築的にも初めての鉄筋コンクリート橋が、疎水の上にかけられた。まだ、海外から技術が伝わってきた初期の頃なので、あくまでも実験的に施工された。実験なので、欄干等もなくシンプルなアーチ状の板を置いた感じ。今でも地元の人に使われているらしい。

琵琶湖から東山を通って市内に抜けるルートの中で、有名な場所と言えば哲学の道と水路閣だろう。哲学の道は銀閣寺から京都大学の辺りに流れる疎水の傍に整備された小径だ。そして水路閣は、古刹南禅寺の境内に設置された煉瓦造の水路橋である。

100年前、まだ江戸の雰囲気と明治維新の爪痕が残っており、木造の家屋と寺社仏閣しかなかった京都に、この煉瓦造の構造物はスゴい違和感だっただろう。今で言うと、新宿のコクーンタワー的な違和感なのかも知れない。

南禅寺境内という特殊な私有地のお陰で、歴史と最新技術や最新の生活スタイルが共存でき、違和感を多分に含んだ水路閣も京都を代表する景観の一つになった。久しぶりに行ってみても、当然ながら変わらぬ佇まいで、その美しい連層のアーチが迎えてくれる。

日本は古いモノは新しいモノに入れ替わっていく事が正しいという価値観を持っているように思う。建物のスクラップ・アンド・ビルドのペースは酷く、事務所で25年、住宅で35年ぐらいが平均寿命じゃないだろうか。お陰で、日本の歴史ある風景は、こういった特殊な私有地でしか育まれてこなかった。だから、皆が持っていると勘違いしている原風景は、寺社仏閣に絡んだものばかりだろう。東京でもかつての武家屋敷の庭園は、大使館等の「特殊な私有地」に残っているものが多いと聞く。

よく、日本には歴史がある、1000年を越えるような歴史的建造物が残っている素晴らしい国だという言説がある。私はそうは思わない。なぜなら、残っている歴史的建造物は全て寺社仏閣に関係する「特殊な私有地」が保管しているものばかりだからだ。

なぜ、私たちは古いモノをありのままに受け入れ、古いモノの価値を見いだし、そこに現代的な価値をアドオンするような思考を持てないのだろうか?全てを壊す事でしか新しい価値を作れないのだろうか?

日本では、風景や歴史は個人で完結してしまい、そこに連続性や関連性を見い出せないので残す価値の無いものなのかも知れない。特殊な私有地にあるモノ以外の、消え行く古いモノの価値の多くは外国人によって見いだされ、外圧によって維持されて行く。日本人が自分たちの価値観として残して行きたいモノってなんだろう?

全てが消え行くものと考える価値観を持つ国が見つめる未来は、どんな未来なんだろう?そんなことを、南禅寺水路閣で考えていた。

2011年1月10日月曜日

ガラパゴスに見る日本企業の限界

シャープのガラパゴスを触る機会があった。ガラパゴスって3種類あって、スマートフォン版はSoftbankから、電子書籍端末版である残りの2種類はパソコン売り場で販売していた。

それぞれに触ってみたが、日本企業のセンス(商品を評価する目)の劣化が、いよいよ限界点を越えつつあることが分かった。

電子書籍端末版を触った。たぶんメインコンテンツなんだろう、雑誌などのいわゆる電子書籍が並んだ棚が出てきた。雑誌という面では結構充実しているけど、こんな多様な雑誌を読みたい人も、そんなに暇のある人も多くないんじゃないかと思う。それ以前に、これらはデモ用だろうことを考えると、初期状態としてのメインコンテンツにはほとんどコンテンツがない、という状態になるんだろう。

その状態でホームボタンを押しても、何も変わらない。つまり、これがホーム画面なのかな?画面をスワイプすると棚が回転して、別の棚が現れる。この回転もぎこちない。iPhone/iPadのインターフェイスを見慣れた身からすると、情けなくて涙がでる。

何だか直感的でないUIをいじるとゲーム画面があったので、少し遊んでみた。

情けない。。。。

もう、人を小バカにしているとしか思えないゲームが並んでいる。やったことはないが携帯ゲーム的なやつだ。あれは、携帯電話の小さな画面でやるから許せるのであって、10.8型に耐えるようなコンテンツでもなければ、インターフェイスでもない。

ブラウザは遅い。。。。

何なんだこれは。何がしたいんだ。シャープは社運を掛けて、これを作ったんじゃないのか、と憤りながら、改めて筐体を眺め回した。

チープすぎる。。。。

iPadに慣れた消費者は、間違いなくiPad以上の作りの良さを求めるだろう。iPadのミニマルデザインもそうだが、アルミの削り出しによる剛性感や製作精度の高さを比較対象として見た時、ガラパゴスの高級感の無い樹脂背面とか作り込みの深さを感じないボタンやアウトレット周りの仕様が、あまりにも程度が低いんじゃないか、と感じる。

つまり、ハードもソフトもコンテンツも中途半端で練れておらず、詰めが甘く、使いやすさへの作り込みがされてなく、このカテゴリーでトップを取ろうという意気込みが見えない製品だと感じた。新しい体験や感動、徹底したこだわりなどを感じる事はない。

先日のエントリーでも書いたが、日本企業のセンスの劣化はどんどん進行している。

特に海外企業との熾烈な戦いが待っているITデバイス系はそうだ。ガラパゴスを見て、これで良しと判断したというのはそういうことだろう。

iPhoneが出たときは横向いてたクセに、いざスマートフォンが流行とみると、本質的な差別化ができていない商品を横並びで出して行く。その時にキーとなるのは商品としての本質を削りだす作業ではなく、日本ローカル仕様にいかに合わせるかという汎用性の無い作業だったりする。

ガラパゴスの失敗は、もう既定路線だろう。

同時に日本企業も、商品開発に対するセンスをどんどん劣化させて、結果として国内でしか売れない、まさにガラパゴス製品ばかりを作らざるを得なくなる。

そのままシュリンクして行くか、本質を削りだすセンスをもう一度磨き世界に発信して行くか、もうそんな厳しい二択しか残っていない。

2011年1月7日金曜日

グルーポンの功罪

少し時期を逸してしまったが、グルーポンおせち事件に触れない訳にはいかないだろう。

まず、自分の立ち位置として、企業が何らかのミスを犯す事は可能性として排除できないし、事後の反省と顧客への対応がしっかりしていれば、穏便に済ますべき事だと思う。

しかし、今回のグルーポンおせちは酷い。事後の対応も酷いと思う。やはり許せないと思うのが、事故や不注意ではなく、恣意的なある種の犯罪目的で行っている事だろう。

残飯のような写真にあるように内容量が、事前にアナウンスされている量より少ない事はよくある。通販ではある程度覚悟しなければいけないリスクの一つかもしれない。今回のように明らかに種類も量も盛りつけもおかしいのは珍しいかも知れないが、カニなんかを通販で買うと、思ったより少ない事はある意味普通だ。

普通といいながら、少し詐欺的な臭いは免れない。原価を下げて競争力を上げる中でのギリギリの作戦だが、こういった作戦が功を奏することはほとんどなく、消費者はガッカリし、そのお店からは二度と買い物をしなくなるので、従来販促や広告で目的とされるリピーターが増える事はない、焼き畑商法と言える。

一発勝負の焼き畑商法であったとしても、詐欺との誹りを免れるために表面は取り繕うもので、今回のように仕切りの数まで減らす事は、まあないだろうと思う。が、ここまでは焼き畑商法として、モラル以上の事は問えないとも思っている。

一番酷いのは、内容物が腐っているという、食品を扱う企業にはあり得ない事態だろう。よく食中毒とかが起きなかったものだとも思うが、それは見た目の貧粗さに助けられたのだろう。買ったものが腐ってるなんて、これはあり得ない。詐欺どころの話ではないだろう。ネットの記事を読んでいると、量も時間も間に合わない事が分かった時点で、お客さんに謝罪するのではなく、とにかく詰め込んで発送してしまおうとしたそうだ。

この判断は何なんだろう?明らかにクレームとなる質と量で発送する意味が分からない。

しかも、内容物や発送時期や発送方法を考えると腐るものが出てくる事は、そんなに想像力が必要な事じゃないと思う。そんなものを送りつけたら、これは犯罪だろう。軽いテロかも知れない。

こういう人が経営しているお店で出される食事は、かなりの確率で腐る一歩手前のものが含まれていると思う。床に落ちても、そのまま盛りつけるような気がする。

こういった、「まあ、いいじゃん。やっちゃおうよ。クレームが出たら、その時適当に対応すればいいんだもの」という発想の人は、少なくとも飲食業には向いてないだろう。

こういう発想だから、ダメだったら辞任する事で方をつけようとする。こういう人だから、また飲食業でリベンジしようとするだろう。これが怖い。こういう人がプロデュースする店には行きたくないが、客受けするツボを知ってるので、意外に繁盛店になったりするもんだ。

この行き場の無い不安感が、この事件が許せないという感情を引き起こしているように思う。

事件としては社長辞任潔し!で終わりかも知れない。お店としては閉店廃業でケリがついたのかも知れない。でも、この事件が残した拭い難い不安は、根本的なルールから逸脱した企業や経営者というのは、辞任や廃業で方がつくような軽いものではないことを物語っている。

そして、この事件の片棒を図らずも担いだのは、グルーポンという世界一注目を浴びる企業だ。

グルーポンの仕組みは、かなり管理をシステマチックに厳密に行わないと、不良品を呼び込む仕掛けだ。不人気店の起爆剤や今回のような詐欺的ビジネスが、一発勝負で使うには非常に効果的だろう。

グルーポンのような仕組みは昔からあり、特に珍しいものではないが、時流に乗ってブームになり、今後一つの仕組みとして定着して行くのかも知れない。爆発的な集客力と一時的なキャッシュフロー改善、そしてリアルとネットを結びつける一つの方法だと思う。

一方で、質のコントロールが難しい事、お客さんはお店ではなくグルーポンのリピーターになるだけだという事、そしてグルーポンに慣れたユーザーは定価で買ってくれなくなる事など、グルーポンがもたらす弊害も多い。

結局、無料ゲームと同じような大きな搾取が、そこにはある。そこにハマった人、お店だけが回遊するドロドロとした底なし沼だと思う。体質改善の方向性(グルーポンの取り分を減らすとか、そもそもの割引率を下げるとか)は競争力を失う事に直結するから、皆が止めるに止められないラットレースになっているんだろう。

何事にもハマり過ぎちゃう日本人向けとも言えるが、最も日本の風土に取り入れてはいけない仕組みのように感じる。

2011年1月5日水曜日

日本の優位性はどうなるのか?

「ゴルフ」に乗る中国人、乗らない日本人 http://bit.ly/fx8zvb

この記事を読んで、自分がかつて書いたブログのエントリーを思い出した。
アンチ産業構造ビジョン http://bit.ly/hpihsg

経済産業省が6月に公表した産業構造ビジョン2010は、韓国との比較をした上で、多すぎる企業や事業領域を整理統合する必要がある、という結論を示していた。つまり、国内市場における一社当たりのパイを大きくして、売上、利益、研究開発投資を拡大していくべきだ、という論である。それに対して、韓国を範にした寡占化の推奨は、国内競争をグローバル競争に置換えるだけで、つまり、より厳しい消耗戦に導くだけじゃないかという意見を述べた。

ローコスト・コモディティへの本格参入は、結局、販売規模や研究開発投資規模といった規模の勝負になるので、品質がなおざりになる傾向があり、日本は過剰なまでの品質を一つの売りにしているのだから、規模の勝負は避けるべきだと思う。そして、ここからが重要だと思うのだが、その過剰なまでの品質を支えるものについての考察が必要で、それこそが日本企業の比較優位のベースになるだろう。

そう言った観点で日本企業の比較優位について突き詰めていくと、消費者の意識の高さに突き当たると思う。

日本の場合、国内市場の過当競争こそが、品質の向上やオリジナリティの追求につながっている。自動車、電機、飲料等の領域で、出自は異なれど巨大化する過程において横並びで成長し、結果として似通った多くのグローバル企業が生まれた。これらの企業が国内市場で苛烈な勝負をしかけ、その商品・サービスを磨き上げ、それをもって海外に打って出る、というパターンで世界中に日本企業が広がっていった。差別化されていない大衆車のカテゴリーで、トヨタ、日産、ホンダ、三菱、マツダとグローバル企業が5社も存在するのは日本ぐらいのものだろう。

こういった国内における消耗戦が生んだ商品群は、国民に非常に大きな選択の自由を与え、商品を見る目を養う結果となった。つまり、過剰な商品が消費者を鍛え、鍛えられた消費者が商品を選別する、という品質に関する正の循環が回っていたことになる。

少し前までは日本の、国としての成長に伴って商品販売が伸び、低い利益率でも高い利益を生み出す事ができた。そして、その潤沢な利益を研究開発投資に回す事で、他国・他社に先んじた商品開発が可能となっていた。日本が見かけ上成長し続けた1980年代までは、日本の基準がグローバル基準だった。1990年代はその遺産もあり、国内需要が伸びない中でも競争力はさほど落ちなかった(それほどに圧倒的な競争力があったとも言える)が、徐々に商品開発投資力が衰え、競争力の上積みができなくなった。2000年代に入って遺産を食い潰したところで、決定的な競争力不足が露になった。

今後、グローバルなベンチマークは日本を素通りしていくことになる。そうすると、国民の商品を見る目もグローバルな基準にキャッチアップできなくなり、日本企業が造り出した商品やサービスを、グローバル競争力を持った視点で判断できなくなる。現状は、相対的な優位性を持たない企業や商品しかなく、消費者は商品を鍛える目を持たない。それが日本の衰退の原因だろう。もう、グローバル基準を積極的に受け入れて、消費者(国民)の感性を鍛える以外に道はないと思う。

元々日本の優位性だった国民の感性「良いモノってこういうモノなんだ」という感性の輸出が再びできるようにならないと、日本のモノづくりは終わってしまうだろう。

2011年1月3日月曜日

デジタル案内板/デジタルガイドマップ

お店の集積度が高い街や施設には、必ず案内板がある。そういった街や施設を訪れる人の利便性を考えると、どういったお店がそのエリアに存在するのかを知らしめる必要があるからだ。

案内板の活用状況は、極端な2つのパターンに分かれることが多いように思う。

極端に混み合っているか、ほとんど人が立ち寄っていないかだ。ららぽーとのような施設ではいつも混み合っているが、商店街などで案内板の前が混み合っている事はほとんどないように思える。お店の集積度によるのだとは思うが、街を構成する要素としてお店がある商店街と、お店だけで構成されているショッピングモールの違いとも言える。

いずれの場合にも共通するのが、検索性の悪さだ。

大概は、自分の望むお店を欄外のリストから探しだし、そこに振られた番号を地図で確認しつつ、現在地との相対関係を理解する必要がある。情報が多ければ多いほど検索は一筋縄ではいかず、多くの時間が掛かり、時間が掛かるから混雑する。施設側もカテゴリーで分類したり、五十音で分類したり、写真を載せてみたりと、様々な工夫をこらすのだが、情報の増加と検索性の低下は結局いたちごっこのような状態になり、ほとんど改善される事も無い。

また、案内板は物理的に決まった場所にしか置けないので、人が集まりやすく混雑に拍車がかかる。

案内板と同時にガイドマップを用意している場合も多い。ショッピングモールの場合はラックに並べられており、どちらかというと明確な目的を持っていないお客さまが持って行く例が多いように思う。自分の場合は、職業柄というか趣味的に、ガイドマップを集めているが、ほとんどの人は、そのエリアを離れた途端に廃棄するのだろう。多くの場合は上質な紙で、丁寧に作られているので、結構単価は高いと思う。そう言う意味では、非常に資源を無駄にしている感じもする。

以前、いくつかのショッピングモールで、案内板および紙のガイドマップの利用率を調べた結果、案内板に立ち止まる人はおおよそ10%程度、紙のガイドマップは1%程度だということが分かった。やはり、案内板を設置するだけの意味はあり、来訪者の少なくとも10%はお店を探していることになる。課題は、最初に挙げた検索性の悪さだけだろう。

では、検索性を上げるために、何ができるだろう。解決策は見えている。

物理的な案内板だから、情報量にも限界があり、かつ、検索もフレキシブルにできない。物理的な案内板だから、目当てのお店の場所だけではなく、自分の居場所まで地図上で理解する必要がある。物理的な案内板だから、記号化された地図の中から、目的とするお店以外のお店を「偶然に」見つける事が難しい。すなわち「ついで買い」を意図的に誘発できない。物理的な案内板だから、お得情報など集客に結びつく情報を組み込めない。物理的な案内板だから....

つまり、案内板やガイドマップをデジタルにすればいいんだ。

では、デジタル案内板、デジタルガイドマップの現状はどうかというと、物理的な案内板以上には役立ってはいないのが現実だろう。これも理由は簡単で、パソコンから見ることを前提にしたホームページで代用しているから、または携帯対応していても自分の位置との連動が取れてないからだ。また、情報に辿り着くのに何階層も深く掘り下げていく必要もあり、意外にオンデマンドに簡単に使えるものではないという点が、大きな課題だろう。

こういった課題に対して、既存のシステムやサービスが対応できるているかというと、必ずしもそうでもない。というか、対応できるサービスは現状存在しないと言っても良いかも知れない。マチカドサーチエンジン以外は。

理由はある。

まず、ショッピングモールのような施設は屋内にあるので、正確な自己位置が把握できない。さらに、ショッピングモールや商店街などは物販店が半分以上を占める場合も多い(既存のサービスが対象とするのは、主に単価の高い飲食業(特に居酒屋など)に限られる)。さらに、お店にはネットワークが導入されていない例も多く、店頭での電源確保も困難である。

マチカドサーチエンジンは、電源不要、ネットワーク不要、GPS不要、安価、簡単、メールを使ったシステムなので、誰でも使え、簡単に始められて、いつでも止められるといった、既存サービスにはない特長がある。


そもそも商店街やショッピングモールといった枠組みを超えたつながりを作っていくことが目的でもあるので、一緒に「つながり」を作ってくれる人、大募集中です。

2011年1月1日土曜日

あけましておめでとう、2011年

2011年になりました。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

昨年は苦しいながらも毎週3本(月・水・金)のエントリーを継続し、本エントリーが275本目。2月末には300本になります。これからも変わらないペースでエントリーを積み重ねるつもりです。

本年もよろしくお願いいたします。