2009年12月31日木曜日

公平を否定したい

matsuさん、コメントありがとうございました。少し長くなったので、エントリーで返します。

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確かに、郵便局の果たした役割は大きかったと思います。ただ、明治以来営々と続けてきたユニバーサルサービスとしての郵便ネットワークは破綻した、ということも確かだと思います。

元々郵便事業だけで収支が完結させるべきであり、その基本の下にユニバーサルサービスが成立していればいいですが、単独では難しく、結果、民業圧迫の言葉があったかなかったかは分かりませんが、郵貯や簡保で補填してハイブリッドな事業体としてしか存続できなかったわけですから。競争環境のない過疎地などでの行政サービスは必要かもしれませんが、都会などの競争過多な中での従来の郵政事業は見直す必要があるのではないでしょうか。つまり、郵政事業自体が仕切り直す時期にきていた訳で、民営化はそのきっかけだったと思います。

郵便のユニバーサルサービスをどうやって成立させるのか?誰がそれを行うのか?税金は投入するのか?金融機能は持つべきなのか?など、検討すべきことはいっぱいあります。それを、昔はうまく回っていたという視点で、今後の少子高齢化時代における事業の形をつくるのは無理があるように思います。というか、希望的観測でしかないと思います。

もう一つ必要な視点は、matsuさんがご指摘の通り、中途半端な都市化をどう評価するか、だと思います。

先日、青森に行って、青森らしさは一体どこにあるんですか?と役所の人に尋ねたのですが、明確な答えはありませんでした。結局、中途半端な都市化を志向した地方は、衰退するのみなんですよね。だから、「お金があるところから無いところへ」も、「ひとが多いところから少ないところへ」も賛成できません。お金が無いところは無いなりの、人が少ないところは少ないなりの事をしないと、中途半端な都市化は止まらないでしょう。

郵貯が民営化すると、世界最大の金融機関になるとのことで、これは即ち世界中でこういった、国がハンドリングする(国の借金を肩代わりすることを暗に目的とした)集金システムを持っている国はないということでしょう?(言い過ぎかな?)

端から見てて、ニュージーランドが幸せそうに見えるのはなぜでしょう?フランスには地方に文化が残っているような気がするのはなぜでしょう?日本以外の国はユニバーサルサービスを作れなかったのか、作らなかったからじゃなかったからじゃないかな、と個人的には思ってます。

公平が良いわけではないと思います。公平を否定することから、新たな成長を見いだすことができるんじゃないかな?

2009年12月30日水曜日

ブルーオーシャン戦略は

サービス領域の戦略スタイルではないだろうか?

よく取り上げられるのは、任天堂、シルク・ド・ソレイユ、QBハウス、サウスウェスト航空など。任天堂がある事で、汎用的なビジネス戦略と一般的には認知されているように思えるが、実は汎用性はさほど高くなく、むしろサービスに特化したビジネス戦略と位置付けても良いかもしれない。

最近、ホテル業界で新しい流れが多く生まれているようだ。ファーストキャビン、スーパーホテル、旅籠屋など。特徴のある何かに絞り込み、お客さんを選別し、低価格でサービスを提供する。これって成功すれば、ブルーオーシャン戦略の教科書に載ってもおかしくない事例だと思う。

そう考えると、ブルーオーシャン戦略に乗りやすいのはサービス領域のビジネスで、任天堂の事例もプロダクト製造部分ではなくサービス部分に、ブルーオーシャン戦略らしいユニークさがあったという事ではないか?

Kozchiはサービス事業なので、ブルーオーシャン戦略的な考え方が非常に重要になるだろう。何に特化して、何を捨て、誰に低価格で提供するのか?深く深く考える必要がある。

2009年12月28日月曜日

経営戦略で成功は結果論

今、通っている経営戦略のスクールはなかなか面白い。グループワークで、正解のない答えを考えるプロセスは、こういった作業に慣れてない身からすると、結構刺激的だ。

先日、アップルのケースを取り上げた。ジョブズが戻ってきて、iMacのヒット直後である1999年の話だ。

ジョブズが追い出されてからの10年間でCEOが4人代わっている。ジョブズ⇒スカリー⇒スピンドラー⇒アメリオ⇒ジョブズ、だ。このそれぞれの人の取った施策とその評価について、議論した。こういった過去の意思決定に対する評価は様々な軸で考えないと、正解に辿り着かないことが分かった。

これはもちろん、未来の意思決定においても評価軸は複数あって、それらを網羅しつつ、プライオリティをつけて判断しなければいけない、ということを物語っている。

特に間の二人である、スピンドラーとアメリオは、その連続性を理解しないと取った戦略オプションの意味や価値は分からないし、逆に連続性を重視しすぎると、そういったしがらみが一切無い時に取り得るオプションに目が向けられない。

実はどっちも大事で、事業方針の連続性、時代背景、そしてシンプルな戦略オプションは、それぞれを考える時に「ちょっと待てよ」と立ち止まって入れ子で考えられるセンスが不可欠だ。ただし、一人で考えながら網羅的に進めるのは限界があるし、思考の好みや癖もあるから、互いの検討のレベルが違いすぎて入れ子で検討できないこともままあるだろう。結局、バイアスの掛かった情報をもとに判断せざるを得ず、解答の妥当性は「神のみぞ知る」ということだろう。つまり、正解はないという事。

じゃあ、何のためにやるのかと言うと、少なくともオプションの存在を知っておいた方が良いという事と、思考の分岐点を理解する事で、見落としや状況変化に対して修正をしやすくなる、という事だろう。

であれば、思考のベースや判断の根拠になったチャートやテキスト等は残しておかなければならない。なんでこのオプションを選択したの?という時の状況や環境が最も大切だ。

選んだオプションの妥当性は、誰にも分からない。
結果論でしか評価されないので、情報収集が深く広く、判断において適切なバランスを直感的に、または論理的に取れる人だけが、偉大な経営者として歴史に名を刻む権利を得るのだろう。

2009年12月25日金曜日

デルタモデル-第一章-

久しぶりに戦略系の教科書を読んでみて、なかなか楽しく、感銘を受けたのでメモ。まずは、第一章だけ。

・顧客のロイヤリティを獲得する手段として、顧客との協力関係の構築を目指す。p.2

・今日のビジネス上の失敗は、戦略そのものよりも、戦略と実行とのギャップが原因となっているという事実と、その理由を明らかにしている。p.7

・ボンディングは製品そのものではなく、ネットワーク経済によって可能となった、あくまでも製品の外側に存在する諸要素の1つである。p.26

・ベスト・プロダクト戦略は、従来型の競争の延長線上に構築される。顧客は製品固有の特性に魅せられる。そして製品特性は、低コスト化、もしくはその差別的性質によってもたらされる。p.28

・トータル・カスタマー・ソリューション戦略は、ベスト・プロダクト戦略とはまったく正反対の手法をとる。顧客をコモディティ的視点で見るのではなく、顧客を単なる製品の販売対象以上の存在として深く理解し、また深い関係を構築することで、個々の顧客との絆をさらに強めるバリュー・プロポジションをつくりだす。顧客の経済性(顧客自身の収益性)の向上が行動指針となる。p.29

・システム・ロックイン戦略は最も広範囲に及ぶもので、この戦略の鍵は補完事業者を見きわめ、引きつけ、そして育成することだ。流通チャネルはシステム・ロックイン戦略の鍵を握っている。製品を使用する顧客の数が増えるに従って、各顧客にとっての製品価値が飛躍的に高まっていかなければならない。p.30

・ベスト・プロダクト戦略の焦点は単一製品に向けられ、ベンチマークは競合他社で、顧客へのバリュー・プロポジションは自社内における製品の経済性に依存し、その提供方法は標準化されている。イノベーションは自己中心的で、そのうえ今日の企業経営では重要な役割を担うはずのIT部門は社内情報を取り扱っているにすぎない。p.35

・トータル・カスタマー・ソリューション戦略において、ブランドはシステムを中心に調和している。イノベーション・プロセスは無数の補完事業者を創造力の源泉として利用し、ITの役割は補完事業者同士の統
合、効率、および互換性の向上を支援する。p.36

・システム・ロックイン戦略は、産業の大転換期に大きく進展する。p.36

・「どのようにして実行するか」は、何よりもまず、企業のコア活動を、選択した戦略にいかにうまく一致させて実践できるかにかかっている。「一致」は重要なキーワードだ。p.37

・イノベーションの究極の目標は、業界標準を開発し、占有し、多様なアプリケーションを促進することである。p.40

・ベスト・プロダクトは製品志向、トータル・カスタマー・ソリューションは顧客志向、そしてシステム・ロックインはシステム志向である点も見逃してはならない。p.42

・ビジネスにおける勝利とは、競争相手を打ち負かすことではなく、顧客と強い信頼関係を結ぶことだと確認する必要がある。p.46

2009年12月23日水曜日

ムダに正義な人

世の中のルールを疑うこともなく、そこから外れた行動を取る人を断罪する正義感がムダに強い人がいる。というか、最近は異様に多い気がする。

世の中を動かすものが、官僚の作ったルールではなく、文化に基づく価値観、すなわち道徳でなければ、窮屈さに閉塞感が強まり、モチベーションは下がり、厭世観は増すばかりである。

正義は、日本人ならではの価値観を伝え、醸成するために有るのであって、一過性のルールを遵守させる事に使うのではない。

ムダに正義な人は、そこが分かってないんだと思う。

2009年12月21日月曜日

目標があって目的がない

それは作業であって仕事ではない。

自らの行動の目的を知らずして人が生き生きと集中して、持てる力を出し尽くすはずがない。そんな組織は主体性のない烏合の衆となる。個人の損得だけで動く自己中心的な人と無関心な人たちの集まりになって、チーム力のない集団となる。

目的がないということは、組織に求心力がないということである。個のチカラと個と個を結んで生まれる、組織が本来持っているエネルギーが発揮されない。目的を明らかにした目標は自ら主体的に取り組み、是が非でも実現したい姿への道しるべとなる。

だが目的はあればいいというものでもない。その目的があまりにちっぽけでは意味がない。自分の出世とか会社の業績といったものでは目的の価値はない。

2009年12月18日金曜日

常識欠如

最近は常識を飛び越えるような行動を取る人が多くてビックリする。

今も隣の人が、パソコンを広げたまま、携帯も置きっぱなしでトイレに行っている。情報漏洩とか、そんな浮ついた言葉ではなく、普通におかしいと思う。無くなっても、誰にも何にも言えないよね?

先日もエスカレータで座り込んでいる人がいた。たぶんサラリーマンだと思う。唖然とした。何か人間として大事な部品をどこかに落としてきたのかな?

本屋では、主に試読のために置いてある席で、ケータイやパソコンを触っているだけの人がいた。その後に座った人は、カバンの中から自分の本を取り出して読み始めた。自分の常識では計れない人がいっぱいいるもんだ、と驚いた。

その時読んでいたのが、大前研一の日本人の低IQ化に関する本だったので、妙に納得してしまった。最近の日本人は考えなくなっているとのこと。自分もよく感じる。先のエスカレータも本屋も、ダメと書いてあったらやらないんだろう。逆にダメと書いてないから、やってもいいんでしょう、と完全に思考放棄している。

結局、誰かにルールとして枠を嵌めて欲しいんだよね。考えるのが面倒だから。一方的に搾取されることを厭わない人が多いんだから、搾取する方は簡単だ。

2009年12月16日水曜日

あえて不愉快になる方法を選ぶ人々

人と触れ合うコミュニケーションについて東京に住む多くの人は、なぜか、あえて不愉快な方法を取る。

人の鞄を退けるのに叩いたり蹴ったり、前に立つ人が読む新聞を払い除けたり、混み合ってるのに避けなかったり、英語で言えば「excuse me」の一言ですむ話でも我を通さないと自分が損するとでも言わんばかりな行動を取る。

少し互いに気遣えば解決することが多い。江戸しぐさに「傘傾げ」というのがあるが、ある人が実験したところ、そんな事をする人はほとんどいないらしい。こちらが気を使わなくても、相手が動いてくれるだろうという甘えがあるんだろう。

政治ダメ、経済ダメ、少子高齢化進行中、その上そこに暮らす人の精神は幼稚で、自分に甘く他人に厳しい、ギスギスした閉塞感だけが肥大化しているこの国は、一体どうなって行くんだろう?

2009年12月14日月曜日

チャンスの女神は

子供の頃よく言われた言葉の一つとして、チャンスの女神は前髪しかない、というものがある。

悩んでる暇はないぞ、ということだと思う。今でもそんなに変わらないかも知れないが、よっぽど優柔不断だったんだろう。

人生はニ択の分岐の連続だと感じている。右か左か、行く道は2つしかない。分岐点で足を止めて道の先を見渡しても、見通せていることは稀。

そして、分岐においては、それまでの持ち物を下ろさなければいけないシーンも存在する。昔から持ち物を下ろすことが苦手で、何とか上手く維持したまま先に進めないものかと考える。それが優柔不断ということなんだろうな。

勇気を持って捨てる事、それが今、一番大事な気がする。

2009年12月11日金曜日

青森なう

出張で青森。
新幹線で来てみたら、遠かった。往復で11時間くらい電車に乗ることになる。飛行機でも大差ないのだが、こういった時間距離にある都市は、よっぽどの魅力がない限り人を呼べそうにない。過疎化、少子高齢化が進む一方だろう。

青森はと言うと、ミニ東京近郊都市のような地方都市で、なんの特徴もない。検索してみると、青森行くなら「アスパム」がお薦め!、だったので行ってみた。

駅から離れた所に立地する変な形の物産館で、何もない。ハローキティのボールペンを娘のお土産に買って、場末の食堂のようなところで、ショボいラーメンを啜って終了。何なんだろう?ただの箱物のように感じたが、そこが街のお薦めだとしたら、寂しい限りだ。

商店街も歩いてみた。
服屋さんと八百屋さんばかりで、かなりの競争状態であると思われる。が、馴染み客ばかりのようなので、うまく棲み分けでいるのかも知れない。そして、1/4ぐらいはシャッターが降りていた。歩いた商店街はメインストリートの一本裏通りだったようで、それを鑑みると、まだ賑わっていた方かも知れない。メインストリートは、人の少ない京都の四条通のようで、よく整備されている。が、活気はない。

青森らしさって何なんだろう、と考えてしまった。

地方自治体は、見せかけの危機感で街づくりを進めようとしている。今なら環境をキーワードにした箱物に落とし所を見つけようとしていて、それぞれの街の良さを最大化するような施策には無頓着だ。

そんなやり方では、未来の不良ストックを積み上げて行くだけになっちゃうよ。

2009年12月9日水曜日

正しい価値判断とは

私が日常利用する電車は、7人掛けが標準だ。しかし、時と場合によっては6人で目一杯に見える。男性が多く、皆が背にもたれて肩をぶつけ合っている時などに多く見られる。今日は一分の隙もなさそうな場所に独特の嗅覚で隙間を見つけ、無理矢理尻をねじ込んでいる女性を見た。

いくつか考えたい価値判断がそこには潜んでいる。

まず、7人掛けに6人で座ってしまうこと。それに付随して肩を譲り合わないメンタリティ、最後に無理矢理座ろうとすることのベースにある意識である。

そこには、正しい、間違っているという、価値観の判断基準なんてないのかもしれない。どれも、ある見方をすれば正しいのだろうし、別の角度から見ると間違っているのだろう。

ふと思い出すのは、糸井、梅田、岩田対談で語り合っていたフレーズだ。そこに問題があれば、解決方法を考えてしまう、という本能的行動がオープンソースを支えているということだ。上手く行くプロジェクトは往々にしてそのようなプロセスを経るらしい。そこには利己も利他もない。本能あるのみである。

しかし、問題を問題と感じる感性が必要で、その感性がない人には解決へのモチベーションもないことになる。

7人掛に6人で座っている時、肩がぶつかり合っている時、無いスペースに尻を押し込もうとしている時、そこに潜む問題に思いを馳せないと、解決はない。ただ自らの利益、既得権益を最大化するための行動に終始してしまうことになる。現代社会の現状がそうだろう。

問題を読み取れないこと、それは「キーチ」の言葉にもあるように、何も疑わない、何も怒らない、現代日本人の大いなる欠陥だと思う。

2009年12月7日月曜日

自分なりのやり方

最近、社外のセミナーや研修を受ける機会が多い。色んな人と接していると、何となく類型化できる気がする。

こういった場に出てくるマジョリティは、比較的大きな企業で命令されて来た、という人。この人たちの斜め向き加減がすごい。見るからに「早く終わってくれ」という雰囲気を出しており、決して真剣に課題に取り組まない。それが部長クラスだったりすると、会社でどうやって部下を鼓舞するのか、聞いてみたくなる。まさか、もっと元気出せ、とか、近頃の若者は元気がない、とか言ってないよね?

こんな人が7割ぐらいいる感じ。そして、残りのうち2割ぐらいは受動的な人。つまり、主体性はない。全体の9割がこんな調子で、ディスカッションもままならない。

こんな人たちばかりで、新しいアイデアとか生まれてくるのかね?イノベーションが求められる世界で、カイゼンしかできない人ばかりなんだけど。そんな余計な事を心配してしまう。

一方であまり深く考えず、楽しむ事、場が盛り上がる事を優先する自分は、初期段階で仕切り役になる事が多い。下らない人にリーダーシップを取られて、下らない会にしたくない、という気持ちもある。元来、仕切るのはそんなに得意ではないので、軌道に乗った段階で、徐々に存在感を弱めたりして。

そんな風に進めるので、チームの雰囲気や結論は、ある程度自分の思った方向に進む事が多い。それでも、もう一人ぐらい、比率でいうと2〜3割くらいは、賛同者が必要だ。その意味で、初期段階にウマの合いそうな人と、重点的に「面白がる」事も一つのコツかもしれない。

単純に自分が気持ちよく進めるためのやり方なんだけど、大体結果は悪くない。むしろいつもベストの答えを出せていると思う。

結局、楽しむ事、面白がれる事が大切なんだろう。

2009年12月4日金曜日

鳩政権はNOなんだけど...

他に代替候補がないのも事実。いかに、優秀な政治家が少ないかという事だが、これが現実としての日本の国民レベルを示しているのだろう。

そもそも、衆院選の前には鳩氏の怪しさは分かっていた。献金問題、もっと言えば脱税、さらに言えば国を相手取った詐欺なんか、民主党に投票した人は、全て承知の上で広い心で許したんじゃないの?

私は、許せそうになかったので、小選挙区は民主党候補に入れたが、比例はみんなの党に入れた。つまり、政権交代には期待するが、党執行部はNOという事だ。マニフェストを見比べても、どうも民主党は浮世離れしているようで、実現性に乏しいと感じ、全党比較した上で、3番目と位置付けた。

でも、こんな声ってどこにも反映されない。誰も支持しない政党が与党に入り、ダダをこねる。そしてそれを諾々と受け入れる。色んな声を聞きすぎて、無闇に予算規模が膨れ上がる。マニフェストに固執しすぎて、本質を見失う。この国の未来が描かないまま、費用対効果だけで予算を割り付ける。企業がこぞって導入したが評判が悪く、見直しを余儀なくされている成果主義のようだ。

なぜ、成果主義に見直しが掛かってるかと言うと、会社が明確なビジョンを持たずに、個人の成果のみがフォーカスされると、仕事はこじんまりと小さくなり、短期思考に陥り、チームワークは薄れ、内向的になり、モチベーションは下がり、成長が鈍化し、社内の雰囲気が悪くなり、会社として傾いていくからだ。

今の事業仕分けはまさにこれで、今後しばらくは停滞傾向が続くのは間違いないところだろう。私は、民主党を仕切る、あの三人が退場しない限りは良くならないと思うが、彼らの生命力の強さは証明済みだ。

国や社会や会社の行く末とは別に、個人の行く末を真剣に考えるべき時代に入ったと感じる。

2009年12月2日水曜日

大事なのは「やりぬく力」

PPP(Public Private Partnership)のフォーラムに参加した。アメリカ、フランス、韓国の事例を紹介していた。

アメリカは、官の仕事の大部分を民間にアウトソーシングすることで、10万人の市を4人で運営している事例。フランスは、箱物に絞って、設計から施工、運営までを民間に委託している事例。韓国は、民間の経営者が地域の運営に乗り出した事例。

三者三様だが、いずれも機能を拡張したゼネコンが大きな役割を担っている。つまり、施工だけではなく運営までをビジネスのスコープとしたNEWゼネコンである。

行き詰まったゼネコンのつぎの一手として、常に議論の俎上に上るが決して手を出さない、ある種の禁じ手とも言えるかもしれない「事業運営」。政権交代によって変わる事を余儀なくされているゼネコンは、準備が整っている訳でもないが、禁じ手たる事業運営に踏み出さざるを得ないのではないか。

フランスでは、例えば橋などの場合は、75年にも及ぶ長期契約が取り交わされるらしい。請ける側は、初期投資が大きく、当初20年ほどは赤字になるそうで、そのため体力のある企業しか手を上げれないそうだ。

たとえ体力があっても、未来には安定収益の柱になる可能性を感じられても、近未来へは負債を残す事になるのは間違いない。今後20年間黒字にならない事業を抱え続ける、メンタル面での強さを求められる。

いずれの事例も、やっている事は大して目新しくもないが、ただ、飛び込む「勇気」、全うする「覚悟」、やりぬく「力」だけが必要だ。

石橋を叩いても渡らないサラリーマン企業に可能か?

2009年11月30日月曜日

トイザらスのオペレーションレベル

トイザらスへは毎年2回ぐらいは行くのだが、毎回痛感するのが、そのオペレーションレベルの低さだ。しかも、全く改善の兆しがない。

無駄に店員が多く、しかも研修員と称する素人ばかりで、全く機能的でない。店内の全ての機能が、客本位ではなく店本位で設計されている。この状況は、自分が利用するようになってからの数年間、全く改善されてない。むしろ酷くなっているようにも思える。

誕生日やクリスマスといったイベントにおいて、子どもが欲しがるようなオモチャの実物を見れる所が少なくて、結局いってしまうのだが、本来、できる限り利用したくないのが本音だ。

アマゾンや楽天では、どうしてもカバーできない機能がある。そこにあぐらをかいて顧客接点におけるサービスレベルの向上努力を怠っているのが、トイザらスのビジネススタイルだ。

価格も決して安くないのだが、トイザらススペシャルのような商品開発だけが卓越しており、それがまた腹立たしい。総合的に見ると、子どもを盾にとった搾取モデルとも思える。

商圏調査とやらをしていたが、それは事業者側の都合でしかなく、それよりも先に、お客さんの視点にたったオペレーション改革が必須だろう。

2009年11月27日金曜日

快挙!「JEA賞」「アントレ賞」ダブル受賞!!

11月25日に「かながわビジネスオーディション2009」という、いわゆるビジコンの最終審査があり、Kozchiは「JEA賞」と「アントレ賞」の二つの賞をいただいた。

ここに至るまでも一次、二次、ヒアリングと、各種審査をくぐり抜けて、ようやくゴールが見えてきた、という感じ。6月頃からだから、かれこれ5ヶ月。個人的にも人間関係が悪くなり、結果として異動があったりして、若干バタついていた感があった。

ともあれ、最終審査である。
出番はラスト、16時からのコマを割り当てられていた。少し目立ちたい気持ちの強い自分は、どちらかというとラストが好き。そういった意味でラッキーだった。

出会いの広場と称して、発表者が一同に集まる部屋があったが、どうもサロン的な雰囲気で何かが生まれる予感がしない。なので、ずっと人の発表を聞いていた。

研究職をしていると、人の発表を聞く機会はいっぱいあるが、久々に真面目に聞いた気がした。あまり眠くならなかったし。この中で、大企業の良さと中小企業の良さ、そして違いを強く感じた。このことは、いずれ機会を見つけて書きたいと思う。

13時から始まったプレゼンをずっと見ていた感想としては、人に伝えよう、という気持ちが見えるものは、少なかったように思った。これは、質疑の時間を省いた弊害だと思う。

言いっ放しを是認するスタイルは、人に伝える必要性が薄く、緊張感が弱い。そのため、何がビジネスモデルなのか、商品開発だけがビジネスプランなのか、何を伝えたくて、今後どのようになりたいのか、が全く伝わってこないものばかりで、聞いていても消化不良を感じるモノが多かった。

こう言ってはなんだが、社内のプレゼンの方がよっぽど緊張感を感じる。最終的に得られるモノは、こちらの方がよっぽど大きいにも関わらず、だ。

そんな中、ようやく出番が回ってきた。資料は結構練り込んできてあるのでストーリーは問題ないが、Macが使えず、pdfでの発表になったので、トランジションが使えず、少し残念。まあ、内容には影響ないので、良しとする。

iPhoneでストップウォッチを動かして、準備万端整った。が、前段で時間を使いすぎ、少し焦る。徐々に調整しようと思った時にiPhoneの画面が消え、経過時間を会場内の時計で判断する事になった。ストップウォッチよりもアバウトになるので、少し早口になり、若干端折ったりしてたら、終了三分前の合図をもらう頃には、思ったより余裕ができてしまった。最後の収益や展開を念入りに話して、時間どおりにクロージング。

反省点は多いが、結果としてはまあまあのプレゼンだった気がする。頷いてくれていたオーディエンスもそこそこいたので、少し安心。気持ちは、県知事賞や奨励賞を取るつもりで、表彰式に向かった。

結果として、「JEA賞」と「アントレ賞」をダブル受賞させて頂いた。受賞できたのは、無償で協力してくれたA氏とT氏のお陰だと思う。いずれも、プランの説得性を増すために必要不可欠な部分だった。この場を借りてお礼を言いたい。
ありがとうございました。

複数の賞を受賞したのが3テーマだけで、「Kozchi」を除いた2テーマはいずれも奨励賞の受賞者だったことや、商品も事業主体もない個人で受賞しているのは私だけだったことは、大きな自信になった。逆に商品や事業主体なしで到達できるのは、この辺りまでかもしれない。その意味で快挙だと思う。

なにより、「Kozchi」が初めて世に認められた記念すべき一日であることは間違いない。今回の受賞は、次に向かう大きな一歩になったと思う。この受賞を糧に営業活動を進め、広く早く展開を進められるように努力しようと考えている。

100

このブログを始めて、今回が記念すべき100回目だ。毎週月・水・金にアップして、8ヶ月。結構まめに更新したし、自分にしては長続きしている、と少し感心したり。

あまりテーマを絞らずに書いてるし、他のブログにリンクすることも極力避けたので、プレッシャーがないのが良かったのかもしれない。以前は、PVを上げようと躍起になって挫折したが、肩の力を抜くと、続けることは意外に簡単だと気付いた。

あと、iPhoneの力による所は大きい。このブログのエントリーは、文章作成からアップロード、編集まで全てをiPhoneから行っている。通勤などの隙間時間を使えなければ、こんなにも続けられなかっただろう。

本来、起業日記に近いような、これから提供しようと考えている「Kozchi」に関するエントリーが中心になるべきかもしれないが、結果として、一回しか書いていない。少しづつ、この場を借りて「Kozchi」について報告することも増えるとは思うが、今後も変わらず、テーマは絞らず続けていければ、と思っている。

実は最近喜ばしいことがあったので、少しルールを曲げて、連続エントリーすることにする。

2009年11月25日水曜日

理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である

あるブログで紹介されていた、本田宗一郎の言葉。該ブログでは、現在の民主党の行動を例に出していたが、なるほどその通りと、納得してしまった。

例の事業仕分けにはかなり違和感を持っており、行動の方向性は共感できるものの、他にやるべき事があるでしょ、とも言いたくなる。

仕分けられた事業の規模の小ささにムダ感も強いが、ここで捻り出される予算が、子ども手当や高速道路無料化に回されるとしたら、単にパワーゲームを楽しんでいるだけとしか思えない。

まずは、それら新しく設定しようとしている事業の必要性を判断しなければならないはずだ。そして、さらにムダを省く仕分け作業をすべきだ。

また、何の責任と覚悟を持って、仕分け人は存在しているのか、一度キチンと表明すべきだろう。蓮舫議員のように、切り捨てるのが楽しいだけでは、許されない。なぜ、自衛隊のPR施設がディズニーランドと同列に扱われなければいけないんだ?

CO2問題でもそうだが、もっと本質的な議論に突っ込んで、そもそも何がしたくて議論を始めたのか、をよく考えなければいけない。そうでなければ「無価値」か「凶器」に堕してしまうだろう。

2009年11月23日月曜日

原因と結果と評価

電車は不愉快なことが多い。乗客が、という事も大いにあるが、事業者としての意識に不健全なものを感じる事が多い。

女性専用車の目的は?その目的に対応した結果は?存続を決めるであろう評価は?結果を公表し評価を加えないと、大いなる社会実験に参加させられた我々への説明責任を果たしていないとは言えないのか?

同じく優先座席。こんな適当なやり方ではなく、ちゃんとした社会実験として、目的、実験方法、結果に考察を加えて公表して、改善を積み重ねてほしいものだ。

優先座席での携帯電話規制も不愉快だ。携帯の電波が実際的に人体に悪影響を及ぼすという実験結果を、私は寡聞にして聞かない。あり得ないくらい条件を歪めた上で20センチ程度まで近づけてようやく、というレベルだったと記憶している。万が一、甚大なる悪影響があるのなら、ユーザーのリテラシーに頼るのではなく、キャリアのメーカーへの仕様提示段階で、電波の改善かキルスイッチの設置を義務づけるべきだろう。何にせよ筋が違う。

とにかく鉄道事業者は、臭いものに蓋をするがごとく、少しでもクレームがつく可能性のある事には規制をかけ、思考停止に陥るのが常のようだ。

日本に蔓延する閉塞感を反映しているようで、気分が悪い。

2009年11月20日金曜日

キーチ

モーニングで連載していた(している?)「キーチ」という漫画で、1年ほど前に主人公が叫んだ言葉が、iphoneに入ってた。

社会の不合理、不条理に対して闘い、そこから普通の人たち(サイレント・マジョリティ)の、自己中心的で無関心な行動への問題提起に変化していく場面でのセリフです。

自分が変わらなければ、何も変わらない事を感じさせてくれる名場面でした。

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俺が10年間してきたことの結論は、
お前らこそが
俺の敵だったってことだ!!

社長を追い込んだのは誰だ?
助けなかったのは誰だ?

俺は、
俺が社長を助けることに腹がたつ。
誰かを助けることは
他の誰かを選んで見捨てることだ。

今のままでいい、
徐々に良くなればいい、と言う奴は、
高みでだらだら
どこかの誰かを
見捨てるだけだ。

救われたい誰かたちを
一斉に救える力のある奴らは、
自分の得になる奴だけを選んで助けて、
弱い誰かを切り捨てる。

救われねえ誰かがいるって想像しろ、
どんな気分だ?

自分がしらないうちに
誰かを見殺しにしているのは、
どんな気分だ?

このままじゃ
明日も明後日も
この先も、ずっと
いい事なんか起きねえぞ。

いいかっ
国を守るとぬかす連中は
お前らをダマす。
信じるな!!

金持った連中も
お前らをダマし続ける敵だ!!
信じるな!!

警察は奴らの仲間だ、
信じるな!!

法律なんて奴らに都合のいい戯言だ、
信じるな!!

テレビでモノ言う連中、
新聞にモノ書く連中は
金で転ぶ奴らの手先だ、
信じるな!!

神も仏も金儲けの道具だ、
信じるな!!

お前らが今、
信じるものを全部っ
信じるな!!

俺は今を
疑いもしねえ
怒りもしねえ
お前らを
絶対にっ信じない!!

2009年11月18日水曜日

独りよがりではない絶対的価値観

絶対的価値観というと、自分勝手な考え方を押し付けるようなイメージがあるかもしれない。

理解を深めるために、相対的価値観から考えてみよう。

相対ってのは、人と比べるという事だ。自分の方向性を決めるのに、人と比べて良いことあるだろうか?思考の軸が決まってない人は、他人が何を考えて、どんな意思決定をしてるのか気になるだろう。

だからこそ、絶対的価値観の押し付けが大切になる。

人は外圧に弱い。押し付けられ、流れを作られれば乗らざるを得ない。その中で相対的な考え方と絶対的な考え方の違いやメリット、デメリットに気づけば良い。

そう考えると、「相対的価値観」と「絶対的価値観の押しつけ」はイコールなのかも知れない。独りよがりに見える絶対的価値観の押し付けは、実は、一皮剥けるための優しさだったりする。

2009年11月16日月曜日

仕分けごっこ

ここの所、世間を賑わしている事業仕分け。あれ、何とかならんのかな?

元々削減目標は3兆円だったが、95兆円にまで膨れ上がった予算を、92兆円にすることに何の意味があるんだろう?

事業を仕分けて、ムダをなくすという目的には賛同するが、現状として効果的な仕分けになっていない。巷で言われるように魔女裁判的であり、公開されており透明ではあるものの、公正ではない気がする。

未来への負債を積み上げないようにすることが、唯一、国民の将来不安を和らげ、消費や子育てへのインセンティブになりうると思うのだが、今の事業仕分けにその機能は期待できない。

あんなに要らない事業があったのかという驚きと、まだまだ氷山の一角だという果てしなさを感じる。

やるなら10兆円規模でリストラする必要があるが、その方向性で考えると、見直さなければいけない事業の筆頭に、子ども手当が入るだろう。経済成長と福祉のどちらを優先するかは、タイミングと環境によるだろうが、現時点でいうと経済成長だろう。しかも、補助金ではなく規制緩和による舵取りが必要だと思う。

いずれにせよ、テレビで真剣に「仕分け」しているように見えるのも、全てポーズであり、ただの「事業仕分けごっこ」でしかない。少なくとも、現時点では。

仕分けている様子に騙されてはいけない。細かい事業を積み上げて500億円に到達しても全体予算の、たかが0.05%でしかないのだから。

2009年11月13日金曜日

インテル・インサイド/アップル・アウトサイド

ビジネスをどのように捉え、どこを我が物とするか、と言う事。それが、戦略というモノだろう。ビジネスフレームとグリップポイントが大事になる。

インテルはCPUを必要とする全ての機器にフォーカスし、その心臓部たるCPUとチップセットという「部品」をグリップした。それだけでは競合優位性が維持できないので、Microsoftとのアライアンスで確固たる地位を築いた。ほぼ全てのPCはWintelとなり、今ではコンピュータ制御される多くの機器が、「Intel Inside」である。

かたやアップルは「完成品」を売る消費財メーカーである。普通の消費財メーカーは作って売るだけだが、Wintelによって、その商売に限界を感じていたアップルは、何かをグリップして周りを動かすビジネスがしたくなったんじゃないかな?「部品」は「完成品」を動かせるが、「完成品」何が動かせるんだろう?

その解が、プラットホームであり、社会であり、環境であり、ライフスタイルなんだろう。結果としてアップルは「完成品」をグリップして、「デジタルハブ」構想を作り、最終的には社会やライフスタイルなど「外の世界」を変えた。つまり「Apple Outside」である。

これらの事例を見ると、ビジネスフレームとグリップポイントのうち、どちらが先かと言うと、グリップポイントになる。

企業が強みとして持っている何らかの「技術の核」をグリップポイントとして、そこを握った先で影響を受ける領域を定義し、そこにフォーカスしてビジネスフレームとする、といった手順が良さそうだ。

では、手持ちの「技術の核」には何があるだろう?

2009年11月11日水曜日

JAL化

週刊ダイヤモンドの11/9号にJALの特集があった。記事の中に、ANAとの比較でJALの企業体質について、内部アンケートからまとめた一覧表があった。

その一覧表を見て、あたかも当社に取材したかのような印象を受けた。全ての項目で百点満点、当社の雰囲気にピッタリ一致していたのだ。

むべなるかな、とも思うが、実質上壊れた会社と同じ体質であることは、しかも、一項目とて救いがないことが、未来を暗示しているような気がする。

この現実に対して、誰も何も感じないのか、感じてても動けないのか、いずれにしても末期的であることにはかわりがない。

末端の自分ができる事は何があるんだろう?超官僚化した組織をひっくり返す事って可能なんだろうか?

2009年11月9日月曜日

絶対的な価値観

誰かが見てるからとか、誰かと比べてとか、相対論で話をすると人は不幸になる。そこには、敗北感か歪んだ優越感しか生まれないから。

絶対価値の中に生きてると、ストレスはなくなり、他者との関係もスムーズになる。そして、良いモノが生まれ、良い影響を周りに与えることができる。

常に絶対論で考えることが大事。決して他者と比較してはならない。比較するなら、神とでなければ意味がない。

2009年11月6日金曜日

This is it

こんな映画は初めてだ。

エンドロールが終わるまで、ほとんど出て行く人はおらず、最後には自然と拍手が沸き起こった。「映画」というカテゴリーで括るのが間違っているのだろう。

ほとんどプライベートライブと言っても良いのではないか。マイケル・ジャクソンが自分一人のためにパフォーマンスしてくれている。そんな気分になった。自宅に大型テレビかプロジェクターがあれば、家で一人、踊り、歌いながら観たい、そんな映画だった。

マイケル・ジャクソンが偉大な、そして二度と戻ってこない永遠のパフォーマーであることを痛切に感じた。

50歳にして、あの体の切れ、そして変わらぬ感情に訴えかける歌声。最高だった。
一切妥協のない姿勢、努力、人を魅きつけて止まない才能。マイケルとの共演に全てを投げ打って参加しているメンバーの熱さ。

全てが感動に満ちている。

何より、愛に包まれたマイケルのメッセージ。素面では聞けないような言葉もマイケルだから説得力がある。昔から、人類愛、地球愛を歌い続けてきたマイケルだからこそのメッセージだろう。

自分もカラオケでは、かなりの頻度でWe Are The Worldを歌い、周りの人にはある程度認知されたマイケルファンなので、一曲々々が深く染み入るような体験だった。

ありがとう、マイケル・ジャクソン。
Heal the world make it better place.
I love you, Michael Jackson.

2009年11月4日水曜日

戦略的にビジネスるためには

何か手持ちのネタが必要なんじゃないか?

環境とかエネルギーといった、ざっくりした流行で施主の行動を先読みし、ハコ物に関わる何かを探すのも良いかも知れないが、結局、行動起点が人任せと言う請負体質からは抜けきれない限りは、本質的に戦略的な議論にはなり得ない。

手持ちを作るにはリスクを取る勇気と覚悟が必要だろう。組織が本質的にそういった勇気や覚悟を持ち得ないとしたら、どうすればいいか?

一つは、会社にそのような行動を取ることや、そういったポジションで話をすることそのものを期待しない、むしろ、想像すらしない、という(消極的な「諦め」の)方向性がある。

研究所という立場で考えれば、自己満足型、自己完結型で浮世離れした研究テーマをシコシコと進めること、が一つの解かもしれない。ここにはチームワークは不要で、逆に、(何らかの役に立っている事の)行為証明をする為に、目的を分割したり、意図的に矮小化したりすることが必要になる。その結果、小さな小さな、そして一人で実施・展開するような、ほとんど意味のないテーマが量産されることになる。

本質的に意味がないから、ムリやり意味を作り、ますます浮世離れしていく。そこに育ったヒトは、浮世離れしてる事がその組織の存在意義であると勘違いし、その勘違いに気づくことはない。

もう一つは、少しばかり積極的な「諦め」がありそうだ。諦めるコトによって、目の前の事象に集中し、その問題解決を目指す、と。ライン業務に従事するヒトは、むしろこっちだろう。

この場合は本来的に、より卑近な事象にフォーカスすることになるので、自ずと近視眼的になる。極端に言えば、近視眼的であればあるほど、そして、その問題解決スピードが早ければ早いほど、有能であると勘違いする。本当は問題解決能力よりも、問題定義能力の方が重要であるにも関わらず、である。そして、その勘違いは正される事なく、気づく事もない。

従業員に(組織が持つべき覚悟や勇気に対する)諦めを持たせて良い事は何もない。それらを従業員に信じさせる事が、会社に課せられた唯一の義務なんじゃないかな。

それができない会社に、戦略的にビジネスる事なんて、できようはずもないだろう。

2009年11月2日月曜日

既得権からの解放

日本は老人に支配された国だ。それは人口構成を眺めてみるだけで容易に理解できる。

現状が変わらないとすれば、何をすればいいのか?

搾取し、搾取される関係性からの脱却は、即ち既得権からの解放である。分かりやすく言えば、自立せよ、という事だろう。さらに言えば、他者との関係性を自らの意思でマネージせよ、という事でもある。

それも、社内で自立するつもりで仕事をする、とか生易しい話ではなく、リアルな自立を志向できるか、行動できるか、が今後の人生において哀しい搾取の連鎖から脱却する唯一の道だろう。

2009年10月30日金曜日

民から官へ

なぜ、郵便局があると格差がなくなるんだろう?

いまはネットバンキングがそれなりに便利になってるし、宅配便も場所の区別なくきてくれる。現金引出しも郵便もコンビニが取り扱ってる。保険なんて、窓口である必要すらない。コンビニも入らないような、本当の過疎地においては極めて情緒的な意味においての価値があるかもしれないが、買い物に出かけるなら、そこが郵便局的であればいいのでは?

イマイチ、郵便局が持つ絶対的な利便性や地域格差是正要因が分からない。

その郵政の改革において、脱官僚を謳う民主党が、民間人の首を切って大蔵省OBに舵取りを任せることになるんだろう?退任後14年経ってるからいいじゃないかと言うが、言い訳をせざるを得ない段階で、誰もが認める適任者という事ではないだろう。

子供手当をばら撒き、高校を無料化する。高速道路も無料化し、JALを救済する。何でもかんでも、国有化しようとしているけど、一体どこにそんな金があるんだ?ムダをなくす事が第一義だったように思うが、気がついたら、史上最大の予算規模になってるじゃないか。

将来にツケを回さないんじゃなかったのか?今のままだと、借金はますます積み上がっていくだけだよね。えらいこっちゃ!

経済拡大が期待できる時代ならいざ知らず、少子高齢化が進む中、そして、社会主義の失敗が明らかになっている中、大きな政府、社会主義を目指すことの意味が分からない。

こいつらは一体、日本をどうしたいんだろう?自分達の独裁国家を作りたいだけなんじゃないか?

2009年10月28日水曜日

新しいコラボレーションの形

Lotus Notesを筆頭に、様々なコラボレーションツールが世に出回っている。Knowledge Managementという言葉も使い古されボロボロになっている割には決定打がない。既に誰かが獲得した知識の水平展開もさることながら、現在進行形で流れている情報を捕まえ、蓄積し、知織化することもできていない。

この領域は、ある意味逃げ水なんだろう。

追いかけても、たぶんゴールに辿り着かない。一つ分かっているのは、リアルタイムにやり取りされている情報を野放図にしていては、次の一手が打てないという事である。

何で情報を捕らえるか、という点で今までのツールはポータル的なあり方に走った。提供するポータル(入り口)から情報のやり取りを促し、情報のストリームを全て監視下に置こうという考え方である。しかしこれは、前時代的な、Yahoo!的なアプローチと言えるだろう。

本当に使われるためには、日常的に使われているツールで情報のストリームを捕らえるべきじゃないかな。

2009年10月26日月曜日

無になるしかない

最近の通勤経路では、東京のヒトの多さ、人口集中、インフラの不備などを、ついつい考えてしまう。それほどまでに、東京における通勤行為は殺人的だ。

毎日通るJR区間は短いものの、日本有数の混雑地帯だ。少し前の週刊ダイヤモンドで「JRの秘密」という特集があった。そこには乗降客数ベスト20が一覧表として載っていた。自分が利用する品川〜浜松町間だけでなく、東京までがベスト20にランキングされていた。

品川(7)
田町(20)
浜松町(18)
新橋(8)
有楽町(17)
東京(6)

大阪(4)、京都(15)、名古屋(13)などの大都市圏は、中心地のみがランキングされているに留まり、東京圏の人口集中度は、極限に達しているとも言える。

1~3位を独占する山手線西側の、新宿、池袋、渋谷もスゴイが、品川から東京間のヒトの壁にも唖然とする。特に、些細なトラブルでダイヤに不調が発生した時は、ほとんど殺人列車だ。背の低い女性などは息苦しいだろうし、最悪だろう。

そんな中でヒトは何ができるかと言えば、誰にも迷惑をかけない形では何もできない。もう、無になるしかない。

何も考えず、何もしない。
こんな所から人間性を破壊されていきそうで怖い。実際、不機嫌なヒトが多い。こんな人生も不本意だ。何とか環境を変えなければ。このハードな通勤は続けられないし、続ける意味が分からない。

2009年10月23日金曜日

大人のイスとりゲーム

10月に異動し、通勤経路が変わった。今までは東急田園都市線で都心まで移動していたが、勤務地が山手線沿線湾岸部になったので、溝の口駅で東急大井町線に乗り替えている。この乗り替えが壮絶だ。

大井町線は溝の口駅が始発なので、朝の時間帯はとにかく大勢が並んでいる。特に多いのは座りたい人で、次が早くつきたい人。おかげで「先発」「次発」「次々発」はそれぞれに3列ずつ、みっちりと並んでおり、自分がどの列に並ぶかは、ある程度の経験が必要になる。

しかも悪い事に、大井町駅は改札が前にしかないため、乗客を分散させることもできない。結果、急行電車の先頭車両は大井町行の奴隷運搬車のような状態になる。まあ、極めて殺伐としている訳だ。

そのような状況で与えられた席は、出入口1ヶ所あたり7人掛けx2列で14名分になる。基本、3列なので4番目まではだいたい座れて、5番目の人は運次第ということかな。

そもそも座りたくて並んでる人で、急いでいる人が5番目あたりに並ぶと、ドアが開くと同時に駆け込み、競争になる。座ることを目的とした人たちの塊は、さながらイス取りゲームのようになってくる。

大の大人がケツを振り合い、僅かな隙間にケツをねじ込もうとする。ゲームと違うのは、その妙な勝負が終わった後に、ゲームに関係ないさらに多くのヒトが、ドンドン入ってくることだ。

結果、負けたヒトは完膚なきまで攻めこまれることになる。今日も勝負に負けて、その自分に競り勝った人を睨んでいる輩がいた。

こんな事ばかりが続くと、ヒトの心も段々と荒んでくるだろうな、と思った。思いやりも無くなり、気遣いも無くなり、自己中心的な考え方に支配されて、感情も失い、ただ淡々と生きる、そんな生き方になってしまいそうだ。

何となく、今までの流れで一番前に乗ってたが、今度は後ろの車両も確認してみよう。

2009年10月21日水曜日

ビジコン

このブログのタイトルである「Mallet of luck」は、日本語で「打出の小槌」と言う事。それは、今まさにビジネスとして検討している「Kozchi」というサービスのコンセプトになるキーワードだ。

「Kozchi」は、簡単な仕組みでお店を繋いで、芋づる式にお店が見つかる、画期的なサービスだ。いわゆる集客・販促に分類されるが、既存のサービスとは大きく異なる。

まず、格安で必要十分な基本機能を提供している。これによって、既存サービスでは取り込む事のできなかった物販店を中心とした、低単価店舗の利用も期待できるようになる。また、お店を検索するプロセスがユニークで、お店にとっても、お客さまにとっても、そして商店街にとっても大きなメリットが得られるサービスになっている。

まだ、プロトタイプ段階で、事業主体も株式会社化していないのだが、7月頃から3つのビジネスプランコンテストに応募してみた。結構、自信があったが、現在のところ、2つは二次落選、1つはファイナルに進んだ。後はプレゼン次第だ。

とりあえず落選理由を考えてみる。

一つは、かなりローカルなコンテストで、ファイナルに辿り着いたのは、地元のビジネスばかりだった。どう見ても負けてないだろ、というビジネスもファイナリストに名を連ねてたので、まあ、「地元」が最大のアドバンテージだったと思われる。

また、形としての事業主体もあり、やはり、事業主体の有無は選択の一つのキーになる場合が多いのかな、と。何らかの事業主体があると、継続性や覚悟が担保されるのかもしれない。仮に、まだ事業主体の組成が成ってない場合でも、チーム名か任意団体名は付けておく必要があるんだろう。

もう一つのコンテストは、落選理由もファイナリストも公表されてないので、サッパリ分からないのだが、過去の受賞企業を見ると、上記の理由に加えて、少しでも売上が出てるモノがほとんどなのかな、と。0から1にした努力と実績があると、プランに説得力が生まれるんだろう。

プランそのものの不備は不明なれど、コンテストに応募する資格というか、最低限のハードルを超えるための要件が、少し分かった。


2009年10月19日月曜日

独立自尊

福澤諭吉の教えに「修身要領」というものがある。個人、夫婦を基本とし、その上に家族、社会、国家、世界があるという考え方が述べられているそうだ。また、忠孝の教えは省かれ、道徳は時代とともに変化すると、新しいモラルのあり方を示しているらしい。

この「基本は個人」という考え方が、「独立自尊」「国を支えて国に頼まず」のベースになっている。この考え方は、自らの理想とする生き方を深く考察していくと、自然と到達するモノであるとも思える。

自分自身も、深く悩み見出した一つのコンセプトは「自立利他」だった。決して同じ深さの思索をしているとは思わないが、理想の形に「独立」「自立」と似たキーワードを挙げているのは嬉しかった。

もちろん福澤諭吉は、自分が到達している境地に他の人も辿り着けるよう、道標としてのキーワードを示してくれたのに対して、自分は自分の辿り着きたい境地を示したもので、位置づけは全く違う。

ただ、自分の志向する方向が決して間違ってなかったことを確認でき、大きな安心感を得た気がした。

2009年10月16日金曜日

国民の判断があれば、、、

ズルいよ、ポッポ兄ちゃん。

マニフェストをどの程度実現するかは、政権を取った今、考える事じゃないの?おママごとみたいな、野党時代に作ったマニフェストが100%的を射ているはずもないじゃないか。マニフェストを全て守って欲しいなんて思ってないよ。合理的な説明があれば、約束なんて反故にしたっていいんだよ。

それは、政権を担う人の責任であり、義務なんじゃないの?今現在、置かれた立場で考えた時に、どの程度マニフェストを守って、政策を実行していくのか、そういった重要な意思決定も含めて任せてみたんだよ。それを「国民のご判断を頂ければ、、、」なんて、ほざくようじゃ、まだまだおママごとからは脱していないのかね?

じゃあ聞くが、国民の意思を伝える機会ってのはあるの?そんなプロセスないでしょ?プロセスの不備・不在を知りながら言ってるなら、ただの詭弁だよね。国政に不要であるとの国民の意思を伝えた、国民新党や社民党と手を組み、国民の意思に反して借金を積み上げる。そんな、本質的に信用できない政党なんだよ、民主党って。

日本をどうしたいんだ?大盤振る舞いの各種無料化は、借金の後世への付け回しだし、国債の乱発もしかり。経済活力向上は何の施策もなく、少子化も手をこまねいて見ているだけ。ただマニフェスト実行のみが目的化している現状は、足下も将来もズタズタにする愚策の塊のように見える。

僕たちはどうなっちゃうんだ?もっと真剣に考えてくれないと、選んだ意味がなくなっちゃうよ。

2009年10月14日水曜日

日本人が親切でない理由は

先日、電車で席を譲っている若者がいた。曰く、次の駅で降りるので、どうぞ。譲られた初老の女性は、私も次の駅で……と座ることはなかった。

この若者は次も席を譲るかもしれないが、少しの躊躇を覚える事は間違いないだろう。こういった事の積み重ねが、人から優しさを奪っていくのではないかな。

確かに老人と言うには少し若かった気もする。まだまだ若いと考え、年寄り扱いされることに憤慨するのではなく、甘んじて好意を受ける度量の広さを見せるのが年長者の対応だと、私は考える。

自分の満足や感情と同等以上に、全体系としての社会の成熟を考えるべき年齢の人々の民度の低さは、この国を滅ぼす一因になるだろう。結局、親切を受け慣れてないことが、不親切(親切にできない事)の主原因じゃないか、と推測するに至った。

皆さん、他人の親切は甘んじて受けるべし。そこでは、ブライドも独自の価値観も不要であり、ただ感謝すべし。そして、恐れることなく、他人に優しくすべし。

2009年10月12日月曜日

いつからスタートしてもよい

先日、とある方を訪ねて甲府の白州にいった。その方は父の知り合いで、会社を経営されていたのだが、リタイヤ後、田舎へと居を移されたらしい。本当は複雑な訳もあるのだろうが、ここでは割愛させていただき、今現在の姿について、紹介させてもらおうと思う。

彼は現在、78歳である。
自分の父親よりも5歳年上で、十分に高齢者と言える年齢だろう。ただ、その時にいた私も含めて4名の内で、間違いなく一番エネルギッシュで行動的だと感じた。

田舎に居を移したのが、70歳を過ぎた頃だと言うから、普通に考えると余生をゆっくりと過ごすためかとも思える。しかし、その行動はそう言った事を感じさせない。

家庭菜園程度なら驚かないが、小麦を作り、大豆を作り、果樹を育て、味噌を作り、ワインを作る。そして、セラーを作り、井戸を掘り、池を作り、今また、石窯とワサビ田を計画中とのこと。

構想力と行動力が半端じゃない。
やってみたいとは思っても、行動に移せる人は少ないだろう。ただただスゴい!と感じた。

この方のお宅にお邪魔する前に、柳生博が主宰する八ヶ岳倶楽部にも行ってみた。こちらもスゴい!全く期待せずに訪れたのだが、その構想力、行動力に感嘆した。

どちらにも共通するのは、物事を始めるのに遅すぎる事は決してない、ということ。つまり、いつから始めても良く、裏を返せば「思い立ったが吉日」という事だろう。

とにかく、やりたい事に一途にまっすぐ拘って進む事が、人生を楽しむコツなんだろう、と感じた。また、周りのヒトたちの様子を見聞きすると、ヒトに巻き込まれて行く事も、人生の幅を広げる事になるステキな出来事なんだろう。

こうやって、巻き込み、巻き込まれながら、それを楽しめる人生が理想だ。人生にムダはないが、有限だ。この事を意識した生き方をしたい。


2009年10月9日金曜日

再生可能エネルギーの適用

スマートグリッドと呼ばれる電力供給網の新しい考え方がある。

今まで、電力会社が供給する系統電力以外に使える電力源は、ほとんどなかったのだが、昨今の技術開発により、例えばマイクログリッドのような、独自安定電力源を確保することが、コストの問題はあれど、可能になった。

ここで使われるグリッドとは、いわゆる電力網のことであり、マイクログリッドは小規模電力網、スマートグリッドは賢い電力網、ということになる。スマートグリッドの特徴は、太陽光や風力などといった自然エネルギー、再生可能エネルギーをその系統内に取り込んでいることにある。

エコ、CO2排出抑制といった観点では理想的な、これら再生可能エネルギーも、系統電力の安定供給という観点に立つと、問題児でしかない。

日本の電力品質は世界一で、例えば年間停電時間といった指標で見ると、他国の追随を許さない。そう言えば、先日観た「96時間」で、主人公が悪人を追い詰め、電気ショックで拷問するシーンがあったがその際、「かつて発展途上国では系統電力が安定しないので電気ショックは使えず、他の拷問方法を使ったものだ」と言っていたのを思い出した。ともあれ、アメリカが1時間ほどもあるのに対して、2〜3分程度と言うから、十分に高品質だ。仮にスマートである事のゴール指標に、電力品質があるなら、日本の電力はすでにスマートと言えてしまうのかもしれない。

その電力品質を担保するのが、読める電力源の最適連携とでも言うべき、系統管理にある。安定的に電気を作り出せる原子力や水力、需要の変動に追従できる火力、余剰電力のエネルギー置換を行う揚水式水力、と見事に読める電力源の組み合わせで、需要に対応している。

ここに再生可能エネルギーが入るという事は、火力もしくは原子力の代替を意味するが、お天気まかせの再生可能エネルギーに安定性も変動追従性も期待できない。何にも置き換えられない電力源は、ただの余剰電力でしかなく、有効に活用することができない。このことは定格電力を見ているだけでは分からない、再生可能エネルギーの活用に向けた大きなハードルだと思う。

結局、再生可能エネルギーは電力品質とは二律背反の関係にあり、化石燃料の使用量を減らすには、ある程度の電力品質低下を覚悟する必要がありますよ、とキッチリ説明し、理解を求めなければならない。江戸時代に戻る必要はない。ただ、年間停電時間を30分程度許容するだけかもしれない。

しかし果たして、極めて共同体意識の弱い日本人に、受け入れることができるのだろうか?

2009年10月7日水曜日

全体最適のモラル

日本で一番混んでいると言われる路線を通勤経路とする身として、人の性を感じるシーンには毎日のように出くわすことになる。特に自分のことしか考えてないような、ある意味で要領の良い行動には眉をひそめる事も多い。多分に鉄道事業者にも非はあると思うが。

例えば、列に並ばない、と言うか、列の脇をすり抜ける行為。大阪出身の自分的には列に並ばないことは、さして不自然な行為ではないが、大阪と東京のそれは全く質が違う。大阪の人は並ばないが、一番を競って駆け込むこともない。実際、席が空いてても立っている人は多い。東京は、確実に人より前に乗りたい、進みたいという人がほとんどだと思う。

また、乗り込むのが遅い人も東京には多い。一番前に立ってても乗り込むのにノンビリしている人がいて、後ろに並んでるとイライラすることがある。こういう人は大抵、ドア脇のスペースを確保したい、という人である。大阪には、こういった人はいない。

さらに、通路を通ろうとしたとき、道を塞いでいるのに避けない人も多い。特に帰りの電車は顕著だ。こういった人々は、社会が助け合いで成立していることに思いを馳せたことがないのだろう。

自分だけが良ければそれで良いという個人主義の塊であり、社会最適の意識が欠如しているとしか思えない。しかし、それぞれは悪い人ではないだろう。社会意識が極端に欠如した欠格者でもないと思う。ただ、そういった事象に対して問題意識を持ち、考えるという行動を取ってないというだけである。

全体最適は考えることから始まる。

2009年10月5日月曜日

老人は白痴、リーマンは無教養、若者は馬鹿者

この分類は楽しいけど、この国の未来のなさを示している。未来を憂い、行動する人材がいないのだから。

未来はヤバいと言いながら、既得権益の椅子から立とうとしない老人たち。彼らはテレビ漬けで、批判はすれど何一つ生産的な行動は起こさない。

サラリーマンもヤバいと言いながら、安穏とした正社員の椅子から降りようとしないのだから、同類か。教養のなさが、現状維持に拍車を掛けている。

若者はヤバさが我身に降り掛かる、最も不利益を被る主体であるにも関わらず、馬鹿であり、リアルに感じることができないので、どうしようもない。

本当にヤバくなってから行動するのは賢い人のする事ではない。ヤバくなる前に、一見不合理な、馬鹿な行動を取り、難を逃れる。もちろん、より大きい単位で難を逃れられるよう努力する訳だが、あるタイミングで見切りをつける。その潔さも同時に満たすべき資質であると言える。

30年前の著書が指摘し、今なお、違和感なく読むことのできる内容は、大前研一と白洲次郎の記述の共通性にも見て取れる。結局、人は変わらず、時代に合うか合わないかだけの話なのかも。

そういった意味では、日本の時代は終わったと、高らかに宣言しても差し支えないのかも知れない。

2009年10月2日金曜日

技能伝承の意義

昨日の延長線上にある未来のために、今までに描いた線分を確認する作業が、技能伝承と言えないか?

昨日と違う未来、不連続な未来を前提にした時、技能伝承は意味を持つのだろうか?

頑なに守り続けた技能が通用しなくなる世界、それが今目の前に広がっている世界なんじゃないのかな?

2009年9月30日水曜日

own Super-Hero

ヒトは皆、心に自分なりのスーパーヒーローを描くべきだとおもう。

スーパーヒーローの思考、行動、モラル、全ては理想的で、疑うべくもない。ヒトは、その自分なりのスーパーヒーローを目指し、少しでも近づけるよう精進することになる。少し分かりにくいかもしれないので、分かりやすい例をあげると、イエス・キリストがスーパーヒーローだ。

キリスト教圈のヒトは、理想的ヒーロー、イエス・キリストになりたがっている。正確に言うと、毎日曜日のミサは自分とキリストとの距離を測りに行っている。そこで思い描かれるキリストはヒトそれぞれで、同じキリストは一人としていない。大事なのは、キリストが実体のあるリアリスティックなものではなく、その考え方や行動など、伝聞によるアウトラインだけがそこにある、という事実だ。

これこそがヒーローを生み出す仕組みだと思う。

失敗や未熟さ、独善は薄れ、成功や奇跡や高貴かつ普遍的な考え方、行動は、より強調される。当然、逆もあり得る。実体として既に存在しない対象を、行動、言動で表現していくと、善悪の境界線が明確になり、表現者の恣意的な判断が露わになる。イエス・キリストは、その善バイアスが最高に効いた事例だろう。

つまり、アウトラインだけが明確になった、極めて善バイアスの強い存在を思い描き、そこに近づこうとする行為が、ミサなんだ。

善なる存在の具体的な意思決定は、誰も知らない。ただ、自分が思い描くような理想的な存在ならば、このように意思決定するだろうという、個人的な思い込みがあるだけなんだろう。それは即ち、スーパーヒーローを想像し憧れるという行為となんら変わりはない。

それぞれが思い描くスーパーヒーローが置かれた状況、精神状態、意思決定、行動などを細かく考えていくと、そこには一定の基礎法則のようなものがあると思う。それを定義したのが聖書であり、コーランなんだろう。聖書やコーランを読むことで、スーパーヒーローの行動を追体験し、よりアウトラインを固めることができる。

そうやって、欧米人は善なるスーパーヒーローをそれぞれの頭の中で構築していく。アウトラインが固まっているから、個人差はあれど、大きなブレがないことが最大の強みだろう。

一人の善なる存在を利用して、意識を糾合させていく。ものすごく合理的で強力な方法だと思う。これに勝つのは難しいだろうなぁ。


2009年9月28日月曜日

隣の芝生

人間は比較する生き物だ。日本人は特にその傾向が強い気がする。しかし、隣の芝生はいつ見ても青いものだ。見える場所だけ青々と整備しているだけかもしれない。

郷ひろみ曰く、
「隣との比較は無意味な劣等感とつまらない優越感しか生まない。」

けだし名言。

2009年9月26日土曜日

型が大事

日本の古来からの教えである、型を学ぶことをシステマチックにできないものか?

武道、芸能、芸術...全ての領域で、型の修得は最重要教育プロセスだろう。型を学んだ後に独自性が生まれる。守破離は普遍原則だと思う。

現場監督としての型、研究員としての型を学ぶ場がないことは、伝統やコアコンピタンス、技能、技術、スキル、マインドを伝え、守る意思がないということだろう。

型を学ぶ場を作らずに、技能伝承を謳うのはナンセンスだ。

2009年9月23日水曜日

検査技術=調達技術

通常、検査技術はビジネスをドライブすることはないにせよ、生産技術の中でも品質を左右する重要なパーツの一つである。

しかし、建設ビジネスの大部分は取極という「施工量による再委託」で成り立っているため、検査も含めて下請け施工会社に委託している。ゼネコンは、商品としての建物には責任を持つが、パーツの製作責任までは負わない(意識として)。

そして工場製品ならば、検品、検収によって、部品としての品質を確保することが可能だが、現地生産である建設ビジネスにおいては、そこで働く作業員の質に依存する事になる。すなわち、適切な評価に基く調達と現場内におけるコミュニケーションが品質の鍵をにぎる。

つまり建設における品質は、調達技術と施工技術に収斂していくという事だろう。

2009年9月21日月曜日

競争環境の重要性

当たり前かもしれないが、競争環境が組織の行動スタイルを変える。

競争があるところは行動原理として「目の前の競争に勝つために何が何でも」という組織の意識が強い。逆に競争がない環境だと、個人の意識や能力に依存する。

翻ってゼネコンは、という事を考えるとなかなか難しい。競争に晒されていると言えるのは、受注に絡む営業、設計、現業幹部が主になる。施工には本質的に、組織の意思を注入することは難しいだろう。研究所はなおさらで、そもそも本業に寄与しないことを特徴とする組織で競争環境を求める方がおかしい、という事になる。

そうすると、個人の意識や能力に依存した競争に晒されることのないボンヤリ、ノンビリした研究開発にならざるを得ない。そうならないためには、自らの首を絞める事を覚悟の上で、研究開発の種を誰かの競争環境に位置付けてもらうか、意識を高く持つしかない。

誰かの競争環境に身を置くことは、人にハンドルを預けることにも繋がるので、少しの勇気が必要だ。しかし少なくとも、自然発生的な競争環境に期待できない以上はそうでもしないと、ロクでもないことになるのは目に見えている。

2009年9月18日金曜日

Twitterのハードル

昔から新しいサービスはとりあえず登録することにしている。お陰でGmailも苗字でアカウントを持っているし、Twitterも2007年4月13日に登録している。(When Did You Join Twitter?)Gmailは生活に欠かせないサービスになったがTwitterは恥ずかしながら、未だに良さが分からずにいる。登録から2年半も経てるのに、だ。

だんだんとメジャーになるにつれ、Webや雑誌などでも見かける機会が多くなり、絶賛される一方で、面白さを理解できない人も増えているように感じる。絶賛する側は、フォローがすくないからだと言う。有名人のフォローを増やせば面白くなってきますよ、と。反対側の人は、知り合いでもない人の「はら減った」「トンカツ食べた」「銀座なう」を知ることに何の意味があるのか分からない、と言う。

私は後者だが、知り合いのプレゼンスを緩く理解できるのは、少しの意味があるかもしれない、とも思う。ただ、本当にフォローを増やすことが、サービスの理解への一番の近道だとしたら、Twitterはこれ以上伸びないと思う。

サービスの良さを理解してもらう、そのビジネスの第一歩へのハードルが高すぎる。今は、イノベーターと呼ばれるような好奇心が強く、Webサービスに理解があり、モルモットになってもいいや、という類いの人が集まっているので、何やら活況を呈しているが、普通の人には参加できないだろう。イノベーターにはちょっと劣るが、普通の人よりは好奇心が強い自分が乗れないから、なおの事そう思う。

理解することに(フォローを増やすなどの)条件が必要なサービスは、キャズムを超えられない。もっと、直感的に利用者に「サービスの良さ」を喚起できなければ、早晩廃れるのがオチだろう。マネタイズに注力してる場合ではない。

2009年9月16日水曜日

Googleに対するロイヤルティ

何だろう?

今となっては預けているデータの多さがスイッチングコストを高め、容易には止めれなくなっている。しかし、止めれない訳ではない。止めない理由は、相対的なユーザビリティの高さかな。そして的を得た機能開発が継続利用の鍵になっているように思える。

しかし初期は、データの蓄積度が低く、単機能なのだから、ユーザビリティすなわちユーザエクスペリエンスのみが選定基準と言っていいだろう。検索という行為/機能にそこまでの差別化可能なユーザビリティの違いがある事に気が付いた人はいたのだろうか?

一般論として、ユーザビリティが高まればロイヤルティユーザが増える事は言えるだろうが、そんな愚論を吹き飛ばすほどの成長を、結果的に実現している。つまりは破壊的イノベーションであり、パラダイムシフトだったということか。

2009年9月14日月曜日

枯れた技術の水平思考

任天堂の本を立ち読みして、深く頷いた言葉がありました。それが「枯れた技術の水平思考」です。これは大ヒット玩具を作り続けた、横井軍平さんという方の言葉です。

横井さんは豆電球と太陽電池でシューティングゲームを作りました。太陽電池は当時、技術的には既に枯れており、アプリケーションを探してメーカーが各所にヒアリングをかけていた段階という事のようです。おそらく性能は低く、光に反応してごく微量の電気は流す程度だったと思われます。横井さんは太陽電池の発電性能ではなく、光に反応するという機能に着目して、シューティングの的として、弾である豆電球の光を捕捉することだけに使いました。本来、太陽電池は発電することが目的ですし、豆電球は光ることが目的です。一旦それを置いておいて、組み合わせで新しい価値を作り上げた訳です。

このことが、「枯れた技術の水平思考」の事例として紹介されていました。私もイノベーションは、コンセプトと技術を両輪として、デザインを燃料に走り出すもの、だと考えています。世の中に受け入れられるものの多くは、枯れた技術を使い、新しいコンセプトの皮を被せたものだと思います。新しい技術、それがある程度枯れるまで、その技術を適用することによるリスクが見えてくるまで、不遇の時を過ごす運命にあります。

その時期をグッと耐え、素晴らしいコンセプトで商品化する事ができたら、大きな大きな果実を得ることもできるでしょう。しかし多くはそこまで至らず、技術の礎となり果実は将来世代に渡さざるを得なくなります。ことほどさように、技術でイノベーションを起こすのは難しい事なのです。

2009年9月11日金曜日

三菱一号館

ずいぶん前の話だが、その時はまだ一般公開してないので、ブログとかに書かないでと釘を刺されたので、カフェオープンを見計らってアップ。

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先日、三菱一号館を見学する機会があった。施工中、煉瓦積み工程も見せて頂いており、感慨もひとしおだった。こういった、こだわり抜いた建物を見ると、普段は建設業界の斜陽さ、危機感の無さに嫌悪しながらも、やはり建築が好きなんだな、ということを再認識したりする。

1階の銀行窓口は、2フロア分の吹き抜けで天井が高く、海外のようなアーチ型の小窓を通して行員と相対する窓口になっており、上部に付く灯りの雰囲気とあいまって、極上の空間を作り出していた。2階にあたる部分の回廊が、少し存在感がありすぎて残念な気もしたが、好みの問題かもしれない。

窓ガラスは、昔のような波打ったフロートガラスは作れないので、丸ビルだか、新丸ビルだかの改築の際に、窓ガラスを全て保存しておき、再利用したとのこと。実際はもっともっと波打ってたと思うが、そのこだわりに脱帽。その他内外装も素晴らしく、建物って、ものづくりって、結局は「こだわり」なんだな、と実感した見学だった。

品質や風合いではなく、コストダウンにしかこだわれない「ものづくり」や「建物」は、どこに向かっているのだろう?

2009年9月9日水曜日

決して真剣にならない大企業内での仕事

会社での仕事に面白みとか、やり甲斐は求めていない。言ってみれば、プラスを最大化するのではなく、マイナスを最小化する方向性を持って物事に取り組んでいる、とは同僚の談。

共感。でも、数多の選択肢の中から最もマイナスが小さいであろう行動を選択する、そんな事で会社も社会も良くなる訳がないじゃないか。残念ながら現実はそう。ナゼかと考えると、プラスに取り組む意義がみえず、ましてや最大化するなんて、ナンセンスだということ。

業務や会社にコミットしていない事が主因かもしれない。業務と会社のリンクが希薄になっている気がする。業務が会社にリンクしていないから、業務に真剣になれないし、会社への忠誠心が揺らいでくるんじゃないかな?

2009年9月7日月曜日

100年に一度とは

明日が今日と同じとは限らない、ということ。

今日、上手く行ったからといって、明日も順調とは限らない。逆に言えば、今日上手く行かなかったからって、落ち込む必要もない。

一つだけ確実なのは、今日と同じことをしていたら、明日はないという事だろう。日々をどのような心持ちで過ごすか、それがシビアに問われているんじゃないかな?

ゼネコンビジネスは、過去の延長線上に今日があり、今日の続きとして明日がある、そのような連続性の中で動いている。100年に一度のパラダイムシフトが目の前で起こっている、その中にあって、このようなビジネススタイルは成立しうるのか?正確に言うとビジネスが成長していけるのか?

ビジネスは成長して行く必要がない、と言う人がいる。それは、実はかなり危険な考え方だろう。成長しない産業には、優秀な人は集まらない。ゆえに、ますます衰退して行く。ゼネコンの場合、その業として人海戦術的であり、そのスタイルに拍車がかかる事は間違いない。

新しい技術は生み出されず、イノベーションは起こらず、淡々と日々を暮らす、そんな人々の集団になってしまうだろう。ただし、世の中の流れに追従する事を是とする社風は、無意味に規制を強化する事に走り、社内の閉塞感はさらに強くなる。業者からも見放され、もはや品質も運次第、というような末期的な状態になる可能性は高い。

ビジネスが斜陽でないことを証明し、人を魅きつけ、イノベーションを誘発する、そんなビジョンが大切だろう。成長しなくても良い、などと言う意見は近視眼的で極めてナンセンスである。

2009年9月4日金曜日

自由でいられたのは

ミンナに守られ、支えられてたからなんだなぁ〜、とつくづく思う。

最近、色んな人から色んな励ましを受ける。何だか元気がないと評判らしい。上司にネグられ、そのまた上司に蔑まれて、あまり周りを気にしない自分も凹み気味で、まあ、周りの人の評価は間違いない訳だが。

たいした成果も生み出さず、どちらかといえば、会社のルールすらあまり守らずに過ごしてきた。それでも、それなりに評価してくれる人は多くて、何とかやってこられた。

今の上司の上司は、出自も違えば興味の対象も違い、今まで全く接点のなかった人だが、まあ、一般社会ではよくある事だろうとは思う。そんな人から、若干人格否定的な事を言われ、今まで味方でいたハズの上司まで変節し、うーん困ったな、と。

そこで改めて感じたのは、自分は恵まれていたんだな、という事。多くの人に守られ、強い風を受ける事なく、ここまでこれた。ミンナ、こんな窮屈な環境で仕事してきたのね。

本当に、良い人たちに出会えて、可愛がられ励まされ、ここにいれる事に感謝します。そろそろ立ち上がり、次の一歩を踏み出そう。しつこいと嫌われちゃうからね。

2009年9月2日水曜日

ビジネスの本質

責任を持って価値観を提案/提供すること、世に広めること。価値観の違いだけで、基本的に宗教と変わらない。

2009年8月31日月曜日

シーンオリエンテッドコミュニケーション

型って大事。

長い歴史を持つものは大抵型がある。それは、よく使うシーンを限定的に設定し、そのシーンに対しては完璧に対応できる行動の微に入り細に穿つ様式の伝承である。

つまり、シーンの限定的な設定に全ては依存する。例えば相撲の48手の様に、例えば剣道の面胴小手の様に、例えば歌舞伎の連獅子の様に、ビジネスの行動様式は整理できるのだろうか?

ビジネスという括りで考えた時はMBAカリキュラムがそれに当たるのかも知れない。でもそれは武道で言うと、剣道、空手、柔道、相撲、合気道などを全てひっくるめて考えた時の共通項としての「型」なんじゃないかな?

MBAは個別のビジネスにおける型を示し伝えるものではないと思う。つまり、各業種はそれぞれに自らに適した「型」を作り込んで行く必要がある。そして、その型をベースとしたコミュニケーションを模索する必要があるだろう。

2009年8月28日金曜日

96時間

さすが、リュック・ベッソン。スピード感が凄かった。

邦題は「96時間」だが原題は「Taken」となっており、ゆっくりした立ち上がりもあいまって、もしかして入る場所を間違ったかな?と思ったり。

主人公のリーアム・ニーソンの立ち位置や持っている能力がワリと分かりやすく、ストーリーはシンプルでスムーズに追うことができた。娘が誘拐されてからの展開は圧巻で、ご都合主義も多分にあるものの、90分という短めの上映時間を考えると、納得がいくものだった。

それにしても、主人公の無敵感はすごい。そして、異様に残忍な感じが、娘を想う親の気持ちを際立たせていたとも思う。久し振りにアクション・サスペンス映画を観たが、予想以上の面白さだった。

オススメです。

2009年8月26日水曜日

ゼネコンは焦土と化さないか?

サブプライムローンに端を発した金融恐慌・不動産不況は確実にゼネコンのビジネスを蝕んでいる。

悪いことに、ゼネコンは体質的にリスクを取れないので、新しい事業に足を伸ばすこともできない。考えてみれば、戦争で空襲を受け、焦土と化した日本の状況に近くないか?

開戦に対して抵抗し、色んな方策を練るも失敗。状勢は悪くなる一方だが国民には知らされない。結果、多くの犠牲者をだし、かつ国土はボロボロ。つまり、逃げ遅れたら、生き残れるかどうかは全くの運でしかないという事だ。当社のいく末を見ているみたい。

こんな時、白洲次郎は先を読んで疎開し、自立の道を立てた。そういう事だろ。

2009年8月24日月曜日

ゼネコンにおいて理想的な研究領域

ゼネコンにおいて、研究開発の未来と会社の未来を同一視しようとすると、思考が破綻する。なぜなら、会社に未来志向性が無いから。少なくとも無いように見えるから。

その意味では、研究開発の未来と会社の未来が独立的に考えられる研究領域を持つか、思考ベクトルを持つことは重要なのかもしれない。

自分が今まで取り組んできた、施工管理、マネジメント、企画、新規事業開発はいずれも、会社の未来と不可分のように思える。これらの領域は、理想を追及すると、必ず会社の未来に思いを馳せることになる。それゆえ行き詰まる。また、初期投資が多く必要だったり、モノ作りが先行するような研究開発も、昨今の原資不足から挫折しやすい。

そのように考えると、ゼネコンにおいて理想的な研究領域は、意外に小さいことがわかる。

まず、本業、すなわち建物を建てる行為に関係している事。かといって、経営に関わってくるモノではない事。さらに、必要原資が少なく、できればパソコン上でハンドリング可能な事。地震動や風、温熱などのシュミレーションはベストだろう。

そうか、それで同じ社長の話を聞いても温度差があるのか。みんな、会社の未来なんて他人事だったんだ。

2009年8月21日金曜日

改革が難しい理由

危機意識が薄い。
議論する土壌が失われている。
それゆえ、未来を描けない。

どんなに立派なリーダーがトップに立っても、これでは難しいだろう。まず土壌改良、そして意識改革。

成功する可能性は低いが、ゼロではない。行動することの意義も明確だ。今、そういった活動にシフトするような経営環境かと問われたら、会社生命をかけて取り組めるならYes、でなければNoだろう。

今は考えるには適したタイミングだが、短期間に結果が出せなけれは、会社として終わってしまうかもしれない。私が提案した一年半前なら、成功確率は今の何倍も高かっただろうが。。。

期待を託すべき、優秀な人たちが存在することは分かっている。が、ここで大事なのは、チェやワルキューレで語られた教訓だろう。用意周到な準備とクリティカルマスに達する協力者。特に後者は、危機感や情熱を共有しなければいけないから難しい。最初に掲げた当社の致命的欠陥そのものだからだ。

仕組みの準備は意外に短期間に整うかも知れないが、短期決戦の経営改革に乗れるほど心の準備が整ってない気がする。

2009年8月19日水曜日

こわー

立ちながらウトウトして、隣の人のサンダルの足を、何回も(たぶん1,2回)掠るように踏んで、思いっきり踏み返された人がいた。

あーこわ。。

「サンダルだからすごく痛いんです」と叫んでたけど、果たして踏んだ人だけが悪いのか?踏まれた側として、思い切り踏み返す以外の対処法がなかったのかは、疑問だ。

人の足を踏む、という行為は意識的にせよ無意識的にせよ、褒められたものではない。だが、サンダルを履くことは、そういったリスクもある意味許容した結果ではないのか?逆にヒールの女の人に踏まれて男性が切れるシーンは見たことがないが、踏み返して良いものなのか?女性の靴は、ヒールは凶器であり、サンダルは無防備である。翻って男性は、多くの場合、革靴かスニーカーで凶器でもなければ無防備でもない。

無防備な自分には寛容で、ウトウトしてしまった相手には厳格に接するというのは、少し自己中心的すぎやしませんか、と感じたり。

満員電車、しかも最終に近ければ近いほど、色んな要因で乗客のモラルは乱れていく。そんな中で、何を許し許さないか、その基準は個人に依存する。ただ、無闇に怒ること、許さないこと、報復することだけが答えではないはずだろう。

2009年8月17日月曜日

危機と成長

日本の例を引くまでもなく、成長には危機が必要だ。

日本も会社も中途半端な危機に直面して、うまく乗りこなしていると錯覚して、必要な改革をできていない。このままだと哀しい結果になっちゃうよ。

中途半端な状態で変革を求めるには、近視眼バイアスを乗り越えて、big pictureを描くしかないが、そのためには意識の高さが不可欠だろう。

2009年8月14日金曜日

高齢化社会に向けたビジネス

人口分布を見ると、生半可なことではこれからの社会を乗り切れないと思う。

死ななくなった高齢者の扱いが一番大きな問題だろう。それこそ安心して暮らせるコミュニティなんて言う生温いソリューションは何の役にもたたない。もっとリアルに働き続けられる仕組みが求められている。

なるべく簡単なそれこそコミュニケーションがメインスキルになるビジネスを作り、そこにやり甲斐を担保に安く就労してもらう。安い労働力によって浮いた金をファンド化して、新しい若い人向きのビジネスを立ち上げる、なんてのは理想型じゃないかな?昔のスタイルの逆。

2009年8月12日水曜日

人脈とは?

人脈が大事だと、よく言われる。人脈って、どういう人を指すんだろう?

名刺交換しただけでは、人脈にはならないよな。じゃあ、一杯飲みに行った程度なのか、それ以上に愚痴やビジョンを語り合った間柄なのか、はたまた軽くお茶を飲んだくらいなのか。

いずれにせよ、何か接点を見出した時に連絡し、何らかの協力をお願いできる関係ってことだろう。意外にハードルが高い気がするが。そういった意味での人脈を自分はどれくらい持っているのか?そして、他人から見た時の人脈たり得ているのかは、はなはだ心許ない。

何が自分を人脈たらしめているか?それは情報であったり、技術であったり、思想であったりするのかもしれない。何かを解決するユニークな技術をもつことが、最も分かりやすい人脈形成術だろう。

2009年8月10日月曜日

ゼネコンの研究所としての成果

ゼネコンの研究所では、その成果に会社への貢献も社会への貢献も謳う必要がない、と言うか謳えない。

なぜなら、ゼネコンが作るものは基本的に100年前の技術でできているからだ。技術がビジネスをドライブしないのは、当然のことである。

また、建物は第一義的に特定企業もしくは団体のためにあるからだ。だから、最終顧客がどうとか言う議論はナンセンスである。貢献すべきは発注元企業に対してであり、その小さな社会こそが全てである。

決して、一般的な定義の「社会」ではないのだ。

2009年8月7日金曜日

ワルキューレ

また負け戦を見てしまった。
負けた原因は何だったんだろう?

情熱と信念を高いレベルで共有する同士が少なかった事。指導者の中で行動目標のコンセンサスが取れてなかった事。失敗を恐れる余りに後手に回っていた事。完璧を期す余りに行動が中途半端になってしまった事。フェールセーフが十分ではなく、不測の事態への備えが足りなかった事。目的達成に必要十分な機能への理解が低く、機能不足に陥ってしまった事。リーダーが実質的に一人しかいなかった事。カリスマとしてのリーダーだけでなく実務家としてのリーダーをも一人で背負わされていた事。戦闘力の大部分が扇動によって操られており、本質的な味方となっていなかった事。戦闘員の思想的な支持を得られていなかった事。勝ち馬たり得る体制を素早く築けなかった事。

キューバ革命と同じ課題が浮かび上がってくる。逆ができれば勝ち戦だよ。

2009年8月5日水曜日

クリティカルマスへの道程

キューバ革命は、なぜ成功したのか?

変革を望み、わが身を振り返らず献身的に参加、行動する人がクリティカルマスを超えたからだと思う。当時のキューバ政府の酷さも大いに関係するだろうが、最大のポイントは二頭体制だったことではないだろうか?

カストロとゲバラ、目的を一つにし統治方針の異なる二人が上手く補完し合うことで、多くの人を巻き込み、かつ離さない状態を作り出すことができたのではないか?

ボリビアでのゲバラはカリスマだった。皆の尊敬を集めてはいたが、求心力という点ではクリティカルマスを動かせるほどのパワーがなかったのかもしれない。それは、キューバの時のカストロも同じで、一人で実行した時は失敗している。

結局、組織ってそういうものかもしれない。カリスマ一人と実務家一人。その運命共同体に未来を感じ、将来を期待する。思えば著名な企業でも、少なくとも創業時には、二頭体制を敷いている所はある。ソニーの井深・盛田、ホンダの本田・藤沢は有名だ。

卓越した実務家がピッタリ寄り添って、カリスマと同じく尊敬を集める存在でなくてはならない。

2009年8月3日月曜日

che

もしかしたら普段の生活も、小さいながらも革命と言えるのかもしれない。特に「不」への抵抗はある意味では日常的な革命を起こそうとしている、とも読み取れるだろう。そして、革命には勝ち戦と負け戦がある。

cheは二部構成の映画だが、前半は勝ち戦を後半は負け戦を表現していた。何が違ったんだろう?

失敗はどちらかと言えば理解できる。危機感、熱さを共有してもらえなくて、空回りしていたんだろう。一部の人は共有し、行動を共にしていたが、クリティカルマスに達しなかったと言うことか。

搾取に飼い慣らされた人は、一番平和な現状維持を求め、安穏としている。そんな中でも現状を是とはせず、自分で考えビジョンを持て、と言う人もいる。その言葉は一部の人には届くが、多くの人にしてみれば平和を乱す不埒な発言と受け止められ、言葉の影響はクリティカルマスに達しない。

では、クリティカルマスに届かせるために何をしたら良いか?ヒントはキューバ革命にあるのかもしれない。

2009年7月31日金曜日

できそうな事の多さとできる事の少なさ

できそうな事って、本当に多い。
一方で、本当にできる事は少ないなぁ。

できる事を正確に抽出して、着実に実行して行くしかないんだろうな。

2009年7月29日水曜日

ビジネスがしたい

同僚に、「あなたはビジネスがしたいんだね」と言われた。その通り。研究も開発も、ましてや社内政治やサラリーマンらしい振る舞いなども、全く興味がない。今更だけど。

隔靴掻痒とでもいうのか、未来を見据えない企業における、新規事業を見越した研究開発という、矛盾に満ちた居場所は、そのジレンマから、遣り切れない思いでいっぱいになる。

ビジネスに打って出るのか、内的な研究開発にシフトするのかは、今現在直面している重大なポイントだと思う。まあ、会社の未来に希望が持てず、社長に共感できていない時点で答えは決まっているようなもんだけど。

社会と自分が置かれている危機的なポジションに気付きながらも、楽観的な未来を妄信して、現実を見ようとしない多くの人から離れて、独立自尊とばかりに市長の職を辞した中田さんに勇気をもらい、自らの道を定めよう。

2009年7月27日月曜日

イニシャル/ランニング3

イニシャルで稼ぐのか、ランニングで頑張るのかは、対象によって変わるのかな?

例えば、法人の場合。イニシャルを膨らませて固定資産にするよりも、ランニングで費用として処理できるほうがいいだろう。一方で個人の場合、ランニングでズルズルと支出がかさむよりも「一括払いで10年安心」みたいなプランの方が使い勝手がいいかもしれない。

提供者側として重要なのは、コストをしっかり把握すること、そして、メンテナンスの位置づけを明確にしておくことだろう。

これからの時代は、付加価値よりも基本機能の充実が求められる。ゴテゴテと使わない機能をくっつけて付加価値込みで一式幾ら、という商売は成り立たなくなる。それよりも、しっかりした基本機能が比較的安価で利用でき、利用者の状況に応じて追加できる機能が用意されていることが重要だ。

今まで、メンテナンスはどちらかと言えば付加価値だったが、今後は基本機能にならざるを得ないだろう。提供者側の立場に立てば、メンテナンスの心配をしなくて済むような、機能を絞ったロバストな商品に勝機があるということか。

2009年7月24日金曜日

希望と失望

2日続けて、経営者の話を聞く機会があった。そこには、日頃悩み、答えを見出せないでいる、自分が所属する会社の社会的な意義と自分の立ち位置に関する貴重な示唆があった。

昨日の方は、「未来に向かって善い会社を作っていく」と言い切り、経営者は理想を持つ事が大事で、究極の概念は「真善美」と語った。そして従業員は、この会社は何のためにあるのかの共通認識を持っている必要があり、その共通認識なるものは、理念や行動規範によって生まれる、と。そして、会社は長く続くほど、先人が築き上げた現状への敬意によって足がすくみ、チャレンジできなくなる、と言っていた。

今日の方は、自分が所属する会社の社長だが、石橋は叩いて渡らない、リスクを取らないのが当社のDNAと言い、拡大は望まない、利益は絞り出すものだ、と言う。さらに、自律的にベクトルをあわせて、みんなで力を合わせる中で、自分に与えられた範囲から一歩出るのが大事だと、語った。200年以上続くもの作りの伝統は「どうせ作るんだったら、良いものを作ろう」というメンタリティだそうだ。

なんという違いなんだろう。
閉塞感のある会社の変革を目指して思考してきたが、歴史の重みには勝てないことが明確になった。ウチは変わろうとしていないし、変われない。それは、意図的にベクトルを向かせるのではなく、阿吽の呼吸でわかるだろ、という前時代的なメンタリティにも現れている。

さらに言うと、ゼネコンという業態において「未来」を思考することはナンセンスであることも、同時に明らかになった。未来ではなく現在を生き抜くために、所属するコミュニティのために働き、等しく少ない富を分け合うことを目的とした会社なんだということを、痛切に感じた。

その意味において、完全に勘違いしていたのかもしれない。

得られた結論は、ゼネコンは社会主義国家を形成する一機能であり、等しく豊かに、そして等しく貧しく、落伍者を出すことなく、支え合いながら、分をわきまえて、社会インフラとして機能を果たすことが、使命だということ。未来を作る会社ではない、ということ。



2009年7月22日水曜日

カイキニッショク

皆既日食が日本国内で見られるのは、46年ぶりになるらしい。また、次回は26年後だということだから、多くの人にとって一生に一度の経験ということだろう。実際、46年前に皆既日食と遭遇した毛利少年は「宇宙から月が見てみたい」と宇宙飛行士になった。

しかし、日食メガネなるものは必要なんだろうか?

四半世紀ほど前には、理科の実験として当たり前に使ってた「濃い色の下敷き」「煤をつけたガラス」はことごとく否定されている。失明の危険性があるとのこと。本当?まあ、透過してくる光の成分をコントロールできないのは確かだろうから、何でも大丈夫とは、言えないだろう。だからと言って、日食メガネ以外は全てがノーと言うからには、今まで理科実験の名目で行ってきた膨大な人体実験の結果、太陽観察の被害にあった人が大勢いた、ということかな?違うよね。

日食メガネがない人には、厚紙に小さな穴を明けて、そこを透過してくる光を観察する、という方法をオススメしている。こうすると、太陽を直接見ることなく、太陽が欠けていく様子を紙の上で確認できるらしい。

ここに大きな勘違いがあるように感じるのは、私だけだろうか?小さな穴を透過する光線の様子を観察するのは、実験的には有意義かも知れない。しかし、僕たちが見たいのは「太陽が欠けていく様子」ではなく、「欠けていく太陽」なのだ。違うかな?

透過した光をさも本物のように騙る方法は、本質を見誤らせ、科学への興味をスポイルする可能性があると思う。あたかも、円周率3.14を3と教えていた、ゆとり教育のように。

気をつけて、自己責任で、空を見上げよう!


2009年7月20日月曜日

できたらイイね。でも、できるわけないよね。

イノベーティブなアイデアは、こんな意見に覆われている。だからこそ、何度もトライして挫折してきた、大して新しくもないアイデアが良いんだ、と改めて気付いた。

そもそも何度もトライされてきたと言う事は、それだけ何度も可能性が感じられてきたと言う事。時代が変わっても、環境が変わっても、人の「こうなったらイイな」と言う気持ちは変わらず、意識の底流に流れ続けている。

「こうなったらイイな」が実現しないのは、単にやり方が間違っているだけではなく、時代や環境にフィットしなかったのだろう。もしくはやりきれなかっただけかも知れない。ゴールの有用性と自分を信じて、手を変え品を変え、手段に固執する事なく前進するしかないよね。

今まで、散々失敗してきたアイデア、それこそが宝の山だ。メタバースやホログラフィなんかは、ここからが勝負かも知れない。

2009年7月17日金曜日

99/100の反対

昨日立ち読みした「革新的なアイデアがザクザク生まれる発想フレームワーク55 (永田豊志著)」という本の冒頭で、ヤマト運輸やソニーの例を引いて、反対が多いほど良いアイデアである、といった記述があった。

昔から言われていることだが、誤解があるような気がする。根底から反対されるようなアイデアが良いわけがない。検討に値するのは、コンセプトは賛成だが実施は反対という、極端な評価を受けるアイデアなんだと思う。

例えば個人の家までスピーディに荷物を届ける宅配便。それ以前は、国鉄の駅留めで発送から10日ほど必要だったという。そんな状況で宅配便の発想、コンセプトに反対が多いとは思えない。「言ってる事は分かるが、コストも手間もが掛かりすぎるでしょ」「できたらイイね。でも、できるわけないよね。」という反応が大多数ではなかったのかな、と推察する。

iTunes Storeもそう。その昔は音楽をCDからmp3などに変換するのも一苦労だった。リッピング、エンコードと、すごい時間をかけて1/10ぐらいに圧縮したファイルで、普通に音楽が聴けることが分かって、持っていたCDをひたすら変換しまくった。その時に夢中になった理由の一つは、「これ、みんなが持ってるCDを変換してシェアしたら、すごいライブラリになるんじゃない?」という気持ち。それがP2Pソフトを生み、犯罪の温床を作り出した。みんな合法的なmp3ストアを欲してた。でも、やりようがなかった。きっとソニーもアップルも、社内の多勢は「できたらイイね。でも、できるわけないよね。」と思ってたに違いない。

つまり、コンセプトは全員に賛成してもらえるが、実施の話になると、目の前に横たわる制約や先入観から、全員に反対される。これが良いアイデアなんだと思う。

「できたらイイね。でも、できるわけないよね。」

こんなアイデアが具現化された時、パラダイムシフトが起こる。イノベーションはこうやって生まれるのかも知れない。

2009年7月15日水曜日

機能を分解する=first step of innovation

イノベーティブな何かを生み出すのに、もしかしたら役立つかもしれないプロセス(と個人的には思っている)。

市場に出回っている商品/サービスは全て、誰かが定義したものだという事に気付くべきだと思う。その定義をひっくり返すには、商品/サービスがどんな機能の組合せで作られているかを精査するのが近道じゃないかな?そして、それぞれの機能を再定義して組み合わせる、という単純作業が実は全く違ったものを生み出す、一つのプロセスなんじゃないか、と最近は考えている。

建設現場で働いて非常に良かったのは、例えばアスファルト舗装されている道路でも、材工が折り重なって出来ていることが実感できた事。マンションなんかを見上げると、そこに投入された血と汗と涙が想像できるようになった事。そうやってモノってできてるんだと思うと、モノの定義を丸ごとひっくり返すというのはムリがあるんだろうな、と感じる。

でも、そこに与えられている機能を分解して、熟考して、再定義してあげると、全体に波及するような変化を生む事ができて、それが即ちイノベーションなんだと思う。

イノベーションって大上段に構えると難しくて、技術もコンセプトもデザインも新しいピカピカのモノを想像してしまいがちで、そうすると、手も足も出なかったりする。一方で、Leading Innovationを標榜する某社社員に聞くと、些細な日常的業務改善もイノベーションと定義しています、と言ってた。それってハードル下げ過ぎでしょ、とも思う。

ウォークマンも蒸気機関車もiPhoneも、そうやって生まれてきたんじゃないかな?世の中を、もっとこうしたい!という欲求と機能分解→再定義、これがイノベーションに繋がる一歩だと思う。

2009年7月13日月曜日

何から逃げるのか?

見えない未来。

ここに留まれば留まるだけ、未来が不透明になって行く。不透明が悪い訳ではない。どこにいても未来は不透明だろう。問題は、未来がないように思えること。

逆に、留まることで見える未来ってなんだ?少し昇格昇給したところで、どこにも、なににも貢献せず、ただ留まるだけになってしまう。既に見えている未来もある。それは、人口動静をベースにした未来であり、その未来に対する社会的な対応である。

この明らかになっている未来は、限りなく暗い。どうやっても明るい未来が描けない。想像力が足りないのだろうか?そう思い、周りに聞き回る作業を、ここの所、続けていたが、結局、描けなかった。そんな悲観的に考えるなよ、という反応がほとんどで、僕を納得させる明るい未来を語れる人はいなかった。

ネットでも説得力があるのは悲観論者だと思う。じゃあ、どうすれば良いんだ、ということが大事。僕は、5年ほど前から言い続けているが、半径1mを大切にして、3世代4家族を養える能力を身に付ける必要があると考えている。

そのためには、サラリーマンでは絶対的にダメだ。ココで培える能力に期待してもダメだ。とにかく離脱すること、自分と家族だけでもサバイブすることに力点を置いて、走るしかない。

視野狭窄かもしれない。ココロが狭いかもしれない。でも、ファンタジーに付き合ってるヒマもない。まずは、稼げる基盤を作らなければ。暗い未来に明かりを灯すために。

2009年7月10日金曜日

元請け気質と下請け根性

随所に表れるゼネコンらしさ。

力関係が下の人が相手の場合、押し付けるだけ押し付けて、自分の役割は「監督だ」として、何もしない人がいる。こういった人は、力関係が上の人には媚びへつらう。本当の意味で、何もしていない、何も作り出していない人たちだと思う。

この類いの人が集まってできた企業の出身者は、会社を離れると使えなくなる人が多い。

何より致命的なのは、対等な立場での付き合い方を知らないことじゃなかろうか。何かをやってもらうためには、こちらから与えていかないとダメ、という事を本質的に理解していない。

「なんでアイツは動かないんだ、動かすために同じことを何度も言って聞かせなきゃいけない。借金取りの気持ちが分かったよ」なんて言うのは、傲慢以外の何ものでもない。

その「なぜ」という疑問を解くには、自分を ふり返る他に方法はない。

取組みの回転を上げていくためにも、ギブ アンド ギブンが必要な事も分かってないようだ。取組んだ結果に、自らのプレゼンスが残るかどうかを良く考えた方がいい。オルタナティブであれば、バスから振り落とされるのがオチだろう。


2009年7月8日水曜日

イニシャル/ランニング2

イニシャルで稼ぐかランニングで稼ぐかは、とどのつまりは商売のネタとして、商品を選ぶのかサービスを選ぶのかに集約される、と言っては言いすぎだろうか?

商品を売ることをビジネスとすれば、自ずとイニシャルで稼ぐことになる。一方、サービスは形が無い分、何度でも利用してもらってランニングで稼ぐことが合理的なように思える。イニシャルでもランニングでも並列的に稼げるビジネスモデルが理想的だが、中々そうは行かないんだろう。

ランニングで稼ぎたいと言うのは、イニシャル偏重型ビジネスの行き詰まりに起因すると以前に書いたが、実態として上手く行った例は少ないと推察される。その理由として、それぞれに求められるビジネス上の力点が異なり、かつ、それに気付いている人が少ないからではないか、と考えている。ビジネスの必要条件はコンセプト、技術、デザインの3点であるとの前提に立って、以下の論を展開する。

イニシャルすなわち商品に求められる十分条件は、一にも二にも「品質」である。性能が飽和したいまの時代において、商品の優劣を決めるのは品質以外にないと思う。メーカーと呼ばれる会社は、ざっくり言うと商品を作っているのだから、品質を追及するのは自然の成り行きである。ゼネコンはサービスを売っているとも言えるが、イニシャルで稼ぐと言う意味で品質を追及せざるを得ない立ち位置にいる。

サービスは「ビジネスモデル」だ。サービスは商品と違って、掛かるコストがイマイチ明確ではない。そのため、ビジネスモデルすなわち稼ぎ方を明確にしておかないと、価格崩壊に歯止めが効かない。結果、無料化してしまうことになる。昨今のWebサービスの無料化は、ビジネスモデルをおざなりにして、人が集まれば広告で稼げるとの見通しが生んだものでもある。無料サービスで人を呼んで課金サービスに誘導する、という下劣な手段がまかり通るのも、ココの認識が甘いからだと思う。

良い商品を作っていっぱい売るか、シッカリしたビジネスモデルを作ってサービスを使ってもらうか、この二つの方向性は全く異なるため、一方のスタイルで邁進した人/企業が宗旨替えするのは容易ではない。だからこそ、イニシャルからランニングへのビジネスモデルの転換に成功事例が少ないのだと思う。

2009年7月6日月曜日

イノベーションの条件

最近、スティーブ・ジョブスに感化され(前からか)、イノベーションについて考えていました。

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イノベーションは明日を作る。
イノベーションは生活を一変させる。
イノベーションはそれが無かった以前の生活を遠い昔の記憶にしてしまう。
イノベーションは周りを巻き込む。
イノベーションは個人が購入の選択権を持っている。
イノベーションは感情に訴えかける。
イノベーションは利用の間口を広げたりスピードを上げたりすることで新しい体験を提供する。
イノベーションは数十倍〜無限大の体験をもたらす。
イノベーションは既存の概念を再定義することで生まれる。
イノベーションは従来型商品と共存できる。
イノベーションは応用発展の可能性を感じさせる。
イノベーションは既存技術の組合せでできている。
イノベーションは測れる何かが減り、測れない何かが増える。
イノベーションは今まで捨てられてきたか、想像すらしたことがなかったアイデアから生まれる。

2009年7月3日金曜日

発生確率1%の震度7と50%の震度5強

BCPとして、どこにターゲットを絞って対策すべきなんだろう?

たぶん震度5強の対策をしてて震度7が来て、想定以上の被害を受けたら、担当者は糾弾されるだろう。逆に、震度7の用意をしておいて、地震が発生しないまま長い期間が過ぎたら、BCP対策費は削減されるのだろう。

「BCP対策費は保険だ」という言う方は簡単だが、実際はそんなに簡単な問題ではない。安全だけを考えれば、費用をふんだんにかければいい。費用が限られてるのなら、ある程度の被害を覚悟しておく必要がある。じゃあ、どっちが良いんだ?

被害は少なくしたいが、費用もかけられない場合がほとんどじゃないのかな?震度7が一定の確率で発生する事が分かってながら、フルの対策を取らないなんてオプションは選びたくないが、費用はない。それなら 「大きな地震なんて来ない」と言って欲しいと感じるのは人情だろう。

BCP対策を謳うゼネコンが、地震を食い物にしているように感じるのは、そのジレンマを解決する努力を怠り、正確な被害想定分析結果と称して、危機感を煽ることしかしてきてないからだろう。

費用は最小に、効果は最大かつ合理的にできなければ、乗れる話にはならない。

2009年7月1日水曜日

コンセンサスの取り方について

週末にかけ、コンセンサスを取る事の意味や、取るべきイシューについて考えていた。

よくよく考えてみたら、その発言主のコンセンサスの取り方をよく観察して、学習すれば良いんだ。そうすれば、彼が求めるコンセンサスについて、その種類や幅、深さが明らかになるだろう。

そのように考えてみると、彼が今までコンセンサスを取ろうと働きかけてきた事は、ほとんど無かったように思う。こちらから、あれはこうすれば・・・とか、この部分の開発に向けて業者との段取りは・・・とか、これの適用先や適用方法は・・・とか、製造に向けた調整は・・・とか、言ってきたような気がする。

人のやり方の批判ばかりするんだったら、自分のやり方を見せてもらおうじゃないの。何を課題と考え、どんなイシューについてどうやって定例以外の場でコンセンサスを取ってくるのか、見物ではある。

何だかネガティブで今更感が強いし、開発が停滞しそうだし、定例が批判大会になりそうでイヤだけど、しょうがないか。彼がリーダーなんだし、彼の思うように進めれば。

少し様子見だな。
あぁ、くだらないエントリーになっちゃった。。

2009年6月29日月曜日

筋の悪い言い訳

セブンイレブンがフランチャイズ店にたいして安値販売を禁止したことについて、排除命令がでた。

その会見で説明に当たってた関係者は、安値販売すると、割引品が売れて正価品が売れなくなって利益が圧迫されるため、安値販売禁止令のようなものをだしたとのこと。

んっ?セブンイレブンはフランチャイズ店に弁当を買い取らせて、廃棄リスクはフランチャイズ側にあったのでは?そもそも、安値販売で経営に影響があるというのも、コントローラブルである気がする。メインに売れる時間帯で割引するはずないし、廃棄ロスが減って、見掛け上の利益率が下がる可能性はあるかもしれないが、そこは経営で織り込むべきリスクだろう。

エコの基本は省資源だと思う。CO2を減らすとか、環境に優しい材 料を使うとかより前にしなければいけないのは、なるべく少ない材料でモノを作ること、なるべくロスを出さないことだと思う。

その観点で言うと、セブンイレブンの行動は全くエコではなく、消費社会や企業のエゴでしかない。

2009年6月27日土曜日

今日の気持ちを忘れないようにメモ

今日は残念感が強かった。交わした会話、行動の全てに強い違和感を感じ、ここは自分のいる所ではないんだな、と痛感した。

自分が思い描くゴール、すなわちチームがイメージする将来像に沿った、開発を進める上で、コンセンサスを求められたが、意味が分からない。そもそもコンセンサスを取るべきイシューか、という点も気になるが、コンセンサスを取ってないといわれるのも心外だ。

今回の提案は、事前にメールで概要を伝えてたし、前回の打合せで説明もした。それを今頃、こちら側から出す意見は、お前個人の意見ではなく、会社の意見なんだから、こちら側のメンバーのコンセンサスを取らないといけない、と言われても、えつ?コンセンサス取れてなかったの?という話。もとより他社の方とチームを組んで、会社の垣根を越えてブレストを行い、スピーディに開発を進めようという位置づけだったと思ってたので、社内のコンセンサスは重視してなかった。もしかしたら認識に誤りがあったのかもしれない。

今取り組もうとしているのは、些細ながら、必ず必要となるパーツの開発であり、なるべく既製品を使って安く収めようと思い、検討を進めている。トライアンドエラーを繰り返して、早く確実な開発を目指している。その開発領域に対して些細だから、という理由で足を引っ張るなら、誰か他の人が検討を進めてくれないと困る。お前のやる事は違うだろ、というなら、今開発しようとしている事は誰がやるんだ、という話だ。将来像を描く事の重要性は理解しているし、そうやって来たつもりだけど、ザックリしたファンタジーだけじゃモノは成立しないことは、この2年ぐらいのトライで分かったはずだ。

開発要素を機能で分解して、開発を効率的に進めよう、というのは僕の意見。また、他社の人とチームを組む以上、何らかハンドルを握れる開発領域を見つけていきましょう、というのも僕の意見。それにケチをつけるのなら、それに代わるコンセプトを出してくれ。エクセルを使って10分でできる、しかも頭の中で計算できるような一覧表を出して満足されても困るんだ。自分の開発領域を明確にして、その進捗をベースに話をしてくれないと、何一つ前に進まないよ。

取り付けに関してはオレの方が良く知ってると言ってくれた方にも、そんな事は百も承知だといいたい。だからこそ、これ以上の議論は、○○さんの意見を聞かないと分からないのでコメントをお願いします、と書いたはずだよ。外国でやっている事例を見て、一喜一憂するのも止めてくれ。そんなの、コンセプトからは外れてるし、いまさら言われてもどうしようもないでしょ。

相手を闇雲に批判するのも止めようよ。確かに進捗は遅れているけど、その原因の半分はこちら側にあるはずだ。今までハンドルを握らずに、ボーッとしてたツケが回ってきているだけで、何も相手だけが悪い訳じゃない。相手の方が、自分の手を汚して少しでも先に進めようとしているのは、評価してあげていいんじゃないかな?彼の役割は他にあるかもしれない。でも、それにプレッシャーを与えるほどのこちら側の進捗も無かったでしょ。

私の希望としては、お互いに開発領域をMECEに分担して、それぞれがそれぞれのモチベーションで開発を進めて、定例で報告し合う事で、プレッシャーを与え合いながら、調整したり修正したりできるような開発をしたい。

結局、会社単位でしか物事を考えられないんだな、と感じた。こんなやり方で、スピーディで効果的な開発なんてできないよ。たぶん、何も生まれない。

飲み会も最悪だった。何一つ得られるものはなく、もしタダじゃなかったら絶対参加しない。今後はなるべく断ろう。○○○マンがこういうものであるならば、何の未練も無い。

きっぱりと辞めよう。自分が腐ってしまう前に。

2009年6月26日金曜日

会社の中のファンタジスタたち

大企業って、基本的にヒマなんだろうね。そして、大きいがゆえの社会的責任のようなものも、自主的に感じちゃったりして、端から見てるとファンタジーばかりを語っているような気がする。

リアルな社会からの距離も遠く、純粋培養された疑いのない忠誠心とナイーブな正義感で、リアルとはかけ離れた世界を妄想し、その足掛かりを作るため(実現はウザいので目指さない)の資金を国に求める。

大企業が主導してやるからと、国もホイホイとお金を出し、今までどれだけドブに捨てられてきたか。

こうやって考えてみると、大企業と鳩ぽっぽは、メンタリティがよく似てる。リアルとの距離感もムダな忠誠心もナイーブな正義感も。だから誰も非難の声を上げないのかな?比較的声が大きい大企業関係者が、鳩ぽっぽに何となく共感と理解を示しているから?やだやだ。

鳩ぽっぽは、あまつさえ、落とし所なんてないって、言っちゃうんだもんね。リアルが見えてないか、考える/感じるアタマがないってことでしょ。ナイーブなのもいい加減にいて欲しいよね。大企業も鳩ぽっぽも。



2009年6月25日木曜日

郵政の問題ってなに?に頂いたコメントへのコメント

iPhoneで書いてたら、なぜかうまくコメント欄に書き込めなかったので、別エントリーで(ついでに長めに)失礼します。

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ありがとうございます。
そうですよね。プロセスの透明性とか、合理性は非常に大事だと思います。そういった意味で、郵政は説明を省略しすぎたのかも知れません。正直、私自身も詳細に理解しているとは言えません。

ただ、あれだけ騒いだ結果として、鳩氏から、彼の正義を示す資料がでないのは、いかがなものでしょう?

国会を空転させ、改革のスピードを緩め、内閣をズタズタにし、税金を浪費した責任の、少なくとも半分は鳩氏個人にあります。キチンとした説明もなしに、ただ不正が行われたらしい、という投げっぱなしの幼稚な正義感だけでは済まされないと思います。

この手の正義感ベースの行動起点とその納め方には、ブッシュ前大統領と同類の不誠実さを感じずにはいられません。私は、まずは鳩氏の調査報告があってしかるべきだと考えています。

今の状態は、西川さんが痴漢冤罪にあっているようなモノだと思います。女性の近くに立っているサラリーマンの手を掴んで、「この人、痴漢です!」と言うのは簡単ですが、言われた方が痴漢をしていない証拠を提示するのは難しいでしょう。

今回のように、解決のために時間を空費するのは損失が大きいと考えれば、「すいません。やりました。」と、不本意ながら頭を下げるのも、大人の対応かも知れません。

痴漢に間違えられないように、手を上げておけ、と言うのも簡単ですが、実際どこまて上げておけば間違えられないのかも、定かではありません。

痴漢冤罪と違うのは、後付けの解決方法がある、という点です。それは、鳩氏もしくは鳩氏に与する人が、今回オリックスが落札した金額以上で買い取ることです。

鳩氏には、不正をしたという証拠資料を出すか、かんぽの宿を買い取って、自らの正義を証明して欲しいと思います。

そういった責任を取らない「正義」は、少なくとも政治の世界にあってはならないと思います。

2009年6月24日水曜日

3年後には自分もあの壇上で...

一昨日、とあるセミナーに参加した。2部構成で、前半がレバレッジコンサルタント本田氏の講演で、不確実度を増す社会の中でどうやってサバイブするかについて、後半がライフネット岩瀬氏、スマイルズ遠山氏、キッズベースキャンプ島根氏のパネルディスカッションで、起業についてだった。

どちらも刺激的で、とても参考になった。
気になったフレーズをメモ。

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1.講演
レバレッジコンサルタント 本田氏
・景気が悪いという事は、自分が儲からない「原因」ではなく、平等に与えられた「条件」にすぎない。-藤田田-
・考え方のクセを「〜が悪い」「〜のせいで」「忙しい」から「どうやったらできるかな」に変える。
・自分が売れるものを探す。「得意分野」「好きな事」「強み」などを箇条書きでリストアップする。
・サバイバビリティが大事。「3R:Reduce(決めて減らす)、Reset(Go AWAY!)、Rebuild」「切羽詰まっている?」「ピアプレッシャー:身近な人との切磋琢磨」
・Doing more with less
・When the going gets tough, the tough gets going. -Joseph Kennedy-

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2.パネルディスカッション
ライフネット 岩瀬氏
スマイルズ(SoupStockTokyo/Giraffe):遠山氏
キッズベースキャンプ:島根氏

・できることではなく、世の中に必要なものを作る
・将来から見た過去の物語で企画する
  ・メールのある一日/スープのある一日
・外(KFC)に出て、(SSTを)小さく始めて、(三菱に)戻ってくる
・失敗は、のたれ死ぬ訳じゃない、ただ格好悪いだけ。
・誰をバスに乗せるか?共感できる良いチームを作る。(自分がバスに誘われる人間にならなければならない)
・何かを行動すると、神様はおまけを付けてくれる。
・自分側に最初の球(どこかに踏んばっていける「意義」)がないとダメ
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登壇者全員の充実感が、印象的だった。


2009年6月22日月曜日

日本の政治的終焉

自民党ダメ、民主党ダメ、その他はもっとダメじゃ、誰に期待したら良いのやら。

政治家はそもそも国を動かす、その力を得たくてなるものなんじゃないのかな?理想と現実の間に横たわる広く深い、矛盾に満ちた河をどうやって渡るか、が彼らに課せられた使命だと思う。そのためには、「正義」とか甘っちょろいことは言ってられないはずだし、自らの掲げる政策の実現可能性が高いポストへのチャンスがあれば、見逃すことはできないだろう。

なぜ鳩山は「正義」を連呼する?なぜ民主党総裁選で、普段は勇ましい若手議員が立候補しない?

とどのつまりは、今政治に携わっているほとんどの人が、「政治家」なのではなく「政治ごっこプレイヤー」なんだろう。強靭な精神と実行力、人を動かす説得力や論理構成力など、普通の人には持ち得ない能力を求め、その能力が国を良い方向に導くと信じるからこそ、選挙で投票で国民が決める、という手続きを取る。そんな中で、なぜ僕たちは凡人たる「政治ごっこプレイヤー」たちに票を投じなければいけない?

積極的にNO!と言える権利が欲しい。それで議員の数が減ったっていいじゃないか。誰にも入れない権利を付与して、投票率を上げるように持っていけれは、本当の国民の声が聞こえてくるんじゃないかな?

そもそも郵政民営化のように、国民の大多数の意思を反映した行動を、結果が出る前に無かったことにしようなんて、国民をバカにしているとしか思えない。せめて、一定の結果が見えてくるまでは、万難を排して実行すべきである(郵政選挙で万難を排したはずだったんですが...)。

国民に選ばれて、その任につく「政治家」という職業が、国民の意思を無視するような方向に進もうとするのは、自らの依って立つ地盤を自ら崩そうとする行為に思えてならない。今後、民主党政権が成立して、そこで何かが決まっても、それが実行される保証は全くない。どんな公約を並べたところで、それは口約束に過ぎず、何も信用することはできない。

政治家は、自分たちの行為が自分たちの足場を狭め、権力基盤を脆弱化させていっていることに気づいているのだろうか?政治ごっこプレイヤーだから、プレイできれば、それで満足なのかもしれない。みんな、辞めちまえよ。誰もいない方がうまく回るんじゃないか?


2009年6月19日金曜日

郵政の問題ってなに?

超非効率組織だった公社を解体して、営利企業として効率的運営をしてもらおう、というのが郵政民営化だったのでは?

その過程で不良資産や不要組織が洗い出されてくるので、それは、将来のために今のうちに膿を出して、出血覚悟で大手術をしましょう、ということじゃないの?そして、今はまだ手術中なんじゃないの?手術中に医療関係者以外の人が入ってきて、主治医に文句をつけたら、その手術ってどうなっちゃうの?

そもそも手術中に西川さんが何か悪いことしたっけ?

かんぽの話は、バカみたいな投資のツケをどうやって払うかと言う話で、買い叩かれたとか、どこかに不当な利益がプールされた、とか以前の問題を解決したかったんじゃないの?来年になったら誰かが200億くらいで買ってくれないと割り合わないよね。こんなの損切りなんだから、相対で取引してくれる会社が現れたら、焦らず、でも速やかに売り抜けるしかないでしょ。

東京中央郵便局は、歴史的建造物の価値なんて極めて主観的なんで、オーナーが改築と言えば改築だし、残すと言えば残るんだよね。トキを焼き鳥に、なんていう大げさな例えを出すなら、焼き鳥になっちゃったり、なりそうになっているトキはいっぱいいる訳で、じゃあどのトキを食って、どのトキは食わないんだ、という事になる。全てを残すなんて選択肢はないからね。その時に唯一口を出せるのはオーナーだけだよ。経済合理性に基づき、残す事の価値と建て直す事によるメリットを両天秤にかけてね。総務大臣の出る幕はないはず。けっこうヤバいトキが北海道にある。「タウシュベツ川橋梁」は何とかならんのかね。

後は、官僚の不祥事。こんなの西川さんのせいじゃないし、それを是正するために経営している訳だから、膿が出てきたのは正しい改革の成果と言えるんじゃないの?

何を持って、西川さんを糾弾し、郵政民営化を止めようとしているのか、その意図が分からない。いや、正確にいうと政治家の意図は分かるけど、国民の気持ちは分からない。手遅れになっちゃうよ。

先日、熱海の例を出したけど、もう後戻りはできないんだよ。嫌でもスクラップにしないと。高度成長期の不良ストックを処分できる最後のチャンスだった、という日がきそうで怖い。


2009年6月17日水曜日

ノット技術バット不

皆どこを見てるんだろう?

世の中に溢れる不合理、不都合、不条理、不便、不満、不足、不機嫌、不思議に目を向けないで。「不」に関する議論は聞いたことがないよ。ネタをふっかけると薄ら笑いで、そんなこと考えたことないよ、そんなことに時間を使うなんて暇だね、的な表情で議論を深めようともしない。

あのね、あなたたちが大切にしようとしている技術の話なんて鼻くそだよ。技術的にどんなにレベルが高くても、そこにユーザーの「不」を解決する何かがなければ。

だから、ちゃんと「不」の議論をしようよ。

2009年6月15日月曜日

イニシャル/ランニング

稼ぎ方を変えるといった話題で出てくる、典型的な二元論。

一発の購入金額が高いと、買い手が手を出しづらいイメージがあるため、イニシャル偏重型ビジネスが行き詰まった時に議論されるように思う。ただし、ランニングで稼ぐ形にビジネスをリデザインしても、上手く行くとは限らない。むしろ、上手く行かない例が多いのではないか?

ランニングで稼ぐ典型としてコピー機ビジネスが有名だが、現在は代替インクが多く出回っているおり、特に低価格帯のコピー機/プリンタでは一般的になっている。HPでは、このプリンタビジネスの崩壊を防ぐために、一定期間インクの購入を約束したらイニシャルをタダにするキャンペーンを始めた。これは企業の下心が丸見えで、すぐに頓挫しそうな雰囲気もあるが、囲い込みの厳しいHPにおいてすら、そのビジネスには陰りが見えてきたと言うことだろう。

また、トヨタも一度取り組んだ事例がある。数年前に「p-way」という販売形式を提供していた事があるのだ。これは、車両価格にランニング販売部分を作ることでイニシャルを下げるという試みだった。対象車が一車種だけだったことと、販売形式が新しかったことや、リースに近く、何となく所有感という面で当時のユーザー心理にマッチしなかったので、スグに廃止された。そもそも注目していた人も少なかったのか、トヨタ社員に聞いても知らない人が多い。

ことほど左様に、イニシャル側の商品をランニングにシフトさせるのは困難だ。

2009年6月12日金曜日

サービスを勘違いしているブランド

その名はモンブラン。

10年以上前に買った、モーツァルトというシリーズの万年筆を愛用している。手帳につけて鞄に入れておいたりしたら、インク漏れがヒドくて暫く敬遠していた時期があったのだが、シャツの胸ポケットに差してみると、サイズ(モーツァルトは小さい)もあいまって使い勝手がすごく良い。デザインも良いので、最近は好んで持ち歩いていた。

先日、ふとした拍子に床に落としてしまい、軸を傷めてしまった。急ぎ、銀座伊東屋へ。店員に見せると、モンブランに送って修理してもらうしかないとの事。モンブランは銀座7丁目にあり、伊東屋は2丁目。直接行ったほうが良いと判断し、移動した。

モンブランで、万年筆が壊れたので診てほしい、と言うと3階に行ってくれと言われた。お店の中を通り過ぎる時、慇懃に挨拶され、3階に向かった。3階では、受付機が置いてあり、ご用の際はボタンを押してお待ちくださいとのこと。

一流ブランドでも、明らかに困っている人が集う、心理学的にロイヤリティを高めやすい、お店にとって有利な接客ボイントでコスト削減するのか、と少し時代を感じながら待った。

無人の3階に人は来ず、やむなく2階を見下ろすと、店員同士で談笑していた。階段を降り、呼び止めて、ようやく客に気づく有様。少しムッとしながら、でも、せっかく使い方が分かってきた万年筆を早く直して欲しい気持ちで、グッとこらえ、万年筆を預けた。

「料金は10,500円になります。」
高すぎねぇか?
まあ、これもブランドか。しょうがない。。。愛しの万年筆ちゃんを直すためだと、無理やり納得し、店をでた。

そして今日。
修理が終わったとの連絡を受け、銀座7丁目のモンブランへ。一応、入り口で用件を伝えると、受付にいたお姉さんは、かなりの慇懃無礼な目つきで、上へ上がるように指示。勝手知ったるモンブラン、サッサと3階に行き、接客している店員さんがいることにホッとして、例の受付機で番号札を取った。

待てど暮らせど、その店員はこちらを振り向く気配すら見せない。真後ろを通ったりしてたので、よっぽどじゃない限り気付かない事はないはず。よっぽどとは、接客業は辞めた方がいいですよ、と接客業に勤務している訳でもない人間が、お節介にもお勧めしたくなるくらい。

でも、お客さんの相手をしているのに、声も掛けづらい。また2階に行って、ヒマそうにしている店員に声を掛けた。その後は、ムッとした私の態度に気遣って、過剰に慇懃な態度で手続きを終え、万年筆ちゃんは無事手許に戻ってきた。

高級品を売るから一流ブランドじゃないんだよ!一流のサービスが付いてるから一流ブランドであり、高くても買ってもいいかな、と思わせるんだよ!勘違いするなよ!

ブランドに胡座をかいて、3流のサービスしか提供できないんだったら、迷惑だから一流ブランドのフリをしないで、暖簾を降ろしてくれ!まだまだ一流でいたいのなら、サービスを根幹から見直して、少なくとも受付機は撤去して人をつけろ!そんな所でコスト削減するな!

たかが修理に1万円も取るねんぞ!考え直せ!2階でヒマそうにしている店員に3階へ向かう階段を見張らせるか、階段の途中にでもセンサーを付ければ済むことやろ!一流ブランドやったら、頼むから無粋なコトをせんとってくれ!カネ払わんぞ!



2009年6月10日水曜日

後戻りのできない日本

今後の少子高齢化社会を想像すると、悲観的な未来しか思い描けないのが哀しい。よく、行き過ぎた資本主義を是正して、自然を愛し、心豊かな社会にしようじゃないか、拝金主義はもうゴメンだ、というような論が見受けられます。

分かります、分かりますよ。そういった社会ができればどんなに素敵なことでしょう。問題は幾つかしかありません。解決して、皆でお金じゃない、物質的満足じゃない世界に向かいましょう。

問題の一つは、このロジックは少生産少消費を目指すことになる、という事です。売るのも買うのも作るのも少なく、それゆえ研究開発に投じれるお金にも限界があり、世界的な競争からは完全に取り残される、ということ。

まあ、これも甘んじて受けましょうよ。別に世界一の経済大国を目指さなくても、世界一心が豊かになれれば良いだけですから。お金がないから、車も最新家電もいらんでしょ。皆でバーベキューでもすればココロもカラダも温まりますしね。ただし、和牛の霜降りはダメよ、高いからね。

じゃあ、身近なリゾート、熱海にでも居を構えて、週休4日ぐらいでゆっくり過ごしましょう。高度成長期の名残で廃墟と化したホテルばかりだけど、再開発するお金もないもんね。ちょっと治安も悪そうだし、雰囲気も良くないけど、ガマンしようよ。皆で力を合わせれば、何とかなるよ。

やっぱり、田舎に引っ込んで自給自足かな?生産調整で役立たずになっちゃった農地も時間をかけて開墾すれば元通り。自分で食べれる分だけ作るのだったら、何とかなりそうだね。社会性は仕事を通じてではなく、ネットで担保するのかな?それも時代だね。漁業は苦しいかな?燃料費は上がる一方だしね。帆船を使えば、何とかなるか。自然エネルギーでコストを抑えて、安くて良い食材を家庭に届けられるかもしれないね。

こんなことを考えると、日本はすでに後戻りのできない状態にあることが分かる。どんなにエコを叫んでも、どんなに心の豊かさを重視しても、成長を続ける以外に道はない。拝金主義だと言われようが、破滅的だと言われようが、スクラップ・アンド・ビルドの中でおカネを使いながら、少しずつ軌道修正していくしかないんだと思う。

これからの世代は益々負担が大きくなっていくのは確実だ。少なくとも、高度成長期に意図せず作ってしまった不良資産を、莫大なおカネを投じて廃棄することから始めなければいけないから。しかも、長期ビジョンに立った創造的破壊として。

今までの日本人が最も不得手としてきた意思決定・行動ブロセスのように思えるけど、本当にできるのかいな?

2009年6月8日月曜日

アンチものづくり

「ものづくり」「人づくり」「技能伝承」。昨今の高齢化や企業の不祥事を受けて、様々な所で取り組みが進んでいる。

豊臣秀吉の時代、陶器の品質と製造量が飛躍的に上がった。その原因は、当時技術の進んでいた中国や朝鮮半島から陶工を3万人も連れてきたところにあるらしい。その背景には、上級社会における茶道の流行があり、カネに糸目をつけずに品質や新しさを追求した結果だという。

つまり、ものづくりはそれ単体では成立しない、と言うことだろう。

ものは、売れてナンボであり、売れるからこそ、新しいチャレンジも品質の向上も存在し得るのだ。そして、売れるからこそ、人づくりが大切で、技能は伝承されるべきなのだと思う。

売ることへのフォーカスが欠落した「ものづくり」に意味はあるのだろうか?ゼネコンは何を売って生計を立てているのか?今一度、何のために「ものづくり」「人づくり」「技能伝承」が必要なのか、考えてみる必要があるのではないだろうか。

2009年6月5日金曜日

機能を絞ること

使える機能を限定し、使い方やマナーやルールを周知させる、という戦略はあり得る。これは同時に渇望感を生み、ユーザーからの意見を吸い上げやすくなるかもしれない。

そのためには、限定した機能が本当に必要なコアであるの事が大事で、さらに、期待させる未来が見通しやすい、現状機能の延長線上にある必要がある。ユーザーの想定よりも、少し長かったり、少し広かったりすると、拍手をもって受け入れられ、次の展開に更なる期待を寄せてもらえるようになるだろう。

そのためには、ベンダー側の想定は更に遠く、広くないといけない。遠く、広い未来を見据えながら、その2歩手前を想像させ、1歩手前を提供する、と。つまり、開発は3歩先を見通して進めなければいけない、ということかな。

やっばり、Appleはスゲーな。

2009年6月3日水曜日

Independent Mind

渡辺健介さんの「Independent Mind」という本を立ち読みした。

よくある自己啓発本ではあるが、表面上、中高生を対象にし、その実、大人になり切れてないエセ大人に向けたメッセージ満載の読みやすい本だった。

俯瞰的な視点を持ってバランス良く、物事と対峙することの重要性について。決して先入観なく、素直に物事を受け入れるフラットな心。なおかつ、その事象の背景を、ある種の疑いの目で眺める隙のない視線とロジカルな探究心。常に融合や改善・改良を模索する好奇心。スピーディな判断力と実行力。とにかくやってみるという姿勢。

単純で、当たり前の内容なんだけど、最近忘れてた気持ちが蘇った気がした。タイトルの「Independent Mind」と最後の「泳げ!」という言葉が、この本の全てだと思う。

2009年6月1日月曜日

心の狭さは都会では致命的だ

人のふれ合う機会の多い都会で一人よがりに生きることは、本人にとっても、周りの人にとっても良いことではない。

心を広く持たないと、全ての事象における悪の原因は他人にある事になる。結果、逆恨みする事にもなるだろう。

全てを受け入れ、自分の事として捉え、解決策を練り、時によっては譲歩する。

そんな心構えが求められるんじゃないかな?

2009年5月29日金曜日

天使と悪魔

展開が早くて、面白かったです。前作のダ・ヴィンチ・コードよりも動的な、観てて飽きない映画でしたが、最後のどんでん返しへの伏線には少しムリがあるかな、と感じました。

物語の舞台は、ローマ法王崩御に伴うコンクラーベなのですが、あれだけの権力の頂点に立つ稀有の機会ですから、深謀遠慮、手練手管、なんでもありなのかも知れません。

後から考えても、最後まで天使か悪魔か分からない人の立ち位置や態度の曖昧さが持つ意味はよく分かりませんでしたし、天使で悪魔な人の壮大でリスキーすぎる計画にはクビを傾げるところがありました。

元々、科学が「宗教の領域」=「創造」に入ってくることに危機感を感じて起こした行動にも関わらず、その行動によって科学と宗教の関係性が変化するとは思えなかったのは、切り口の強引さを表しているように思えます。

かつてアインシュタインが「時計職人になればよかった」と嘆き、カラニシコフが「芝刈り機でも発明すればよかった」と嘆いたのと同種の嘆きを呟く科学者に、「あなたのやってきたことは間違ってない。また仕事に戻って『世界を変えろ』」と諭すシーンが、科学の限界と無限性を同時に表現している気がしました。

そういう意味では、コンクラーベを題材にしている割には宗教色は薄く、ダ・ヴィンチ・コードに比べて、エンターテイメント色を強めた作りになっていました。次回作は、立ち位置が難しくて作れないんじゃないでしょうか?

2009年5月27日水曜日

生きてる ことって

脳科学者の茂木さんのブログで、白洲次郎の孫にあたる白洲信哉さんの「信じるものども」というタイトルの短いメールを紹介していた。最後に書かれていた「生きてる ことをしましょう!」という言葉が気になった。

この「生きてる こと」って何だろう?逆に、対義語たる「生きてない こと」とか「死んでる こと」とかは何を意味するのだろう?

きっと、惰性や人の意見に流されて、心から楽しめていない状況は「生きてない こと」なんだろう、と思う。そうすると「生きてる こと」は、惰性や人の意見に流されず、心から楽しめる状況(こと)を指すのかな?何か足りない気がする。。。

2009年5月25日月曜日

ベースラインの置き方

神様をベースラインに置けない日本人の場合、身近な人間を相対的なベースラインとせざるをえない。それはメンターという言葉が正しいのか、多くの人にとっては親になるのではないか。

子供の立場から考えると、自分の生き方がベースラインになるのかもしれない。

2009年5月22日金曜日

湘南の風

先日、家族で湘南に行った。

久しぶりの海は気持ち良く、スゴく楽しい時間だった。季節もまだ早いので、ひたすら砂遊びに興じていたのだが、子供は一向に飽きる気配もなかった。

しばらく経って、お昼もかなり回ったので、ご飯を食べることにした。プカプカと浮かぶサーファーを見ながらのんびりと、コンビニで買ったおにぎりを頬張った。基本的におにぎりは大好きで、いつ食べても間違いなくおいしいのだが、海を目の前にした開放感は味覚にも少しの影響を与えているようだった。

そして、隣で同じくおにぎりを食べている妻が、唐揚げに手を伸ばし一口かじったかと思った瞬間、二人の間に強い風が通り過ぎた。短い叫び声に振り返って見ると、妻は手を押さえていた。

なんと、とんびが唐揚げを攫っていたのだ。噛まれたのか、掴まれたのか分からないが、人さし指に挟まれたような痕が残っていた。

その後、とんびを恐れる妻は日傘をさし、とんびの視線を遮ることに必死になり、お昼の時間はそそくさと終了することになった。大阪の箕面も、人さまのお弁当を盗む猿で有名で、昔々にお弁当を取られて泣いている子供がいた事を思い出した。

2009年5月20日水曜日

素人判断の妥当性

裁判員制度は運用が極めて難しい仕組みだと思う。

裁判をブラックボックス化させず、一般人が持つ日常感覚や常識を盛りこもうというものだが、なぜ対象が重大事件なのだろう?

本職の裁判官ですら量刑に悩むような事件に対して、日常感覚や常識が必要なのか、理解に苦しむ所である。人を裁いた経験の無い人が、人の生殺与奪権を持つことは、果たして妥当なのか?そして、可能なのだろうか?

いわば、運転免許を持たない人に、F3000で走れと言っているようなものなのではないだろうか?

地裁とはいえ、裁判における最高難度の事案に対して、訓練を受けてない人が参加するのはナンセンスだろう。そして、日常感覚や常識から大きく外れた事案に対して、それらを求めるのも違う気がする。

まずは訓練が必要なこと、そして、訓練終了後においても高速道路を走れるようになった程度であろうから、その程度の事案を対象とすることが、妥当ではないかと思う。

2009年5月18日月曜日

焼けすぎた。。

調子に乗って、日焼け止めも塗らずに、湘南の浜辺で遊んでいたら、四半世紀ぶりぐらいのヒドい日焼けになってしまった。まだ腕が真っ赤で、ヒリヒリする。。。

2009年5月15日金曜日

商品の中の同一性

Cnetブログの中に、最近のヒット商品はデザインやコンセプトに統一感のあるものが多く、創作容易を認めない意匠法的にデザイナは苦しんでいるんじゃないか、というエントリがありました。

自動車の世界を見ても、今までデザイン的な統一感を持たなかったのは日本企業を含めたアジア勢ぐらいで、中身にオリジナリティのある商品を持つ企業は、認知を高めるために積極的に統一感を出していたと思います。

人は、親近感のあるものを認めやすい傾向があり、全く新しいモノを受け入れるのは時間がかかります。

商品のイノベーションに必要なのは、技術とコンセプトだと思いますが、その両者にデザインを加えて、3つの要素で考えていく必要があります。その全てが新しいと、人はついて行くことができません。少なくとも一つ、できれば二つは連続性を意識して開発するべきだと思います。

特に、イノベーティブな商品であればあるほど、デザインの世界感を統一してあげる作業は欠かせないものになるでしょう。

2009年5月13日水曜日

将来は自給自足?本当の自立?

日本の年齢別人口分布を調べた。


1950年位まではキレイなピラミッド型だった。その後10年位は出生率が下がった後、再び上昇し1970年過ぎにピークを迎える。その後は減少の一途である。遡って明治時代(1900年前後)は釣鐘型で0歳〜40歳位まで比較的均等に分布している。1900年以前は医療が充分に発達しておらず、幼児や高齢者の死亡率が高かったと推測できる。その後、医療の発達とともに幼くして亡くなる事例が減り、未成年人口が増えた結果、ピラミッド型に変化したのだと思う。同時に高齢者医療も発展し、人は中々死ねなくなった。つまり自然減が期待できなくなり、高齢者が日増しに増えて行った。そんな中、高度成長に浮かれたポスト団塊が自らの享楽に走り、バブルと社会制度の不備から、いわゆる団塊ジュニアが子どもを作らなくなり、キノコ型に向かう事になる。

人が死ななくなり、産まなくなった。1975年〜1985年における出生率の低下は、主にポスト団塊の人口が少ないことに起因していると考えられる。1985年以降はバブルの影響で生活コストが上がり、バブル後は不景気によって金銭的に多くを育てられなくなった。また社会制度も現状に追い付いてなく、産み育てることに積極的になれない状況が続いている。

キノコ型では社会を維持できないのは目に見えている。なぜなら現代の社会は相互扶助を基礎として成り立っているからである。特に世代をまたぐ相互扶助の概念は、端的に言うと、搾取の連鎖からできている。若い間は、将来において還元されることを前提に、安く労働を提供する。つまり将来世代の収入に乗っかる形で、リタイヤ世代が扶養される訳だ。これは、リタイヤ世代が少なく、将来世代が多い場合にのみ成立する。そのための条件として、相応の死亡率でリタイヤするまで生き延びる人間が減っていかなければならない。だからキノコ型では成立し得ないのだ。ピラミッド型が、相互扶助を前提とした人口構成としては理想だろうが、戻すのは容易ではない。

将来的に人口が増え続ける未来は想像できない。少子高齢化の辿り着くゴールは釣鐘型であろうことは容易に理解できる。つまり、究極的には釣鐘型で生きていける形を作り上げる必要がある。その前に、直近70年ほどは歪な人口構成にフィットした社会の形を見つけなければいけない。

解決策の一つは、楢山節考だろう。高齢者を切り捨てる事で人口分布の適正化を図る。もう一つは相互扶助を捨てる事。すなわち自力で生きていけない人の面倒は見ないという選択肢がある。さらに、低年齢層を増やすと言うのも考えられる。

現実問題として楢山節考は無理がある。それでも高齢者の人々が自発的に富の移転を行ってくれれば、まだ救いはありそうだ。そうする事で、今まで世代間に一方的に流れていたお金の流れが、ある程度双方向になり、若年者の負担が減る可能性がある。しかし、少子高齢化問題から逃げ切れそうな人が、あえて将来世代に所得移転をするとも考えにくい。ただでさえ老いて能力が衰えてきているのに、想像力を働かせ将来世代へ献金せよ、と言っても無理だろう。進んで献金したくなるような受け皿と言い訳が必要だ。

また、低年齢層を増やすことも難しい。出生率を上げるのも、外国人を受け入れるのも、大東亜共栄圏を作るのも政策の問題であり、互いのメリットや日本人のメンタリティ、社会制度の整備などを考えると、即効性は期待できない。

残るは相互扶助を捨てること、すなわち自力で生きて行く人間を増やすしかないだろう。

人が死ななくなった事が最も大きな要因だが、そこは止められない。世界が高齢化するのは必然なのだ。であれば、高齢化した社会に適した、相互扶助ではない社会の仕組みを、在り方を作っていかなければならない。

2009年5月11日月曜日

人口構成から見るシリアスな将来

前回のエントリーで、危機感がないのは人口構成を見て真剣に考察したことがないからだ、と書いた。

少し前に1888年〜2000年の人口構成推移と、2025年、2050年の人口構成予測を並べてみたことがある。それぞれは大して珍しくもない、ありふれたグラフなのだが、並べた時の衝撃は大きかった。あまりの衝撃に、その後に会ったほぼ全ての人に紹介したほどだ。感じ方は人それぞれだと思うが、一様に真剣にそのグラフを見て、話を聞いてくれた。それまで深く考えたことがなかった事が恥ずかしくなるぐらい、ありふれた少子高齢化問題がそこにはあった。その時の考察と感じたことは次回書くことにする。

このグラフに大きな間違いはないだろう。つまり、このまま行けば、少なくとも私が完全に老人となる2050年には、私は社会のお荷物になっていることは、このグラフから容易に読み取れる。

今後、景気が急上昇したり、子どもがいっぱい産まれたり、外国人肉体労働者が大量移民したり、天災が起こったり、石油が大量に出たり、神様が降臨したりしない限り、ほぼ確実だろう。なぜなら今後、給料はさほど上がらないどころか、人余りで下がって行き、貯金は難しくなるだろうからだ。そして、福祉の必要性は日ごとに拡大していくのだから、増税も火をみるより明らか。さらに、リタイヤしても年金は期待できなくなり、新たな職を見つけるのも困難になるのは、目に見えている。企業は安い給料で長く雇うことを義務づけられ、大企業勤務者でも年収250万から700万円くらいのレンジになるだろう。今の半額である。増税を考慮すると、可処分所得は現在の1/4ぐらいになってもおかしくない。

そんな社会に活気があるわけもなく、景気は完全に沈滞するだろう。こんな状態が2070年ぐらいまで続くんじゃないかな?

こんな未来は何も私だけではない。曲がりなりにも日本を代表する大企業に勤めており、比較的恵まれている自分ですら、このような状態になる可能性が高いことに強い危機感を感じている。

だからせめて、自分と自分の周りの人たちは罹る災禍から逃れられるよう自衛手段を持つ必要があるし、持たなければいけない。それが、海に泳ぎだそう、ということの意味である。


2009年5月8日金曜日

子供用プールの年齢制限

今、身を置いている環境は、むしろビニールプールと揶揄しても、言い過ぎではないかもしれない。

多くの大企業勤務者は、子供用プールの遊泳者だろう。大人用、ましてや競泳用プールで泳いでいる人は、ついぞ見たことがない。一方で、さらなる上級者は内海へ、そして外海へと泳ぎだしている。

明確な線引きがあるのは、(ビニール、子供)|(大人、競泳)|(内海、外海)で、つまり大きくは三分類されるという事。

少なくとも第二分類、できれば第三分類を意識的に狙わないと、いずれ年齢制限で第一分類から放り出される時がくる。その時には、泳ぎ方も分からず、教えてくれる人もいない状況下で、第三分類たる海を泳がざるを得なくなる。

誰に聞いても杞憂だと答えるが、将来において確実に訪れる未来だと思う。もしかしたら既に海を泳いでいる気になっているのかもしれない。年齢構成の推移を真剣に考察したことがないだけかもしれない。

将来は想像以上にシリアスだと思う。必要十分な備えが大切になるだろう。具体的には、海を泳げる体力やメンタルを鍛えておく必要がある。日頃から海で泳いでいれば、うろたえずにすむだろう。

さあ、今から海を目指そう!

2009年5月6日水曜日

コルテオ行ってきた

コルテオと言えば、ブルーオーシャン戦略のお手本として名高いシルク・ド・ソレイユ。噂に違わぬ素晴らしさ!なんだけど、サーカスと体操競技が近づきすぎて、少し鼻についた。

元来身体能力の高い人が、自らを高めたのが体操で、客を楽しませることに主眼を置いたのがサーカスだったのか。いつしか二つの道は遠く離れ、極めてストイックな世界と、卑俗的な世界へと突き進んで行ったのだろう。シルク・ド・ソレイユは、そういった意味で、それらの正統なる融合であると感じた。

それが持ち味なのかもしれないが、テーマを芸術に振りすぎていて、少し分かりにくくなってたのが難点かな。いい時は演技に集中できるのだが、そうでもない時はテーマにも演技にも集中できず、不覚にも眠くなってしまった。

まあ演技に集中できなかったのは、後ろの林家ペーパー似のカップルの嬌声によるものも大きかったが。

何が「ブラボー!」なんだよ‼

2009年5月4日月曜日

ルール好きな人々に弄ばれる国、ニッポン。

ルールに乗るのが好きな国民だと思う。

誰かの決めたルールに乗って行動するのって楽だもんね。そんな疑う事をしらない初な心を踏み躙るような狡猾な人種も同時に存在する国、ニッポン。

それぞれの生い立ちは単純だ。もともとは愚民政策に端を発している。愚かな一般国民と指導するエリート官僚という図式だ。そういった世の仕組みに早く気づいた人が官僚となり、子々孫々にその仕組みを伝え、選民化が進む。人々が愚民でいてくれるよう、ルール絶対、ディスカッション不要、諦め早く、レールの上ではモーレツに働くという、極めて非人間的な教育方針のもと、何も考えない人が量産される。

いつまで気づかずにいるんだろう?

2009年5月1日金曜日

丁寧すぎるのも問題だ

定期検診の視力検査での出来事。
私は眼が悪く、近視に加えて乱視もあるので、1.0以上は勘と雰囲気に頼ることになる。

少しでも言い澱むと、「見えにくいですか?」「目をパチパチしてください」となる。それでハードルを一つ越えたと思ったら、次のレベルでも同じやり取りが。「見えにくいですか?」に対して明確にYESを言うまでは許してくれない感じだった。

3回くらいは普通に返事していたが、さすがに4 回、5回と続くとイラッときた。結局10回くらいは言われ続け、いい加減にしてくれ、と言いたくなった。普通、言い澱んでたら聞く までもなく「見えにくい」んだろうし、「パチパチ」は言われるまでもなくやっているだろう。

与えられたルールに沿うことだけが重要で、相対している人には無頓着なんだろう。医療はサービス業であること、サービス業は相対する「お客さん」の感情を中心に据えるべきであることを学んだ。

2009年4月29日水曜日

利便性ファースト主義

みずほ銀行のATMを利用した。

たかが現金引き出しに、なんと多くの手順が必要なことか。必要不可欠な手順の間々にリスク回避画面や広告画面が現れる。しかも、ボタンを押さない限りは次へ遷移しないし、ボタンの配置がユーザーのミスを誘っているように思える場合もある。

くだらない事業者側のエゴで、ユ—ザ—の利便性が大きく損なわれるのは腹立たしい。サービスはユ—ザ—利便性ファーストで設計すべきだ。

2009年4月28日火曜日

雑すぎるやろ!

地デジの新キャラクタ「地デジカ」。



このタイミングで発表できるのは、相当前に企画され、公募して準備を進めていたんだとは思う。だけど、今は発表の時ではないんじゃないの?

印象として、明らかに草なぎ君の代替でしかなく、非常に雑なものに見えてしまう。草なぎ君も地デジカも、こんな扱いじゃ浮かばれないよ。このままだと、地デジは今まで以上に軽んじられ、普及は進まないだろうね。

本来は、事前に草なぎ君と並べて露出させ、十分に認知が進んだ段階で、色んなシーンや媒体にカジュアルに使えるキャラクタとして一人立ちさせるべきだと思うし、そのような意図を持って企画されたモノだと思う。

草なぎ君か使えなくなったのなら、代わりの大使を立ててから、地デジカをキャラクタとして露出させるべきだと思う。

草なぎ君への対応、すなわち、失敗者への対応があまりに雑で、失礼なんじゃないかな?そんなに無邪気に追い詰めてどうするつもりなんだろう?地デジ失敗の責任を全て草なぎ君におっかぶせるつもりかな?

雑でバカで偏狭な大臣も、それに乗っかるだけの官僚も、ミンナヤメテシマエバイイノニ。

2009年4月27日月曜日

神様がいる国と神様が見ている国

日本は至る所に神様がいる国だ。
八百万。

でも、この国の神様は奥ゆかしい。何もせず、じっとそこにいるだけ。人びとは、そんな神様の気配に敏感で、常に畏れ敬う。一方でキリスト教圏(に限らないと思うが)は、神様が見ている国だ。いい事も悪い事も、その人の行動を見ている。そこに住まう人は神様の視線を感じながら生活している。

このことが今、大きな差となって現れてきているように思える。他人の視線を気にするのと、神様の視線を気にするのとでは、自ずと行動が変わってくるものだ。

他人が決めたルールが無いと行動できない日本人。だから、ルールから外れた行動には、些細なことにも手厳しい。逆にルール化されてない行動領域は無法地帯。

要は自分で考えることができない幼稚な国民ってことなんだろう。



2009年4月24日金曜日

介護と安楽死

最近、介護疲れで自殺したり、被介護者を殺めてしまったり、心中を図ったりする事件が増えてるらしい。

すごく本末転倒な気がする。

誤解を恐れずに言うと、未来の無い人を大事に思うあまりに、未来のある人が少なくとも人生を費やし、場合によっては犯罪者になったり、未来を棄てる羽目になるなんて、おかしい。

これって、単に選択肢がないからなんだと思う。つまり、尊厳ある死を選ぶ権利を与えられていない事が問題なんじゃないかな?

介護する側からすれば、自分を納得させ、後悔しない為にも全力を尽くさざるを得ない。しかし、寝たきりで介護を受けている人が、子供にお金を使わせ、時間を使わせ、体力を使わせて、無為に生きる事を望んでいるとは思えない。介護を受けている間中、葛藤に苛まれる事は間違いないだろう。逆に無為に生きている時間を権利と感じてたら、その人の人間性を私は疑う。

人口構成を見ても、長寿が社会を狂わせていることは明らかだ。また社会は、過去から現在まで伸びる線分を、未来に伸ばして行く努力を皆でするものだと思う。老人がある時期で社会的役割を終え、後は余禄だというのは過去の考え方で、今後は線分を少しでも伸ばす役割を死ぬまで負うべきだろう。

そのためには、楢山節考のような考え方は不可欠で、そこにどんな意味付けをしてあげられるか、というその一点に議論は絞られる。その死が社会的にどんな意味を持つのか、そのためにはどんな準備が必要なのか?かつて、特攻で死んだ若者と同じく、社会として尊厳ある死を認め、敬う習慣と手法を提供してあげる必要があると思う。

こういったことの積極的な取り組みが、個人の人生設計を助け、不健全な世代交代を健全化させ、社会に尊敬や思いやりをもたらし、活力を生み出す事になると思う。

制度設計としては、極めて難しいとは思う。尊厳ある死を選んだ人と生き続ける人を比べてドウコウは当然あるだろう。社会保障と一緒に考えないと、検討の俎上に上ることもないだろう。でも、やらなければいけないんじゃないかな。

何と言っても、未来は若者のためにあるのだから。

2009年4月22日水曜日

千里の道も一歩から

今、踏み出そうとしている一歩が、どこに向かっているのかを、よく議論し理解しておかなければならない。

ゴールの理解なき一歩は無駄であり、場合によっては破滅に繋がる。

2009年4月20日月曜日

オリンピック雑感

すっかり昔の話ですが、
手元のiPhoneに入ってたメモから、北京オリンピックを見ての感想です。

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成功の道は精進の道。
精進の道は能力と努力でできている。
努力の道は一本道。
だから覚悟と勇気が重要。