2012年1月30日月曜日

何度も金を払って、いつの間にか巨額になっているというビジネスは志向しない

任天堂の決算会見での岩田社長の発言。

ソーシャルゲームにも良さはあるのだと思うが、自分がGREEやモバゲーに共感できないのは、まさにこういう事だ。ビジネスとしてズルいと思う。いや、ビジネスは戦いなので、ズルいという言葉は当たらないかもしれない。正確に言うなら、ユーザーに対して不誠実だと感じる。

ソーシャルゲームは、ユーザーに対して何を与えたいのか、そしてどの部分の対価を得たいのか、という観点で考えると、納得のいかない感じになる。要は、ユーザーよりも事業者の利得を優先しているようにしか見えないのだ。

ユーザーにゲームの楽しさを提供したいのならば、コインを積み上げる事でしか得られないような楽しさは提供すべきではないと思う。

ギャンブルならば話は別だ。そこにある指標はあくまでもお金であり、コインを積み上げた対価として、その何倍かのコインが戻ってくる可能性がある。しかし、楽しさというものが指標になるならば、それは楽しさを積み上げた対価として、その何倍かの楽しさが返ってくるようなものであるべきだろう。任天堂の商売は、楽しさを積み上げた先に、次の楽しみを提供するような形になっている。

現時点では、商売としてはソーシャルゲームに分があるが、個人的には任天堂を応援したい。ぜひ、楽しさを積み上げるための技術としてソーシャルを活用して、健全なゲームの楽しさを提供し続けて欲しい。

2012年1月27日金曜日

大手建設会社を悪者にするのはやめて欲しい

「復興と矛盾」というテーマの番組があった。

震災復興において、瓦礫処理や地面の嵩上げなどは東京の大手建設会社が跋扈しており、地元の建設会社には利益が落ちてこない一方で、仙台の街は建設関係者で繁華街が賑わい、バブルの様相を呈しているとのこと。

何だか、建設会社(特に大手)が、震災特需とばかりにぼろ儲けしているような言われ方だが、あまりに先入観の強い見方だと思う。

第一に、大規模処理に関して大手が引き受けることに関しては、ある程度しょうがない事だと思う。技術も調達力も大手にしかできない事があるのだから。そして、そこで稼ぎまくっているように言われるが、建設業の利益率は元々薄く、1.2兆の売上があっても最終利益はせいぜい150億程度で1.3%ぐらいのものだ。これ以上、頑張れないでしょう。IBMなんて利益率20%ぐらいあるし、Appleは28%を超える。日本メーカーは比較にならないが、それでも5%ぐらいだ。

少し小さな仕事は、当然地元の雇用が優先されるので、なかなか出番がない。そんな中で、人件費高騰の煽りを受けて、地元建設会社が赤字だと言われても、それは大手でも同じことだし、扱うボリュームが大きいので、より影響を受ける。さらに、被災地ではない所にまで影響が及ぶので、地元建設会社よりもよっぽど深刻だ。

また、仙台の繁華街は大変な賑わいらしいが、当たり前だ。

建設業は仕事量=作業員の数なので、建設需要が大きい所は人が集まり、当然、飲み屋は繁盛する。そう言うもんだ。一日の肉体労働の後に一杯飲むくらいの権利は、たとえ被災地と言えどもあるだろう。そして、建設バブルに喜んでいるのは、建設業ではなく繁華街の飲食店や風俗店だろう。建設業は変わらず、薄利で薄給で頑張っている。

震災復興の主役はどうしても建設業になるのだが、そこで生まれる利益は極めて薄い事は知っておいてもらいたい。建設会社に十数年いてわかった事は、建設業は社会主義国家を担う一つの機能であって、皆が富める時は等しく豊かに、皆が貧しい時は等しく貧しく、皆が困っている時は等しく苦難を分かち合う、という競争原理からは遠く離れたメンタリティを持っているという事だし、実は社会的にもそのように望まれているという事だ。

社会主義の象徴のような「談合」は、グローバリゼーションとともに排除された。だからといって競争主義に走れるかと言うと、今回のように、やってもいないのに釘を刺される。

建設会社は、あくまでも社会の安定のために存在する機能の一つである、と言うことを理解してもらう必要があると思う。そうすれば、下らない批判は減るだろう。


2012年1月25日水曜日

ツイッターじゃ集客にならない

一時期、ツイッターを商店街で活用しようという動きが活性化していた時期があった。その時も思っていたが、ツイッターでは集客はできないと思う。ましてや買い周りをサポートする事なんて不可能だ。

ツイッターの難しい所は、あくまでもフローだという事だ。フローに特化したサービスはそれまでに殆どなかった。どちらかと言えば、フロー化しがちな情報をストック化する傾向が強かったように思う。その意味でツイッターは間違いなく重要なサービスだが、フロー化は、情報の出し手の負荷がすごく高い。一方で、受け手の殆どは、昔の言葉で言えばROMであり、レスポンスする主体ではなく、フローを眺めるだけだ。

ただ眺める人に対して、フロー情報を流して、そこに意味ある何かが生まれる可能性は、まさに邂逅と言って良いタイミングだろう。その極めて稀なタイミングをリアルな商売に結びつける事は奇跡に近い。

そんな成果を生まない行為を続けられる訳もなく、段々と出てくる情報は価値の低いものになり、結果として成果を生む確率も下がって行く、ネガティブスパイラルに入る。

そういった形でツイッターが集客に寄与する事は、本当に難しいと思うが、さらに、難しいと言うか、不可能なのは、買い周りに使うことだ。運良く商店街にきてもらう事に成功した後は、商店街の中の色んなお店で買い物し、お金を落としていってもらいたいと考えると思うが、そういった使い方はツイッターにはできない。そこは、更なる努力を、各お店や商店街がする必要がある。ポイントカードを発行するのか、お楽しみ抽選会を開催するのか、オリエンテーリングのような仕掛けを企画するのか。いずれにせよ、簡単ではない。

メッケは、そう言った事の全て、特に買い周りをサポートする力を持っている。これは今までどんなサービスもできなかった事なので、すごく価値があると思う。ツイッターにはできなかった事ができるようになる。そのためには、お店や商店街との連携が不可欠だが、やってみる価値はあると思う。是非。

2012年1月23日月曜日

Appleの顧客対策

手元にあったiPod nano(第一世代)のリコールがあった。実は2回目。原因はバッテリーで、どうやら発火のきけんがあるらしい。

1回目は2年ほど前だったか、ごく限られた個体に対して実施され、自分のnanoを見るとシリアルが該当しなかったのでスルー。今回は、第一世代全部が対象になっており、申請した。今まで筐体が熱くなることもなかったので、気にしていなかったが、万が一発火しても困るし、バッテリーの保ちが悪くなっていたのも事実なので、取り敢えずという気持ちで申請した。

今までのAppleの不具合品・故障品対策の基本は、部品ではなく商品そのものの交換なので、傷ついた筐体が綺麗になればラッキーぐらいで、あまり期待をしてなかった。交換には時間がかかり、正確にはよく覚えてないが、3週間ほどだろうか?使用頻度も高くないので、全く気にせず返却を待っていた。

戻ってきたnanoを見てビックリした。

最新のnanoに変身していたのだ。しかも8G。元々は確か2Gの商品だったから、容量が4倍に増えた。Nike+やラジオもついた。iPodnanoの時計機能も気になっていたので、素直に嬉しかった。すごい得した感じ。戻ってくるまでは、在庫を一掃するために全品対象のリコールを実施したのかと思っていたが、違った。

この一件でAppleが一層好きになったが、その戦略の見事さにも感心した。

5年前の商品のリコールに、3年経過時点では本当にクリティカルな個体だけを選別して対象とし、存在数が相当に少なくなったと思われる時点で全数に切り替える。会社としてのリスクとコストとリターンを最大化させることのできる戦略だと思う。安全は確保した上でロイヤルティを高める、AppleのCRMの真骨頂と言えるのではないだろうか?

凄いよ。日本のメーカーで同じことができるのは任天堂だけだろう。ソニーや東芝にも頑張って欲しいし、シャープのガラパゴスみたいに「買ったもの負け」みたいなことはやめて欲しい。

2012年1月20日金曜日

第二者が第三者に伝え、第三者が判断する事を想定する

人に物事を伝える時は、その人が他の人に話すことを想定しなければいけないと言う事。まさにその通りと思うが、中々うまくいかない。

まだまだ修行が足りない。。。

2012年1月18日水曜日

1月17日

忘れられない日だ。自分にとって、様々な事を考える時の原点になっている気がする。

1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こった。この地震は幾つかの意味で衝撃的だった。まず、生まれ育った関西が被災した事。幸いにして、知り合いも含めて人的被害を受けることはなかったが、財産という意味では大きく毀損した。

自分の実家は、マンションの上層階で多少被災する程度で済んだが、当時付き合っていた妻の実家は、大きく傾いた。夜明け前だった事もあって、ほとんどの人が事態を飲み込めないまま避難する事になった。というのも、自分が暮らした20年ほども、それ以前も、関西は地震を受ける経験をほとんどしたことがなかったからだ。妻の実家は、神戸大学に避難した。

新入社員だった自分は、東京で一報を受けたが、正確な情報は伝わってこず、普通の一日だったように思う。その時代、携帯電話もほとんど普及しておらず、インターネットはおろかパソコンもWindows95以前ということで、一般的ではなかった。久しく大災害を受けていなかった日本は、危機管理体制も整備されておらず、全ては場当たり的に対応していた。当然、情報は新聞もしくはテレビから得るしか無く、非常に曖昧で正確性を欠いていた。誰も大地震が起こったとは思っていなかった。

暫くすると事態がやや明らかになって行き、関西方面に連絡を取るも繋がらず、という状態が続いた。自分の実家は割りとすぐに無事が確認できたが、震源地に近く、避難所に居を移した彼女の様子はようとして知れなかった。2日ほどそんな日が続いて、確か19日の夜に初めて電話がかかってきた。全員無事との事。避難所では公衆電話に長蛇の列ができ、彼女もまた、そこに長時間並んでようやく電話できたとの事だった。

次の日も電話がかかってきた。たぶん20時ごろだったと思う。どうやら神戸大学内で避難所を点々としているらしい。それまで京都までしか運行してなかった新幹線が新大阪まで通る事になったのを聞いていたので、思い切って行ってみる事にした。新幹線の最終は21時なのでギリギリだったが、タクシーを飛ばして、東京駅に向かった。

大阪に着いて、同じく彼女が西宮で被災した友人の所に落ち着いた。次の日、神戸、西宮を共に行動する事にして、買い出しに出た。大阪市内はほとんど無被害で、普通に食料品などが売っていたので、必需品と思われるものを買い込み、車に載せて、一路西に向かった。

その日は震災後始めての土曜日で、43号線は阪神高速が横倒しになった事もあって、大渋滞だった。会社に入って初めて建設技術に触れた自分は、その壮大な構造実験に、ただ唖然としていた。いや、誤解を恐れずに言えば、会社では教科書的に語られている建物構造の地震による破壊を見て、感心していたと言う方が正しいかも知れない。その横を自衛隊車両が渋滞に巻き込まれながらも進んで行くのを見て、初めて自衛隊を応援したかも知れない。

青木の交差点に差し掛かった頃、渋滞はピークに達した。この交差点は海からの一方通行を含む五叉路になっていて、信号が消えた状態では全く機能していなかった。そこにいた警官に無駄と知りながら質問してみた。「この渋滞、いつまで続きますかね?」当然帰ってきた答えは「分かりません」。彼の背中を見ると、愛知県警と書いてあった。

そこから針路を北に向けて、幹線道路から住宅街をすり抜けて行く事にした。この作戦は功を奏し、そこからはある程度スムーズに進む事ができた。この住宅街すり抜けで、大規模な家屋倒壊がそこかしこで起こっている事が、よく分かった。道の両側を倒壊した建物が塞ぎ、行き止まりになっている場所がいっぱいあった。

結局、普段だと45分ほどの道のりを6時間ほどかけて進み、神戸大学に着いた時には、既に夕方だった。それから彼女の足跡を辿って、避難している場所を探し当てるのに1時間ほどだろうか。ようやく見つけたはいいが、実はご両親とは面識もなく、その時が初対面。緊張しつつ、支援物資を渡し、激励して帰路についた。

あれから17年。その後も当然何度も神戸を訪れ、その復旧・復興を見つめてきた。今はすっかり綺麗になって、中心市街地を歩く限りは震災の爪痕を感じる事はない。きっと、東日本大震災で被災した地域も10〜20年のスパンで見れば、元通りと言えるような状態になるんだろう。そう願っている。

震災は、それを身近に受けた人々に、一つの契機をもたらす。阪神であれ、東日本であれ、これからの生き方を考える時の原点になる人も多いだろう。哀しみが深かった分だけ、より多くの人にとってのプラスの契機となることを祈っている。

2012年1月16日月曜日

フットボールとフィギュアスケート

あるブログに、これからはフットボールではなく、フィギュアスケートの時代だとあった。その意味は「戦い方」と「得点方法」にある。

フットボールは敵味方に分かれて点を取り合う、いわば消耗戦だ。相手のストロングポイントを潰し、ウィークポイントを攻める。相手があってこそであり、互いの相対関係が得点を決める。

フィギュアスケートでは戦うべき相手は自分だ。より良い演技、自分が理想とする演技を追い求める。点数は、その演技の結果のみで決まる。相手との関係は、得点としては意味がない。

社会に提供する全ての財は、使う人の価値観や人生やライフスタイルの変化を生み、その事に価値があるとすれば、財を提供する事業者と使う人との間にしか、価値は存在しない。

そんな時代に、観客に視線を向けず、消耗戦を繰り返すフットボール型のビジネスは合わないのかも知れない。かつては、対戦(競争)相手との相対関係を考えること観客(使う人)の価値にも繋がり、それなりに意味のある事だったのだが。

翻ってフィギュアスケートは、観客の視線こそが全てだ。言い換えれば、観客に与える感動という価値に意味がある。競争相手は、同じリンクで滑っているだけで、存在することのプレッシャーはあれども、それが生み出す価値を損なう事はない。

そういった姿勢の違いが、ビジネスの場でも重要になってきている、と言うことだろう。

ただし、フットボールは対戦相手に勝てば、それが価値と言い張る事ができる単純な競技だが、フィギュアスケートは自分が考える演技の良さが伝わらなければ無価値に陥る怖さがある。その恐怖感に負けて、ついフットボールに熱中してしまう会社が多いのではないか。

技術の進歩と、そこから得られる価値が非線形状態になってから、ビジネスはそういった形に変質してきた。次の層に遷移するまでの過渡期で、ここをどう乗り切るかが重要なんだと思う。

2012年1月11日水曜日

ガッカリさせられるモバイルSuica

前にも一度書いた事があるが、モバイルSuicaのシステムが全くいけてない。何をどう勘違いしたら、こんなシステムになるのかが分からない。

日常の足として使うSuicaは、特に不満もない。ただ、モバイルSuicaとして携帯電話を活用する意味はあまりない。別にカードでいい。

何がモバイルSuicaを特徴づけているかというと、特急券ぐらいだろうか?

これを特徴づけようとすることが、モバイルSuicaを、このような使えないシステムに貶めてしまったように思える。

なぜなら、モバイルSuica特急券でできる事は、JR東海のエクスプレスカードでも実現できるからだ。つまり、カードで全然問題ない。しかも、同じモバイルSuicaを使っても、JR東海の方が扱いやすい。あえて、モバイルSuicaを使う意味を作り出そうとして、失敗したのではないか。

使いにくさと言えば、数え上げたらキリがないが、まず予約時。どちらのサイトも使いやすいとは言えないが、とりわけ酷いのはJR東日本だ。多少は慣れの問題もあるかもしれないが、とにかくサイトナビゲーションが最低だ。

そして、改札時。JR東日本は一回ずつチケットをダウンロードしなければならない。そのダウンロードに要する時間、最短で2分。だいたい、改札を前にして、何やら携帯電話を操作しなければならないなんて、ナンセンスだろう。事前にダウンロードしておけば、という声もありそうだが、チケットレスにする理由の一つはギリギリまで変更できる事だったりする。JR東海はその点何もする必要はない。たとえ、エクスプレスカードではなく、モバイルSuicaを使っていたとしても。

そしてJR東日本は、改札時、何も出てこない。これは、システム化したメリットのようにも思えるのだが、手元に座席番号がないので、結構困る。そして、プラットホームにも、座席案内するような機械はない。JR東日本からリマインドメールも来るのだが、そこにも記載はない。なので、ホームの上でも携帯電話をいじくり、自分の座席番号を探す事になる。バカバカしい。

乗車すると検札はない。これは、良い事かも知れないが、その他の不便さに比べるとけし粒ほどの小ささで、別にどうと言う事はない。検札手間が減って嬉しいのは、乗客ではなく乗務員だ。

つまり、モバイルSuicaは極端に事業者目線に立ったもので、顧客の事を考えて作ったものではないと言う事だろう。結果として、顧客にとっていらない機能を過剰に追求し、必要な機能を蔑ろにすることで、乗務員の手間を省く事には成功している。

ついでに、今乗っている「はやぶさ」もいけてない。シートが立ち過ぎてるし、何より薄過ぎる。後ろの人がシートポケットに本を入れるのが分かるほどに薄い。足下空間を3センチ縮めてもいいので、シートの質を上げるべきだっただろう。

どうなってるんだ、JR東日本。

2012年1月9日月曜日

最も信頼できるレコメンド

食べログのやらせ書き込みが、新春のニュースを飾った。正直言って、そこまで食べログコメントに絶対の信頼を置いている人がいるとは思えないし、やらせ業者が跋扈していることは想定内だと思ってた。

Amazonだって、楽天だって、iTunes/App Storeだって、みんなある程度のやらせは存在するものだろう。

かといって、絶賛するコメントを見て訪問した客が、実際に体験してみてガッカリして、悪いコメントを書き込むから、コメントには自浄作用があると考えるのは、楽観的すぎるだろうと思う。だって、食べログにせよ、何にせよ、コメントを書き込む人は一握りで、おそらく5%にも満たないんじゃないかと思われる。まあ、限られた人たちの掛け合い漫才を横から眺めてる程度のことで、その評価が絶対なものにはなり得ない。

では、そういったコメントやレコメンドが全く無用のものかと言えば、そうでもなくて、評価はさておき事実関係は正しいことが多い。

一般的にレコメンドには3種類あり、それぞれがどのような特性を持っているかを理解しておけば、今回のようなやらせがどうという下らない話にはならないだろう。

一つ目がユーザー起点のレコメンド。評価軸も、そのレベルも様々で、全くアテにならない。コストを中心に考える人の評価と、食材や調味料を大事にしている人の評価と、雰囲気を重視する人の評価は全く違うだろう。システム側が提供する評価軸は一緒なので、評価者の数が増えれば増えるほど、その評価点は平均値に近づく。

二つ目はお店起点のレコメンド。自分勝手に評価するので、常に我田引水、良い事しか書かないだろう。一方でそこに書かれている事は、お店としてのウリなので、そこに限っては、誇張はあれど間違いは少ないのではないかと思う。例えば「眺望は最高」と書いてあっても、その眺望を活かしきれているかは別問題だし、ましてや味は分からないので、良く読み解く必要はある。

三つ目が第三者のレコメンド。有名なのはミシュランガイドだろう。これは、評価軸、評価レベルともに一定であり、評価としては唯一信頼に足るものだと思う。特にガイドの評価と自分の評価尺度が一致している場合は間違いないし、両者に乖離があったとしても個別に補正できれば問題ない。

既存のサービスで、例えば食べログはユーザー起点だし、ぐるなびはお店起点だが、第三者が与えるレコメンドを中心に置いているサービスは少ない。正確に言うと、昔は多かったように思うが、ネットの隆盛とともに減っていった印象がある。

実は、最も信頼に足るレコメンドは第三者が与えるものだが、ソーシャルという概念がそれに目隠しをしているように思える。ここにもソーシャルの限界がある。

2012年1月6日金曜日

AIDMAとポイント

先日、CCC(Tsutaya)の増田宗昭氏がテレビでT-pointカードの話をしていた。

元々はポイントカードの不便さを解消したくて作ったもので、別にTsutayaビジネスとの相乗効果を狙って、とかは何もないらしい。「T」も、TsutayaのTではなく、デザインとしてTが好きというだけ、とのこと。

ローカル通貨のような従来のポイントシステムは、店側にして見れば囲い込みの意味はあるのかもしれないが、ユーザーからすれば不便だし、そもそも囲い込まれたいと思ってる人はいないだろうということで、ポイントを貯める店、使う店の制約をなるべく取っ払った形で、ユーザーの利便性を最優先に考えた結果として、作られたものだそうだ。

そして、ポイント周りの登場人物として、ユーザー、店、システム管理会社の三者が存在するが、それぞれのメリットは次の通りに考えられている。ユーザー:ポイント蓄積並びに換金、店:ユーザー属性獲得によるマーケティング活用、システム管理会社:システム利用料の徴収。三者がいずれもメリットを得られるのはもちろんだが、特にユーザーの利便性が高い事が重要だろう。

ここで少し視点を変えて、マーケティングで古典的に活用されているフレームワークであるAIDMAで考えると、T-pointカードに限らず従来のポイントシステムは全て、最後のA(Action)の報酬としてのポイントだと言うことが分かる。

では、商品購買に至る前4段階(AIDM)には報酬を与えるだけの価値が無いのだろうか?

決してそうではないと思う。実際の購買にいかに繋げるかが大事であって、購買そのものは結果でしかないと言っては、言い過ぎだろうか。ただ、前4段階はその行動を定量化しづらく、また、その報酬を誰が払うべきか、という点と点を繋げることが難しいだけに過ぎない。

最も簡単な「Actionと報酬を繋げる事」は、システムの模索はあれどもコンセプトとしては、とっくの昔に完成している。T-pointカードは、一つに完成形と考えられる。

今後は、「AIDMのいずれかと報酬を繋げる事」が模索され、次世代のポイントシステムとして、Actionポイントと相反しない形で存在する事になるだろう。そしてそれは、Actionポイントよりも広範囲で多くのユーザーに活用されるものになるに違いない。

2012年1月4日水曜日

新しい公共投資の視点

八ッ場ダムの工事再開が決定した。治水上の必要性はあるのだろう。200年という想定期間で考えれば、かなり大規模なものが必要になるのも頷ける。ダムができることによって得られる効用と言われるものと、その不確実さの間で、賛成・反対が渦巻いている。

八ッ場ダムの賛否を問う上で一つ考えておきたいのは、今後10年ほどの間に日本経済に綻びが生じる可能性が高いという事実だ。歳入が50兆円に見たない国の年間予算が100兆円に届こうかというレベルになっている事からも、段々と現実味を帯びてきているのは、間違いない。そういった時代における公共工事のあり方は、今まで通りではあり得ないだろう。

多分これから最も重視されるのは、メンテナンスの手軽さだろう。利便性を求めて、高速道路を延伸してきた時代はもう来ない。ダムも同じだろう。今までのように、果てしない利便性や過度の安全性を拠り所にして公共工事が行われることはないし、行われてはならないと思う。

例えば、八ッ場ダムの200年再現期間だが、その間のメンテナンスコストはいかほどだろうか?吾妻川は強酸性なので石灰をまいて中和させるらしいが、完全に中和し切らない水質がダムを侵食する可能性もあるだろうし、ダムの寿命が来たときは、たぶん同じようなダムを再築する必要があるのだろう。また、中和物の沈殿を定期的に取り除く浚渫作業が欠かせないだろうし、ダムを治水・利水において役に立たせるには、他にも様々なメンテナンスが必要になるんだろう。

一旦作ってしまった環境を維持していく事には、いずれにせよコストがかかり、それは我々の子孫に、確実な重荷になってのしかかる。今後は、放置する事による危険を回避するために、新規公共工事よりも既存公共施設のプライオリティが高くなり、きっと予算の多くはメンテナンス費用に当てられることになる。

問題は、この未来の主役である人々が主体的に国づくりを行うためのお金は既にない、ということだ。

1000兆円も借金をして好き放題に作り上げてしまった、過去の人々の借金と残渣を処理することしか残されていないということだ。そんな事で、未来の人々は夢を描けるのだろうか?高速道路をメンテするだけで新しい路線開発はダメとか、ムダな空港を廃港することはできても新規に空港を作ることはできないとか、そんな事になりかねない。統廃合や整理していく中で、工夫次第で多少は面白い事もあるだろうが、20世紀のようにドラスティックに何かを作り出すことは、少なくとも公共事業という形ではやりにくくなるだろう。

今の時代の人にできることは、これ以上借金を増やさないようにすることと、新しい何かを作り出す時には、なるべく維持管理コストが掛からない形にすることぐらいだろう。それが、新しい公共投資の視点だと思う。そう考えると、八ッ場ダムは中止が妥当じゃないだろうか。

2012年1月2日月曜日

Hello, 2012.

明けましておめでとうございます。

2012年が始まった。2011年は大きなパラダイムシフトが起こった年だと思うが、これから先、少なくとも10年の方向性を決めるのは今年だろう。

不連続なポイントから、どちらに足を踏み出すかによって、未来は大きく変わる。逆に言うと、今年の前半は、まだやり直しの効く時間かも知れない。

新しい年と、新しい時代の幕開けだ。目を見開き、耳をそばだてて、時代の流れを見極めよう。