2010年1月29日金曜日

技術・コンセプト・デザイン

商品を構成する三要素。日本の企業は技術への傾倒が強いが、本来、この三要素に優先劣後関係はないはず。途上国型・キャッチアップ型商品開発を進めてきた弊害というべきか、余りにも先端技術や価格競争力に拘りすぎているように感じる。

この三つの歯車がうまく噛み合ったとき、画期的な商品が生まれる。ただし、使い方に留意点がある。三要素全てを新しくしないことだ。

変えるのは一つでいい。というか、一つでないと通常はダメ。多くの人は、見慣れた、触り慣れたモノしか手に取らない。皆、保守的なんだ。理由は簡単、そこにお金や時間のやり取りがあるからで、お金や時間を払ってまで苦行(が想像出来ること)をしたくない、ということだろう。

二つ以上変えたヒット商品が生まれたとしたら、それは奇跡だと思う。

昨日発表されたAppleのiPadを見て、僭越ながら、この会社は本当に商品開発の核心を理解している、と感心した。こうやって、ヒット商品を開発するためのフレームワークを理解していても、組織として行動できない会社は腐るほどある。いや、ほとんどの会社がそうであると言っても良いだろう。

残念ながら所属する会社も、技術と価格に拘る日本的な傾向を持っている。まあ、日本的な湿ったコミュニティの最も濃い部分に生息する業種なので、やむを得ないが。

iPadを見て、どのように感じるかは人それぞれだが、技術とデザインは既存デバイス(iPhoneなど)を踏襲し、コンセプトだけを刷新して出すその手法は、間違いなくヒットの常道だろう。次の問題は、提示したコンセプトが人々に受け入れられるかだが、正直、発表前に予想として上がっていた、画像、動画、本程度じゃ少し弱いだろうと思っていた。

なぜなら、これらはコンテンツベースなので、コンテンツが揃わない限りは、その真価を発揮しようもないからだ。そのコンテンツは個人が趣味で提供する程度のものではなく、商業ベースに乗ったものでなければならない。そして日本市場は、未だに映画やTV番組をiTunes storeに提供できないほど、保守的である。

なので、iPadがiWorkを取り込んだのは、素晴らしい決断だと思う。こういったガジェットの購入におけるイノベーターは、ビジネスマンだろう。ビジネス用途への展開は必須のように思える。ウェブ、メール、プレゼンテーション、ドキュメント、スプレッドシートがあれば、大体の用は足りる。

あー、早く手に入れたい。

2010年1月27日水曜日

目的の見直し

現所属の性格上、今後「来る」であろう技術トレンドを追いかけることが多い。ゼネコンビジネスの枠組みで考えると、なかなか商品として単独で売れるものはないので、自社内で使うものか、お客さまの施設に提案として盛り込む技術になる。

お客さまに提案する、という活動をビジネスのコアとしていることもあり、同業他社比較が非常なプライオリティで行われる。やれ、K社はどうだとか、T社に負けるなとか、そういった評価が重要らしい。

いきおい、自社内で使う技術やシステム、メソッドについても同様の評価軸で考えられることになる。結果として、企業の活動の全てが、同業他社比較で行われる。これが請負業のDNAなんだろう。

一旦、同業他社を見てしまうと、途端に目的が変質し、本質的に意味のある活動から乖離していくことになる。気づいた時は、「何でこんな事してるの?」という様なこともままある。

主体的に活動を選ぶ、逆に言えば、積極的に捨てる力を持たない会社は、不本意ながら流され続けることになりがちだろう。そんな時に大事なのは、目的を見直し、変えていく勇気だが、それすらも無いと最悪だ。

なんだか、目的を見失った仕事ばかりのような気がする。

2010年1月25日月曜日

やらないコトの意味

自戒を込めて。

できなくて恥をかくことを避ける、うまく行かなくて悔しい気持ちになりたくない、真剣にやって成功しなかった時に受けるであろうダメージから逃れる、そんな事が行動を起こさない、見てるだけ、人の言う事を聞かないことのベースにある。

些細な嘘をつくっていうのも、人の気をひいて、または、人の気を弛めさせて、自分の思っている方向に持って行こうという浅はかな知恵なんだろう。

どちらも、短慮で将来性がなく、小賢しい中途半端な考え方だ。むしろ無策でがむしゃらに行動するほうが良いだろう。また、無意味に自意識過剰であるとも言える。誰も人は注意して見ている訳ではない。見られているような気がするのは、単に自意識が過剰なだけである。

しかし、意識を変える、ただそれだけで人生は大きく変わる。自意識を持ちすぎることは無意味なだけではなく、有害だ。

2010年1月22日金曜日

最後までスッキリとはいかず

昨日で、3ヶ月通った経営戦略講座が終わった。色んな戦略スキルを実際のケースを題材に学んだが、最後まで使いこなせなかった。

本で読んでいるとはいえ素人が、たかが3ヶ月で何とかなると思う方がおかしいが、最後ぐらいはスッキリと、確からしい解を導き出したかった。

いつも、クリティカルな何かの視点が抜けて、導いた答えとは違う方向が確からしく感じる。講義の最後に、実際の顛末を聞くと、少しやりきれない気分になる。経営者には向いてないのか、単に修行が足りないだけか分からないが、モヤモヤと霧が頭の中にたちこめてくる。

経営戦略そのものが、極めて属人的で経験がモノをいう世界であり、明解な体系化ができていない。と言うよりは、体系化され形式知化されている部分以上に、運用や経験で導かれる部分が多いと言うべきか。

そして、経営に正解はないと言うのも、もう一つの真実として存在する。事の顛末を聞いても、それがベストの解かどうかは、判断のしようもないので、しょうがない。ゼネコンが常に言い訳として使う「一品生産」なんだから、再現性のある経営なんてあり得ない。

だからこそ、再現性がないからこそ、何とか確からしい答えを導き出すために、経営戦略論がある。これは、人生をより良く生きるためにも熟達する必要があると思う。しかし、難しい。

2010年1月20日水曜日

バンドエイドをはがす方法

社会企業家ジョン・ウッドが、古巣マイクロソフトから離れることを選んだきっかけになった友人の言葉。

「バンドエイドをはがすには、二つのやり方しかない。
痛いから、ゆっくりはがすか。
痛いからこそ、一気にはがすか。」

これも、正解はない。
ただ、JALは痛みを恐れるあまり、バンドエイドをはがせず、結果として傷口は癒えないどころか壊死にいたった事例だと思う。稲盛さんは、生み出したり伸ばしたりすることで日本経済に多大なる功績を残す人だが、他人が踏み荒らした土俵を作り直したことはなかったのではないかな?晩節を汚すことにならなければ良いが。

ともあれバンドエイドは、傷口の状態を良くみて、覚悟を決めて一気にはがす方が、痛みが少なく治りも早いように思える。

2010年1月18日月曜日

行動しないという選択

少し前に同僚と、大げさに言うと日本の行く末のような話をした。

自分は、日本人の国民性として、個人主義で、依るべき宗教もない、そして物質的に満足しきっている状況下では、何かが大きく変わることはあり得ないと思ってる。

しかも、なお一定の経済力を持ち続けることが最悪で、国際的なプレゼンス低下は比較的緩やかに収まり、それが「茹で蛙」状態を確実なものにするだろう。つまり、茹で上がるまで気づかず、座して死を待つのみである。団塊世代が後期高齢者になる15年後あたりは、その谷底じゃないかと思う。

そういった立ち位置で話をしてたら、悲観的すぎる、いずれ立つべき人が立ち、変わっていくはずだから、期待して待つべきと言われた。逆に、なぜ楽観的でいられるのか、何が会社や国を変えると期待するのか、その期待する先の信憑性はどの程度なのか、いちいち聞いてみたい。

先日、出席した下らないシンポジウムで、一人の発表者が面白いことを言っていた。「冷蔵庫の中にある牛乳は古いモノから飲むが、売っている牛乳は新しいモノを選んで買う」と。つまり、全体最適なんて関係なくて、基本的に個人最適でしか動けない、ということ。

人間の本質だとは思うが、寄付やボランティアが社会的に自然な形では広まっていない日本人には特に顕著な行動様式であるとも言える。こんな中で、全体最適を目指しましょう、他人を思いやり、痛みを分かち合いましょう、なんて意味のない提案だろう。

どこに正解があるのか分からないが、行動なくして結果が得られることはない。行動しないという選択は、機を待つ準備段階でなければならない。

2010年1月15日金曜日

V字回復?

よく、日本は二度奇跡を起こした国だと言われる。明治維新と第二次大戦後の高度成長である。だから、今のような未曾有の危機であっても底力を発揮すれば奇跡が起こると言う論調で語られる事もある。

先の二例と比べると人口構成が決定的に異なる。つまり、以前は若者の絶対的人数が多く、世の中を若者向けにドライブする力があった。若者が何かの拍子に支配的地位に立つこともあったろうし、年寄もそれを無視できない事情(暴動やクーデター)もあったと推察できる。また、ベンチャーの立ち上げにおいても安く優秀な労働力を集める事ができ、それが国際競争力を高め、高度成長を牽引したとも言える。

翻って今はどうだろう?
まずもって安く優秀な労働力を確保することは、国内では不可能に近い。さらに若者よりも年寄の人数が多く、年寄にとって都合の良い仕組みが優先される。歪な人口構成ゆえ、若者の指導者が生まれる可能性も低く、世の中は加速度的に年寄向きになって行くのだろう。

少なくとも近未来はそのように予想されるし、そんなことを考えている自分も年寄に一歩一歩近づいている。この流れはしばらく続き、立ち行かなくなるまで、国として成立しなくなるまで、このままだろう。

座して穏やかなる死を待ち、自分の子供も含めた後世に負担を先送りするか、それを拒否して流れに飲み込まれないよう行動を起こすかは、今決めるべきタイミングだと思う。

2010年1月13日水曜日

幕末と現代は相似形

「龍馬伝」に感化されて.司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読んでいる。まだ読み始めたばかりだが、面白い。今まで敬遠してきたが、皆がハマる理由はよく分かる。

時代の流れが急激に早くなる、少し前の時期に生まれ、ちょうど良いタイミングで流れに乗っていく。その時代とのフィット感と、足りないピースを埋めるがごとき人間性が全てだと思う。

また、硬直化した周辺環境も、その存在を後押ししている。強い身分差別の残る土佐に生まれながら、家柄は良く、金持ち。差別の、本当の中心にいなかった事が、竜馬の客観性を育んだのかも知れない。

貴族気取りの上士は「畏れ入る」ことを組織コミュニケーションの核としており、上役や幕府に「お叱りを受けない」というのが、一つの行動判断基準になっていた。結果として、多くの責任を取りたがらない意思決定者の、大局感のない意見に翻弄され、意味のない行動ばかりになってしまう。

黒船が来た時に、竜馬が長州藩の陣地を偵察する任務を受けた。そこに配してある大砲のほとんどが灯籠を横倒ししたものだと上役に報告した時、「それで幕府からお叱りを受けないのなら、土佐でも灯籠を買い込もう」と言ったとか。

こんな意思決定が、大企業には横行している。それがおかしいと知りながら、いつか誰かが流れを変えてくれるはず、と傍観している人もいっぱいいる。変わるための中心部署にいながら、多くは他人事だ。

竜馬の時代も、江戸はどこまでも他人事だった。情報の少ない薩摩、長州、土佐など辺境の国だけが、真剣に日本を憂いていた。情報を得ることが容易になり、今は全員が江戸にいるようなもので、日本に対しても、会社に対しても他人事だ。

だから、将来のために必要だと嘯き、本質とは異なる部分最適解に血道をあげ、人材、時間、金を食い潰す。危機は、今ここに迫っている。

2010年1月11日月曜日

ブルーオーシャンを考えるとき

必ず、サービスについて検討せざるを得ない。
なぜなら、単なる商品特性上の目新しさだけで、新しい市場が創造される訳がないからだ。もう少し言うと、新しい市場は新しい価値体験から生まれると考えられるが、商品特性だけで得られる価値体験では不十分なのだろう。

最近、様々な産業を例に出して議論するのだが、多くの産業領域において、商品特性から想起される性能は価値を評価できるレベルを遥かに超え、性能向上が価値向上とリニアにはに結びつかなくなっている。言わば、科学技術の進歩が、人間の感性を超えたという事で、大変な時代に入ったと感じる。

価値体験が性能だけで作れなくなると必然的に、使い方や使われていく中での顧客接点に、評価の視点は移っていくだろう。この領域はサービスに直結している。

日本の市場は、二匹目のどじょうを狙う傾向が強く、ヒット商品が出ると競合商品が分別なく開発される。これは、競合他社比較でしか、自社のポジショニングができない、途上国型キャッチアップ志向によるものと考えられる。

このように、海外と比べるとレッドオーシャン市場が苛烈な日本において、ブルーオーシャン市場を探し続ける努力、または、そういった志向を持つことは非常に重要だと思える。結果として、先進国型の先導的商品開発に向けたメンタリティが醸成される可能性もあるだろう。

ブルーオーシャン戦略を、皆が扱えるような方法論として普遍化し、もっと普及させる必要があると思う。特に、レッドオーシャンを、それとも気づかずに悠然と泳いでいる、旧態依然とした会社においては、なおの事だろう。

2010年1月8日金曜日

今回の講義はいつも以上にスッキリしなかった

任天堂のWiiを題材にブルーオーシャン戦略を考えた。

何だろう?
いつも以上にスッキリする事ができなかった。質問もできず。。。知ってると胸を張れるほどは知らない訳だが、少し勉強して、分かった気になっていたのが良くなかったかな?

戦略論は常に後付けで、正解はなく、体系としてカッチリしてないので、頭を空っぽにして集中しないと、何となく理解した気分になってしまう。チームの雰囲気にもよるが、それも、自分でコントロール可能だ。つまり、自分のメンタル次第という事だ。未熟なり。

ブルーオーシャン戦略は、単純なんだけど奥が深いように感じる。戦略キャンパスを作るまでのプロセスも、自らの立ち位置を徹底的に客観化しなければならず、一朝一夕には済まないが、これを実行に落とし込むのは、集中力と思い込みが必要だろう。

ブルーオーシャン戦略で描き出される、戦略の形は当然ながら既存のものとは全く違う。よほどの覚悟がないと使いこなせそうにない。成熟産業の閉塞感溢れる会社のリビルドに使うには、危険がいっぱいだ。夜道を一人では歩けないだろう。

他方で、ベンチャーには最適なんじゃないかと感じた。理由は簡単、組織のしがらみが無いからだ。一旦レッドオーシャンで成功体験を積むと、自らを客観化するのは極めて難しくなる。だから、スタートアップでこそ使うべき戦略だと思う。

もっともっと理解して、使いこなしたい。
一つのキーは、客観化だろう。抽象化、俯瞰した視点、ビッグピクチャ。今年のテーマにしよう。

2010年1月6日水曜日

ルールメイク

「ルールを作る時代と使う時代」というタイトルで、幕末と現代について、思うところを書こうと思ったが、偉そうに書けるほど知識がないのと、現代は決してルールを使うだけの時代じゃないし、幕末もルールを作るだけの時代じゃなかったんだな、と思い、改めてルールについて考えようと思う。

今年の大河ドラマは「龍馬伝」で、久しぶりにちゃんと見てみようと思っている。坂本龍馬は、今までの大河ドラマの主人公に比べても、著名で、身近で、それぞれの人が何らかのイメージを持っているだろうから、演じる人は大変だ。私の龍馬イメージは、小山ゆうさんの描いた漫画の「おーい、竜馬」だ。でも、読んだのは大分昔で、しかも、その時代背景にさほどの興味も無かったので、なぜ、彼がルールメーカーたり得たかは、理解していない。

で、激動の時代にルールを作った人と、それからずっと後の時代にルールを使うだけの我々は、随分と立ち位置が違うな、と思ったのが事の発端。

でも、ちと待てよ。
昔の方が、コミュニティがしっかりしていて、その中でのルールは厳格だったはず。大きくは江戸幕府コミュニティ、例えば土佐藩コミュニティ、小さくは坂本家コミュニティ。それぞれにルールは間違いなく存在し、しかも今より厳しかったよね。多分。

そんな状況で、既存のルールとは違うルールを考案し、世の権力者たちを乗せた、その手腕は一体なんだ?

そもそも、ルールに縛られたコミュニティの中にいて、そのルールから離れた事を考えられる自由さも凄い。今なら、あらゆる情報が手に入るので、今いる場所のルールが必ずしも正しくない事は、その気になれば理解できる。

でも、電話すら無い時代に、どうやって自分自身や所属するコミュニティの立ち位置を客観化できるのか、想像もつかない。日本の立ち位置までをも客観化した上で、どうすればいいのかの答えまで導き出し、実行に移してしまったんだから、とんでも無い。

ここに至るまでに幾つかのトリガーがあったんだろう。江戸遊学、ペリー来航、そして脱藩。それぞれが、今までのルールを客観化する機会であり、新しいルールを考える機会だったんだろう。そして、次第に客観化スケールが大きくなって、薩長同盟、大政奉還への道筋をつけることになった、と。

書くと簡単だが、実際の悩みは深かったに違いない。「世の人は我を何とも言わば言え 我が成すことは我のみぞ知る」なんて、誰も竜馬の客観化スケールについて行けなかったことを物語っている。

結局、新しいルールを作るには、今までのルール世界から離れて客観化しないとダメ、ということ。今までのルールにどっぷり浸かりながら、新しいルールに思いを馳せるのはナンセンスだ。

2010年1月4日月曜日

お出かけ不要?

最近の気にいらないCM。
まぁCMってのは、提供主体のご都合主義で制作されるので、内容にバイアスがかかるのはやむを得ない。が、社会的な行動に悪影響を及ぼすような「害のある」CMは、すぐにでも休止してもらいたいものだ。

少し前の「エコ替え」も商業主義が鼻について不愉快だった。本質的に新しい資源を使わない事はエコにつながるが、無理矢理買い替えることは、エコでも何でもない。そして、新垣由衣がか細く「便利ではじめる、エコでつづける」と歌うNTT東の光フレッツも同類だ。

まず、逆なんだよね、考え方が。
エコでは続きませんよ、何事も。本来、「エコではじめる、便利でつづける」というのが自然の行動だし、そうであってこそ、自然にエコ活動ができる、というものだろう。

そして、エコ活動の中にある「お出かけ不要」は、何なんだろう?お出かけしないことがエコだとても言うのだろうか?確かに、車や電車に乗らない訳だから、CO2の排出削減には少しは寄与するのかもしれない。が、あらゆる人が外出を控え、街が閑散とする風景は、想像するだけでおぞましい。エコ、いやCO2排出削減のために個人の愉しみを捨て、街を殺し、国を滅ぼすなんて愚の骨頂だろう。

「エコ替え」も「便利ではじめる、エコでつづける」も、大企業のエゴの固まりだが、そんな事はどうでも良い。CMは企業エゴの結晶なのは分かっている。ただ、売らんがために間違ったメッセージを平気で流す、そのメンタリティが、許せない。それが、日本を代表する大企業であるからなおの事だ。

そう考えると、何のインパクトもない某ゼネコンの平和ボケCMは、無害なだけ、まだマシなのかもしれない。

2010年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

2009年が終わり、2010年が始まりました。

個人的に今年は不惑の年ですが、まだまだ落ち着くつもりはありません。活動をさらに活性化させ、必ずや飛躍の年になるよう、日々邁進して行きたいと考えています。

新しい事が、次の新しさ、楽しさ、やりがい、社会へのインパクトを生み出すと信じて、チャレンジを続けて行きます。

自分にとっての良い年を目指しますが、皆さんにとっても良い年になりますように、心よりお祈り申し上げます。今年もよろしくお願いします。