2012年4月30日月曜日

力士祭@海津天神社

琵琶湖の湖西にある海津天神社で「力士祭」というお祭りがあった。たまたま近くにいたので、少し覗いてみた。ネットで探しても何時に祭りが始まって、何時に終わるのか、どういった内容なのかほとんど見つからず、昼食がてら11時過ぎに行ってみた。

参道には松明の準備が進められており、村の各所から祭りの雰囲気を感じる事ができるが、それ以上ではない。神社に着いてもほとんど動きが見られず、どうしようかと考えていた時に、村の方から法被を着た子どもの一団が到着。少し賑わいが出てきた。


神社に入って正面に大きな社があり、中を覗くと、大きな神輿が2基と小さな神輿が1基置いてある。社務所で祭りの概要を聞くと、海津港が北陸から京都への輸送基地として賑わった300年前から始まったと言われ、その当時、回船問屋で働く若者達が力士をまねて化粧まわしを着け、美しさを競ったのが始まりだそうだ。l
12:30に子ども神輿が出発し、13:30に大人神輿が出発する。大人神輿は、海津と西浜に分かれて村を練り歩き、20:00頃神社に戻って、ぶつかり合う「おねり」を行うらしい。


段々と人が増えていき、一升瓶を持ったふんどし姿の若い衆が早くも酔っぱらい、観光客に絡み始める。写真が趣味の老人が集まり、法被姿の子ども達を撮影するのかと思いきや、我々の方に近づき、子ども達を囲んでちょっとした撮影会になってしまった。この人たちにとって、祭りはどうでもいいのかな、なんて思いながら苦笑。


特に出店がある訳でもなく、非常にシンプルでローカルなお祭りで、観光資源化されてないだけ潔さを感じた。

その後も車で村の近くを通ったが、家の前には提灯をぶら下げ、子どもも大人も神輿が通るのを楽しみにしている雰囲気を感じた。自分自身は新興住宅地育ちで、そうった原風景を共有していないが、非常に日本的で大切にしていきたいと思った。

日本中のあちこちに、こういった素朴なお祭りがまだまだ残っていると思うが、今後も残していく必要があるだろう。

2012年4月27日金曜日

友人が死んだ。。

中学時代の友人が突然亡くなった。
友人の死に触れる事が今まで無かったので、うまく頭が整理できないでいる。

ここ10年ぐらいは、ほとんど会う事もなかったのだが、20代前半はよく一緒にカラオケに行っていたし、彼の実家は飲食店をしていたので、そこでバイトをした事もあった。それ以前で言うと、中学時代の1980年代中頃は、彼の家でよくゲームをしたものだった。

思い起こせば、新興住宅街で飲食店を営んでいた彼の実家は、その当時のサラリーマンに比べると裕福だったのかもしれない。自分の家にはないものが色々あって、物珍しく、よく遊びに行っていた事を思い出す。ビデオデッキ(ソニーベータ)、パソコン(シャープMZ2000)、ファミコンなどなど。爆風スランプが好きで、カラオケでは「大きなタマネギの下で」をよく歌っていた。今も九段下を通ると、無意識で彼の事を思い出していたように思う。

ここ最近は、めっきり交流が減っていた事もあるのだろうが、まだ全く実感が湧かない。

何もなし得てない自分を振り返っても、早すぎる死だと思う。今、死んだら、思い残す事ばかりだ。そう思うといたたまれないが、ご冥福をお祈りしたい。

彼がいなかったら寂しい中学生活だったかもしれない。中学時代の思い出を、ありがとう。どうぞ安らかに。

2012年4月25日水曜日

限りある土俵の中では自由

かつて「Macは塗り絵で、Windowsは真っ白なキャンバスだ」と書いた事がある。改めて、サービスというか大きくは商材とはどうあるべきかを考えてみた。

よく日本企業は、利用の自由度を上げて、何にでも使える商品を提供しようとする。実は、今のAndroid端末などもそうなのだが、何にでも使えるものは、よっぽど明確な意志がない限りは何にも使えない、というのが真実だと思う。ほとんどのノートパソコンは筐体の四方に様々なポートが並び、多くの人はその3割ぐらいしか使わない、というか使えない。

本当に必要な機能なのか、という議論がほとんどなされないまま、様々な人の意見を取り込んでいくという、悪い合議プロセスを経ると、こうなってしまうのだと思う。今の自分の立場を振り返っても、ポリシーを持たずに合議プロセスに入ると、声の大きい人もしくは役職の高い人の意見が大きく取り込まれて、どんどん形が変わっていくことになる。出来上がったものを見ると、いかにもグロテスクで、当初思い描いていたものとは全く違うものになっていたりする。

こういったものづくりも、見方を変えれば、全ての人の要求に応える完璧なマシンとも言える。別の見方をすれば、誰が使っても3割ぐらいしか使えないマシンとも言える。これが、真っ白なキャンパスと言い換えている。

真っ白なキャンパスも、その大きさや白さを十分に使い切る事は難しく、全てを有効に使える人はほとんどいない。端っこの方に小さな絵を描いてしまったり、全体に間延びした絵になってしまったりする。そして、いろんな人の意見を聞くと、何を描きたかったのか分からなくなってしまったり、だからといって、誰の意見も聞かないと絵にもならなかったりする。

他方、Macは塗り絵的で、できる事は限られているし、出来上がりも何となくイメージできたりする。だから、幼児から老人まで、特に使い方を教える事なくとも、一定のクオリティの作品が作れるし、ある意味狭い領域で、ある決められた絵を描く事だけに集中して、その完成度を高めていく事ができる。

塗り絵を提供する事は、提供する側としては大変難しい決断だと思う。できる事を限定すると、明らかに使う人の人数が減る訳だから、通常のロジックでは意思決定できないだろう。ただ、これからのものづくりにおいては、必要不可欠な考え方なんだと思う。

一つの考え方として、レイヤーを分ける事で、両者の利点を取り込む事ができるとも考えられる。

使える領域を限定しつつ、その領域内では自由度を高めて上げるということで、塗り絵的なんだけど、テーマが決まっているだけの塗り絵とでも言う形があり得るのではないかと思う。実は、Appleの商品は全てそのように設計されているとも言える。活用するシーンを限定しているが、そのシーンの中で何をするかに対する制限はなるべく少なくなるように設計されているように思える。

これからのサービスは、このような考え方が中心になっていくんだろう。

2012年4月23日月曜日

東京都が尖閣諸島を購入するかも

国民が国土に対して責任を持つ事は良い事だと思う。

近隣諸国への配慮を強調しすぎた結果、今の曖昧な状況がある訳だが、国の形を明確にすることは、非常に重要だと思う。

本来、国がやるべき仕事なので、どこまで地方自治体がしゃしゃり出て良いものかとは思うが、今の日本で、ある程度はみ出た行動ができる人も限られているので、やむなしと、個人的には感じている。

寄付も受け付けるらしいので、協力したい。

2012年4月20日金曜日

隣のGalaxy

電車で隣に座っている人が、おもむろに持っているスマホのケースを外した。その後、背面カバーも取って電池を外して入れ直した。どうやらフリーズしたので、強制的に再起動したらしい。

う〜ん、あり得ない。
今時そんな携帯使ってるの?パソコンでも強制終了なんてほとんどしないのに。MacでもiPhoneでもiPadでも強制終了させなければいけない事態になったことがないけど。。。ちなみに自分のiPhoneは32Gモデルで実質30Gだけど29.5G使っているという、危険な状態。それでもフリーズはしない。

フリーズするという未熟さを受け入れて、それも一つの癖と喜んで、特殊なスキルでカバーするのは、15年ぐらい前に終わったと思ってたが、未だにAndoroidでは健在らしい。

再起動していたスマホはGalaxy S。一時期、Androidにトライしたいと思っていたが、今日の光景を見たら、絶対嫌だ。あの青い画面にも耐えられそうにない。

やっぱり、iPhoneだな。完成度が違う。

2012年4月18日水曜日

こんな事で大臣を辞めさせてはいけない?

相変わらず意味不明な民主党。野田政権になっても、人材の劣化は留まる事を知らない。

一つ目は防衛大臣。北朝鮮のミサイル発射への対応には誰も納得しないだろう。まず言い訳として、「不意を突かれた」なんてのはワードとして使ってはいけないと思う。逆に、不意を突かないミサイルがあるのか、と問いたい。すぐ近くに世代交代によって、状勢が不安定化している、もとより危険な国があるという前提の中で、いったいどういった想定をしていたのだろうか。

政府関係者「不意を突かれた…」官邸は情報出さず

そして、Jアラートを作動させなかった事も意味が分からない。官房長官の言によると「短距離ミサイルかもしれない。燃焼(実験)のみかもしれない。あそこに据えられた人工衛星と称するミサイルなのかどうかも、なかなか確認に時間がかかっている」「情報のダブルチェックに時間がかかった」という事で、チェックによって安全を確認できたので、国民に知らせる必要はない、という判断だったらしい。

一年前の震災は、一体何だったのか?非常時には、どこかで判断して「情報の質やスピード」を落とす事が命取りになるという事が、骨身に沁みて分かったはずではなかったのか?国家としての防衛・防御・防災というパラダイムは完全に変わったはずだったのに、何も変わっていない事を実証してしまい、世界中に恥と弱点を晒したといっても良いだろう。今更、ミサイルかどうか分からないとか、ダブルチェックで情報提供の機を逸するなんて、あってはならない事だろうと思う。

また、国土交通大臣もひどい。秘書官から渡された書類に、盲判を押すという行為だけでも気が狂っているんじゃないかと思うが、あろう事かサインをしている上に名刺まで渡している。もう、人としておかしい。しかも、公職選挙法に抵触するかどうかは、自分の存在に関わる話なので極めて慎重になるべきだと思うが、その配慮すらない。もしかしたら、自分の身を滅ぼすだけでなく、詐欺の片棒を担ぐような書類だったかもしれないし、何か人を不幸に巻き込むような指示書だったかもしれない。そんなものでも、何も考えずにサインをしていたという事だろう。今までの書類を全て見直した方が良い。

そして何より、全てを秘書官に押し付けて、自分は知りませんでしたと言える厚顔無恥さに驚く。自らサインした書類を目の前にして、政治家として使ってはいけない言葉だと思う。

この三者を、それでも使い続けようとする野田首相も、それが自らの信頼を損なう行為だという事に気がついた方が良いだろう。些細な失点で安易に辞任させる事には賛成しないが、これらの事例は、この人たちが政治家としての資質を持っていない事を示しているので、即時に更迭するべきだろう。

ポッポも菅も小沢も勝手気ままに動き回り、足を引っ張りまくっているし、民主党は正に烏合の衆という様相を呈している。

2012年4月16日月曜日

井戸を掘る人

何か水が飲みたいねー、なんて皆が言っている時に、思い切って腰を上げて井戸を掘り始めると、
「そんな所から水は出ないんじゃないか」とか、「水の出し方は俺の方が得意だから任せろ」とか、「今までの経験によると・・・」とか、言い出す人がいる。

こういった人たちは「掘った井戸」というリアルな事象を通じてしか、物事の理解が進まない人だろう。正直、後だしジャンケン的で、少しイラっとする。

より良い井戸を掘るために、水が出る前から井戸の壁をキレイに整えたり、別の穴を掘ろうとしたりする。

素直に言えば、初めから自分で全部思い通りに掘れば良いのに、という気もするが、時間もないんだろう。とにかく人にやらせてダメ出しをする、そのスタンスにウンザリする。

そんなこんなで1ヶ月ほど、作業が止まってる。つくづくと、井戸を掘り始める人の貴重さ感じる。一緒に井戸を掘ってくれる人を大切にしたい。

2012年4月13日金曜日

映画月間(iTunes)

出張も多かったので、その移動の合間に、iTunesで映画をダウンロードして、iPadやiPhoneで楽しんだ。

■幸せの隠れ場所
「マネーボール」のマイケル・ルイスが原作の、アメフト選手マイケル・オアーの物語。「インビクタス」や「サッチャー」もそうだが、ノンフィクションものに対する日米のスタンスの違いを感じるのは、登場人物の名前だ。洋画は実名が中心なのに対して、「はやぶさ」や「陽はまた昇る」などの邦画は仮名を使うのはナゼなのだろう?

それ以上に、日本ではありえないストーリーに驚いた。

比較的裕福な家庭の子弟が通うミッション系の高校に、ある時、(1)出生届すら存在しない黒人の子どもが入学する。(2)半ばホームレスなその子どもを見かけた、ある裕福な白人家庭の奥様が、(3)家に招き入れ、(4)最終的には養子にしてしまう。その子どもは飛び抜けた運動能力と保護本能を持っており、それゆえ、(5)アメフトでその才能を開花させる。アメフトの有名校からのオファーがたくさん届き、結果的には保護者たる白人夫婦の母校に入学することになる。(6)その進学が全米大学協会?に見咎められ、尋問を受ける。「(7)あの白人夫婦は、自分の母校に強い選手を入れたくて、お前を養子にしたんじゃないか?」と。。。そして、その黒人の子どもは、(8)全米でも屈指の名選手として現在もNFLて活躍している。

全体に愛に満ちた良い映画なのだが、(1)から(8)のどの事象も、たぶん日本ではあり得ない。これが実話なのだから、アメリカってスゴイ国だ。

■ハートロッカー
イラクに駐留している米陸軍爆弾処理班の話。

終わりのない戦場に神経をすり減らし、一年の任期を終えるのを指折り数え暮らす兵隊と、その緊張が病みつきになり、冒険的な行動を繰り返す兵士の物語。

戦争は全ての人の精神を蝕む「麻薬」のようなもので、登場人物は徐々に病んで行く。これが戦争のリアルなのかも知れないし、そうでないかも知れない。

全くもって希望のない映画だった。

■ミッドナイト・ラン
賞金稼ぎとお尋ね者のバディストーリー。警官崩れの賞金稼ぎが、会計士崩れのお尋ね者を追う。ここにチェイスはなくアッサリ捕まる。

移送中に起こる様々なできごとが二人の距離を近付け、ややストックホルム症候群のような状態に。ただし、どちらが犯罪者に近いかは微妙。逃げられたり、別の賞金稼ぎに奪われたり、鈍臭いFBIが派手に追いかけてきたりと、ゆる~い追いかけっこが続く。

中でも面白かったのは、FBIに車で追いかけられ、道を外れて荒野を進む場面。この監督は宮崎アニメのファンなのだろう。あり得ない数のパトカーが追いかけてきて、荒野のあちらこちらでひっくり返る。ルパンと銭形のいつもの光景が実写になってる感じ。

最後はそれぞれのハッピーエンドを迎える。安心して見られる、微アクション・微コメディの傑作。

■39
妹を殺された男の復讐劇。刑法39条が生み出す歪みを描いた作品で、非常に印象的な森田芳光監督作品。
刑法39条とは、「1 心神薄弱者ノ行為ハコレヲ罰セズ 2 心神耗弱者ノ行為ハソノ刑ヲ減刑ス」というもので、犯罪被害者遺族にとってはやりきれない条項だろう。

妹を殺した犯人(A)が刑法39条によって半年ほどの入院で刑を終えた事を知った主人公(B)は、刑法39条を逆手に取って周到な準備の上で復讐を図る。精神分析の本を読みあさり、どのような回答・受け答えが適当かを事前にシミュレーションする。多重人格障害を発症しそうな生い立ちをもち、秘密裏に葬られた人間(C)を探し出す。何者かに追われて別人(D)になりたがっている人を見つけ出す。(B)は(C)になりすまし、(D)に自らの戸籍を売る。(C)になった主人公は既に(A)との関係が表面上はなくなっており、(A)に復讐を果たしてもその関係を疑われる事はない。そこで精神障害を装えば、刑法39条によって減刑される、という作戦。

結局は僅かな綻びから全てが明らかになるのだが、法律の条文が持つ冷酷さと、社会的弱者に対する間違った優しさによる歪みが被害者・加害者に歪んだ影響を与えて、誰の心も解放されずに怨恨の連鎖を生み出す。

普段は触れる事のない社会的な歪みを捉えた作品。

2012年4月11日水曜日

映画月間(TV)

取り溜めていたTV放送も観てみた。

■ウルヴァリン:X-men ZERO
ウルヴァリン誕生のストーリーだが、人とは違う能力を持ち、迫害され、行き場をなくしたミュータントが、結局は大きな力に操られる形で自分の運命を変えていく事になる。

X-men本編の謎解きスピンオフ作品だ。ミュータントの秘密基地に、人が立ち寄らない場所として、スリーマイル島を選んでいる事が、今の日本の状況を振り返ると少し物悲しかった。

■ルパン三世:カリオストロの城
言わずと知れた日本アニメーションの傑作。ルパンの超人ぶりが楽しい。

ストーリーは壮大で、国連加盟の独立国家であるカリオストロ公国内で高精度な偽札が作られている事が全ての発端。偽札製造の秘密を探る中で、明らかになる陰謀を阻止すべく、いつものメンバーが走り回る。宮崎アニメの原点の一つ。

■シャーロック・ホームズ
「チャップリン」以来、久々に見たロバート・ダウニーJr。昔々読んだコナン・ドイルの原作イメージを、かなりアクションに寄せた作品。

これはこれで面白い。かつての小説やアニメをリアルに追求すると、若干エグくなるものが多いが、これもその一つ。色々なトリックを種明かしをしながら、解決していく上で、ホームズの超人的な能力が発揮される。

続編を意識してモリアーティ教授が少ししか出てこない。

■センター・オブ・ジ・アース
ジュール・ベルヌの「地底旅行」が原作。地球の中心には何らかの地底世界が広がっているというベルヌの小説を信じるベルニアン達の物語。

地底世界は地上世界と同じような生物が暮らしているが、人間だけがいない、という感じ。地底と地上を数千キロ往復する展開が、アトラクション化を意識したような感じで面白かった。

■ナショナル・トレジャー
独立宣言書に隠されたメッセージを読み解き、宝を探し当てる。

徳川埋蔵金のようなもので、探せば探すほどヒントだけが出てきて、なかなか宝にはたどり着かないのだが、最終的に発見するお宝はまさにナショナル・トレジャーというべきもので、そのスケール感は、他の映画ではなかなかお目にかかれない。

ニコラス・ケイジは二枚目でもタフガイでもないのだが、ほどほどのアクション(もみ合い程度?)には適役だと思う。

2012年4月9日月曜日

映画月間(映画館)

4月はのっけから映画三昧だ。

1日の映画の日(ファーストディ)には、「マーガレット・サッチャー」を観た。非常にタフな女性だ。

現在の日本政治を思わせるような揚げ足取り主体の国会は、国民を置き去りにした議論が行われていた。時代は1970年代。行政は停滞し、街には浮浪者が溢れ、ゴミだらけ。教育も後回しになり、教育相だったサッチャーは、状況を打破すべく党首になる事を決意する。力強く、ある意味独裁的に引っ張るリーダーを求めていた世論の支持を受ける。

サッチャーの理想論は、首相就任当時は空回りしていたが、冷戦終結などの時代の流れもあり、レーガン、ゴルバチョフと共に、強く支持されるようになっていった。しかしいつしか、その独裁的手法、完璧主義に、部下や人民の心が離れていき、首相の座を降りる事になる。。。

先進国の経済はシュリンクし、日本の政治は停滞している。何かのきっかけで、社会が大きく変わる可能性は高い。その時にはサッチャーのような人が、大きく力をつけ、人々を導くのだろう。

2012年4月6日金曜日

日本が原子力技術の鍵を握っている

原子力は日本がリーディングカントリーだ。というか、商用炉は日本メーカーが関与しないと作れないのが現状だ。これは、スリーマイル島が契機になっているようだが、米国メーカーが手を引いたり、日本メーカーと手を組んだりした結果だ。

世界の原子力技術を一手に担っている日本が、原子力技術から手を引く事は、既に許されない状況ではないだろうか。

このままで行くと、中国メーカーが原子力の最先端技術を持つ事もあり得る。中国の国内需要を考えると、原子力を担う国策企業が現れることは既に既定路線のような気がする。日本だから平和利用のみで済んでいたが、中国だとそうはいかないだろうし、レアメタルと同じで、いずれそれを政治的な武器に使う日がくるだろう。

今、日本が原子力から手を引くと、世界はいずれ大混乱に陥るだろう。何らかの問題が起こった時に、エネルギーを心配しなくて良い国と、太陽の出ている昼間しか戦えない国では、勝負にならない。

世界のために日本は、原子力技術を堅持するべきではないだろうか?ナイーブな世論を受け止めて、原子力技術を捨てて良いのだろうか?技術だけは持ってるが商用炉は稼働していない、という国の技術は信用できるだろうか?それとも、そんな事はアメリカに任せておけばいいというのだろうか?

原子力は、高度に政治的な問題なので、一般世論は、一旦横に置いて議論するほかない。そして、原子力が存在する事を前提に、あるべき姿を模索するしかないと思う。

その程度の民度の高さを、日本国民は求められていると思う。

2012年4月4日水曜日

あまり賛同できない地震・津波予測

先日、南海トラフに起因する地震・
津波の予測がバージョンアップした。マグニチュード9.1、場所によっては30m以上の津波が、地震後2〜3分ぐらいで襲ってくるらしい。

予測に関わった研究者は、想定外が起こり得ない最大限の予測を行ったと、胸を張る。これって正しいのか?

想定地震は、未だかつて経験した事のない、正確にいうと記録には残っていないレベルのものだ。貞観地震でも1000年以上前で、地質調査がどこまで進んでいるか分からないが、もしかしたらそれより一桁か二桁、つまり10万年単位かも知れない。

翻って、人の一生は80年、建物の寿命は通常30年ぐらいのもので、70年を超えると重要文化財候補に挙がる。ようやく復原工事が終わりそうな東京駅が、ちょうど100年前の鉄骨煉瓦造だ。

100年保てば、文化・文明の継続性としては十分じゃないかと思える。

100年前は明治から大正に変わる時期。建物は木造、着るものは和服、下着は褌、夏は団扇、冬は火鉢だ。そういった文化も残ってないのに、それ以上の期間に亘って安全性を担保する必然性なんて、ない。そもそも街に千年・万年単位の永続性を求めている人なんていないだろう。

もちろん一部には必要な情報だろう。例えば、原子力関連施設や政府の機関にとっては。

そういった仕分けをする事なく、一般に情報を垂れ流すことは、間違った判断ではないだろうか?もしやるとしたら、対策コミで発表すべきだろう。そうしないとイタズラに風評被害を撒き散らしてしまうだけだ。

新島なんて、完全に津波に飲み込まれてしまい、島が分断されるのだが、海を過剰に恐れて生活できる場所ではない。沼津も高台移転が議論されているらしいが、30m以上も高地に移転するなんて、正気の沙汰とは思えない。10万年に一度を恐れて、直近の生活を捨てることになる。そんなの合理的な判断じゃないし、海があるのに近付けない沿岸部なんて、誰も住まないだろう。

明日、10万年に一度の地震・津波が来たとする。今回の想定以上だった場合は、やはり「想定外」としか言えないだろう。

東日本大震災でわかった事は、全てを想定内にするのではなく、想定外の事が起きた時にも適切に対応できるようにしておこう、と言うことだったと思う。

その意味で今回の発表は、震災から何の教訓も得ていないと言える。リスクをゼロにしようとする、絶対安全志向は方向性として正しくない事が立証されたばかりではなかったのか。この予測発表に関わっている人たちのインテリジェンスを疑うほかない。

2012年4月2日月曜日

電気の使い方のルールが変わる

もうすぐ日本から原発がなくなる。そして、しばらく動く気配はない。今の政府のやり方はあまりにも短慮で、組織や体制を変えず、事故の原因究明も碌にしていないようなので、当面の再稼働はあり得ないだろう。

そうすると、電気の使い方が変わる。

今までは夜間の電気代を安くして、そちらにデマンドをシフトさせるような事が主流だった。いわゆるピークシフトと呼ばれるもので、蓄電池やエネファームのようなものだったり、電気自動車の有効利用だとか、そんなアイデアだ。これは、総電力量(kWh)としては変わらないが、必要となるタイミングの制御して、なるべく均一な供給量(kW)で賄えるようにする考え方だ。発電設備は通常、ピーク電力量に合わせて用意されるので、ピークが下がるということは発電設備を削減できる、ということになる。

この考え方の根幹にあるのは、夜間電力が安く供給できるということで、これは原発の特性に依存している。つまり、一旦動き出したら容易には止められず、一定量の安定供給を安く行える原発由来の電力があるからこそ、夜間には安い電力が余ることになる。

逆に原発が止まると、夜間の安い電力という考え方は消滅する。

需要に応じてフレキシブルに対応できる火力発電の特性を考えると、昼間の方が運転効率が高い(=電気代が安い)事も考えられる。日中は、さらに高い太陽光発電が入ってくる事を考えると、相対的に夜間が安くはなるが、太陽光発電の導入意義を鑑みるとおかしな話なので、FITによって火力同等に抑えられるのだろう。そうすると、昼も夜も火力発電単価をベースに計算する事になって、特に夜間だから安いという事にはならない。政策的に夜間を安くする事はできるが、その分は昼間で補填する事になるので、納得が得られるとは思えない。

脱原発によって、電力ポートフォリオを変える事は、今までの行動様式を変える事に直結する。夜間電力を組み込んだ様々な取組みは、全てムダになる。これからは、自由に使いたいタイミングで電気を使う事が、求められるのかもしれない。