2009年5月29日金曜日

天使と悪魔

展開が早くて、面白かったです。前作のダ・ヴィンチ・コードよりも動的な、観てて飽きない映画でしたが、最後のどんでん返しへの伏線には少しムリがあるかな、と感じました。

物語の舞台は、ローマ法王崩御に伴うコンクラーベなのですが、あれだけの権力の頂点に立つ稀有の機会ですから、深謀遠慮、手練手管、なんでもありなのかも知れません。

後から考えても、最後まで天使か悪魔か分からない人の立ち位置や態度の曖昧さが持つ意味はよく分かりませんでしたし、天使で悪魔な人の壮大でリスキーすぎる計画にはクビを傾げるところがありました。

元々、科学が「宗教の領域」=「創造」に入ってくることに危機感を感じて起こした行動にも関わらず、その行動によって科学と宗教の関係性が変化するとは思えなかったのは、切り口の強引さを表しているように思えます。

かつてアインシュタインが「時計職人になればよかった」と嘆き、カラニシコフが「芝刈り機でも発明すればよかった」と嘆いたのと同種の嘆きを呟く科学者に、「あなたのやってきたことは間違ってない。また仕事に戻って『世界を変えろ』」と諭すシーンが、科学の限界と無限性を同時に表現している気がしました。

そういう意味では、コンクラーベを題材にしている割には宗教色は薄く、ダ・ヴィンチ・コードに比べて、エンターテイメント色を強めた作りになっていました。次回作は、立ち位置が難しくて作れないんじゃないでしょうか?

2009年5月27日水曜日

生きてる ことって

脳科学者の茂木さんのブログで、白洲次郎の孫にあたる白洲信哉さんの「信じるものども」というタイトルの短いメールを紹介していた。最後に書かれていた「生きてる ことをしましょう!」という言葉が気になった。

この「生きてる こと」って何だろう?逆に、対義語たる「生きてない こと」とか「死んでる こと」とかは何を意味するのだろう?

きっと、惰性や人の意見に流されて、心から楽しめていない状況は「生きてない こと」なんだろう、と思う。そうすると「生きてる こと」は、惰性や人の意見に流されず、心から楽しめる状況(こと)を指すのかな?何か足りない気がする。。。

2009年5月25日月曜日

ベースラインの置き方

神様をベースラインに置けない日本人の場合、身近な人間を相対的なベースラインとせざるをえない。それはメンターという言葉が正しいのか、多くの人にとっては親になるのではないか。

子供の立場から考えると、自分の生き方がベースラインになるのかもしれない。

2009年5月22日金曜日

湘南の風

先日、家族で湘南に行った。

久しぶりの海は気持ち良く、スゴく楽しい時間だった。季節もまだ早いので、ひたすら砂遊びに興じていたのだが、子供は一向に飽きる気配もなかった。

しばらく経って、お昼もかなり回ったので、ご飯を食べることにした。プカプカと浮かぶサーファーを見ながらのんびりと、コンビニで買ったおにぎりを頬張った。基本的におにぎりは大好きで、いつ食べても間違いなくおいしいのだが、海を目の前にした開放感は味覚にも少しの影響を与えているようだった。

そして、隣で同じくおにぎりを食べている妻が、唐揚げに手を伸ばし一口かじったかと思った瞬間、二人の間に強い風が通り過ぎた。短い叫び声に振り返って見ると、妻は手を押さえていた。

なんと、とんびが唐揚げを攫っていたのだ。噛まれたのか、掴まれたのか分からないが、人さし指に挟まれたような痕が残っていた。

その後、とんびを恐れる妻は日傘をさし、とんびの視線を遮ることに必死になり、お昼の時間はそそくさと終了することになった。大阪の箕面も、人さまのお弁当を盗む猿で有名で、昔々にお弁当を取られて泣いている子供がいた事を思い出した。

2009年5月20日水曜日

素人判断の妥当性

裁判員制度は運用が極めて難しい仕組みだと思う。

裁判をブラックボックス化させず、一般人が持つ日常感覚や常識を盛りこもうというものだが、なぜ対象が重大事件なのだろう?

本職の裁判官ですら量刑に悩むような事件に対して、日常感覚や常識が必要なのか、理解に苦しむ所である。人を裁いた経験の無い人が、人の生殺与奪権を持つことは、果たして妥当なのか?そして、可能なのだろうか?

いわば、運転免許を持たない人に、F3000で走れと言っているようなものなのではないだろうか?

地裁とはいえ、裁判における最高難度の事案に対して、訓練を受けてない人が参加するのはナンセンスだろう。そして、日常感覚や常識から大きく外れた事案に対して、それらを求めるのも違う気がする。

まずは訓練が必要なこと、そして、訓練終了後においても高速道路を走れるようになった程度であろうから、その程度の事案を対象とすることが、妥当ではないかと思う。

2009年5月18日月曜日

焼けすぎた。。

調子に乗って、日焼け止めも塗らずに、湘南の浜辺で遊んでいたら、四半世紀ぶりぐらいのヒドい日焼けになってしまった。まだ腕が真っ赤で、ヒリヒリする。。。

2009年5月15日金曜日

商品の中の同一性

Cnetブログの中に、最近のヒット商品はデザインやコンセプトに統一感のあるものが多く、創作容易を認めない意匠法的にデザイナは苦しんでいるんじゃないか、というエントリがありました。

自動車の世界を見ても、今までデザイン的な統一感を持たなかったのは日本企業を含めたアジア勢ぐらいで、中身にオリジナリティのある商品を持つ企業は、認知を高めるために積極的に統一感を出していたと思います。

人は、親近感のあるものを認めやすい傾向があり、全く新しいモノを受け入れるのは時間がかかります。

商品のイノベーションに必要なのは、技術とコンセプトだと思いますが、その両者にデザインを加えて、3つの要素で考えていく必要があります。その全てが新しいと、人はついて行くことができません。少なくとも一つ、できれば二つは連続性を意識して開発するべきだと思います。

特に、イノベーティブな商品であればあるほど、デザインの世界感を統一してあげる作業は欠かせないものになるでしょう。

2009年5月13日水曜日

将来は自給自足?本当の自立?

日本の年齢別人口分布を調べた。


1950年位まではキレイなピラミッド型だった。その後10年位は出生率が下がった後、再び上昇し1970年過ぎにピークを迎える。その後は減少の一途である。遡って明治時代(1900年前後)は釣鐘型で0歳〜40歳位まで比較的均等に分布している。1900年以前は医療が充分に発達しておらず、幼児や高齢者の死亡率が高かったと推測できる。その後、医療の発達とともに幼くして亡くなる事例が減り、未成年人口が増えた結果、ピラミッド型に変化したのだと思う。同時に高齢者医療も発展し、人は中々死ねなくなった。つまり自然減が期待できなくなり、高齢者が日増しに増えて行った。そんな中、高度成長に浮かれたポスト団塊が自らの享楽に走り、バブルと社会制度の不備から、いわゆる団塊ジュニアが子どもを作らなくなり、キノコ型に向かう事になる。

人が死ななくなり、産まなくなった。1975年〜1985年における出生率の低下は、主にポスト団塊の人口が少ないことに起因していると考えられる。1985年以降はバブルの影響で生活コストが上がり、バブル後は不景気によって金銭的に多くを育てられなくなった。また社会制度も現状に追い付いてなく、産み育てることに積極的になれない状況が続いている。

キノコ型では社会を維持できないのは目に見えている。なぜなら現代の社会は相互扶助を基礎として成り立っているからである。特に世代をまたぐ相互扶助の概念は、端的に言うと、搾取の連鎖からできている。若い間は、将来において還元されることを前提に、安く労働を提供する。つまり将来世代の収入に乗っかる形で、リタイヤ世代が扶養される訳だ。これは、リタイヤ世代が少なく、将来世代が多い場合にのみ成立する。そのための条件として、相応の死亡率でリタイヤするまで生き延びる人間が減っていかなければならない。だからキノコ型では成立し得ないのだ。ピラミッド型が、相互扶助を前提とした人口構成としては理想だろうが、戻すのは容易ではない。

将来的に人口が増え続ける未来は想像できない。少子高齢化の辿り着くゴールは釣鐘型であろうことは容易に理解できる。つまり、究極的には釣鐘型で生きていける形を作り上げる必要がある。その前に、直近70年ほどは歪な人口構成にフィットした社会の形を見つけなければいけない。

解決策の一つは、楢山節考だろう。高齢者を切り捨てる事で人口分布の適正化を図る。もう一つは相互扶助を捨てる事。すなわち自力で生きていけない人の面倒は見ないという選択肢がある。さらに、低年齢層を増やすと言うのも考えられる。

現実問題として楢山節考は無理がある。それでも高齢者の人々が自発的に富の移転を行ってくれれば、まだ救いはありそうだ。そうする事で、今まで世代間に一方的に流れていたお金の流れが、ある程度双方向になり、若年者の負担が減る可能性がある。しかし、少子高齢化問題から逃げ切れそうな人が、あえて将来世代に所得移転をするとも考えにくい。ただでさえ老いて能力が衰えてきているのに、想像力を働かせ将来世代へ献金せよ、と言っても無理だろう。進んで献金したくなるような受け皿と言い訳が必要だ。

また、低年齢層を増やすことも難しい。出生率を上げるのも、外国人を受け入れるのも、大東亜共栄圏を作るのも政策の問題であり、互いのメリットや日本人のメンタリティ、社会制度の整備などを考えると、即効性は期待できない。

残るは相互扶助を捨てること、すなわち自力で生きて行く人間を増やすしかないだろう。

人が死ななくなった事が最も大きな要因だが、そこは止められない。世界が高齢化するのは必然なのだ。であれば、高齢化した社会に適した、相互扶助ではない社会の仕組みを、在り方を作っていかなければならない。

2009年5月11日月曜日

人口構成から見るシリアスな将来

前回のエントリーで、危機感がないのは人口構成を見て真剣に考察したことがないからだ、と書いた。

少し前に1888年〜2000年の人口構成推移と、2025年、2050年の人口構成予測を並べてみたことがある。それぞれは大して珍しくもない、ありふれたグラフなのだが、並べた時の衝撃は大きかった。あまりの衝撃に、その後に会ったほぼ全ての人に紹介したほどだ。感じ方は人それぞれだと思うが、一様に真剣にそのグラフを見て、話を聞いてくれた。それまで深く考えたことがなかった事が恥ずかしくなるぐらい、ありふれた少子高齢化問題がそこにはあった。その時の考察と感じたことは次回書くことにする。

このグラフに大きな間違いはないだろう。つまり、このまま行けば、少なくとも私が完全に老人となる2050年には、私は社会のお荷物になっていることは、このグラフから容易に読み取れる。

今後、景気が急上昇したり、子どもがいっぱい産まれたり、外国人肉体労働者が大量移民したり、天災が起こったり、石油が大量に出たり、神様が降臨したりしない限り、ほぼ確実だろう。なぜなら今後、給料はさほど上がらないどころか、人余りで下がって行き、貯金は難しくなるだろうからだ。そして、福祉の必要性は日ごとに拡大していくのだから、増税も火をみるより明らか。さらに、リタイヤしても年金は期待できなくなり、新たな職を見つけるのも困難になるのは、目に見えている。企業は安い給料で長く雇うことを義務づけられ、大企業勤務者でも年収250万から700万円くらいのレンジになるだろう。今の半額である。増税を考慮すると、可処分所得は現在の1/4ぐらいになってもおかしくない。

そんな社会に活気があるわけもなく、景気は完全に沈滞するだろう。こんな状態が2070年ぐらいまで続くんじゃないかな?

こんな未来は何も私だけではない。曲がりなりにも日本を代表する大企業に勤めており、比較的恵まれている自分ですら、このような状態になる可能性が高いことに強い危機感を感じている。

だからせめて、自分と自分の周りの人たちは罹る災禍から逃れられるよう自衛手段を持つ必要があるし、持たなければいけない。それが、海に泳ぎだそう、ということの意味である。


2009年5月8日金曜日

子供用プールの年齢制限

今、身を置いている環境は、むしろビニールプールと揶揄しても、言い過ぎではないかもしれない。

多くの大企業勤務者は、子供用プールの遊泳者だろう。大人用、ましてや競泳用プールで泳いでいる人は、ついぞ見たことがない。一方で、さらなる上級者は内海へ、そして外海へと泳ぎだしている。

明確な線引きがあるのは、(ビニール、子供)|(大人、競泳)|(内海、外海)で、つまり大きくは三分類されるという事。

少なくとも第二分類、できれば第三分類を意識的に狙わないと、いずれ年齢制限で第一分類から放り出される時がくる。その時には、泳ぎ方も分からず、教えてくれる人もいない状況下で、第三分類たる海を泳がざるを得なくなる。

誰に聞いても杞憂だと答えるが、将来において確実に訪れる未来だと思う。もしかしたら既に海を泳いでいる気になっているのかもしれない。年齢構成の推移を真剣に考察したことがないだけかもしれない。

将来は想像以上にシリアスだと思う。必要十分な備えが大切になるだろう。具体的には、海を泳げる体力やメンタルを鍛えておく必要がある。日頃から海で泳いでいれば、うろたえずにすむだろう。

さあ、今から海を目指そう!

2009年5月6日水曜日

コルテオ行ってきた

コルテオと言えば、ブルーオーシャン戦略のお手本として名高いシルク・ド・ソレイユ。噂に違わぬ素晴らしさ!なんだけど、サーカスと体操競技が近づきすぎて、少し鼻についた。

元来身体能力の高い人が、自らを高めたのが体操で、客を楽しませることに主眼を置いたのがサーカスだったのか。いつしか二つの道は遠く離れ、極めてストイックな世界と、卑俗的な世界へと突き進んで行ったのだろう。シルク・ド・ソレイユは、そういった意味で、それらの正統なる融合であると感じた。

それが持ち味なのかもしれないが、テーマを芸術に振りすぎていて、少し分かりにくくなってたのが難点かな。いい時は演技に集中できるのだが、そうでもない時はテーマにも演技にも集中できず、不覚にも眠くなってしまった。

まあ演技に集中できなかったのは、後ろの林家ペーパー似のカップルの嬌声によるものも大きかったが。

何が「ブラボー!」なんだよ‼

2009年5月4日月曜日

ルール好きな人々に弄ばれる国、ニッポン。

ルールに乗るのが好きな国民だと思う。

誰かの決めたルールに乗って行動するのって楽だもんね。そんな疑う事をしらない初な心を踏み躙るような狡猾な人種も同時に存在する国、ニッポン。

それぞれの生い立ちは単純だ。もともとは愚民政策に端を発している。愚かな一般国民と指導するエリート官僚という図式だ。そういった世の仕組みに早く気づいた人が官僚となり、子々孫々にその仕組みを伝え、選民化が進む。人々が愚民でいてくれるよう、ルール絶対、ディスカッション不要、諦め早く、レールの上ではモーレツに働くという、極めて非人間的な教育方針のもと、何も考えない人が量産される。

いつまで気づかずにいるんだろう?

2009年5月1日金曜日

丁寧すぎるのも問題だ

定期検診の視力検査での出来事。
私は眼が悪く、近視に加えて乱視もあるので、1.0以上は勘と雰囲気に頼ることになる。

少しでも言い澱むと、「見えにくいですか?」「目をパチパチしてください」となる。それでハードルを一つ越えたと思ったら、次のレベルでも同じやり取りが。「見えにくいですか?」に対して明確にYESを言うまでは許してくれない感じだった。

3回くらいは普通に返事していたが、さすがに4 回、5回と続くとイラッときた。結局10回くらいは言われ続け、いい加減にしてくれ、と言いたくなった。普通、言い澱んでたら聞く までもなく「見えにくい」んだろうし、「パチパチ」は言われるまでもなくやっているだろう。

与えられたルールに沿うことだけが重要で、相対している人には無頓着なんだろう。医療はサービス業であること、サービス業は相対する「お客さん」の感情を中心に据えるべきであることを学んだ。