2011年7月29日金曜日

今まで見逃されてきたセグメント(2)

前回は客という個人について、感じていることを示した。最近は徐々に焦点が当たりつつも、中々決定打がないという状態じゃないだろうか。Google Offers、Facebook Checkin Coupons、Groupon Nowといったサービスが出始めており、それらのコンセプトはいずれも「その場所に行ったとき、近くのおトクなお店が見つかる」というものだ。

このコンセプトはおおむね正しいと思うが、人は決しておトクなお店だけを探しているわけではないし、ネットに載るような「おトク」を打ち出せるお店も多くはない。

近くにいるという前提条件の中で考えると、おトクというのは強い訴求要因にはならないことが多いと思う。

ネットで殊更に「おトク」を強調するのは、ネットが空間を越えるメディアだからだ。つまり、二子玉川に住んでいる人にとって、新宿のお店と飯田橋のお店は、ほぼ同列の選択肢になるだろう。そのような条件で検索によってお店を選ぶ場合には、おトク情報などで人を惹きつける必要がある。

では、すぐそこにいる人に対しても同じような選択肢の量があると考えた方がよいのだろうか?そこには、ネットを活用しながらも、純粋なネットサービスとは異なる状況があると考えられる。

多くの場合、近くにあるお店の数は、そのカテゴリーごとに1~3軒程度だろう。繁華街の居酒屋なんてのは例外かもしれないが、それでも焼鳥、刺身、焼酎など得意分野を絞っていけば、競合店っていうのは通常多くない。そして、お客となるべき人たちも、多くの選択肢の中からお店を選ぶというよりは、行きたいお店のカテゴリーを選ぶ、という方がニュアンスとして正しいように思う。

つまり、「おトク」が行動のきっかけになるほど選択肢が多くないというのが「近くのお店」というセグメントの特徴だろう。

そのように考えたときに、現在の近くのお店を探す仕組みは、正しく機能していないだろう。というのも、ネットにある情報は先に書いたように「おトク」を中心とした切り口でしか構成されていないからだ。そしてネットに情報を効果的に載せるためには結構なコストが掛かるため、利益率が低かったり、商品単価が安かったりすると、ネット上に存在し得ない。

今、ネット上に存在する情報、特に「おトク」を中心とした情報に付加する形で「近くの人」に対して意味のある情報を提供できることはないだろう。一部に人には受けるだろうけど、それ以上ではないと思う。

街を便利にするには、あらゆるカテゴリーのあらゆるお店が対象とする必要があるが、現時点においてネット上に存在しない(ことになっている)お店は多い。これらをうまく俎上に乗せてあげることが、最大の課題といえる。

2011年7月27日水曜日

近未来のライフスタイル

段々と、徐々にMacbookとiPadの距離が近づいている。タブレットとノートでできること、したいことは明らかに違うようだが、多くの部分はラップしている。

メール、Web、twitter、pdfの閲覧、写真管理、音楽管理、簡単な書類の作成、動画編集...ぐらいかな?あと、blogの更新か。正直言ってユーザビリティの問題だけだ。コンテンツの作成に重きをおくのか、閲覧だけで良いのかによって、MacbookとiPadのどちらがベターかが決まる。

悩ましいのは、この線引きがかなり難しいことだろう。境界領域にいる人はかなり多いと思う。Macbook Airの携帯性が高まったことが、より判断を難しくしている。

最近「断捨離」という言葉が流行りだが、これもひとつの例になるだろう。外出時に行う作業の10%にも満たない、コンテンツ作成を捨てられるかどうかが、iPadを使えるかどうかの分水嶺でもある。そう考えると、やはりiPadというのは偉大な製品で、人々のライフスタイルを見直すきっかけを作っているとも言える。

決め切れない人のためのプロ仕様「MacPad」もあり得るかと思ったが、せっかく崩したライフスタイルを旧来の形に戻す可能性のある製品は必要ないだろう。

iPadのみならずApple製品を見ると、その制約の作り方がすごく気になる。Apple製品は決して万能を目指したものではない。というか万能なものはなく、極めて明確に制約を設けており、その制約の中でのベストを目指している。同じ制約された領域で戦う限りはAppleに勝てないし、ずれた領域では顧客を獲得できない。それぐらい、その領域設定は見事に近未来のライフスタイルを言い当てている。

米国国債までデフォルトを懸念されるような状態にあり、先進国がこぞって経済成長した時代はとっくに終わった。高齢化を通り過ぎ、高齢社会にある日本で、新しいライフスタイルはどこにあるんだろう?iPadでは無い、更なるパラダイムシフトが求められているのかも知れない。

2011年7月25日月曜日

ライオン登場!

MacOS Xが新たにOS Xとなり、バージョン10.7 Lionをリリースした。当然すぐにアップデート。4G近くあるので、ダウンロードには時間がかかったが、インストールは超簡単。この辺りが他のOS、特にWindowsとは違う。極力ユーザーの手を煩わせない方針が貫かれており、責任回避を目的とした使用許諾のようなものは一切ない。


まだ全然触ってなくて、何のレビューもできないけれど、ログイン画面が変わり、タッチパネルのジェスチャーが変わった。

一つ面白いのはページスクロールで、ページをめくるのと、ページを移動するのではジェスチャーとして逆になるということが分かる。スクロールバーを使って間接的に動かすか、ページを直接動かすかの違いだ。例えばpdfなどでページを動かそうと思うと、下への移動はスクロールバーを使うと下に動かすのが普通だが、ページを直接つかむと上に動かすことになる。これって、iPhone以降に気がついた視点だろう。

こういった操作系を始めとして、LionはSnowLeopardと違って一目で分かる変化があるので、非常に期待感がある。

Appleの製品開発プロセスは、イノベーションと熟成を交互に繰り返すことが特長で、堅実さと革新性と期待感を同時に満たす非常に優れた手法だと思う。同時に発売された、Macbook Air、Mac miniは熟成プロセス、Thunderbolt Displayはイノベーションプロセスに入っている。

常にイノベーション風の改良を余儀なくされる日本メーカーとの違いは、この製品開発プロセスだと思う。革新と熟成のどちらにも意味を持たせられるようになると、堅実な進化ですら次の大きな革新に向かう一歩と解釈され、世界は自分中心に回りだす。

2011年7月22日金曜日

無税特区しかない!

被災した東北地方の都市を復旧・復興するための議論が続いている。建設業の出番はいくらでもありそうだが、全てを失った人々にとっての雇用創出の意味合いもあり、なかなか地場以外のゼネコンが出る幕はない。アイデアや技術をいくら用意しても、よっぽど需給が逼迫しない限りは出番がなさそうだ。

復旧・復興に関して、高台に街を作りなおすという基本線は共有しているものの、漁業中心の街において、産業をどこに、どのように発展させていくのか、という話が出ると、議論が止まってしまう。また、ただでさえ若者の流出が激しく、高齢化が加速度的に進んでいた所に起こった未曾有の災害が、流出速度を早めている。

以前にも書いたように、復旧・復興に向けた大きなイシューは、命、産業・雇用、街の魅力をいかに守るかであって、対症療法的に高台へ移動したり、職住を分離することではないと思う。そんな事をしたら、更なる高齢化への引き金になって、結果として高台が「姥捨て山」になる可能性が高い。また、一定以上の高齢化は、年金・医療費の急激な高騰を引き起こし、税金がいくらあっても足りない「ザルで水を掬う」ような状態になることは目に見えている。

必要なのは、東北地方の産業を活性化させ就労機会を増やすこと、そして、消費機会を増やすことだろう。雇用と消費があれば、高齢者だけでなく若い人も集まってくるだろうし、新しい文化や街の魅力が作られていくきっかけにもなるだろう。

今、行政が用意すべきは、そういったことが実現できるような下地でだろう。であれば、税制をいじるのが手っ取り早いと思う。せっかく総合特区の枠組みもあることなので、東北地方を無税特区にしてみてはどうだろう?無税はムリでも半分にするとか、とにかく国内にありながら税金が安いエリアとして特区化することはできないのだろうか?

被災者支援にもつながるし、企業誘致のきっかけにもなる。雇用が生まれ、消費が活性化する。域外からの来訪者も増え、観光との連携も期待できる。

経済再生なんて言っていた3.11以前は、よく法人税を上げるのか下げるのか議論されていたように思うが3.11以後、税制改革の話はすっかり鳴りを潜めた。今こそドラスティックな税制改革を東北地方で実現し、その効果を評価すべき時だし、そういったトライアルができる数少ない機会だと思う。

ぜひ無税特区を実現して欲しい。

無税特区という言葉がイマイチなら雇用促進・消費活性・観光連携特区でもいい。再生可能エネルギーにどれだけ投資しても、雇用にも消費にも観光にも寄与しない。もう、これしか残って無いと思う。

2011年7月20日水曜日

規律の共有化とフィードバック

組織運営には規律の共有化とフィードバックが大事だと思う。というのも、自分が所属している組織がその両者を完全に欠如した組織だからだ。日本的従来型産業ということでいうと、社内規律は厳格に設定されているが、共有化いう観点では、全く不十分と思える。

本来、企業というのは、組織としての規律を個人個人の規律に置き換える作業が必要で、その作業を段階的に、かつ効率的に行うために組織が存在する。この翻訳作業を個人で行うには、かなり客観的な目と達観した精神を持っていないとムリだろう。

通常は、仕事を通じて、立ち居振る舞いだとか考え方だとか型を学ぶことになる。その過程に介在するのが上司や同僚であって、自分たちの社会的な位置づけ、存在意義などを共有化していくことになる。共有化されている意識は、いわゆる世間一般常識でなくてもよい。組織ごとのローカルルールで十分だが、共有化されている、組織のコモンセンスになっていることが重要だ。こうすることで、個人の意思や行動と組織の価値基準が一致させることができる。

共有作業が不十分だと、個々人が好き勝手に規律を作ることになる。

また、共有していく以上はフィードバックが必要で、個々人の考え方が組織のコモンセンスに沿ったものであるかどうかは、同様に上司や同僚によってフィードバックされるものだろう。フィードバックプロセスを経ることで、個人と組織の価値判断のズレが微調整される。

だが、規律の共有化が未熟な組織には行動に正解も不正解もないため、明確なフィードバックを与えることができない。つまり、自分の行動の良し悪しを自分で考えるということになる。

組織として、規律の共有化とフィードバックができていないと、そこにいる個人は自分で好きなように組織そのものや社会的意味を定義してしまい、その独自の定義に基づいて行動を判断するようになる。組織とのつながりや連携の強弱は、個人の意識に任せられる。そこに組織の意思が介在する余地はない。

当然、制約が無い方が精神的なストレスが少ないため、規律の共有化やフィードバックが自律的に動き出すことはあり得ない。そこには組織としての強制力が必要になるハズだろうが、自分を振り返ると、なぜか今まで規律の共有化やフィードバックを受けてきた記憶がほとんどない。

こういった組織は、組織と呼ぶことができるのだろうか?スイミーのように、大きな流れの中で「群れから離れないこと」だけを規律とする組織って意味があるんだろうか?

なでしこジャパンを見ても答えは明らかにNOだろう。

2011年7月18日月曜日

なでしこジャパン、W杯優勝!

スゲーよ!
女子サッカーW杯2011ドイツ大会で、
なでしこジャパンが優勝した。W杯で優勝って、本当にスゴい。
おめでとう。そして、ありがとう。

今、振り返っても決勝戦は奇跡としか思えない。ニュースでダイジェストで伝えるのとはケタ違いに、前半はヤバかった。何せ、開始0分から攻め込まれ、シュートまで持ち込まれるんだから、力の差は歴然でしょう。

ほとんど入ったと思える強烈なシュートを何本も放たれる一方で、なでしこは防戦一方。たまにシュートまで行っても、十分な態勢は作らせてもらえず、力なく終わる。

そんな事を繰り返して前半が終わった時には0対0。これは、神様がついてる、と感じた。

そして、1点を入れられた後の、宮間の滑り込みながらのアウトサイドキック。あれって、相当冷静じゃないとできないだろう。

アメリカにして見れば結構良い時間帯に点が入って、後は逃げ切るだけという感じで、あのまま終わってたら、「日本も強かったけど、予定通りの勝利です」と、ワンバックのドヤ顔が目に浮かぶようだった。

で、同点延長。

延長前半終了間際という、またも絶好のタイミングでワンバックのキレイなヘディングシュート。フリーで、あたかも練習のように決まったシュートを見て、またワンバックのドヤ顔がよぎる。

そして、奇跡の延長後半。

宮間のコーナーキックに走り込んだ澤が、ソバット(バック?)ボレーシュートを決めた。何が奇跡って、このシュートが入るのが奇跡でしょう。

普通なら当てるのも困難。当てても思った方向に飛ばすのはもっと困難。さらに威力を持ったシュートにするのはとんでもなく難しいと思う。そして、コーナーキックの密集したゴール前で誰にも当たらず、ネットを揺らすなんて奇跡でしかない。

よくメディアで報道されるように、恵まれない環境にいながらも、腐らず弛まぬ努力を続けてきた結果のゴールだと思う。

この時点でアメリカのココロは半分折れたようなものだったろう。

PK戦は鉄人ワンバック以外は運に見放され、本来あるアメリカの強さは全く見られなかった。それに対して、宮間のふてぶてしいコロコロ、阪口のラッキーシュート、熊谷の強気の蹴り上げと、もう完全になでしこのペースだった。

ほとんどの人が現実のものと思ってなかった、一度も勝った事のない世界一のアメリカ相手だから、負けてもしょうがないと思ってた、W杯決勝を勝ち抜いた。

日本代表が、あのW杯を天高く掲げる姿を見ることができるとは、思いもしなかった。日本女子のココロの強さに脱帽する。そして、心からの祝福を。

それにしても、澤の攻守にわたる活躍は驚くばかりで、チャンスの時にもピンチの時にも等しく顔を出し、攻めては得点王に輝き、ピンチの時には日本のゴールを何度も守った。遠からず来る澤なき後のなでしこジャパンに一抹の不安は残る。

そして毎試合後、横断幕を持ってグラウンドを一周している姿は、世界中に届いたと思うし、あの横断幕を会期中ずっと掲げることができたのは、優勝したからこそであり、本当に意味があると思う。

なでしこ達の結果と行動に敬意を表します。なでしこジャパン、おめでとう。そして、ありがとう。

2011年7月15日金曜日

ほとんど意味のない正論

菅首相の「脱・原発依存」宣言は正論だと思う。ただ、ほとんど意味はない。

ビジョンを掲げるのがリーダーの役目と言う人がいるが、それはその人をリーダーと認めるフォロワーがいる場合だろう。早期辞任が前提となっているリーダーの口から出る言葉に、何の重みがあるのか分からない。たぶん、次のリーダーも同じメッセージを出すことになると思うが、その時になって、「あれは俺が言い出したことだから」とか言いたいだけなんじゃないか、と思う。

原発をすぐに全て止めるわけにはいかないし、世論を考えると原発への依存を高めると言うわけにもいかない。でも経済活動を考えると、一定の電力量は原発で賄う必要があるだろう。

そう考えると、誰が宣言しても「脱・原発依存」ということになる。

この国では(他の国でも同じかも知れないが)、政権が変われば、前政権の決め事は反故にして良いことになっている。郵政民営化がいい例だ。ただ、政権が変わって、方法論が変わって、政策の重みが変わっても「脱・原発依存」というメッセージは変わらないだろう。

だから最初に言っておきたかった。自らの業績を永遠に残すために。

現在の支持率の低さなんて、歴史には残らない。歴史に残るのはターニングポイントで発した言葉や行動だけだ。実際は国をボロボロにして、政治をグズグズにした張本人の一人と言えるが、歴史上の文脈では、ある一定の評価をされてしまうだろう。

とっくに役目は終わってるし、自らの目標も実現したんだから、あとはその歴史的評価をひっくり返さないような(短期的視野での)引き際だけを考えているんじゃないかな。

今、引いているレールに乗っかってくれる人、院政を引けること、次の総選挙まで頑張れそうで、フレッシュな印象で、再生・復興という言葉とイメージを重ね合わせると、次のリーダーが見えてくる。玄葉・細野のいずれかでしょう。

2011年7月13日水曜日

今まで見逃されてきたセグメント(1)

集客という観点で、今までほとんど相手にされてこなかったセグメントがある。客という個人に関して言うと「近くを通る人」だ。お店の近くを通っている人というのは、ネットが得意とする距離感に合っていない。

ネットのサービスというのは、情報がどこかのサーバーに保管されており、それをダウンロードして活用するというスタイルがほとんどだが、最も特徴的なのは距離という概念がないということだ。世界中の情報が瞬時に行き交うネットの世界と、認知空間として半径15mほどのリアルの世界は、あまり整合しない。

なので、グルメ系サービスのようにPCの前に座って東京にいながら新潟の情報を見るという用途には向いているが、すぐ裏の通りにあるかもしれないB級グルメ店の情報を歩きながら得る事は難しい。

とは言え、最も来店してくれる可能性があるのは、近くを通る人だ。ランチを食べるのに、新宿にいながら銀座の店を探す人はほとんどいないだろう。薬を買うのに、上野からわざわざ渋谷に移動する人はいない。

このように一般的な商店では、地元に密着した商売を営んでいるハズなので、想定する商圏は狭く、半径1kmぐらいのエリアに居住している人が中心になるだろう。もっと言うと、半径100〜300mほどの至近距離を通る人が、利用者の大半を占めると考えられる。

この狭い商圏に対して効果的に訴求する手段は、ほぼチラシ配りか新聞折込ぐらいしかない。ネットを活用した施策は、逆に訴求範囲が広すぎて効果が薄まる可能性が高い。そして、客の立場に立つと、任意の地点で近くのお店を知る手段は、ない。

近くを通る人にネットから情報を送り込むには、以下の4点が条件を満足していなければならないと思う。
(a) 対象となる人が、「そこ」にいることを確実に正確に捉える
(b) 対象となる人が、何らかの購買意欲を持っていることを見極める
(c) 必要な店や施設が、自らの情報を確実にネットに上げておく
(d) 対象となる人が近くを通る時に、タイミングよく情報を出す

これって意外に難しい。
(a)に関して言うと、GPSは精度があまり高くなく、また屋内で使えない。(c)は理想を言えば、あらゆる店や施設が掲載されているべきだが、現状ではクーポンが使える飲食店が中心だ。さらにクーポンも、従来のネットの距離感で出したいクーポン(来店促進用)と近くを通る人に出したいクーポン(買い回り促進用)は、種類が違うと思う。

近くを通る人は、まだネットに最適化されてないセグメントの一つだと感じている。

2011年7月11日月曜日

進むべき道を選ぶ時

日本は一つの岐路に立っている。原子力の問題は言うに及ばず、さまざまな問題が重なり合って、相乗的に押し寄せている。

たぶん一つの拠り所とすべきなのは価値観だろうが、今、その価値観が揺らいでいる。というか、今まで価値観を意識してこなかったことのツケが回ってきている気がする。単一民族の欠陥といっても良いだろうが、国民が価値観を共有している気になっていて、改めて意識することがなかったし、そもそも価値観を脅かされるような事象が起こる事もほとんどなかったんだろう。

近代では唯二の事象として、明治維新と第二次大戦があって、どちらも欧米の価値観をぶち込まれたわけだが、それとても日本人が共有していた価値観を塗り替えたというものではなく、新しく新鮮に感じた価値観に、ある意味寄り添ったという方が正しいように思える。

ヤマト運輸の小倉元社長の著書「経営学」では、30才を過ぎた頃、静岡運輸に出向した時のエピソードがある。経営改善の為に見学した木工の工場において「安全第一、能率第二」と書いてある壁の張り紙に注目する。この工場の経営者は、「安全も能率も、どちらもしっかりやれと言っていた時分は、結局どちらも中途半端でしたね」と語る。静岡運輸に帰って「安全第一、営業第二」のモットーを掲げ、安全運動を推進したところ、事故は減り、営業はむしろ活発になったという。その後、ヤマト運輸でも同様の運動を推進し、安全と営業を両立していったのである。

『どんな工場にいっても「安全第一」の標語が掲げられていないところはない。しかし安全第一の言葉は、マンネリの代名詞のようなもので、どれだけ実効を上げているか疑問である。というのも、第二がないからである。(小倉昌男著 経営学 p.145)』

今現在日本が置かれている状況も良く似ている。経済と安全を両立させようと思ったら、一方を第一に、他方を第二に、明確に位置づけてあげる必要があると思う。それをしてようやく議論が前に進むし、ゴールが見えてくる。

別に、経済や安全でなくてもいい。環境でも良いし、自然でも歴史でも外交でもなんでも良い。とにかく優先順位をつける事が大事で、それが日本人の価値観を定義することだろう。そして、それをなくして状況が好転する事はあり得ないと思う。

既に、今までのように曖昧で済んだ時代は終わった。そろそろ、進むべき道を選ぶ時だろう。何を第一にして、何を第二にするか。それが全てを決める。

2011年7月8日金曜日

Facebookの価値

Facebookのアクティブユーザー数が7億5000万人を越えた。これは本当にすごい数字だと思う一方で、そのカウント方法には疑問がある。

「過去30日以内のログインしたユーザー」とのことだが、実質的にFBを使ってない自分でも、何かのログインアカウントにFBログインが使われてたり、FBを使う訳ではないけれど何かのきっかけでログインしてしまったりとかは、たまにある。ということで、FBを使ってない自分もFBのアクティブユーザーの一人だ。

こういったユーザーは何人ぐらいいるんだろう?
ともあれ、順調にユーザーが増えているということは、それなりに活用されていることの証左でもあるだろう。

FBも、今後は「人々が得た価値の量、費やした時間、アプリの数、動かした経済」で測定されることになる、としている。その一つの指標が共有量で、共有する人は今後2年間で倍増することになるらしい。ムーアの法則を彷彿とさせるような指標だが、イマイチ。

共有量は客観的指標と言えるようなものになるんだろうか?そもそも、何の結果として共有量が上がって行くんだろう??人の集積度の結果であったら、アクティブユーザー数で表現すればいいだけだから、きっと別のものなんだろうけど、なんだろう?

FBを始めとするSNSの価値は、そこに集う人の情報共有・交換なんだろうから、共有する事を評価軸に置くことは間違ってなさそうだが、少し考える余地がありそうだ。

いずれにせよ、7.5億人も集まるサービスって、すごい。自分の中では、未だに価値を見出せてないけれど。

2011年7月6日水曜日

マーケティング5領域

最近は「買い回り」という言葉について、よく考えている。

先のエントリーにも書いたように、一つの対比軸は「来店」という言葉だ。つまり、お店もしくは施設に来てもらうまでをゴールと考えるか、その後も買い物を継続してもらうことをゴールとするかの違いだ。実は、その間に来店後に商品なりサービスを買ってもらうまでをゴールとする考え方もあり、大きくは3つの集客レベルがあると考えている。

つまり、「来店」「買い物」「買い回り」ということだ。

縦軸にこれらの集客レベルをおき、横軸に情報の到達距離をおく事で、新しいマーケティングマトリクスが表現できそうな気がしている。今日のエントリーは、まず集客レベルについて、この3つのレベルをベースに5つのマーケティング領域があるのではないかという話をしたい。

(1)牧歌的マーケティング領域
純粋に来店だけを考えたもの。昔ながらのイエローページやよくある地域ポータルなんかが当てはまると思う。お店の存在は見つかるが、それ以上ではない。欲得を考えずに、ただ情報を公開するというスタンスで、昔はこんなサイトばかりだった。

(2)古典的マーケティング領域
来店と買い物の中間領域。お店に来てもらい買い物をしてもらう、メーリングリストやチラシが分かりやすいかも知れない。昔からある方法で、今もそれなりに効果があるように思われているが、実際は影響力がかなり低下している。ネットで言うと、食べログやぐるなびもそうかもしれない。また、新しい所ではTwitterでのお店の紹介みたいなものも、この領域に入りそうな気がする。

(3)肉食系マーケティング領域
買い物に焦点を当てた施策で、最近ではグルーポンやフェイスブックチェックインクーポンなどが当てはまる。かといって、さほど新しい施策でもなく、古くからあるポイントカードやホットペッパーもこのカテゴリーに入るだろう。要は、おトク感を餌に、インセンティブに重きをおいたものになる。

(4)草食系マーケティング領域
買い物と買い回りの中間領域で、現在のところ当てはまるのは当社が提供しているサービスだけだと思う。つまり、個々のお店への来店よりも、エリアとしての集客に注目したサービスになる。エリア内での買い回りが増えれば、必然的に個々のお店も潤うハズという考えの下、共助を中心に据え、「見つける」から「見つかる」へのパラダイムシフトを目指している。

(5)植物系マーケティング領域
買い回りに絞ったやり方で、大規模集客施設で必ずある案内板やガイドマップが相当する。これらは買い物に対するインセンティブを与える訳ではなく、個々のお店が行う来客促進というよりは、施設が行う買い回り行動支援といった方がしっくりくる。あると便利だが、ほとんど出番は無いというものだろう。

以上、5つのマーケティング領域の中で、(1)→(2)→(3)というように進んできており、現在は肉食系が花盛りである。ただ、肉食系マーケティングは、うまく使わないとお店にダメージを与える場合があることと、基本的に客の回転率が良く購買単価の高い飲食店か、変動費がほとんどない一部のサービス業しか使えない事が課題であり、おトク感だけで煽るのも、そろそろ限界ではないかと感じている。

次の時代の方向性は見えてきていないが、買い回りへと動いていることは確かであり、(4)に向かっていると思いたい。

2011年7月4日月曜日

127時間

先月の「岳〜ガク〜」に引き続き、山の物語。
正確には山ではなくアメリカはユタ州に広がるキャニオンランズという国立公園で、物語というには余りに生々しいドキュメンタリーかな。

山や岩や渓谷が好きな人っていうのは、皆、自由を追い求める人として描かれる。漫画で言えば釣りキチ三平も同類だろうか。多くを捨てて、自然と向き合う。その道程には多かれ少なかれ冒険が含まれ、それゆえ、サバイバル能力に長けている。

そんなサバイバル能力に過信した男の、残酷な127時間が、ストーリーの全てだ。

荒野を自在に動き回るだけの、知識と能力を持ち、その荒涼たる大地を第二の故郷と言って憚らない。秘密の地底湖へダイブしたり、さながらプライベートビーチのような遊び方を楽しんでいる。

大きな誤算は、そこは管理されたプライベートビーチではなく、人気の少ない危険の潜んだ渓谷だということで、自信に満ちあふれた男は、そこに行く事を誰にも告げずにいたことだ。

いつものように新しい景色を探して渓谷を駆け回っている最中、足下の岩が動いて足を踏み外した。ここまでは、ある程度想定済みで、そこからリカバリーできる身体能力があると信じていた。

ここでもう一つの誤算が生じる。自分と一緒に落ちた岩に、右腕を挟まれてしまうのだ。既に手首から先は潰れてしまっている。何とか助けを呼ぼうにも、人気の無い渓谷。誰も来るはずが無い。

様々な手段を使って脱出を試みるが、いずれも失敗。水も食料も無くなり、段々と精神的にも追いつめられ、幻覚を見始める。腕の切断にもチャレンジするが、安物のナイフでは鍛えられた筋肉が切り裂けない。突き刺しても骨にあたり、どうにもならない。120時間を越えた頃に意を決して、腕の切断に再挑戦。大きな苦痛を経てようやく成功し、無事救出される。

自分の能力を過信した男が主人公だが、確かにその高い能力のお陰で、127時間に及ぶサバイバルが可能だった。普通の人なら、すぐにダメになってしまうだろう。

それにしても、なぜ127時間も掛かってしまったんだろう?
同じ立場になってみないと分からないが、1日目が過ぎた辺りで、取り得る選択肢はほとんど無かったはずだ。岩が削れる見込みはなし、遭難届けが出て救出される見込みもなし、水や食料が増えるはずもない。時間が経てば経つほど、不利になる事は目に見えている。たぶん、普通の人なら127時間ももたないけど、24時間ぐらいで、右腕切断の意思決定はしていたんじゃないかな、と思う。

ドラマではあるが、前回見た「岳〜ガク〜」では、遭難後半日ぐらいで足を切断している。条件は全く違うので参考にはならないし、自分がその状況に置かれた場合に腕や足を切れるかというと、ムリかも知れない。ただ、能力があるがゆえに起こってしまった事故とサバイバル体験だったと言えるだろう。

肉体的・精神的に追いつめられて行く様子と切断のリアリティが、よく描かれている映画だった。少しリアルすぎるので、お薦めしにくいが、血を見ても大丈夫な人は、見ても良いかも知れない。

2011年7月1日金曜日

社会性と個人主義

社会性を持つのって、意外に難しい。

ある意味、置かれている状況を俯瞰し、客観視できないとダメだ。それができない場合は、個人主義的な行動に走ってしまう。でも、我がままな振る舞いをする人は、自分では分かってない。なぜなら客観視できないから。

そのように考えると、個人主義で自己中心的だと思える人も、実は自分はそうは思ってないんだろう。

自分を自己中心的だと思えるぐらい客観視できてるような人は、自ずと他人との距離感も把握しており、社会性の高い人だと言える。だから、周りが見えてないな、という人に「周りを見て下さい」といっても、自分では見えているつもりになっているのでムダなのだろう。

東京は、極めて高い社会性を求められる社会だ。人が多いからしょうがない。どこで他人と妥協し合うのかを、暗黙的に探り合い、自分のポジションを決め、その環境の中での義務と権利を確認しなければならないからだ。

でも、そんな事を考えている人って、ほとんどいないんだろうな。

社会が、ナリで(有るがままに自然と)助け合い、支え合い、分かち合うようになるには、一人一人の社会性(民度と呼んでも良いかも知れない)の高さが鍵になるが、現状としてはほとんど期待できない。

やはり日本の場合は、制度で縛る「お上統制」型の社会しかあり得ないのかな。

その場合は、一人一人は個人主義的で良く、実際そうなっている。サービスの形も社会性を期待するものよりは、個人主義的なものが流行るのは、そういった国民性もあるんだろうな。