2013年3月19日火曜日

そんなサインある?

WBC準決勝のダブルスチール。この作戦は、素人目に見ても難しそうだ。なにせ、バッター、ランナー二人の息が合わないとダメだし、相手バッテリーとのリズムとの相性もある。

そんな複雑な作戦で「行けるんだったら行っても良い」なんてサインはあり得ないと思うが、高度なスキルを持つプロは違うのかも知れない。

少なくとも味方の三人全員が「行ける」と思わなければいけない訳で、単純に言えば1/8の確率しかない。そこに相手のリズムが入り、味方同士のフォローがあったとしても、成功確率は1/3ぐらいじゃないだろうか?

あくまでも素人目線で考えると、この作戦を成功させる要因の一つは「思い切り」だと思う。

なにせ、盗塁するための判断は、投球フォームに入ってから、キャッチャーミットにボールが収まるまでの時間が1.4秒以上かかる事、といった極めて微妙な判断だからだ。盗塁スタートが0.1秒でも遅かったら成功しない。

そう考えると、少なくともランナーの二人には、お互いを確認しあう時間なんてないだろう。つまり、思い切って走り抜くしかないということ。

そんな状況で出されたサインは「走れるようなら走って良い」。その「走れるようなら」の判断が、全員同じな訳がないんで、そこを個人に任せると、当然齟齬が生じる。もちろん、タマタマ上手くいくこともあるだろうが。本当なら、初球で行くとか、二球目で走るとか、個人の判断を越えたベンチワークが必要だろう。

それを選手に任せると言うことは、責任を丸投げするということだ。そんなことをしていい状況ではなく、監督の采配の巧拙が問われる場面だったと思う。

走っちゃった内川も、走れなかった井端も、凡打に終わった阿部も、誰も悪くない。ただ山本浩二監督が無能だっただけだ。

試合終了後の記者会見で「選手はみんな頑張ってくれました」と言ってたが、何の慰めにもならない。本来、選手は選手の役割を全うし、監督は監督の役割を全うするべきだが、監督は肝心な所でその役割を放棄したのだから。

勘違いも甚だしいと思う。

2013年3月18日月曜日

ダメなサービス業の見本:KDDI

iPad miniのあまりの調子の悪さに、端末の問題かと思い、AppleStoreに行ってみた。

予約時間を遅れること10分程度で診てもらえることに。症状を伝えると、SIMカードか端末の問題ですが、端末を交換してみましょうとすぐさま代わりの端末を用意して、実験開始。あっけなくSIMの問題と特定できた。さすが、ジーニアスバーは頼りになるな、と思いつつ店を後にして、AUショップに歩を進めた。

歩いて5分、AUショップに到着。症状を伝え、AppleStoreで検証済みなのでSIMを交換してくれと言うと、法人契約なので名刺か社員証が必要とのこと。建前上は確かにそうだろう。ないと伝えると、フィックスする努力はおろか、問題を特定するそぶりすらせずに出直せという。

少なくとも、サービス業を続けていきたいならユーザーのトラブルはメシの種と思って、何とか解決するべきだろう。実際、先日のエントリーにも書いたようにKDDIのネットワークはクソだと思っているので、失地挽回のチャンスでもあったと思う。窓口の女性にもこう言った。もうKDDIはやめてSoftbankに変えたいぐらいだと。

にも関わらず、窓口の態度は変わらなかった。文句を言われたことに対して建前だけで対応する、といういかにも腐ったサービス業の典型を見せてもらった。

まず、サービスセンターに電話して、「法人契約のクレーマーがきた。確認しますが、SIM交換に証明書が必要ですよね?」という質問を投げかけた。これで問題がフィックスできる訳がない。「証明書を持ってないけど、どうやったら交換手続きを進められますか?」といった形で聞かない限りは。そんな聞き方で問題解決できるわけ無いでしょと伝えて、そもそも、問題の所在を確認しないの?と聞いてみた。すると、問題を特定できる機器を持ってないので、ユーザーから文句があったら、そのまま受け入れているとのこと。そして、確認できる機器があるかどうか確認してきますとバックヤードに引っ込んだ。当然、形だけで、やっぱりできませんでした、との事。

バカじゃねーの。どうすれば良かったかなんてサルでも分かる。できるだけの誠意を見せて、問題を特定しつつ、自社の責任範囲を特定して、その上で、どうしてもこの部分に関しては、お客さんの協力が必要だと伝える。その時に、名刺がないなら電話確認でもOKとか代替案を提案する。それで、印象は格段に良くなるだろう。

KDDIにサービスをやる資格なんてないと思う。なぜなら、ユーザーとの問題解決に真摯ではないから。ロイヤルティが離れそうになっているユーザーを繋ぎとめる努力をしないから。

その後、新規契約時の書類が手元にあったので、それで話をしてみたが、やっぱりダメ。面白いのは、本人確認書類を見せても、コピーは取らないらしい。つまり、窓口の担当者が納得するかどうかだけ。そんな事にも裁量のない窓口担当者を憐れむべきかも知れないが、ちょっと許せない。

今後、誰に相談されても、KDDIは止めておいたほうがいいと、自分の経験を踏まえた説得力のある話をもって伝えるだろう。

2013年3月15日金曜日

排他性の重要性

かつてSNSについて考えたことがある。ビジネスの可能性についてだ。結論としては、SNSにあまり大きな期待を抱いても、期待外れになりそうだ、ということだった。

一番気になったのは、趣味の関係で知り合った人、仕事の関係で仲良くなった人、また、いやいや付き合っている人、昔の友達、家族といった多様な属性を持つ人を相手にして、同時に共有したい情報なんてない、という事だ。

Facebookが当初ハーバードだけで使われていた、極めて排他的なサービスだったことが象徴的だが、やはり属性が共通する人を繋ぐサービスがSNSなんだと思う。

そう考えると、最近のFacebookのダメさも分かる気がする。属性を飛び越えてユニバーサルなサービスとして、万人に使ってもらおうとした途端、表面上のお付き合いをバーチャルで実現する、という意味不明なサービスになるからだ。

そういった意味では、知合いのタイムラインなんて見えない、IMの様なサービスの方がユニバーサルと思えるが、それでは面白味が無いと言うのが、最近のネットワークサービスのスタンスだ。

ユニバーサルを捨てると、ユーザーが増えず、マネタイズが困難になる。ユニバーサルを目指すと薄っぺらい使い方しかしてもらえなくなり、同じくマネタイズが遠のく。

良い着地点は未だ見えてないと思うが、そのうち見つかるのだろうか?

2013年3月13日水曜日

深夜食堂の覚悟

深夜12時から明け方7時までしか開けない「めしや」。メニューも豚汁定食しかない。リクエストがあればできるものなら何でも作ってくれる。そんな食堂に集う人々の他愛もない交流をネタにしたドラマだ。Huluで観れるが、海外ドラマにはない日本的な味がクセになる。

そんな深夜食堂を観ていてふと感じた事がある。このマスターは、すごく大きな覚悟を背負って店を開いているのでは、という事だ。

なにせ営業時間を考えても、客が増える見込みは薄い。そして用意しているオカズは豚汁だけだ。どんな客がくるか分からない。どんな注文がくるか分からない。需要予測なんて、あってないようなもんだろう。かかる費用は明らかだが、生まれる効果は不透明だ。

少なめに仕込んで、売切れ御免という事かもしれないが、あまりにできない、できないと注文を却下してたら、客がいなくなってしまう。そこは違う価値(例えば、居心地の良さとか)を提供してカバーしているのか。よほどの覚悟がないとできないように思う。

そんなどうでも良いことを考えてしまうぐらい、深夜食堂の世界観にハマっている自分がいる。

2013年3月11日月曜日

KDDIのイケてなさ

正直に端的な言葉で表現すると、KDDIのネットワークはクソだ。日本で一二を争うほど沿線居住者の多い東急田園都市線で、繋がらないエリアが多いのは不思議でしょうがない。

そして、名古屋に行く機会があったので、新幹線の中でKDDIとSoftbankの比較をしてみた。Huluで「深夜食堂」を見ようとしたのだが、KDDIはほとんど繋がらない。正確には、電波表示としてはつながっているのだが、全くデータがダウンロードされない。そのうちに悪名高き「○」が出て、ほぼ通信不能になる。その間Sofbankは多少画質が落ちるなどしながらも繋がり続けた。

名古屋はさすがに大丈夫だろうと思っていた。何と言っても旧IDOの本拠地である。しかし、その期待もあっさり覆される。中央本線で移動する最中も結局、Softbankは繋がり続けたが、KDDIはほとんどダメ。KDDIのネットワークに期待してMNPした人も、相当ガッカリしているのではないだろうか?

余計な施策に力を入れる前に肝心のネットワークインフラを強化すべきだろう。コンテンツビジネスに触手を伸ばすよりも、まずは最も良い土管を目指して欲しい。

以前、docomoを使っていた時もガッカリして、すぐにSoftbankに戻したが、Softbankを使っている時には感じない不満をKDDIにも感じる。

別の日、メールに添付されたファイルをダウンロードして、事態の深刻さを痛感した。Softbankの3Gで2〜3秒でダウンロードできるファイルが、KDDIのLTEだと1分近くはかかる。まさに、クソネットワークと言っていいだろう。早く何とかしないと、KDDIのクソさに気づいた人たちが大挙してSoftbankに駆け込むだろう。

2013年3月7日木曜日

二種類の品質

頑張っても評価されない「当たり前な」品質と、比較的「簡単にありがたがってもらえる」品質がある。

ゼネコンはともすれば前者に力を注ぎがちだが、ビジネスとしては後者を目指さないと、とっても苦労することになる。

ゼネコンが前者を選びがちなのは簡単な理由だ。ビジネスに対する覚悟がないだけだ。前者は費用と効果がいずれも定量的に示せる、すなわち費用対効果を保証できる品質なのだ。覚悟のない企業は、費用対効果が明確でないと、怖くて手が出せない。

後者は費用対効果が保証できない代わりに、当然適正価格も不透明なので、値付け余地が大きくなる。いざというときの保証をする覚悟がある会社は、その覚悟一つで大きく伸びる可能性を秘めている。

費用対効果が不透明で、うまくビジネスに繋げられる領域を見つけて、覚悟を決めて飛び込むしかない。

2013年3月4日月曜日

やっつけないことって、大事

仕事をしていると、ついつい「やっつけ」になることがある。頼まれ仕事で、要求仕様がはっきりしない場合は特にそうなりがちだ。先日、全くやっつけない人と仕事をする機会があって、心底驚いた。

自分の場合は、頼まれた仕事には多少でも付加価値を付けて返すようにしている。少しでも頼んだ意味があると思ってもらえるように。そして、ちょっとは自分の意見を言いたい質なので、発言権を得る意図もある。とは言うもののやっぱりやっつけ気味になってしまう事もある。

ここしばらく、様々な人と仕事をする機会があったが、付加価値を付けて返すことすらしない人も、結構いることが分かった。受動的とも言えるが無反応に近い人もいる。自分に火の粉が降りかかってくるのを嫌ってだろう。

そんな中、全くやっつけない人がいてビックリしたが、同時に自分が恥ずかしくなった。その人の仕事は、極めて質が高く、そして絶え間なくブラッシュアップされていた。もともとは、まさに要求仕様が曖昧な最もやっつけられそうな仕事だった。しかし終わってみれば、同時に行われていた仕事のなかでベストの仕事として、誰もが賞賛する内容になっていた。

仕事って、やっつけちゃダメだと、痛感した。当たり前だけど、実はほとんどの人が実行できていない視点だとおもう。

2013年3月1日金曜日

マクドナルドのサービスが落ちたと感じる瞬間

ゴミを捨てに行った時、ゴミ箱の前に店員がいたが、「お預かりします」と言われなかった。しょうもない話だが、マクドナルドも落ちたな、という感想を抱いた。

いつもゴミを捨てる時に声を掛けて欲しい訳ではない。「ゴミ箱の前に店員がいたにもかかわらず」という条件付きのサービスに対する印象である。こういった末端のサービスを蔑ろにすると、印象がすごく悪くなるから不思議だ。

こういったサービスの要不要はかなり微妙だ。店員と客という関係性の中で、ある意味当たり前とも思えるが、やってもらったら「いいサービスだな」とか「行き届いてるな」といった感想を持つ。

実はサービス業では、最も大切なサービスなのかも知れない。

そして別の日、別の店ではレジで同じような経験をした。きっと、マクドナルドは全体的にサービスレベルが低下しているんだろう。分水嶺となったのは、レジメニューの廃止だ。あれから目に見えて対応が劣化している。

2013年2月23日土曜日

宋文洲ジョークの程度の低さ

先日、テレビ番組で「地球って言うのは脆弱ですよね。巨大な地震もあれば、なんと予測もできない巨大な隕石も来て、人類は細かいことでもめている場合ではないんですね。今日思ったのはですね、尖閣諸島に落ちてくれないかと思ったんですね。なくなればトラブルもなくなるから。」と、宋さんが発言し、局が謝罪した問題。

自分は不適切な発言だと思うが、宋さんのブログコメントを見ると、圧倒的に賛意を唱える人が多い。

宋さんは、平和と友好を考えての発言で他意はないとしている。賛意のコメントを投稿している人も、宋さんの人柄を理解してれば、一流のジョークだと理解できるはず、と言っている。

この構図って、日本のモノづくりは最高、良いものは必ず分かってもらえるという、日本の製造業を瀕死に追いやった考え方に相似している。

この考え方は、伝えるべき相手を自分勝手に定義して、その人にしか伝わらないメッセージを作った上、伝わらなかったら相手のレベルが低いせいとする事に、その失敗がある。

宋さんの発言がジョークだということは、誰でも分かる。だからそれが問題ではない。コメント欄を見ると、ジョークを理解できない、レベルの低い人は無視すれば良いと言っている人が多いが、ナンセンスだ。

ジョークだと理解した上で、それでも局が謝罪しなければいけなかったのは、最後の発言ではないだろうか?

曰く「なくなればトラブルもなくなるから。」

宋さんが期待する「なくなるトラブル」は領土問題だろうが、尖閣が消滅することで、なくなる問題とは思えない。この一言がジョークのレベルを下げ、謝罪しなければならないレベルの「失言」へと貶めてしまったと思われる。

ジョークが失言になってしまったのは、その結果期待される事象を言っちゃった事にある。そこを受け取った側の裁量・イマジネーションに任せないと、ジョークは成立しない。

そう考えると、宋さんはジョークの扱いが稚拙だったことを反省するべきだし、賛意を唱えた人々は、盲信による判断レベルの低さに思いを巡らす必要があると思う。

2013年2月19日火曜日

アトラクティブズ論

アラン・フォーバス提唱。堺屋太一の新刊「人を呼ぶ法則」のインタビューで紹介されていた。ともすれば勘と経験に依存しがちな世界を整理した事に大きな意味がある。

アトラクティブズ論は6つの要素からなるらしい。
1.ヒストリー:歴史
2.フィクション:非日常
3.リズム&テイスト:音楽と食事
4.ガール&ギャンブル:カジノ
5.サイトシーン:綺麗な風景
6.ショッピング:買い物

全てを備えると逆効果で、3つぐらいを組み合わせて個性を出すのが良いらしい。取り組む場所によって何をピックアップするかは自ずと決まってきそうだ。

被災地復興の方法論として提案したいぐらいだ。被災地で特色のある復興プランを持っている所はないように思う。それは、こういう視点を持ってなく、偶発的なアイデアでしか勝負してないからだろう。

人を呼ぶと言う意味では、Webサイトやサービス、商品にも適用できるかも知れない。

2013年2月14日木曜日

国益を無視する政治家って、何のためにいるの?

加藤紘一がしきりに中国を庇っている。中国は火器管制レーダー使ったとは思わないとか中国との間に領土問題があるとか。

どのような行動・言動が、国益に適うかは自明だと思うが、なぜ、わざわざ反対に向こうとするのかが分からない。日本が嘘をついていると主張する事が利益をもたらすのか?領土問題があると言えば国境線は守れるのか?中国の側に立って、日本の主張を嘘と言うなら、元官房長官という過去の自分の行動・言動にも疑問符が付く、という事は分かっているのだろうか?

日本は、著名な政治家や知識人が自らの影響力を忘れて、国益に明らかに適わない動きをする事が多くて、非常に困惑する。信条・ポリシーがあるのは良いが、ある程度国を代表する力を持っている人が、国益よりも信条を優先するのには違和感がある。

例えば、社会福祉を充実させるのか、経済成長を優先するのかは、それぞれの信条を戦わせれば良いと思う。

しかし、外交や防衛の問題、食糧やエネルギーの問題は、国益を第一に考えるべきだろう。特に、国境線とか過去の歴史認識とか軍事行動につながるような行為の解釈とか軍の存在なんかは、日本としての解は本来一つしかないと思う。

そこに自説や信条を織り込んで、状況を複雑化する事は、国益を損なうし、そういった事を主導する人々は国賊だと思う。

鳩山とか加藤とか菅とか小沢とか社民党とかみらいの党とか共産党とか民主党とか。いい加減にして欲しい。

2013年2月12日火曜日

ARGO

11月ごろ、この映画を観た。他に良いのがなくて、消去法的に選んだ映画だった。

驚いたのは、イラン革命の最中に起きた、リアリティのないストーリー。

アメリカ大使館を襲撃するイラン人のデモ隊。一部の大使館員が、そこから脱出してカナダ大使館に逃げ込む。問題になったのは、残っているアメリカ人ではなく、逃げたアメリカ人。

逃げた人たちは救出作戦行動から取り残されるだけでなく、逃げたという事実でどんな嫌疑を掛けられるか分からない。とにかく早く保護する必要がある、という事。

隙あらば逃げるのは当たり前だが、事態の複雑さから見ると、逃げない方が良かったのかも、とも感じる。

そんな不思議な救出作戦は、映画のロケハンに化けさせて飛行機に乗せると言うもの。数ある救出作戦の中で、これが一番確度が高かったというのもスゴイが、イラン革命の最中に映画のロケハンが入るというのもあり得ない話のような気がする。その後の様々な革命で映画のロケハンが入ったという話は聞かない。

逃げた人たちに与えられた役割は、とにかく役になり切る事。しかも脚本家や監督になり切るというものだった。

この顛末はWikipediaで読むと、さらに複雑な内幕、後日談があり、面白い。映画にまでなるんだから、小説より奇なりとはよく言ったもんだ。

2013年2月8日金曜日

繰り返される悲劇:4K

ダメに決まってるじゃん。3Dの失敗に全く懲りてない人がいるらしい。

テレビというプラットフォームはフルHDで完成したと思って良い。それ以降は付加価値とも言えないような余計な価値だろう。少なくとも3Dでほとんどの人がそれに気付いたと思うが、懲りずに4Kとは恐れ入る。

3Dも4Kも大画面で見るから意味がある。でも日本の住宅には大画面を置く余裕はほとんどない。コンテンツの問題も大きい。どちらもコンテンツ制作には通常よりもコストが掛かる。そんな特別料金を回収する仕組みもないし、高いカネを払うだけの付加価値を感じる人も少ないだろう。4Kに至ってはもっと悲惨だと思う。

フルHDで200万画素、4Kだと800万画素だ。800万画素の動画を見たい人はいるだろうか?

通常、画面に動きがあるほど、認識できる画素数は少なくなる。800万画素クラスのチョットした動画は、2000万画素クラスの静止画ぐらいの綺麗さだろうか。静止画で比較すると、500万画素と2000万画素の違いを、数m離れた場所から見極められるか?という非常に微妙な問題になってくる。

そして、そんなに微妙な違いを、高いデバイスを使って、高いコンテンツを買ってまで見たいのか、という問題だ。あり得ないと思う。

2013年2月4日月曜日

アウトロー

うーん…オススメ、とは言えないかな…

トム・クルーズの(特にプロデュース)作品は、もう一つ深みが無いのが特徴と言えるかも知れない。

トム・クルーズの好みは分かるんだけど、事件の背景だとか、登場人物のバックボーンが割とおざなりなので、見終わった後には軽さだけが残る。

それでもナイト・アンド・デイよりはマシだったとは思う。ゴースト・プロトコルといい勝負かな。

2013年2月1日金曜日

レ・ミゼラブル

リーアム・ニーソン版より良かった。正確には、ジャンルが違うので、比較のしようがないのだが。

今回(ヒュー・ジャックマン)のレ・ミゼラブルは、ミュージカルの映画化であって、映画として新しく構成したものではないのが、特徴だ。なので、ストーリーの端折り方も舞台的で、ミュージカルという前提で見るとあまり違和感は無いが、映画と思うとかなり強引な展開だと感じる。

レ・ミゼラブルは複雑な長編小説なので、映画で一部を切り取るよりも、ミュージカルのような形でテンポ良く展開して、ストーリーを伝え切る方が合っているのだろう。

フランス革命前後のフランスが舞台だが、日本で考えると江戸末期、明治維新まであと30年ほどの時代、アメリカは南北戦争前夜だ。世界は揺れ動き、若者が新しい時代を切り拓こうと命を掛けていた。

レ・ミゼラブルは、一人の罪人が愛によって改心し、聖人として死ぬまでの物語だ。リーアム・ニーソン版では、最後まで描かれずジャベール警部の頑なな心を溶かす所までだったが、ヒュー・ジャックマン版は全てのエピソードを盛り込み、これが「レ・ミゼラブル」だ、という作品に仕上がってると思う。

キリスト教世界での愛という概念は、かなり都合良く構築されているように思う。日本的愛とは大きく異なる。

キリスト教世界では、セカイは階層化されていて、貧富の差が激しい。なので、階層を越えるナローパスとしてキリスト教があり、愛が狭く深いように感じる。日本は階層化が比較的少ない均質化されたセカイなので、愛は薄く広く行き渡る。だから表面上はみんな親切だ。

レ・ミゼラブルでの愛は無条件だ。結果、愛によってフランスは大きく変わっていくことになる。

2013年1月31日木曜日

ポリシーはどうあれ迷惑だ

満員電車で座席の前に立ってて、目の前の席が空いた時に座らない人がいるが、大いに迷惑だ。

すぐに降りるからとか、その人なりの理由やポリシーがあるんだろう。しかし、場所は満員電車。個人の都合はどこまで押し通して良いものだろうか。

満員電車で必要なのは、スペースの最大効率を目指すことだと思う。目の前のイスが空席であれば、その分だけ通路などのスペースが減る事を意味する。

自分のためではなく、満員電車に乗りあわせた人のモラルとして座って欲しいと思うのは、異常だろうか。

2013年1月28日月曜日

iPad mini

他社のタブレットへの追随で、Appleの革新性が衰えた証だとする評論家も多いが、自分はそうは思わない。

iPadとAndroidタブレットとの最大の違いは安定性だ。Androidタブレットはメーカーによってボタンの配置や機能の実装方法が違う。同じメーカーでも現行モデルと次期モデルで互換性が保証されるかどうかはアヤシイ。

互換性が保証されないモノを面白がる時代でもないだろう。昔のようにモデムを繋ぐのに試行錯誤して半日使うヒマはない。

そう考えると、Androidがガジェット以上になる余地はあまりないように思う。それを危惧したGoogleはガジェットからインフラを目指せる事を証明するためにNexusを作ってみたのではないだろうか?

こういった観点から見ると、iPadは既にインフラシステム足り得る安定性を持っている事は明らかだろう。では、何をするかと言うと、iPadでは取り込みきれなかった市場を創り出す事が考えられる。

iPadの最大の弱点はその重さだ。持ち続けるにはやや重いが故に定置型の使われ方が多かった事は間違いない。だからと言ってiPhoneではできることに限りがある。つまり、iPad miniはそういった市場に向けたモバイルに振ったデバイスなんだと思う。

だから、iPad miniは他社に追随したものではなく、iPadの利点を活かしつつ新しい市場を創り出すために生まれた。そして、今なお供給が追い付いていない事は、その市場が大きい事の証左かも知れない。

Appleの次の一手は、iPadをより定置型に振ったもの、やはりAppleTVだろう。それは、WiiUのように、他のiOSとの連携が前提にあるようなものではないだろうか。

単なるガジェットを作っている会社とインフラ化まで見越したラインナップを考えている会社では、打つ手の深みが全く違う。iPad miniを他社の模倣と見ている人はこの視点が抜けていると思う。

2013年1月23日水曜日

マクドナルドのコーヒー

別に体した話ではないが、マクドナルドでコーヒーを頼むと、砂糖とミルクを蓋の上に乗せてくれる。



個人的にはやめて欲しい。

パッケージ化する事でお店としては満足するのかも知れないが、アンバランスな状態のコーヒー・砂糖・ミルクパッケージを手渡されても困る。

渡す時に崩れ、蓋の上に乗せるだけで四苦八苦しているレジ係もいる。また、片手で受ける時にも崩れがちで、イラっとする。

なので、できるだけ両手で受け取るようにするのだが、結局、右手にコーヒー、左手に砂糖とミルクみたいになって、パッケージ化してくれた努力をムダにしてしまい、やや申し訳ない感じ。

初めからバラバラで渡してくれたら良いのに。

傅く友愛は不要だし、迷惑だ

ポッポの暴走が止まらない。南京で大絶賛されているらしい。

なぜ、正しい歴史検証もないままに国威発揚のためだけに作られた施設に行って、展示内容を丸ごと信じて、手を合わせて帰ってくるのか。意味が分からない。もちろん事件はあったのかも知れない。ただ、その規模や実際に行われてきた事はろくに検証されてない。被害者の主観で創作されている部分も多いだろう。

原爆記念館に米国大統領が行って、お詫びするだろうか?

その時代の文脈で、止むを得ない選択なのかも知れない。それすらも明らかではない。犠牲者の数もハッキリしない。件の施設では犠牲者は30万人との事だが、人口は20万人ほどだったらしい。犠牲者の多寡を言ってもしょうがないが、一番基本的な数字ですらこれなのだから、施設が伝えるメッセージの何パーセントが本当なのか、推して知るべしだろう。

そこに乗っかって同じく無知な菅沼なるジャーナリストが、訪れるべき旅の目的地と評している。ジャーナリストなら、事件の真贋を確かめてから発言しろと言いたい。

公明党も中国に都合の良い発言を繰り返しているようだし、森喜朗は勝手に北方領土は3島で痛み分けと訳の分からないロシア寄りの発言をしてる。日本の為政者は、国益を守る意識が低すぎてビックリする。老害も甚だしいので、早く引退して欲しい。

2013年1月20日日曜日

楽天の商売根性は腹立たしい

楽天で買い物した。年に一度か二度しかないが、使うたびにその商売根性にムカつく。

今回は決済について。
ちゃんと確認しなかった自分が悪い事は百も承知で、なおかつしっかり確認しないヤツからは毟り取ろうという考え方には賛同できない。

ちょっとしたモノを買って、いざ決済の段になった時、クレジットカードの選択肢はなく、「楽天バンク決済」というのが目に入った。たまたま楽天銀行に口座を持っていることもあって、振込にしても楽天銀行からやるから一緒と思い、あまり考えずに選択した。

ほどなく楽天銀行から支払いの案内が。金額を見ると少し高い。確認すると手数料が150円取られてた。

エッ?!同じグループなのに?

これなら指定されていたジャパンネット銀行に振り込めば良かったんじゃないか?口座を選べば手数料がタダだったような気がする。

こんな企業内での振替のような取引に手数料を取ろうという根性が気に入らない。手数料を取られるなら、楽天バンク決済を選ぶ理由がない。

こういう消費者の無知につけ込む商売はなるべく使わない方がいいだろう。Amazonの方がよっぽどクリーンで使いやすい。



2013年1月17日木曜日

18th

もうそんなに経つのか、という感じ。以前にも書いた事があるが、自分の中で色んな事の初期値がこの出来事にあるように感じる。

あれから18年。思ったほどには進歩していない自分がいる。

2013年1月16日水曜日

鳩山由紀夫ほど国益を害する存在はない

わざわざ中国に行って「領土問題の存在を認めるべきだ」と伝えたらしい。アホだ。日本国籍の剥奪ってできないのかな?

2013年1月1日火曜日

明けましておめでとうございます

ブログをサボっている内に2012年が終わり、2013年になりました。

実家に帰った時に顔を合わせた、地球のウラ側に転勤する兄に指摘され、ブログ再開。

2012年は内向きな変化と葛藤の多い年だったが、2013年はなるべく前向きに転がりながら、外に意識を伸ばして、いい意味で先の見えない一年を送りたい。

皆様、今年もよろしくお願いします。