2010年12月31日金曜日

さようなら、2010年

今日で2010年が終わる。

Kozchi的には、やや進捗したような、そうでもないような、微妙な気持ち。リーマン的には、何だかムダな時間が多かったような、残念な気持ち。人間的には、進歩が少かったような、悔しい気持ち。

後半は下を向く事が多かった一年だった。

でも、ブログを書き続け、日記を付け始め、ツイッターにたまに書き込んだりしてることで、少しは頭の中が整理され、やるべき事がクリアになってきたような、やや晴々した気持ち。

ともあれ2010年はもう終わる。

2011年は、飛躍の年にするべく、活動を広げていく予定。インプット、アウトプットを増やしていきたい。

まずは、3ヶ月が勝負と思う。
明日から始まる2011年も、よろしくお願いします。

2010年12月29日水曜日

マチカドサーチエンジンとは?

マチカドサーチエンジンはお店をつなぐことで街を便利にしていきたい、という想いで構想しました。「かながわビジネスオーディション2009」というビジネスプランコンテストで日本起業家協会(JEA賞)、リクルート(アントレ賞)という起業のプロからの賞を2つ同時に頂き、たまプラーザ駅を中心に展開を進めています。(現在、約600店舗が登録済みです)

■使い方
1.それぞれのお店に割り当てたメールアドレスを記載したステッカーを店頭に貼ります。
2.当該メールアドレスに向けて空メールを送ります

お客さまには、目の前の(空メールを送った)メールアドレスが割り当てられたお店に加えて、周辺のお店の店名、距離、クーポンなどの情報がリストとして、メールで送られてきます。それぞれの情報は同じくメールアドレスを含んだリンクになっていますので、再度空メールを送る事で、必要なお店の必要な情報がピンポイントで探せることになります。

■メリット(お店)
お店は、新たな武器を一つ持つことになります。

目の前を通るような近距離のお客さまにはチラシ配布、ネット越しに探している遠距離のお客さまにはホームページなどが有効ですが、近くを歩いている中距離のお客さまに対する集客の手段はありませんでした。中距離のお客さまが集客上、最も意味のあるお客さまであるにも関わらずです。

そういった集客価値の高いお客さまへのアプローチは、現状、マチカドサーチエンジンしかできないサービスになります。

■メリット(お客さま)
お客さまは、自分の望むお店に間違いなく辿り着ける手段を持つことになります。

近くを通りながら、見つけられずに通り過ぎてしまう事は、そんなに珍しくないと思います。望む店を見つけるためには、お店を検索して、自分との距離感や場所が分からなければいけませんが、通常設置してある案内板では探すだけで一苦労です。また、「こんなお店もあるんだ!」とか「そういえば、小腹が空いたな」とか、リストから得られる情報もあります。

そんな、目当てのお店を見つけたり、偶然の出会いを演出したりできるのも、マチカドサーチエンジンしかありません。

■メリット(商店街/ショッピングモール)
商店街やショッピングモールは、初めてまともなデジタル案内板を持つことになります。

案内板は、お店が集積している場所には大抵置かれていますが、ららぽーとのような巨大な施設では、いつも混み合っています。その理由は、検索性の悪さです。自分の望むお店をリストから探しだし、そこに振られた番号を地図で確認しつつ、現在地との相対関係を理解する必要があるため、時間が掛かります。また、案内板は決まった場所にしかありませんので、人が集まりやすく混雑に拍車がかかります。かといってデジタル案内板は、設置されている物理的な案内板以上には役立ってはいないのが現実だと思います。

マチカドサーチエンジンは、それぞれの店頭に貼ったステッカーが案内板になりますので、どこでもお客さまがいる場所を中心とした、近くにあるお店を自由に検索できるようになります。つまり、お客さまに喜ばれ、かつ、混雑の緩和にもなる、という訳です。

■さらに
トイレやサービスカウンター、ソファなど、通常のネットサービスでは表現しにくかったファシリティも自由に登録することができますので、探しにくかった設備に関しても、見つけてもらいやすくなります。つまり、お客さまへのホスピタリティ向上の一助となります。

■お試しください
たまプラーザで展開している状況です。各お店と同時に、商店街や駅前といった路上にもメールアドレスを割り付けて、検索ポイントとしています。

(たまプラーザ駅前北口)1001000@kozchi.jp
(たまプラーザ商店会)1000999@kozchi.jp
(たまプラーザ駅前通り商店会)1000998@kozchi.jp
(たまぷらーざ中央商店街)1000997@kozchi.jp

■ご利用料金
料金はお店ごとに月額で、スタートプラン0円、ベーシックプラン525円、クーポンプラン3,150円となります。施設に関しましては10,500円/月(地点設定:無制限)で、ご提供させて頂いております。

■おわりに

数多のクーポンサービスのように高価なものではなく、ホームページのように実効性の乏しいものでもありません。最も集客価値の高い中距離のお客さまに対して適切に情報を提供できる、まさに次世代のサービスであると自負しております。必ず、お客さまの満足向上にお役立ち頂けますので、ご活用についてご検討いただきますよう、お願い申し上げます。

2010年12月27日月曜日

スカイ・プラネタリウム

六本木ヒルズのスカイ・プラネタリウムに行った。昔なじみのプラネタリウムのイメージで入ると、ちょっとがっかりかもしれないが、企画展というテンポラリーな位置づけとしては、なかなか興味深かった。

まず、料金が高い。大人1800円、子供800円。これがそのままプラネタリウムの料金だと考えると、ほとんどボッタクリバーのような印象を受ける。冷静に内訳を見ると、展望台の階に上がるのに大人は1500円掛かる。つまり、プラネタリウムは300円だ。こう考えるとコストパフォーマンスは高いと思う。逆に、展望台に1500円、屋上(スカイデッキ)に出るのにさらに300円も取るのは法外だろう。六本木ヒルズなんて、東京タワーと違ってオフィスなんだから、オフィス賃料に展望台運営にかかる費用を織り込んだらどうなんだろう。ビルの資産価値を高める為の施策だと言えば、テナントもノーとは言わないように思うが。

さて本題のプラネタリウムだが、がっかりなのは基本的に立って歩きながら鑑賞し、どちらかという静的な展示だったからだ。プラネタリウムというのは、何らかのストーリーがあって、座席に座って星の運行や星座の成り立ちを聞きながら、自然と眠ってしまうというのが良い所だったと思う。今回は、企画展なので人を捌いてなんぼ、という感じで一列に並んで静かに進んでいくという美術館方式だった。ちょっと求めるものと違う。

で、肝心の内容だが、ものすごい量の星をプロットしており、壮大な宇宙空間をイメージさせるには十分だったかもしれないが、私たちが普段見上げる星空をベースにするのではなく、そこから宇宙の果てまで137億光年の広がりを表現しようとしている事に違和感がある。なぜなら、プラネタリウムで見たいのは宇宙ではなく星空だから。

壁面に学習的な内容を盛り込んでいたが、少し分量と表現方法は検討の余地があったのではないか、と感じたし、宇宙空間を模擬したトンネルのチャチさもあまり良い印象を抱かなかった。最後のメガスペース(?)という四角い部屋を従来のプラネタリウム調にしてみた部屋があったが、意味不明だった。

総じてあまり良いプラネタリウムではなかったし、これがプラネタリウムだと思っている初体験の人には勘違いを与えてしまっているように思う。まあ、300円という金額が要求する価値はこんなもんだとは思うので、そこだけを見ると及第点だろうが、そこに上がるのに1500円を追加投資しなければならないことを考えると、がっかり施設と言わざるを得ないだろう。

2010年12月24日金曜日

選択の幅を最小化する方法

自分ではないが、身近な人が無意識的に使っている、その方法がある。

前提として、物事には選択肢のあるものとないものがある、という事を理解しておく必要がある。通常、合理的で素直な人だと、選択肢のあるものはあるなりに、ないものはないなりに提示するものだが、ものごとを自分が有利になるようにコントロールしたい人は、そうではない。

選択肢のあるものはないように、ないものはあるように見せるのだ。こうすると選択の幅はなくなる。

つまり、A、B、C....と複数の選択を取り得る課題に対しては、事前に自分なりの答えを出しておき、思った通りの選択肢の場合は素直に受け入れ、他の選択肢が選ばれた時は様々な理由をつけて拒絶する。選択肢が実質上ない場合には、いかにも選択の余地が残っているかのように振る舞い、自分が独善的に決めたのではないというような振りをする。

この方法のいい所は、自分の望む方向に物事を運びやすいという点と、自分勝手に決めたのではなく、関係者の意見を集約した結果、得られた答えであるという振りをすることができる点である。デメリットは、一旦そういう見方をされてしまうと、その人が言う事は素直に聞いてもらえなくなる点だ。結局、この人は自分の思い通りに物事をコントロールしたいだけなんだろうな、という風に見られ、その人間関係にもよるが、場合によっては無視されたり、なるべく関係が薄まるように距離を置かれたりするか、言ってもムダと思考停止されるかのいずれかだろう。

身近な人が無意識的に使っていると、これに気づかせるのに、時間がかかる。というか、たぶん気づかないので困ったものだ。

2010年12月22日水曜日

会社は会議でできている

いつも思うが、恐ろしい量の会議をこなしている。

私ではない。むしろ、私みたいな単価の安い人間が、そうであるなら、会社総体としてのコストはたかが知れていると思う。それが、私なんかよりかなり上の部長職の方がそうだから、困ってしまう。

全ての会議がムダとは言わないが、上意下達の会議に何時間もかけるのは本当にムダだと思う。

今現在、2週間に一度の頻度で部会を開いている。その所要時間は2時間。その内1.5時間は部長が幹部会やら部長会やらで聞いて来たことの報告でしかない。当然、役に立つ社内の動きもいっぱい教えてくれるので、一概に不要だと切り捨てる事もできないのだが。

苦痛でしょうがない、そんな時間も自分の時間における支配比率から言うと2〜3%ぐらいだろうか。まあ我慢できる。

そんな時間に部長は、たぶん40%ぐらい費やしているんじゃないかと思う。コストで換算すると、私レベルで50万円ぐらいだろうが、部長は1600万円ぐらいにはなるんじゃないか。この辺りの中間管理職のムダな人件費が社内での一番の重しになっているように思える。

社内に1万人いて、内勤が3000人程度、特に本社の管理部門に限って言うとたぶん1000人ぐらい、40億円ぐらいはそんな上意下達会議に使われていることになる。すげーな。

外勤や内勤でもライン部門はそんなに多くないにせよ、全体では恐らく100億ぐらいが、生産的ではない時間に使われているんだろう。会議だけじゃないということを考えると、途方も無いコストと時間が、非生産的に浪費されていることになる。幸せなぬるま湯だなーと思ったり。

大企業に幸あれ。

2010年12月20日月曜日

段々と、つながるようになってきた

家庭内で、様々なガジェットが一つのネットワーク回線の中でつながるようになってきた。振り返ってみるとある種の驚きがある。

PC3台、TV、PS3、AppleTV、Scansnap、プリンタ、iPhone

特に、Scansnapのような頭脳を持たない単機能機器や、プリンタのような出力機器が、家庭内のネットワークに簡単につながるようになったのは、本当に最近の事だと思う。10年という単位で見ると、隔世の感がある。

一つの大きな要因になっているのは、標準化だろう。ネットワークやUSBの標準化によって、できることが広がった。それから、ソフトウェアやコンテンツの標準化が進み、洗練されたことで、家庭内の利用に関するハードルもかなり低くなったと思う。

ハードディスクやディスプレイもネットワークに乗せれるので、つまり、パソコンに代表される画面出力やインターフェイスを司る装置も、従来のような複雑さが要求されなくなっている。極端に振るとiPadのようなViewerになる訳だが、そこまで行かなくてもネットワークにさえつながれば、おおよその作業や体験は可能になっていると言える。それを現実的な形で体現したマシンがMacbookAirになる。

別にApple信者でもないのだが、Apple製品を使ってしまうのには、やはり理由がある。

今後の見通せる未来の中で、ネットワークが最大限に活用されていく想定をすると、何が不要になってくるかは自ずと明らかだ。国内メーカーがなぜ、そういった割り切った方向性を持ち得ないのかは、大企業病としか良いようがない。GalaxyやGalapagosもその本質を見越して作ったとは思えない。もし、本質を見通して作っているならば、iPadクローンではない、二の矢三の矢があってもおかしくはない。

これからは、どんどんワイヤレスになる。何一つ配線が必要なくなり、データやアプリケーションはクラウドへ、インプット/アウトプットデバイスはアドホックに活用するようになっていくだろう。そうした時に考え得る最終形は、やはり携帯電話に収斂されるような気がしている。

携帯電話のバッテリーがロングライフ化し、CPUが高度化すれば、それだけで全ての作業が可能になり、TPOに合わせて、画面サイズやインプットデバイスを選択しながら、まさにノマド的な仕事スタイルが確立してしまう。

全てがつながる未来への準備はできているだろうか?レガシーなデバイスやコンセプトに固執していないだろうか?機械はつながるようになってきた。人もつながるようになってきた。施設やお店はどうだろう?文化はどうだろう?言語はどうだろう?

「つなぐ」「つながる」というコンセプトは、たぶん未来を指し示している。

マチカドサーチエンジン
Connecting the Shops.
http://www.kozchi.jp/

2010年12月17日金曜日

仕組みを仕掛ける

昨日、18:30〜21:10まで新丸の内ビル10Fで開催された地球大学に行ってみた。面白そうなテーマの時だけ、ちょこちょこと受講しているが、ファシリテーターの竹村先生が話し好きで、いつも時間をオーバーするのが特徴の講座だ。

共通のテーマとしては「都市と環境」という感じで環境問題にフォーカスした講座だけど、今年は特に都市で何ができるか、ということを取り上げているようだ。

毎回二人の方に講演して頂いて、竹村先生がまとめる、という形で進めている。ちなみに前回は、「21世紀のエコ・モビリティを求めて── 自動車社会のリデザイン」ということで、慶応大のEVを作っている清水教授とNPO自転車活用推進研究会(自活研)の小林事務局長のお二人の予定が、清水教授とのアポイントに手違いがあり、結局、小林事務局長のみになる、という何とも自由な講座だ。この講義も、すごいインパクトがあって、目から鱗という感じだった。

今回は「循環型社会のデザイン~都市型3Rの可能性」と題して、インダストリアルデザイナーの益田氏と環境NPOオフィス町内会の半谷事務局代表のお二人のお話をお聞きすることになった。

リアルにモノや仕組みを作り上げている人の話は、本当に目から鱗が落ちる。それも何枚も何枚も。それだけ、やりきる事の充実感、作りきることの難しさ、周りを巻き込む事の大切さが伝わって来た。どちらの方も大変興味深かったのだが、特に良かったのが質疑応答の中で得られた回答だった。

「森の町内会活動で得られるJ-VER(環境省のCO2クレジット)は林業従事者のモチベーションに寄与しているか?」という質問に対して、「もちろん寄与していると考えている。森の町内会活動として得た15円/kg(8,325円/m3)は、そのまま間伐材を伐採し運搬する費用として森林組合にお渡ししている。実は、間伐材は3000円/m3程度でしか売れないので、国が補助金を入れても採算ベースに乗らない。森の町内会から、間伐材の販売代金の2倍以上をお渡しして、ようやく林業ビジネスとして回せる程度になる。それに加えて、間伐によってJ-VERクレジットを得る事ができた。そのJ-VERクレジットは先のCOP10の中で、会議で出るCO2をキャンセルするための排出量取引として使ってもらうことができた。さらに、そこで得られた資金を「キッザニアの森」の運営に回し、子ども達に、森の大切さ、森を守るためには間伐材を伐採したり、枝打ちをして整備してあげなければいけない、ということを教える教育に使う事ができた。」と答えられていた。

何というループ。
詭弁のようなCO2クレジットを本当に役に立つもの、しかも未来に投資できるなんて。資金を紙代から集め(しかも印刷代という中にまぎれさせることで、ユーザーから見ると1%のコストアップにしかならない!)、森の育成と子供の教育といった未来へ投資している。こんなに善ループが回る事ってあるんだろうか、と感じた。

まさに、仕組みの勝利だと思う。
今後も回っていくのかどうかは不透明だが、とにかく取り組みとして完結しているのが素晴らしい。

この2回の講座で、NPOの両社の方は本当に上手に仕組みを作っていると感じた。そして、大いなる大義と乗りやすい仕組みがあれば、人は動くものだとも感じた。

ゼネコンは、モノも仕組みも作らない。モノや仕組みを作る事のお手伝いはするけれど。なぜならリスクを取りたくないから。その姿勢からイノベーションを生み出し、世の中を良くする事ができるとは思えない。リスクを取った、もしくはリスクを最小化する仕組みを作り上げて、薄く広くリスクを分担させる事ができた組織こそが、世の中を変えていくんだと、痛感した。

モノか仕組みを作るような仕事をしなければ、現状引かれているレールの上を走る事しかできないし、それでは世の中を変える事に主体的に関わったとは言えないのではという、そんな事を感じる講義だった。

2010年12月15日水曜日

ソーシャルグラフ

ネット上で表現された人間関係をソーシャルグラフと呼び、これの活用がしきりに取りざたされるが、自分はどちらかと言えば、あまり積極的に支持していない。

最近はfacebook、twitter、grouponの破壊力もあって、特にフィーチャーされているようにも感じるが、実際、人間関係がネット上に明らかになる事って、好ましいのだろうか?

自分が持つ(使える)人間関係は、自分でもある程度把握しているだろうから、普通の人がそういった人間関係を活用するシーンは、友達の友達と繋がりたいと言う比較的レアなケースに限られるような気がしている。

あとはgrouponが実現して見せたような人間関係とは無縁のお得情報を、人間関係の連鎖によって拡散させていく、と言う用途か。これって、人間関係の利用ではあるけど、活用とまでは言えないし、そもそものソーシャルグラフに期待されているスケールとは違うように思える。

フォロー/フォロワー250人程度じゃ、Groupon情報も伝達してこないことを考えると、日本におけるソーシャルグラフ効果なんてのもたかが知れてるのかも知れない。少なくとも圧倒的なバナー広告と、競合も含めた4マス広告への露出が、バイラルよりも効いているように思える。

ともあれ、ソーシャルグラフはそれぞれが持つ貴重な資産ではあるが、人間関係などという生臭いものをつなぐには一工夫も二工夫も必要という事だろう。

マチカドサーチエンジンで実現したいのは、お店のソーシャルグラフと言ってもいいかも知れない。

「お店」という主体は本質的に、人間関係のような生臭い要素が少ない。つまり、相互の関係性を見い出しにくいのだが、地域に立脚しているという属性において緩く繋がっているとも言える。また、取り扱う商品のジャンルも関係性構築のキーワードとなり得る。

このように位置情報とキーワードを整理して、緩くつないであげたのが、マチカドサーチエンジンというサービスになる。

人間関係のソーシャルグラフの精神的支柱とも言えるコンセプトは、スモールワールド仮説、six degrees of separationだと思うが、これは一つの面空間の表現方法にすぎない。例えばgrouponは、この面空間の中にクーポン情報という水を流し込んだようなもので、時間とともにその傾斜に従ってタラタラと流れ浸透していく。

一方でマチカドサーチエンジンは、人間関係の面空間とお店の関係性に基づいた面空間が相互に情報をやり取りするような仕組みになる。お店の情報を人間関係の面空間に与える調味料のように扱うのではなく、お店も面空間を持ち、それらの相互作用が互いの面空間に豊かさをもたらす、という考え方だ。

街全体にメリットをもたらすのは、間違いなくマチカドサーチエンジンだと思うし、その仕組みはサステナブルだとは思うのだが、なにせ直近のメリットが薄いので、加速が鈍い。うまく面利用につなげていけるようにしなければと考える毎日だ。
たまプラーザでの認知もさることながら、さらなる面利用への協業相手を捜していきたいと思う。


2010年12月13日月曜日

海外進出志向は正しいのか?

土曜日に一橋大学政策フォーラムという催しに参加した。タイトルは「イノベーションと日本の活力」というもので、建築家の安藤忠雄や元三洋電機会長の野中ともよが出ていた。

場所は一橋大学で国立駅から徒歩5分くらい。国立は初めて来たが、非常に雰囲気の良い街で、JRの駅にしては一度住んでみたいと思える街だった。駅前のお店の集積度も、マチカドサーチエンジンには申し分なく、学生も多いので、展開にかなり期待が持てる土地柄だと感じた。

さて、本題の一橋大学政策フォーラムだが何せ、海外に出ろ、という傾向の話ばかりだった。最近の発言力の強い人は、日本で商売を考えるのは、もう無理だ。海外展開を図れ。モノを売るだけじゃなく、ましてや作るだけじゃなく、システムとしてマネジメントや管理運営も含めてトータルパッケージとして輸出せよ。そして、海外で稼げ。という論調の方が非常に多い。

言っている事はよく分かるのだが、いい加減閉口する。本当に皆がこぞって海外で生計を立てる事が正しい事なんだろうか?

もちろん程度問題はあって、引きこもりすぎるのは良くないと思う。世界は広い。日本の製品やサービスが海外で受け入れられる可能性は、日本で海外製品が受け入れられるのと同等程度にはあるだろうから、何も無視する必要はないだろう。ゼネコンのように、売り上げが漸減する事が目に見えている産業にとって活路を見出す先が海外、というのは選択肢の一つとして十分にあり得る。準備が整っているかは不明だが。

でも、誰でも彼でも海外に向かう事が正しいとは思えない。誰も彼もが海外進出した際の国内の様子ってどんな感じだろう?生産労働人口の大半は海外に向かうということは、その家族も一緒だろうから、極端に言うと高齢者だけの国になる。そして、介護は老老か外国人労働者に頼ることになる、なんてことになったりして。つまり、老人だけが集まる未来のない国になる。言ってみれば日本全体が姥捨て山だ。

そうは言っても、飲食とかサービスとか、ある程度残っていかなければいけないから、こういった産業の海外進出はないとなると、こういった最近一般的になりつつあるこのような論調は、製造業にだけ向けたメッセージということなんだろうか?しかし、製造業で国内に拘っている企業って、そもそも無いと思うし、ターゲットとしては無意味だと思う。そうするとやはり、今は日本に閉じこもっている事業主体に向けたメッセージだとすると、電気、ガス、水道、鉄道といったインフラ事業者、ゼネコンといった、明らかにドメスティックでかつ市場がシュリンクしている産業と、モノは作ってるけどサービスパッケージ化できていない製造業、ということか。

インフラ事業者もゼネコンも、要はマネジメントの輸出ということだと思うが、いずれの会社も海外進出を目指してなかったので、マネジメントの体系化ができていないように思う。つまり、これから。そして、サービスパッケージ化できていない製造業というのは、他企業とのアライアンスも必要だろうから、互いにWin-Winのアライアンスを構築するにはまだ少しの時間が必要だろう。

う〜ん。総論として世界にも視野を向けた方がいいという意見は納得するが、誰に向けたメッセージで、こういったことの発言者は日本がどうなることを期待しているんだろう?ユニクロの柳井さんが、自分の会社のように、という気持ちは分かるが、実際そういった行動が必要な産業と不要な産業がある訳で、誰にでも世界に行けといっても意味が無いようにも思える。

結局、世界に目を向けろという人は何も言ってないのと同じだろう。目を向ける人は向けるし、向ける必要の無い人は向けない、と。一橋大学出身の三木谷社長率いる楽天も、今までは国内でしか活動をしていなかったが、国内市場がサチってしまって、これ以上の成長を望むには海外しか無い、という成熟しつつある企業ならではの海外進出だったように思う。なので、無闇に海外進出を促す、こういった無為なメッセージよりは、どうやったらより良い社会が作れるか、という事を広い視野で考えよう、という方が正しいように思える。

まずは目の前にある課題、不満、不合理などを解決することに注力するべきなんじゃないかな。その先に世界があれば、世界を目指せば良い。スマート○○○のように、ありもしない課題に向かって、無理矢理解決策を提案して、大いなる無駄を排出するような事は愚の骨頂だろう。

2010年12月10日金曜日

成熟企業の3類型

企業は成熟してくると、その成長は3通りに分かれる。

一つは国内GDP追従型。
これは、インフラ企業や日用消費材メーカーなどが当てはまる。公共的で広く薄く国民にベネフィットをもたらす企業の成長は、おおよそGDP推移と同じような傾きを持つ。具体的にはJR東日本や東京電力などのインフラ企業や、資生堂のような化粧品メーカーなどが、その代表例だ。GDPは国の経済活動を表しているのだから、当然だろう。

日本のGDPは漸増してはいるが、その傾きは米国などの先進国に比べても低く、中国やインドに代表される新興国とは比べるまでもない。昨今では傾きがさらに低下し、成長率がほぼ0に近くなっている。つまり、このラインに乗っている企業は、極めて安定的ではあるが、成長も期待できないことになる。

もう一つは日経平均株価追従型。
日経平均株価は企業の活性度や将来性を表している。このグラフはピーキーである上に追従する企業は数年の後追い傾向があるので、5年ほどの移動平均を取ると、グラフとして見やすくなる。当てはまる企業は先にも書いたが、後追いする企業、すなわち請け負い型の企業ということになる。代表的なのはゼネコンだが、装置型や土地活用型の企業の調子が上がり、内部留保金が溜まってくると、新たなる投資を行うことになり、そのタイミングでゼネコンに仕事が回ってくる。つまりそういった類いの企業が日経平均株価追従型ということになる。

日経平均株価は、1989年のピークをもって下がり続け、何度かの底打ちをしたあと低位安定を続けている。かつては、国内設備投資比率もそれなりに高かった訳だが、昨今の事情から海外投資比率が上がる傾向があり、請け負い型産業も同時にグローバル化できない限りは、日経平均株価を下ぶれする傾向が年々強くなるだろう。

最後が、グローバルGDP追従型。
これはグローバルGDPの設定が極めて恣意的になるので、グラフとの相関にはほとんど意味が無いが、要は市場を海外に求めて、海外販売比率を高めている企業ということになる。すぐに思い付くのはトヨタやソニーといった企業だが、いわゆるベンチャー企業も同じような右肩上がりグラフになる。つまり、成熟産業として海外の未開市場へ向かうか、新規産業として国内の未踏市場を切り開くかの2者が取り得るグラフということになる。

この3類型をどのように読み解くかはなかなか難しいが、将来を読取る事はできる。少なくとも国内GDP追従型は水平、日経平均株価追従型は下向き、グローバルGDP追従型は上向きの売上傾向があることは確かだろう。

国内GDP追従型は現状維持でしかないので、その状態を良しとすれば、人の出入りをコントロールするだけで企業の継続は保証されるだろう。日経平均株価追従型は中長期的にシュリンクしていく事は明確なので、リストラを行ない、シュリンクする市場環境に企業サイズを合わせて行くか、相対的に巨大化する企業サイズに合わせて新しい市場を探すか、しかない。

結局、上向きを目指すならば海外の未開市場に向かうか、国内の未踏市場に向かうしか手は無いのだ。

-----
ではここで、従来の建設市場の枠組で海外において未開と言える市場があるのかと問われると、かなり厳しいと思う。従来の建設市場というのは、人海戦術で人・モノ・金をコーディネートするマネジメント業務を指す。しかも、日本の建設会社はマネジメント手法を体系化していないし、国際標準的な役割と権限を明確にした仕事の仕組みを持っていない。そういったドロドロしたマネジメントは、たとえ新興国であっても既にある市場だと思う。要は未開じゃない。

とすると、海外未開市場は建設マネジメントの体系化に置換えられる。もう一つの、スマートグリッドやESCOのような未踏市場へ国内、海外問わずチャレンジするという選択は、先のエントリーにあるビジネスの4類型において(3)に位置づけられる建設業として、会社がひっくり返るような選択肢なので、会社を潰す覚悟が必要になる。すなわち、リストラと同等だ。いや社内の既得権益者からするとリストラ以上の選択肢だろう。

結局、現実的に取り得る選択肢は緩やかなリストラによって生き延び、建設マネジメントの体系化によって将来の海外未開市場へ備えることぐらいしかできないのではないかと思う。生き延びた先に海外未開市場に可能性があるかどうかは不透明だが。

何の備えもないまま、海外未開市場と国内未踏市場へチャレンジするフリをすることは、船底に穴の空いた船が、乗組員に悟られないように、霞の向こうに見える島を目指そうという、幻想へのムダな努力に等しい。霞が晴れない内に沈むのが関の山だろう。

解決策は会社を二つ以上に割る事しかないと思う。建設事業をスリム化して生き延びるとともに建設マネジメントを極める会社と、新しい事業で身を立てる事を目指す会社に。どちらも厳しいね。。。

2010年12月8日水曜日

つなぐ、とは

マチカドサーチエンジンはもともと、お店をつなぐことが地域の活性化につながるという思い込みから始まっている。この考えは間違ってないと思うし、繋がりがイノベーションを起こした例も多い。

人がつながり合う事で会社という大きな組織を形成し、社会を変えるような大きな仕事もできるようになった。お金をつなぐことで、為替という概念が生まれ、グローバルな商取引が可能になった。情報もWWWでつながり合う事で、大きな意味体系を形作るまでになった。

どんなものでも、つなぐっていうのは何かしらの変化をもたらすものだと思う。今までスタンドアローンだと思ってたものの間に線を引いたとたん、そこに意味が生まれることって、そんなに稀な現象じゃない。

スティーブ・ジョブズはスタンフォード大でのスピーチで、「Connecting the dots.」と言った。ポツポツとつながりを意識せずにやった過去の行為も、いずれつながり一つの大きな体系を作る、過去、現在、未来をつなぐ見えない糸が、いずれ見える時が来る、ということ。

目に見えないものをつなぐことは意外に簡単だが、目に見えるものをつなぐのは意外に難しい。もっと具体的に言うと、情報に置換えれるものはつなぐことができるけれど、情報に置換えられないものをつなぐことには工夫が必要だ。今後は、今まで情報に置換える事が困難で、つなぐことができなかったモノがつながる時代になるだろう。

マチカドサーチエンジンは、お店の情報をつなぎ、それによってお店同士をつなぐようなことを考えている。お店がつながることによって生まれる変化は、今はまだ分からない。でも、商店街の弱体化、お店がスタンドアローン化が顕著な現代において、さらに今後コミュニティの重要性がさらに高まる中で、お店を孤立させない新しい形の商店街のあり方を提案する事は、方向性として正しいと思っている。

それに加えて、つなぐ事、つながる事にどのような意味があるのかを整理し、理解するために、「つなぐもの」と「つなぎ方」について考えている。

【つなぐもの】
人、モノ、施設、建物、金、土地、時間、技術、感情、国
言葉、会社、表情、行動、動き、過去、未来、現在、制度、健康

【つなぎ方】
寄せ集める、組み合せる、変換する、向きを揃える

例えば、
人と行動をバルク的に寄せ集めるとfacebookができあがります。人と言葉をバルク的に寄せ集めるとtwitterになります。言葉を集めて変換すると翻訳サービスになるし、金を集めて向きを揃えたものが金融サービスだったりして。

こんな他愛も無い、思考ゲームからマチカドサーチエンジンの新しい切り口だったり、新しいサービスへの糸口が見えるんじゃないかな。よろしければ、皆さんもどうぞ。

Connecting the Shops.
マチカドサーチエンジン
http://www.kozchi.jp/

2010年12月6日月曜日

ビジネスの4類型

ゼネコンの仕事を俯瞰してて気付いたのは、ビジネスは大きく分けると4つしかない、ということだ。

(1) 仕組みづくり
(2) モノづくり
(3) (1),(2)のサポート(技術的支援)
(4) (3)のサポート(リソース供給)

この4累計は生態系のような関係を持っており、それぞれ下の領域を包含している。つまり、仕組みづくりは内部にモノづくりを含んでいることが多い。そういったモノを作る上で内製化された技術だけでなく外部の支援や提案が必要になる場合がある。それらの提案を具体化するためには、主にリソースとしての下請けの協力が欠かせない。そのような関係性の中で、ゼネコンは(3)に該当する。

これら各類型において、必要となるスキルセットはそれぞれ異なる。

例えば(1)では、今までに無い仕組みを作って広く世間に認知させるためには、広がりや可能性や説得力を持った案を作る構想力が最も大切で、また、その仕組みを構成する技術のリストを漏れなく並べられなければならない。特に、初期においては具体的な形を持たないので、ほとんどのリソースを外部から持ち込む必要があるため、バランス感覚が不可欠だろう。また、新しい仕組みの周知にはマーケティングやコミュニケーションの網羅的な理解が求められる。

(2)は、具体的なモノをもって売り歩くという非常にベーシックなビジネスであるが、何を作るかは、当然ながら非常に重要である。あるレベルまでは在庫を持つ必要があるだろうし、大きな設備投資をしなければいけないことも多いだろう。(1)と同様の構想力を必要とし、そこに含まれる技術の裏付けを持っている必要がある。つまり、(1)に比べて技術の部分を内製化することで短期的なコストとリスクを抱え込む反面、先行きの応用展開も含めた長期的なベネフィットを期待することができる。

この両者は、コスト、リスク、ベネフィットのいずれの観点においても一長一短あり、一概にどちらが良いとも言えないだろう。

(3)は、あくまでも(1)や(2)を具現化するために必要な機能を提供するのが役割だと考えると、必要なのは構想力ではない。極端に言えば「設計力」「製造力」「調達力」の3つだけだろう。(1)や(2)から降りて来た要件に対して、どうやったら実現できるかについて、知見や能力を持っている事が大事だ。(4)は(3)の中の限定部位に対する「設計力」「製造力」「調達力」が求められている。要は(3)をダウンサイジングしたものが(4)なのだ。

このように書くと、(1)と(2)、(3)と(4)の間に大きな溝がある事が分かる。

その違いは、発意とベースリソース(人、モノ、金、情報、技術、設備など)の有無だろう。(3)や(4)の領域にいると発意というものは必要がない。何かを作ろうとする人をサポートするためにいるのだから。例えば超高層マンションを作ろうと思うのは不動産会社で、自分たちでは作りきれないのでゼネコンに依頼する。並べ挙げればキリがないが、「こういう事を実現したい」と言い出す企業と「こういった事で具体化させたい」と思う企業に分かれるということだ。

当然、どの領域においても、うまく稼ぐ手だてはあるし、お互いに依存関係のある機能なので、優劣をつけられるようなものではないが、(1)と(2)、(3)と(4)の間には深い溝がある事は理解しておかなければならない。

(1)と(2)は場合に応じて入れ替わる事が可能だし、(4)が(3)のように振る舞う事もあるだろう。しかし、(3)や(4)の企業が(1)や(2)を志向することは極めて難しい事なのだ。構想を実現する能力を持っているので提案するけれども具体化するリスクを負いたくないといった会社に、発意と覚悟を求める事は不可能に近いんだと思う。ゼネコンの脱皮が難しいのは、単純化するとそういった理由で、(3)にカテゴライズされる企業だから、だということだ。

これから就職を考える人は、この(1)〜(4)の類型の内、どういった事をしたいのかを考えた方が良い。最低限でも(1)、(2)か(3)、(4)のいずれを志向しているかは理解しておくべきだろう。

自分の志向と立脚点が異なると、悩み苦しむことになる。特に(2)と(3)の溝は深いので、(3)に就職して、(1)や(2)の事業を目指すのは最低だ。>オレ

2010年12月3日金曜日

マチカドサーチエンジン

今、横浜市の東急田園都市線たまプラーザ駅で展開を試みているサービスは「マチカドサーチエンジン」と言う。

その名の通り「街角」を起点とした「街」の検索エンジンだ。ここで言う街角とは、個々のお店や施設を指している。つまり、目の前にあるお店を中心として、その周りにどのようなお店や施設があるのかが、分かるサービスである。

ご興味のある方は、以下のアドレスに空メールを送ってみて下さい。
1001000@kozchi.jp

-----
地元の人にとってみれば、馴染みのお店の最新情報が手に入ったり、いつも前は通るけど入った事のないお店のメニューや評判を確認したりできる。

観光客にしてみれば、自分の近くにあるお店の場所やサービスを確認できたり、急にお腹が痛くなった時に急いで近くのトイレや薬屋さんを探せたりできる。

街の可視化は、今までも色んな形で行われてきた。しかし、自分が今いる所で探せなかったり、情報を探すのに時間が掛かったり、情報を探した後で現地を見つけるのに時間が掛かったり、グルメに特化してたりと、どれも片手落ちな印象は否めない。

なぜたろう?と考えると、今までのサービスは、あくまでも個々のお店に向けたものであって、街全体がどうなるのかといった視点が入っていないことが分かる。つまり、街を挙げて活用するに値するサービスは存在していない事になる。

今後、少子高齢化が進み、街も段々と歳を取っていく。そんな時代に必要なのは、個々のお店の収益を最大化した結果、街が活性化するという旧来のロジックだけではないと思う。街を便利にして、活性化した結果としてお客さんの滞留時間が伸び、それが個々のお店の収益に良い影響を与える、という循環を考えるべきだろう。

マチカドサーチエンジンは、たまプラーザ駅周辺の600店舗を、既に登録している。その内、商店街のご協力を頂いて、詳細まで登録している店舗は200軒ほどになる。

今後、登録店舗の拡大と、お客さんになる人たちへの周知を進めていかなければいけない。まだまだ道のりは遠いが、未来の正しさは確信している。

-----
ぜひ、空メールを送って、サービスを試してみてください。そして、どんなコメントでもいいので、頂けると幸いです。

そうそう、送られてきたアドレスは即時廃棄してます。保存してないので、流出したり、迷惑メールがきたりすることはありませんので、ご安心を。

もちろん、一緒にトライアルをやってみてもいいよ、という商店街やお店の方も、大募集中です。

2010年12月1日水曜日

Macbook Airとの一ヶ月

ブログに書くのは遅れてしまったが、Macbook Air(11inch)を買った。しかも、発表の翌日つまり発売日当日に。ちょっとした衝動買いかもしれない。

Macは結構触ってきたし、所有してきた。思い出してみると、ColorClassicII、Powerbook540c、PowerMac7200、PowerMacG3、PowerbookG4、Macbookという感じかな。もしかしたら、もう少しあったかもしれないが。

そんな中でも最速の購入だった。自分でもびっくり。それほど、衝撃もあったし、自分が望んでいたものにピッタリだったということでもある。

動機その1は、新しいMacが欲しかった事。上記で現役なのはMacbookだけだが、これが重い。少なくとも1キロ台の前半じゃないと普段使いできない。また、かなり酷使してたので、バッテリーが2時間位しか保たなくなっていた。

動機その2は、iPadが想定用途に対して機能が不十分な事。さんざん比較してみたのだが、iPadはやはりクラウド時代のViewerだという事だろう。欲しかったのは、少しは作業に使えるマシンだった。少しというのは、iLife、iWork、Illusrator程度。この程度の作業もiPadではできない。でも、軽さと、すぐに起動し長時間使えるというメリットは捨てがたい気もしていた。

動機その3は、その1、2からの流れでAirがベストだろうと考えていた。が、要件はもう少し小さく、軽く、電池が長持ちして、SSDで、、、という感じ。メールとWebならiPhoneで何とかなる。それ以上を望むなら、少なくともよく持ち歩いているVAIO TXと同等以上じゃないと、日常的に使うのは難しい、と感じていた。

そして、Macbook Airの発表を聞き、CPU性能に不安はあるものの、ほぼ理想通りのマシンだと感じ、実機を確認しようと速攻でAppleStore銀座に行ったが、まだ入荷されていなかった。その後、夕方にビッグカメラでゲット!当然、安さも決め手になった。

そして、今に至る。

ほぼ一ヶ月使用しての感想は、満足の一言。心配したスピードも自分の使用条件では問題なく、実に快適に使えている。

何よりいいのは、軽く、静かで、熱くならず、手首が痛くならない事。Macbookでは筐体の角が手首に突き刺さり、長時間のタイピングが困難だった。やっぱり薄いのは大きな付加価値だ。そして、頑丈な事。何回も体がひしゃげるような満員電車に乗ったが、無事だった。

忘れてはいけないのが、スリープからの復帰の早さ。今までも、VAIOでは液晶を閉じてサスペンドさせる事で、素早く作業に入り、素早く作業を終わらせてたが、今回のMacbook Airは、その何倍も速い。実質0秒でスリープ/復帰ができるので、電車でも普通に使えてる。

こういった、モバイルノートに関わる一つひとつの不満や不便や不安を解消してしまった、本当に画期的なノートパソコンだと思う。

普通の使い方(Web、メール、iLife、iWork、illustrator程度)なら、吊るしの仕様であるCore2Duo1.4G/メモリ2G/SSD64Gで十分だろう。当然、音楽や写真ファイルは制限されるが。

全ての人に価値ある88,800円だと思う。なぜ、日本のメーカーはこんなパソコンを作れないんだろう。

2010年11月29日月曜日

龍馬伝、完結。

龍馬伝が終わった。

大河ドラマを最初から最後まで見通したのは、子供の頃以来かもしれない。

率直な感想として、面白かった。福山雅治のクサい演技を始め、欠点を数え上げればキリがないが、全体として、時代の雰囲気や各プレイヤーの立ち位置などがクリアになっていて、良かったと思う。

それにしても、歴史を後から再構成するのは難しいもんだね。点でしかない物証から線を見い出し、それを紡ぐ作業をしていかなければいけない。当然、今までの資料や小説とも解釈が異なるし、ストーリーや登場人物の心情も変わってくる。

ともあれ、最終回。龍馬暗殺に向けて、全ての状況がめまぐるしく動いていく。岩崎弥太郎が今井信郎に見つかり、詰問されるシーンが、龍馬の置かれている状況の全てのだった。

政権のひっくりかえし方に異論のある薩長、幕府が拠り所だった新撰組や見廻組、煮え湯を飲まされたイタい経験をもつ水戸藩、長崎奉行所、そして侍の世の中が終わる事を恨む侍たち、と新しい統治機構に移行するだけで、同時代人の多くの人に恨まれる稀有なボタンを押してしまった龍馬。

しかし、後から歴史として眺める身からすると、龍馬の行動は、国内の混乱を最小化する意味で、最適だったと言えるだろう。

では、当事者としたらどうか。龍馬の立場だと、あれほど身分を越えて行動できる人はいないだろうし、藩上役だったら武力倒幕に固執してしまいそうだ。その他の侍だったとしたら、世の変化を恨むか、喜ぶかは五分五分かな。つまり、龍馬以外の人は常識人と言えるかもしれない。

脱藩した覚悟、神戸海軍操練所で鍛えた胆力、人の意見をよく聞く柔軟性、薩長同盟を成立させた成功体験が、非常識人たる龍馬を形作っている。

非常識人は、既得権を破壊する次世代の常識に突き動かされている。それゆえ、同時代人に嫌われ憎まれるが、時代を動かすのもまた、非常識人だ。

今の時代は本当なら非常識人が大量発生して、そういった意味での混乱があってもいいと思うが、自分も含めておおよそ常識人だ。

もっと非常識にならないと、時代は変わらないよね。

2010年11月26日金曜日

フィリピン海って知ってるカイ?

先日、Googleマップを見ていたら奇妙な事に気がついた。

羽田空港沖の海域表記が東京湾でもなければ太平洋でもないのだ???

ここは、フィリピン海。

Wikipediaを見ると、正式には確かにフィリピン海で、制定されたのは1952年と結構古い。それまでは太平洋だったが、太平洋の附属海として海域が分離されたらしい。日本では混乱するから太平洋と言いはってるんだって。海上保安庁の公式海図や教科書も含めて。

変な話だね。
グーグルやWikipediaがなかったら知らない事実って、結構ある。

正確に言うと、伊豆半島の下田から伊豆諸島や小笠原諸島を結んだ線で分かれるらしいので、東京湾は太平洋の一部だ。でも、遠州灘とか桂浜はフィリピン海になる。

坂本龍馬も、太平洋ではなく、フィリピン海を一望してたとはね。名前だけで、ずいぶん印象が変わるもんだ。

面白い。

2010年11月24日水曜日

手作りバウムクーヘン

日曜日に、こどもの国という横浜にある公園で、手作りバウムクーヘンの企画があり、家族で参加した。

バウムクーヘンという響きも手伝って、参加希望者はかなり多かったらしく、定員を拡げた上に、抽選だったらしい。10から15人ほどが一組となり、作業を進めた。知らない人同士だから、自ずと子供を中心になる。我々がいた班は、5年生と2年生の姉妹の活躍が目立った。

基本はホットケーキだが、それを棒に巻きつけるように薄く焼いていくとバウムクーヘンと名前が変わるようだ。

生地は、ホットケーキに大量の卵と溶かしバター、砂糖などを入れて出来上がり。

心棒は竹を使う。青竹は、フシの間に切り込みを入れておき、色が抜けるまで炙ることで、油分やゴミを取り除く。竹から染み出してきた油分を十分に拭うと完成。

あとは、竹に生地をかけて、火で炙るだけだ。一回にかかる量は体したことなくて、無限の作業のようにも感じる。生地をかけた竹を炙る時は、竹をクルクルと回して、ムラなく万遍なく生地が付くようにする。後ほどわかる事だが、一層目はなるべくしっかり焼いた方がいい。

ここからチームワークが必要になってくる。生地をかける係、竹を持って回す係、火を調整する係、生地をかけるサポートをする係といった感じ。どれも地味な作業だが、子供たちがはみな、楽しんで真剣な表情でやっていた。

最初は無限のように思えた作業も、バウムクーヘンが段々と太くなっていき、表面積が増えてくると、加速度的に進行し、2時間ほどで完成した。



最後に竹を抜いて、終了。竹は捻りながらゆっくりと抜いていくのだが、一層目の焼きが甘いと、竹とくっつき、バウムクーヘンの内側がグズグズになる事が分かった。

真ん中で切って、当たり前だけど、キレイな層状の筒が見えた時は、みなから歓声が上がった。



焼きたてのバウムクーヘンを食べる機会なんてなかなか無いが、みなで役割分担しながら2時間かけて作ったバウムクーヘンは本当に美味しかった!子供たちも夢中で食べて、食べ切れないほど作れた。本当に良い経験だったと思う。

冷静になって気付くのが、卵の多さと、焼きの甘さ。素材の分量は指定なので、今回はしようがなく、また、改善の余地はある。焼きに関しては、反省点が多い。焼けるのが待ち切れず、表面が乾いた程度で次の生地をかけてしまったが、本当は焼き目が付くぐらいまで我慢して次の生地をかけた方がいいだろう。

もう一度チャレンジしたいと思う。

2010年11月22日月曜日

いつになったら「不惑」になれるのか。。。

40代に突入して早くも数ヶ月経つが、一向に不惑の域に達しない。というか、ここ数年間、戸惑ってばかりで、人生の折り返しに到達したことを焦るばかり。

今まで、自分の好奇心の広がりにまかせて、あまり一つの所を深堀りすることなくきた。

最も大きな目標は自由になること。時間も空間も、すべての制約から解き放たれること。人とのしがらみの中からしかビジネスの種は見つからないが、しがらみがあると自由が少ない。それでも研究職は、しがらみの少ないテーマを見つけて、国やインフラ企業から補助金をつけてもらって、尾崎豊風に言うと、作られた自由を泳ぐことができる。

本社スタッフ部門は、そういった泳ぎ方もできず、基本的には官僚化した大組織の中をしがらみを解きほぐしながら泳ぐことになる。

そこで鍵になるのは肩書きだったり、部門間の力関係だったり。そして、各部門の役割を超えないように注意することが大事だ。何よりも気を使うのが、どの部門が参画するのか、誰の承認を得ているのか、どこまで承認してもらう必要があるのか、自部門が参画する意義は何なのか。。。。決して、会社全体として必要、という観点から議論されることはない。

自由という言葉からは想像もできないような、緊縛の世界がそこにはある。

もう一つの問題は、だんだんと建築に対するモチベーションが下がってきていることだ。

しょせんは、社会主義を構成する機関/機能の一部でしかないと思うと、できることの限界は自ずと見えてくる。ゼネコンという業の中にいると、その歪みを痛感する。上を見上げては、金を出す立場になりたいと憧れ、妬む。下を見下ろしては、コスト(現実)とパートナー(理想)の狭間で思い悩みながら、少ない予算を分け合う胴元として仕切ってるようなつもりになっている。

なんだか、心理的に難しい局面にある。
しがらみを解きほぐして生きるのか否か、それが問題だ。
まだまだ不惑にはなれそうもない。

覚悟を決める必要があるようだ。しがらみを解きほぐす生き方をするのか否か。

会社って言うのは、セーフティネットとしての役割があって、会社業務として覚悟を決めても、それは有期だし、たとえ間違ってても辞めさせられるようなことはない。会社から一歩外に出て覚悟を決めたら、それはある意味一か八かだろう。

会社の中で覚悟を決めるのかどうかを今、悩んでいる。最近笑い方を忘れつつあり、人を気遣うことができなくなりつつある自分に気づいているので、なおさらだ。

2010年11月19日金曜日

スマートグリッドにおける電力と建設の接点

需要者に求められる品質に関して、一定であることが前提だったり、一定でなければビジネスの土俵にも上がれない場合、供給者が取れる動きは限られている。

例えば本屋の場合は、商売のネタとなる本の品質は、普通の新刊本を扱う本屋では、どこでも一定だ。本の品質に揺らぎがある時は落丁と判断され、商売のルートから外れる。

こういった商売は通常、その商圏を明確にする必要がある。差別化要因の第一が「身近」という事だからだ。地域一番店である必要があって、どの程度の地域で商圏を設定した時に一番と言えるのか、が勝負だ。

また、本来のコンテンツ以外の要素を含める事で、競争の焦点をズラすやり方もある。

最近だと、喫茶店とくっついて、ゆっくり本を読めて選べる本屋も見かけるし、ヴィレッジバンガードのように雑貨との組合せを志向している本屋もある。

つまり、固定ニーズビジネスであっても、変動ニーズビジネスと組み合わせる事で、少しの揺らぎを得る事ができて、それが差別化ポイントになりうるということだ。従来の本屋ビジネスは固定ニーズ対応型だったのだが、段々と変動ニーズからの需要者を取り込むべく、ビジネスの形を変えてきている。

建設ビジネスは、自分たちではラーメン屋型つまり変動ニーズビジネスだと思っているが、需要者から見たら本屋ビジネスすなわち固定ニーズビジネスであり、外に見えてこない業者間の品質差は何の差別化ポイントにもなってない。コストとスピードだけが勝負の世界だ。

電力も同じだ。一定の品質が求められる中で、地域の一番店を目指さないといけない本屋ビジネスだ。現在の統制された地域会社のみが存在する状況ではあまり関係ないが、スマートグリッドが普及すると共に、電力は自由競争産業になるかもしれない。

その時に、本来の電力事業者ではない企業が、電力事業者になるためには、ヴィレッジバンガード化するしかないだろう。その時のポイントは変動ニーズビジネスと組み合わせる事だと思われる。

最近、ゼネコンがスマートグリッドへの参入機会を伺っているようだが、電力と建設との間に何らかの変動ニーズビジネスをかませないと、互いにとってデメリットしかないのではないだろうか。固定ニーズビジネス同士のコラボに、あまり未来があるようには思えない。

2010年11月17日水曜日

変動ニーズと固定ニーズ

ここの所、ニーズについて考えていた。

ニーズってよく、顕在/潜在で分類される。顕在ニーズはすでに明らかになっているもの、潜在ニーズはまだ明確ではないけど、何らかのきっかけて表出するものを示す。

また、具体と抽象で分けられる事もあるし、ニーズの定義を拡げて、ニーズとウォンツで分類することもあるだろう。

これらの分類は、どれもニーズのあり方を、違う軸で表現しているに過ぎない。顕在/潜在はそのニーズの表出度合いを示しているし、具体/抽象はニーズの認知レベルを表している。例えば、平和を望むというニーズは顕在+抽象と言えるだろう。

これらとは全く違う軸で、変動/固定というニーズ分類があるように思う。ラーメン屋に対するニーズと本屋に対するニーズの違いが端的かも知れない。

ラーメン屋は店ごとに味が異なり、それがお客さんを惹きつける主要因になっている。つまり、ラーメン屋は多彩な品質のバリエーションが消費者のニーズを生み、変動させていると言える。

一方で本は、新刊本であれば、その品質に揺らぎはない。それゆえ、本を求める時の、すなわち本屋を探す時の一番の選択要因は、規模が大きいか、そして身近にあるかどうかといった、商品に関係のないところになる。つまり、商品に対してはニーズが固定されているのだ。

こういったニーズへの対応を一纏めにするのは間違いだろう。

変動ニーズでは、こちらのメニュー、あちらのサービス、むこうの評判といった形で、「消費者の嗜好に向けた選択肢」を見せる事が大事だが、固定ニーズでは、身近にはこんな店が存在するという「存在の選択肢」を見せる事が必要になってくるのである。

実は、日常生活はほとんどが後者の概念、すなわち「存在の選択肢」の中にあると思う。でも、今までのサービスって前者を対象にしたものが多いんだよね。

2010年11月15日月曜日

AppleTVとExilim

ITmediaで二つの記事を見た。我彼の差に愕然とした。

一つは、AppleがiTunes Storeに映画をラインナップして、AppleTVを発表した記事。

これは日本のコンテンツ流通が確実に変わる大きな一歩だと思う。iPadの利用価値も上がり、Apple式エコシステムは増々豊穣になっていく。そして使いやすいんだからしょうがない。

日本のベンダーも文句があるなら同じような仕組みを作り上げるべきだろう。特にソニーはPS3/PSPを持っているし、映画や音楽のコンテンツ供給会社も持っている。ソニーが始めれば、みんな乗るのに、やらないのは国の利益に反する。もっと気合い入れてやらんかい、という感じ。コンテンツからハードから仕組みから何から何まで、アメリカに持っていかれるぞ、という危機感を感じる。

でも、使う。だって、旧AppleTVを持ってるからね。このままだとAppleには当分勝てそうにない。個人的にも、AppleTV、Macbook、MacbookAir、iPhone3G、iPhone4、iPodnanoを現時点で持っているし、親にもiPadをプレゼントしてみた。完全にエコシステムに取り込まれている。

もう一つが、CASIOのEXILIMの新製品情報。

良く分からんが、HDRアートとかマルチ超解像とかが目玉らしい。おいおい、何考えているんだ。こういった本質的じゃない、オモチャ機能に力を入れるのはやめろ。Appleは世界を変えようとしているし、世界は変わろうとしているのに、なぜ日本のベンダーは小手先の技術で誤摩化そうとしているんだろう。もう、いい加減にして欲しい。

そろそろ気付かないとダメだよ。小手先の目新しい技術を作った所で、誰にも何にも響かない、ということを。世界を変える本質を、シンプルに攻める以外に道はないんだ。もう回り道している時間はないよ。

日本の社会、企業のたこ壷化は、来る所まで来た。きっと本質への議論は、目新しさがなかったり、社内的に評価される取り組みじゃなかったりして、経営層がGOを出さないんだろうな。もう、全てをひっくり返さないと、日本はダメだな。

2010年11月12日金曜日

情報隠蔽と情報漏洩

ある国家公務員が情報漏洩した。理由は、国が不当に情報隠蔽したから。

国家公務員として、いや勤め人として許される行為ではないのかもしれない。でも、彼の勇気と行動に賛意を送りたい。

仙谷官房長官は記者の質問を受けて、「国民の過半数が公開を望んでいたとは思わない」と答えた。が、国民の過半数どころか、ほとんどが公開を望んでいたと思う。少なくとも、隠蔽するべき理由は言うべき段階にあったのではないかと感じる。

きわどい領域での国内法の適用には、それなりの覚悟が必要だろうし、万全の準備が不可欠だろう。やってしまった後で、国際紛争のタネになるのは目に見えているからだ。

あの領域での紛争解決は、二国間の取り決めしかない。国際組織は二国間紛争に積極的介入をしないからだ。だから、今の日本のように準備も覚悟もなく、主張だけするやり方は、通る訳がない。

もし、情報隠蔽が二国間紛争を食い止める何らかの手段に使おうと思ってたのなら、ビデオが公開された今、そのカードを見せるべきだろう。そして、国民を納得させることが必要だと思う。

「一時の正義感で、そんな遠大な作戦を潰してしまったのね、意味なく、もしくは中国に気を遣っての事ではなく、国益を考えた上での行動だったんだ。バカな事をしちゃったな。」と反省させて欲しい。

民主党になって以降、通貨の引っ張りあいには負け、米中露とは関係が悪化し、韓には政治力の差を見せつけられている。少なくとも現時点までは、国益を損なう現象しか引き起こしてない。

今の状況での海保職員の行動は間違ってないと、大多数の国民が感じていると思うが、そうでない事を証明する責任は政府にある。

海保職員の行動を追求する前にやる事があると思う。

2010年11月10日水曜日

僕たちが解決すべき事

世の中の、

不毛、不利、不便、不満、不実、不感、不安、不穏、不帰、不義、不屈、不幸、不振、不審、不信、不戦、不足、不測、不連続、不本意、不況、不興、不眠、不惑、不要、不用、不問、不埒、不慣、不人気、不燃、不能、不変、不発、不調、不浄、不定、不憫、不動、不朽、不急、不休、不快、不明、不明瞭、不明確、不思議、不用意、不透明

な事のすべて。

2010年11月8日月曜日

facebook deals

フェイスブックが新しいサービスを発表した。その名も「facebookdeals」。今のところ米国限定のようだ。フェイスブックの認知度自体が日本では極めて低く、日本で始めても苦しいのは目に見えているので、しょうがないところだろう。そう言う自分も例のとおり、かなり早期にアカウントは取っているのだが、もう何年もアクセスしてない。

どうもSNSの良さが分からない。

人は一つの人格の中だけで生きている訳ではないので、全ての活動が一つのサイトで白日のもとに曝されることに、どうも違和感を感じる。一方で、人格毎にサービスを切り替えて使うのは面倒だし、運用が難しそうだ。いきおい、適当にトリミングした人格を、特定のSNSへ写像して使う訳だが、そんな使い方でロイヤルティが高まるとも思えない。

まぁ、自分のSNSに対する感想はそんな感じだが、それはそれとして、フェイスブックはグローバルで5億人に上るユーザー情報をテコにして、Places、Dealsと新しいサービスを出してきている。

Placesはユーザー情報と位置情報を紐づけたもので、海外で言えばFoursquare、国内だところプラが有名なサービス領域。Dealsはほとんど実施されていないサービス領域で、私と私の場所と周りの情報を整理して表示する、というもの。

実はこれ、Kozchiに近い。

Dealsは「私」情報を中心にして、GPSで場所を、そして周りの情報を表示する形だが、Kozchiは「私の場所」情報を中心に、周りの情報をメールで取り寄せる形だ。つまり、「私」情報がない。

先のSNSに対する意見と重なるが、日本において「私」情報の共有はあまり受け入れられないのではないかと感じている。mixi、GREE、モバゲーといった日本のSNSは基本的に匿名であり、本当の意味での「私」情報の共有ではない。

facebook dealsの発表は、二つの意味で朗報だと感じた。一つは世界的に私の場所と周りの情報、というサービス領域に注目が集まり始めている事。もう一つは「私」情報の共有が苦手な日本においてfacebook的SNSを基点にしたサービスは限界がある事だ。

前途は多難だが、まだまだ可能性がある。そう信じている。

2010年11月5日金曜日

尖閣ビデオ流出

すごい時代になったもんだ。Youtubeに、尖閣諸島における中国漁船との諍いを捉えた映像がアップされた。

一通り見たが、造られた感じはしなかった。ビデオが本物だとすれば、ぶつかってきたのが中国漁船なのは疑いようのないところだろう。

ただ、ぶつかってきた事実をどのように処理するかは政治力の問題だと思う。

船長を日本国の法律に則って逮捕するという事は、尖閣諸島が日本の領土である事の確認と承認を迫ったという事で、鄧小平によって棚上げされた尖閣諸島問題を解決する目処が立ってないとできない事なんだと思うが、そこまで準備されてたのだろうか?

その答えは、ロシア元首の北方領土訪問が示している。

国境意識、国土意識の弱さを見透かされて、中国のように実績を積み重ねつつ時期を待てば、そのうち風が吹くはずなので、今は粛々と事実を作ろう、という感じだろうと思う。日本は、文句は言っても実力行使的な行動はとらないし、世論も極めて一時的なので、当面無視すれば良いだけで、実行にあたっての障害にはなりえない。

そうやって日本の国土は各方位から実効支配を受け、日本は「歴史的経緯をみると、、、」といったヌルい抵抗しかできなくなっていき、35年後、戦後100年の節目をもって略奪されるような気がする。

今、できる事って何だろう?

2010年11月3日水曜日

価値分類

何をサービスもしくは商品の価値とするかは、意外に悩ましい。独善的な価値はあまり受け入れられず、かと言って、何かしらのユニークさがないモノには意味がない。

ザックリ分けると、一次、二次、三次の各産業カテゴリーで価値とすべきものは違うような気がする。

今の世の中、食べ物は品質が最も意味のある価値だろう。TPPに参加する事で安い食糧が入ってきて、日本の第一次産業は深刻なダメージを受ける、という見方がある。同じ品質、または同じに見える品質の勝負だとすれば、その基準は間違いなくコストだろうから、あながち間違ってる訳ではない。が、日本人にとって価値のある品質という観点と、大規模化・工業化によるコストダウン努力余地を考え合わせると、決して一方的に攻め込まれる、というものでもないだろう。

その際、品質が同じに見えないことが大事で、何かをもってコアとなる品質の差別化というのか、同じに見えないようにする努力が必要になる。結局これが付加価値という事になるのだろうか。

第二次産業でヒトに訴求できる価値って、本質的に二つしかないと思う。安いか便利か。だから、ここで勝負するのは大変だ。安さは、設備の規模が勝負の過半を左右するし、最終的には必ず消耗戦になる。最近のグローバル競争の中では、安く広大な敷地と安く大量の労働力、そして投資能力がキーになる。日本はいずれも弱い。便利は履き違えると、新しい機能をドンドン付ける一方で古い機能は捨てられない、という肥大化に走ることになる。捨てる勇気、意思決定力、決断力が問われるが、これも日本は弱い。

第三次産業は、便利、楽しい、役に立つといった、利用者の感情をいかに励起するかが、一つのカギになると思われる。ここでは、価格よりもユニークネス、ホスピタリティ、おもてなし、作り手の想い、新しい切り口などが、重要視される。少し厄介なのは品質は競争要因から外れて、与条件となっており、つまり一定以上の品質がないと競争の土俵にすら登れないことだろう。反対にメリットは、価値と価格の関係が1対1ではないので利益率が極めて高く、50%を超えることは普通で、80%ぐらいに及ぶ事もある、という事。第二次産業での戦いに嫌気がさした企業が独自性を磨いて、第三次産業に足を踏み入れることは、よくある。

アップルのように、表向きはモノづくりをメインにしながらも、サービスとのハイブリッドでビジネスを創り上げている企業は第二次産業ではありながらも、利用者の感情を励起することに付加価値を置いていると言える。

あるアイデアを披瀝した時に、口グセのように付加価値が必要だと言う人がいる。そういう人は、何か今までにない特殊な効用を付加価値と呼びたいらしいが、まずはそのアイデアが、どこに立脚したものなのかを理解することが必要だろう。

2010年11月1日月曜日

人を傷つける感性

無邪気な正義感やお節介な責任感。

ある課題について単純に相談しようと、かつての同僚にメールをしたら、極めてネガティブな返事が返ってきた。久しくお会いしてなかったこともあり、雑談がてら周辺情報を話しておこうと思い、アポを取った。

いざ会ってみると、課題もそこそこ、雑談もそこそこで、80%ぐらい説教された。自分が相手のことを知らないのと同様、向こうもそんなに自分の近況を理解している訳ではないだろうが。

間違った指摘を受けた訳ではないが、こちらの状況を理解せず説教し、こちらが凹むと、追い討ちを掛けてくる。そんな姿勢に、一層凹む。

あるクラスターに所属する人は、その中での正しさが染み付いているから、無邪気な正義感のようなものが普通に存在しているように思う。そのクラスター内でのコミュニケーションに活用して頂く分には文句を言う筋合いもないが、外にも同じ様な価値観を押し付けてくるのはやめて欲しい。

たぶん、何か悩んでいるような雰囲気を察してのことだと思うが、何か悩んでるのかと言われれば、誰だって何かしら悩んでいるだろうし、今の仕事が面白いかと問われれば、面白くない部分は必ずあって、多少のグチはでるだろう。

無邪気な正義感やお節介な責任感は、そういった側面を糧に成長するもののようなので、気をつけないと。。。

2010年10月29日金曜日

マイレージ、マイライフ

面白かった。肩肘張らずに見れる、割と好きなタイプの映画だった。5点満点中3.5点。

一年のうち322日出張しているリストラ宣告人って、そんな職業があるのかな?当然、結婚もしていないし、人間関係は希薄。コミュニケーションは携帯電話とメール、という感じ。身軽な身上を武器に講演までして、出張先で出会った女性と一夜を楽しむ。職業にも生き方にもリアリティや生活感はなく、存在自体がとってもバーチャルな主人公。

唯一の楽しみは、出張に付随するマイレージを貯める事。今まで6名しか達成していない1000万マイルまであと少しとなり、買い物も食事もマイル換算されるもの以外は興味なし、といった感じ。

とにかく、見た事も会った事もない人々にリストラを宣告し、家族や将来などのリアルな戸惑いを吐露され、時には罵倒される日々。そんなリアルを丁寧に受け止めながらも、マイレージというバーチャルな価値を追求する日々。そんな達観した人生を送っていることをネタに、バックパックで背負うものを取捨選択して、身軽に生きましょうと講演する日々。

この完成されたループに不協和音をもたらす二人の女性。

もしかしたらリアルな喜びを与えてくれるかも知れない女性と、主人公の持つバーチャルな価値感を理解できずにいる部下。この二人とのやり取りををきっかけにリアルを模索することになる。今まで疎遠にしていた家族との関係も徐々に修復し、リアルな人生への階段を一歩ずつ登り、そこに新鮮な喜びを感じていく主人公。

よし!バーチャルを捨てて、リアルに生きようと主人公が決心した途端、再びバーチャルな世界へ突き落とされる。そして、バーチャルへの落下中にその拠り所にしていた価値観にも終了の鐘が鳴る。1000万マイル達成。

リアルが破綻し、バーチャルは当面の価値を失った。たぶん、今まで通りには行かないだろう。これから彼は、何を生き甲斐に、日々を過ごしていくんだろう、なんて思ったり。

リアルに疲れ、バーチャルに依存し、その妥協点をどこに求めるかは、人それぞれだが、こういったリアルとバーチャルのせめぎ合いは、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。

そう、自分にもある。
一つのリアルから次のリアルへ飛び移ろうとする時、そのプロセスにはバーチャルな価値観が挟まることが多いように思う。逆に、一つのリアルに踏みとどまろうとする時も、そこではない何かバーチャルな存在に価値を見いだす事もあるだろう。

人は皆、リアル一辺倒でも、バーチャル一筋でも行きていけないんだと思う。そのさじ加減は人それぞれ。人の人生を横目で見ながら、自分の人生の糧にし、自分なりに修正するしかない。そんな事を感じた映画だった。

映画館もイイが、DVD+カウチポテト+ビールでゆったりと見たい。

2010年10月27日水曜日

買わない理由を公表せざるを得ない

Apple製品は、多くの人を惑わせるようだ。どの製品も必ず、買わない理由を並べ立てる人がいるからだ。

iPhoneの場合は、ガラケーや他のスマートフォンとの比較をもって、iPadはノートパソコンやネットブックと比べて、そしてMacbookAirはその人が持っているデバイスの代替になるかという視点から、様々な理由が並べられる。

ブログなどで買わない理由を公表しないと、思わず買ってしまいそうになる魅力があるんだろう。その証拠に、類似・競合デバイスで、わざわざ買わない事を表明するようなモノは、見た事がない。

Apple製品はどれも、技術的には枯れており、決して最新の部品が使われている訳ではない。だから余計に、今までスペック中心に語られてきたデジタルデバイスでは、ツッコミ所が満載で、買わない理由を作るのに苦労しない。

例えば、最新のMacbookAirでは、CPUがCore2Duo1.4GHzという、3年ぐらい前のモノを使っている。正直、不安を感じる。今どきのスペックじゃない。SSDの容量も小さいし、重さもサイズも拡張性も日本製品で同等以上のものは、ある。

でも、使ってみると全ての不安は払拭された。今まで必要だと思ってたモノはなんだったんだ、と感じるくらい。一旦踏み込むと、今まで当たり前だと思っていたスペックがリセットされる。新しい土俵が生まれる。前回のエントリーの続きで言うと、新しいマトリョーシカを作った、と言う事だろう。

こういうのが、本当の「ものづくり」であり、全ての企業が本来目指すべき方向性なんだと思う。

新しい土俵、新しいマトリョーシカを作れなければ、企業の意味は半減するだろう。ハードルは高いが。

2010年10月25日月曜日

マトリョーシカ構造

人形の中に一回り小さな人形が入っており、その中にさらに小さな人形が入っているロシアの伝統的なオモチャ。

人間関係って、そういうモノで、世代が進むにつれて、段々とヒトは小さくなっていく。それは、権力の大きさだとか、上司部下の関係などで自ずと進行する、ある種の発展段階なのかもしれない。小さくなればなるほど、コアに近づくが、大局は見え辛くなる。そして、コアというのは、そこにいるメンバー全てが、暗黙的に共有している事柄なので、全く新しくもない当たり前のモノである場合が多い。つまり、世代が進めば進むほど小物感が増す、ということになる。

島田紳助の言葉が、その関係性を如実に物語っている。曰く「自分の地位を脅かすような奴とは仲良くなれへん。こいつは俺を脅かしよらんな、と分かった時に優しくなれる」と。

このマトリョーシカ構造は、延々続く。お笑いを見てると、本当によく分かる。テレビに出てる芸人で番組を仕切らせてもらえるのは、大御所と呼ばれる数人+αで、彼らはいわゆる雛壇をほとんど経験せずに、トップに立っている。雛壇の経験が長いと、いつまでたっても若手、中堅止まりで、番組を作る側には回れない。

つまり、他人のマトリョーシカの中に入って、その存在を安定させると、そこからは抜け出せない。マトリョーシカを作るヒトは、他人のマトリョーシカに入ることは、ほとんどない。それが真実だろう。

他人のマトリョーシカに入ってしまうと、確実に一回りずつ小さくなっていく。他人の作ったマトリョーシカに入る事を拒否して、新しいマトリョーシカを自分で作れるかどうかが、このマトリョーシカ構造から離れる唯一の方法だと言える。

2010年10月22日金曜日

この国をでよ

大前研一と柳井正の共著?対談?掛け合い?二人が互いに、相手の論に対する意見として自らの論を重ねる、重層的なショートエッセイ。

この二人の意見は良く似ていて、共感できる部分も多いが、極論すぎる。逆に、これぐらい極論を詰めないと、一流とは言えないのかも。

内容はまさに「日本をでよ」ということ。

----

昨日、羽田空港国際ターミナルが開港した。最初はアジアだけと言っていたようにも思うが、気がついたら世界各地とつながっている。今後、成田空港の立場はいよいよ怪しくなってくるだろう。

近くに真の競合サービスができたことで、日本お得意の追い詰められたレッドオーシャンに伴う、顧客満足最大化策への極端な打ち手が加速する可能性は高いだろう。

今までも何度も経験している、消費者の目を肥えさせ企業の収益を悪化させる可能性のある、無料化を含めた品種やサービスの多様化だ。家電、パソコン、通信インフラ、携帯、鉄道、外食産業、飲料などなど、日本のどこででも見られる、ある意味で日本のお家芸でもある、先鋭化したガラパゴス進化なのかもしれない。

空港に対する、顧客すなわち航空会社のニーズは明確で、使用料を安くして欲しい、ということに尽きる。つまり、羽田と成田は今後、互いに使用料の安値競争に突入することになる。空港使用料が中長期的に期待できないとなると、自ずと空港の不動産としての価値を高めていかざるを得ないだろう。

実際、羽田といえども飛行機に乗り込むための港の役割以上は、まだまだ果たしてないように感じる。早めに来たくなる、到着後もゆっくりしていたい、飛行機に乗る用事がなくても行きたい場所を目指す必要があるだろう。

ともあれ、日本の空港業界に真の競争環境が生まれたことで、空港のビジネスモデルが、根本からひっくり返る可能性が高いと思う。

----

実は、日本の変革にはこの「真の競争環境」が必要不可欠なんだと思う。直近の成果を求めるから、先行して逃げ切るような、当たり外れのある、コンセプチュアルで戦略的な戦い方は苦手で、目の前にあるドロ沼の戦いに参入するしかない。仁川空港がいくら競争力を持っていても、あの程度の距離感ですら、競争環境としてのリアリティを持てないのではないか。

だから、本著で大前、柳井両氏が語る日本を出て、世界を知れ。そして、日本に戻ってきて、グローバル視点でビジネスを構想しろと言うのは、理解はできるが、現状にマッチしていないと思う。

たとえ、一部企業がそうであっても、その他大勢はその程度の視野すらない。日本人の多くは基本的に、目の前にある血で溢れた戦場しか見えてない、少しでも離れると戦場として認知できないほど視野が狭く、想像力が乏しいのだから。

ここまで書いて、リアルを理解する想像力とバーチャルに対する想像力は異質なモノだと気づいた。日本人は前者は弱いが後者は比較的強い所に特徴があるように思う。

2010年10月20日水曜日

古い会社の作り直し方

アカデミーヒルズのモーニングセミナーに行ってみた。8時から始まるセミナーで、六本木ヒルズ49階で開催。

講師は日本交通のタクシー王子こと川鍋社長。経歴がすごい。お坊っちゃまとは、こういう人なんだな、と思う。幼稚舎から慶応。卒業してケロッグ大学院でMBA取得。帰国後、マッキンゼー入社。満を時して日本交通へ。

まず、子どもを幼稚舎から慶応に行かすというのは、若くして財を成すか、ある程度の企業の(少なくとも)二代目にしかできない選択だろう。

そう考えると三代目が家業を潰してしまうのはよく分かる。二代目までは割と苦労した時期を知ってるし、何とか伸ばしていこうという気持ちも強いだろうが、三代目ともなると生まれた時からそれなりに裕福で、既定路線としての事業承継があり、事業を伸ばすことへの執着が弱くなりがちだろう。川鍋社長も、物心ついた時から会社を継ぐことになってたらしい。

だから川鍋社長はダメという話ではなく、むしろ、この経歴と社長としての施策を伺うと、「初期値としての環境」がDNAとして、人格形成にも社風形成にも影響を与えることがよく分かった。

川鍋社長は、MBAホルダーのコンサル出身らしく、社長就任当時は、かなりドラスティックな改革を目指していたようだ。そして、紆余曲折を経て、現在の手法に行き着く。

紆余曲折の鍵に二つの活動がある。一つは自ら運転手となって一ヶ月間勤務したこと。

タクシーの運転手がどんな気持ちで運転しているか、経営していく上で、従業員と目線を合わせるのは重要だろう。ただ、この行動は本になってしまうくらい、常識外れだったようだ。

ここで、様々なことを学ぶことになる。客席は怖くて見れないが、声は良く聞こえてくるとか、大半が良いお客さんでトラブルになるようなことはほとんどないとか、空車で走ってる時の不安感だとか。

そして、もう一つが東京駅前で実施したアンケート。

「どうしてタクシードライバーになったのか」の質問には「他に適切な仕事がなかったから」、「どうして、このタクシー会社を選んだのか」と問われると「家の近くだった」「知り合いが勤務していた」と、消極的回答が目立ったそうだ。何となく、タクシードライバーと建設作業員の属性は似ていると感じたり。

その後、川鍋社長が取った施策は、従業員をクラスタリングする事だった。

勤続年数が長いと、どうしてもオレルールができてしまい、新しい施策を受け入れる柔軟性を失ってしまいがちだ。比較的柔軟に会社ルールを受け容れられる勤続年数の短い社員と、そうでない社員を同列で管理するのは効率が悪い、という事だろう。

つまり、ルールを作ったり、改善を行ったりする際の管理の厳しさに差を付けた。若い社員は厳しく、年配の社員は若干緩めに管理基準を設定するという、傾斜管理を導入する事で、会社ルールを無理なく浸透させることに成功しつつあるように理解した。

結局、会社のDNAって、こうやって作られていくんだろう。環境変化の初期段階で受けた刺激がそのまま、その環境に対する対応方法になっていく。

ルールの弱い部署で育った人にとっては、会社というのはルールが弱い場所だし、厳しいルールの下で育った人は会社は厳しいものだということになる。

つまり、若年者に対してどういった教育を施すかが、その会社や組織のDNAとなる訳だ。人格という面においても、子供の頃、特に幼い時分に受けた教育や躾は、そのまま受け継がれていく。

「三つ子の魂百まで」は、個人にとってもサラリーマンにとっても当てはまる方程式で、基本的に一方通行なので、入り口を間違うと、後戻りすることには多大な困難が伴うことは、想像に難くない。

2010年10月18日月曜日

ナイト アンド デイ

うーん。。。微妙。。。
5点満点で言うと1点。
0点ではない、という印象かな。期待してただけにガッカリした。

サスペンスでもなければアクションでもない。かと言ってラブロマンスでもないし、スパイものと言うには伏線が弱い。。。まぁ別にカテゴライズする必要もないが、新しくもない。

よく言えば全ての中間であり良いとこ取り、悪く言えばどこから見ても中途半端。ストーリーはありきたりで、裏切りなどの伏線も、さほどのインパクトを持たず、残念な感じだった。

トム・クルーズの役回りは、超エリートCIAエージェントで、枠組みだけで言うとミッションインポッシブルを彷彿とさせる。無敵感というか万能感も同じぐらいだが、緊迫感が弱い。何でだろ?

そして、難しい局面になるとキャメロン・ディアスを眠らせ、寝ている間に問題解決と移動を済ませる。たぶん、この展開をスピーディーにするために肝心なシーンを早回しにする手法が、上滑りしているんじゃないかと思う。

問題解決に意味がないとしたら、間で交わされる人間模様が中心になるのかと思いきや、そこもあまり深堀りせず。最後の最後で裏切り者が明らかになるのだが、その最期もご都合主義の塊のような感じで、アッサリしたものだった。

見終わっても、キャメロン・ディアスを連れ回す必然性が分からない。気に入っちゃったというだけなら、あまりに無茶で無意味な選択だろう。

ただただそのスピード感に身を委ねて、何も考えずに観れば、楽しめるのかな。。。

2010年10月15日金曜日

一見、非合理的

一橋大教授 楠木健さんの著書「ストーリーとしての競争戦略」でのキーワード。

楠木教授は元ソニー、現クオンタムリープ代表の出井さんと懇意らしく、Asia Innovation Forumでは毎度司会を任されているので、割と有名な経営学者だ。AIFでの司会を聞いていても分かるように、物事を理路整然と、かつ分かりやすく翻訳する事が上手で、難しい事をさらに難しくして伝える野中郁次郎先生とは、ある意味で対極をなす。

「ストーリーとしての競争戦略」では、(戦略)全体と部分の、合流/非合理に関するチャートがある。ストーリーの巧拙はこの組み合わせによって表現できるとする。ここで、最も良いのは全体合理・部分非合理という組み合わせだ。

実は、もう少し日本的に総論・各論で表現した方が分かりやすいかも知れないと思っている。少しニュアンスが違う気もするが。

つまり、総論賛成・各論反対がベストな組み合わせとなる。事業全体が目指すべき方向は理解してもらえるが、そこに至る部分やプロセスがユニークで積極的な賛同を得られない、というパターン。

そう考えると、多くの成功モデルは総論賛成・各論反対の形を自然と取っている。前のエントリーからの流れで言うと、大政奉還もその一つと言える。

今のままでは日本がダメになる。日本を生まれ変わらせなければならない。そのためには幕府に政権の座から降りてもらう他ないという総論は、武力倒幕派も大政奉還派も同じで、既に議論の余地が無い。

一方で、長州征伐で弱体化が明らかとなった幕府に対して、勢いに乗じて武力でひっくり返してしまおうという考え方が主流だったことは、想像に難くない。そのような中で、大政奉還という実現可能性が低く、徳川家を完全には排除できない策を諸手を上げて賛成することができる人はいなかっただろう。

これこそ、楠木流に言えば全体合理・部分非合理であり、より分かりやすく言えば、総論賛成・各論反対ストーリーだろう。そして、それが正解だったことは歴史が証明している。

他にも、事例はいっぱいある。日本でも阪急電鉄、ソニー、ガリバー、ヤマト運輸、セコム、アスクル、マブチモーター、日本電産、ソフトバンクなど。アメリカでもアップル、アマゾン、サウスウエスト航空、スターバックス、デルなど。

目指すべきゴールは、誰もがイエスと言える合理的なものである必要があるが、ただ、その構成部品、プロセス、ストーリーに一見非合理な部分を作っておくことが大事だ。それを無意識や直観ではなく、意識的に組み込むことで再現性のあるイノベーションが実現できる。そうすることで、競合との距離感を一定以上に保つ効果もある。つまり、非合理性が心理的な参入ハードルを築き、競争環境が赤く染まらない。

難しいのは、非合理な部分をうまく合理におっつけていく所で、例えば現実歪曲空間を作り出すと言われるスティーブ・ジョブズや、人の褌も何回も借りたら借り慣れてくると公言する孫正義ぐらいしか、できないことなのかも知れない。

Kozchiも「お店や施設を見つけやすくして、街を活性化する」というゴールは合理的で、否定する人はいないと思う。また、「お店を繋ぐ」という手段やその構成要素は非合理性が高いとも感じている。

あとは、プロセスをうまくゴールに流し込んであげるだけだが、ここは忍耐と地道な努力が必要な所だろう。

Connecting the Shops
http://www.kozchi.jp/

2010年10月13日水曜日

ストーリーのユニークネスが大事

久しぶりに龍馬伝の話。

先週は清風亭で仇敵 後藤象二郎と手を組み、今週は盟友 高杉晋作が逝った。倒幕への意識を先鋭化させる同志 中岡慎太郎と木戸孝允。幕府の弱体化が露わになり、薩長の勢いが増して行く中、大政奉還の要 土佐が動き出す。

時代の流れはますます早まっている。

龍馬は変わらず、俯瞰した目線で日本を、そして世界を見つめている。そして、その目線の高さや方向がブレない。龍馬の発想や行動を理解し、ついて行ける人物は、そう多くないだろう。

しかし、大政奉還という言葉を木戸孝允から聞いて知ったように、龍馬の発想は決して突飛なものではなく、むしろありふれてると言ってもいいのかも知れない。誰もが考える結論の選択肢の一つに合理的な文脈を作る能力が高かったということか。

世の中、やれる事は限られている。特殊な、唯一無二で、オンリーワンの結論なんて、ない。あるのは、理想の答えとそれに至る豊かで説得力のあるユニークな文脈だけだ。

海援隊で新しい日本を作る。戦に勝ったモノが支配する世の中ではなく、日本をより良い国にしたいという志を持った人が政を行う、そんな国を作りたい、と語る龍馬。

海援隊という貿易結社を成功させることと、日本という国を新しく生まれ変わらせるというのは、手段と目的の関係にしても、かけ離れているように思える。

カステラを作りながら、これが日本を変えることに必要な一歩であると隊員が理解するには、かなりの努力が必要だろう。

でもそこに、説得力のある合理的な、いや非合理的でも良いのかもしれないが、一本の筋とも言うべきユニークな文脈を通してあげることで、たちまち「できればいいけど、できるわけ無いよね」というゴールが輝き出す。

僕たちができることなんて、所詮そんなもんで、陳腐で使い古されててもいいから、理想のゴールを掲げ、ゴールに至るストーリーを練り上げることしかない。

オンリーワンの成果ではなく、ユニークなストーリーこそが、ビジネスそして人生を語る上で大切なんだろう。

そんな事を感じながら、毎週の龍馬伝を見ている。

2010年10月11日月曜日

CEATEC2010

毎年のことだが、CEATECはスゴい人出だ。今年の目玉はスマートフォンと3D。シャープ、サムソン、AU、ドコモの辺りはスマートフォンだらけ、三菱、ソニー、東芝、シャープあたりは3Dだらけだった。

スマートフォンに関して言うと、みんな疑問だったと思うのは、iPhone/iPadと何が違うのか、という点。

シャープはやたらとガラパゴスを押しており、もう一つの目玉である液晶テレビは少し影が薄かった。せっかく3Dとかクアトロンとかだしてたのに。

ガラパゴスの展示を見てるとシャープのドヤ顔が目に浮かぶようだった。

「アップルはん、よくも今までええ様にやってくれはったな。でも、こんくらいの事、わてらも朝飯前でんねんで。見てみーや、このできの良さ。あんたら、ナニワの商売人をなめとったら、奥歯ガタガタいわせたるぞ!」

てな感じ。

でも、そんな東アジアお得意のリバースエンジニアリング丸出しのレプリカを望んでいる人っているのかしら?作れる能力を持っているとか、コンセプトは昔からあるとか言っても、やっぱり最初に作ることに意味がある。後続は、真似っこでしかない。

しかも、消費者が必要としているのは、便利になる、楽しいプラットフォームとコンテンツであり、それをハンドリングするデバイスは、正直、何でもいいと思っている。だから、ドヤ顔でデバイスをアピールされても、別に何とも思わない。やるなら、プラットフォームの名前をガラパゴスにして、デバイスは何でも使えるけどシャープ製品が一番気持ちよく使えるよ、というスタンスで売り出して欲しかった。

なので、全く残念なスマートフォン展示だった。OSはAndroidだし、デバイスだけの勝負なんて、すぐ陳腐化して消耗戦に陥るか、全く売れずに撤退に追い込まれるかのどちらかだろう。未来は暗い。

一方で3D。今までバカにしてたけど、今年はスゴい。でもソニーだけ。



多くのメーカーは今まで通り「3Dシアターをリビングで」という使い古され、かつ、皆が冷ややかに見ているキャッチフレーズの延長線上での商品開発を進めていた。

32インチで3D見ても、何にも出てこねーよと思うし、そのために視界が狭く、暗くなるメガネをかけるなんてあり得ないと思う。それほど3Dで見たい映像も無ければ、相応のコンテンツも無いので、どうにもならないだろう。それをコンテンツマネジメントの仕組みも作らないで、これまたデバイスだけ売ろうなんて、ムシが良すぎじゃないかな。

3Dは飛び出す画像を見て、オースゴい!と展示会で感嘆するだけの客寄せパンダみたいな位置づけに変わってきているように思えてならなかった。

今年のソニーは違った。
LEDの超大画面にど迫力な3Dコンテンツを映し出し、他のメーカーはデバイスの性能を強調していたのに対して、ソニーだけが映像の全てをマネジメントできる唯一のメーカーであることをアピールしていた。


今の時代、キレイなデバイスを作れる事は大した優位性にならない。そこにどんなコンテンツを、いかに作り、どうやって届け、どのように見せ、管理するか、といった一連のコンテンツマネジメントの握り方が何より大切だろう。デバイスなんて、そのパーツの一つでしかない。

それを理解し、相応の企業活動に結びつけられているのは日本勢だとソニーだけだろう。アップルに対抗できるのは何だかんだ言っても、ソニーしかいないということか。

2010年10月8日金曜日

公との関わり方

先日会社の友人と、会社のこと社会のことについて話をした。発端は、ある研究開発テーマのテーマ設定について、感じた強い疑問だったと思う。

そこから議論は流れて、電車の車内マナーや、公共空間のあり方について互いに感じていた事を話し合った。建物や公共空間が気になるのは、ある意味、職業病だろうか。

最近、電車に乗ると、満員電車でギュウギュウの中、立ちながら目を瞑っている人が多い。そういった人は、押されれば押されたままだし、目の前に子供がいても関係ない。自分を取り巻く環境からのインプットを、極力減らす努力をしている。つまり、不特定多数の人と極端に制限された時間・空間を共有する「公」との関わりを、視覚情報を遮断することで、最小化しようとしているように見える。

また、例えばショッピングモールなどの施設では、公開空地が不細工なチェーンで囲ってあることもよくある。この不愉快な取り組みに至った原因は、本当に些細な駐輪という行為だったりする。

公開空地という「公」は、制限が明記されていなければ好きに使ってよいという、間違った認識がそこにはあるように思える。

よしんば、個人としてそんな認識を持ってないとしても、一人が何の気なしに自転車を停めてお咎めがなかったら、行為が承認されたと理解して、皆がこぞってやり始める。結果、誰も責任を取らない無法地帯が広がることになり、見るに見かねた管理者が、止むを得ず不細工なチェーンで囲って「ここは無法に使ってよい場所ではありませんよ」とアピールするに至る。

結果を見ると、得をした人は誰一人おらず、単に窮屈な思いを皆に強いるだけの、つまらない愚策だけが残っている。

今の日本はそんな事ばかりだ。何が原因かと考えると、こういった「公」との付き合い方が未熟で幼稚である事だと思える。

「公」はお上のものであり、庶民が積極的に関わる類のものではない、という意識があるのではないか。税金や年金もそうだし、公的空間もそう。広く言えば政治や領土もそうだろう。

「公」は皆に影響する共有財であり、その存在や管理は、皆の力を合わせて最適化を目指していかなければならないはずだ。でも、現状は全て他人事。ルールがあれば盲目的に守るし、無ければ無法、という思考停止状態が続いている。

また、日本の仕組みはうまくできてて、「公」を考える機会を徹底的に排除してある。税金は源泉徴収で、その意味や使い方などを考えさせない上納金のようになものだし、年金はねずみ講のような仕組みで既得権益者は、そのループから抜けられないようになっている。

まずは「公」に対する意識を改めて、皆の共有財であることをしっかり認識することが、全ての出発点だろう。そして、それらを自分のモノとして考えた時に、空間の使い方、お金の使い方にムダはないのか、皆で気持ちよく使うためには、規制やルールではなく、どんな心構えが必要なのか、を考える必要がある。

つまり、「公」との関わり方を再認識しなければならない。これは、残念ながら学校教育では学べない領域のようなので、皆が自分で気づいて、思考停止状態から脱する以外に道はない。

2010年10月6日水曜日

無縁社会

いつだったか、週刊ダイヤモンドで特集が組まれて以来、地味だが明確に人々に浸透しつつある言葉。

堺屋太一が、血縁、地縁、好縁とラベリングした時代の流れが、まさか無縁という空疎な世界に帰結するとは、ほんの数年前まで誰も考えなかったのではないか。それほどまでに無縁という言葉には絶望的な響きがある。

そうは言っても昔から、金の切れ目が縁の切れ目とも言うし、日本社会における縁というのは、意外に疎結合なのだろう。最もベーシックであるはずの血縁すら放棄する人が増え、そういった事件を目にする機会が増えているのも、日本社会の中で脈々と受け継がれた、縁に対する潜在的無関心を表しているのかも知れない。

サザエさんにリアリティを感じている人は現代社会に暮らしている限りは存在しないだろう。あの国民的ファンタジーは、かつて存在したかもしれない、縁が豊かだと思われていた時代を想像した、日本のバーチャル原風景でしかない。自分も含めて、これからの社会の中で縁というものに過大に期待したり、依存したりはできないのだろう。

もとより日本社会には縁という概念が希薄だったという前提に立って、無縁社会に対応するには、逆説的だが、コミュニティを強化するしかない。

信仰などによって人々を結びつけることが困難な我が国において、コミュニティを構築し、強化することは意外に難しい。かつてのWetコミュニケーションが当たり前だった時代ならいざ知らず、極めて個人主義的で他者との見えない壁が段々と高く、厚くなっている現代では、尚の事だろう。

また、コミュニティを強化するとは言っても、原則としてコミュニティに過大な期待をできない現代社会では、個人の自立が欠かせない。

つまり、これからの社会を生きていくのに必要な心構えとしては、個人としては自立すること、社会に向けた行動としてはコミュニティ強化に資するビジネスを展開すること、の二点に集約されるだろう。

Kozchiが自分にとっての、そういった取り組みになるよう活動して行きたい。

Connecting the Shops
マチカドサーチエンジン
http://www.kozchi.jp/

2010年10月4日月曜日

低レベルコミュニケーション

ある夏の暑い日。

マクドナルドでバニラシェイクを注文した。レジの後ろで別の店員が耳打ちする。「バニラシェイクは切れてるよ」と。そして店員は「すいません。バニラシェイクは切れてます。」と私に伝え、私は少しメニューを目で追いながら「何シェイクならあるんですか?」と聞いた。すると、「すいません。シェイクは切れてるんです。」と店員。

最初から「シェイクが切れてる」と言うべきだろう。バニラが切れてれば、全てが切れてるというのがお店の常識なのかもしれないが、世間の常識ではない。

別にこんな些細なことで怒る訳ではないが、あまりにコミュニケーションのレベルが低いので、がっかりした。何だろう?想像力が足りないのか、言われたことに機械的に反応しているだけなのか。

日本人の良さは、ムラ社会とも揶揄される強固なコミュニティをバックボーンにした、一を聞いて十を知る呼吸感のはずだが、それすらも劣化してるとなると、もはやユーザビリティの高い商品開発は困難だろう。

マクドナルドの一人のバイトから想像を膨らませすぎかもしれないが、人としての劣化は着実に進行していると思う。それはすなわち、国としての劣化であり、国際競争力の低下につながる。

2010年10月1日金曜日

Big Picture

8年ほど前の話だ。あの911からちょうど一年が経過した2002年9月に、アメリカ西海岸に出張する機会があった。空港は警戒厳重で、態度の悪い空港職員にベルトと靴を脱がされた記憶がある。西海岸とは言え、まだまだ緊迫感のあるアメリカ出張だった。

メインの目的一つに、オフィシャルなサブ目的一つ、オフィシャルではないサブ目的をいっぱいくっつけて、出張計画を作成し、個人的には楽しかったし、様々な知見を得ることができた。

Youtubeで、元ソニーの出井さんが代表をしているクオンタムリープ主催のAsia Innovation Forum2010を見ていて、DCMの伊佐山さんの話を聞きながら、その楽しかった日々の1シーンを思い出した。

オフィシャルではないサブ目的の一つに、シリコンバレーのVC(ベンチャーキャピタル)を訪ねる、というのがあった。

別にアイデアがあったワケではない。その頃は今よりは愛社精神もあったし、建設業の未来を憂いながらも、当社の事業に強くコミットしていた。そして、どうしたら当社がより強くなれるかを考えていた。本業の再構築を手がける手段として、複雑系に手がかりを見つけようとしていたのもこの頃だ。

訪問したVCは、Kamran Elahianという伝説のシリアルアントレプレナーが率いるGlobal Catalyst Partnersという会社だった。ここを選んだ理由は、単に知人が出向して働いていたから、というものだ。この知人も今では友人だが、当時は紹介されただけの顔も知らない人だった。

会うことが決まっててもノーアイデア、ノープランだった。今考えると、それもすごい。ばか。単に会ってみたいというだけだったんだろう。当然、英語も拙い。正直、震えるチャレンジだ。

何の話をするのかを決めないまま、オフィスに着いて、すこし気持ちを落ち着けるためにトイレへ。そこに、アラブ系でTシャツをきた、掃除のオッチャンみたいな人が入ってきた。別に話をすることもないので用を足し、そのままオフィスへ。

最初にお会いしたのは、インド人の副社長だった。何となく挨拶をしてると、目的のKamranが来た。おー、さっきのオッチャンやんけ!もう会っとるがな!と思いながら、挨拶を。








正直、何を話したか覚えてないが、日本の建設業と複雑系について、説明したような気がする。今考えると、伝わってたとは思えないが。まぁ、なんやかんやと話をした。要は雑談で、相手もしばしの暇つぶしぐらいで笑顔で話を聞いてくれていた。

しばらくして、Kamranが不意に尋ねた。
「ここからサンフランシスコに行くのに、お前ならどうする?」

時間が無ければタクシーを呼ぶし、時間があって心の余裕があれば、バスか電車の時間を調べて、のんびり行くかなー、と答えると、

「サンフランシスコに行くには3つの方法がある。1.時間をかけて調べて、予定を立ててからスタートする。2.何も考えずにすぐスタートする。3.進むべき方向だけ調べて、できるだけ早くスタートする。

お前が将来、何かビジネスを立ち上げたいと思うなら、正解は3だ。Big Pictureを描いて、Directionを見定めて、素早くスタートしろ。

Big Pictureを描けるよう努力しないとダメだ。物事を俯瞰した目線で眺め、広く、大きく物事を捉える必要がある。お前がビジネスをしたいと思うなら、忘れるな。」

あれから8年。
今の自分はどうだろう?少しsmall過ぎやしないか、と自問自答してみる。また、意識的に視野を拡げ、Big Pictureを描き、楽しむような日常を心掛けよう。

2010年9月29日水曜日

京都・壬生

伏見に続いて、壬生に行ってみた。最寄駅は、阪急四条大宮かJR丹波口。どちらの駅からも10分くらいだろうか。

丹波口からアプローチして、壬生寺へ。そのまま堀川通に抜け、西本願寺を経由して京都駅へ向かうルートを選択。というか、丹波口の駅前で紹介されていた、新選組を感じるルートをそのまま活用してみた。

それにしても面白みのない道で、ほとんど見るものがない。街並みも歴史的な何かを残そうとしている意図は感じられない。まばらに新選組関連の土産物屋さんがあるが、どこも寂れている。

新選組のブームが去ったのか、それともそもそも人気が無いのかは分からないが、観光客も少ない。

新選組は、その位置づけが微妙だ。後の世の人たちが見ると大局観のない人斬り集団のようでもあるが、京都守護職として任に当たった公式警察組織である見廻組と異なり、乱世の危機を感じて自主的に組織された集団であり、方向性は違えど維新の志士と呼ばれる人たちと、本質的には変わらない。

それでも、壬生の街の人たちも、あまり新選組は好きでは無いのかも知れない。いや、壬生に愛着を持っている人がそもそも少ないのかもと思えるぐらい、街に活気や意思、意図、気持ちといったものが感じられなかった。

壬生寺を通り抜け、八木邸、前川邸を眺めつつ、通り過ぎた。それだけ。それ以上ではない。






八木邸はお茶とお菓子がセットで観覧料1,000円という法外な料金だし、前川邸は中の様子を記した間取り図があるだけで入れるワケではなく、土産物屋があるだけ。しかもネット情報によると写真撮影禁止だとのこと。時代遅れも甚だしい。バイラルの拡がりを考えれば、いずれも逆効果だろう。どちらも、もったいない商売をしているもんだ。

そんなことを考えながら、堀川通に向かって細い道を通る。本当に何も無い。

堀川通を下ると西本願寺に着く。ここは、八木邸、前川邸に続く新選組の二ヶ所目の屯所で、しばらくして、また別の場所に再移転することになる。長州に近かった本願寺にしてみれば、厄介な奴らが来た、ということだが、時節柄断れなかったんだろう。出て行く時は、費用を始めとして全ての面倒を西本願寺がみて、「疫病神が出て行った」と大喜びしたと言う。






その後、さらに南下して京都駅に向かった。終了。

街歩き、遺跡探索としては、今までで一番つまらなかったが、京都に対して新たな感想を持った。

それは、京都という街が日本人のアイデンティティの一つの源泉であり、幕末という時代の燃焼を経て焼結し、アイコンとなっている事実だ。これについては、考えをまとめて、別の機会に書きたいと思う。

2010年9月27日月曜日

京都・伏見寺田屋

また京都に行く機会があったので、今回は伏見に行ってみた。目的地は寺田屋。

京都駅から近鉄に乗り桃山御陵前駅で下車。ここは、京阪、JRが入り乱れる関西の鉄道会社にとっての激戦地の一つだろう。

駅前はかなり栄えており、商店街も立派。数えてはないが、トータルで400軒前後はありそうなくらいで、平日の昼間にも関わらず多くの人出があった。思ったよりもずっと活気があり、しかも整備も行き届いているので、気持ちよかった。


駅前の商店街を抜けたところから左に曲がる少し規模の小さな、しかし小綺麗な通りを抜けるとアーケードがなくなり、龍馬通りという商店街へ。ここは坂本龍馬の遺産で食べているような場所で、何かにつけ龍馬、お龍の連呼で、有り体に言うと観光地の土産物ストリートだった。

その通りを抜け、川に突き当たったところを右に曲がると目的の寺田屋、左に曲がると黄桜の工場と伏見土佐藩邸跡がある。

そう言えば、伏見は酒処だった。若干の誘惑を振り切り、寺田屋へ。



wikipediaを読むと、今の寺田屋は当時のものではなく、復元されたものらしい。ただ、誰かに指摘されるまでは公表してなかったようで、何となく胡散臭い雰囲気が漂う。wikipedia上では頻繁に「◯◯と称する」という記述が続く。現在も、その旨のマトモな説明などはなく、あたかもオリジナルに一部改築を加えただけのように見せかけている。

到着したのは10時半ごろだが、既に行列ができておりオープン早々忙しかったのだろう、態度の悪い受付に400円払って入場した。

中は、あらゆる物がニセモノのように見えた。様々な書や写真があったが、全部解像度の悪い写真を引き伸ばした物で、なおかつ出典とか原典とか、本物はどこに置いてあるとか、著作権を始めとする権利に関する記述が一切なかった。原本が展示してある場所に行って、コッソリ撮った写真を加工して、勝手に二次利用していると思われてもしょうがない展示方法だ。

ピストルや刀も「お手を触れないで下さい」との注意書きの下、無造作に展示してあったが、本物に近いようなレプリカならその程度で済むワケもなく、プラモデルに近いレプリカであると推察される。

また、坂本龍馬や中岡慎太郎の有名な写真をパネルにして、3000円で売ってたりする。もちろん、権利に関する但し書きはない。史跡としての碑が立っていたが、非常に中国的な空間だと感じた。

本物の寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失したと言われる。室内の柱に、誰々から拝領したとか、刀傷とか弾痕とか書いてあるが、それも怪しいだろう。間取りも本当がどうかは分からない。

建物を復元するのは良い事だと思うが、ニセモノにしてしまっては意味がないと思う。せめて中にある展示品を、もうちょっとマトモにして、原本を保管している組織なり博物館なりから、ちゃんとお墨付きを貰うようにしないと、ダメだろう。

今の状態は、単に坂本龍馬のスネを齧っているだけに過ぎない。価値を定義し直さない限りは、いつかは賞味期限が切れてしまう。そして、全てを失ってしまう。そんなことは、龍馬もお登勢も望んでないだろう。

2010年9月24日金曜日

過不足のないサービスは難しい

春頃、乗っている車が異音に悩まされていた。

たしか半年ほど、不連続で不定期な異音が前から後ろから聞こえ、とても気になった時期があった。キュッキュッという音で、何となくサスペンションかな?なんて思って、ディーラーに持って行くと、その場では再現せず、何の手が打たれる事もなく、また日常に帰っていった。

気がつくと、また鳴りだし、気にはなるがディーラーに持っていくほどの再現性もない現象にどうしようもない状態が続いた。

ある時、若干の振動を伴って、今までに聞いたことのない音が聞こえてきた。しかも、かなりの大きさで。その音は「カキン、コキン」という金属音だった。そんな音が走っている間中、絶え間なく聞こえてくるようになったので怖くて怖くて、震えながらそーっと運転し、近くのディーラーに飛び込んだ。

「異音が続いて、怖くて乗ってられないので、大至急で見てください!」

GWだったのでディーラーも忙しく、飛び込み客はあまり歓迎されてない雰囲気を感じた。が、状況が状況だけに即検査となった。

しばし待つと、担当者が報告に来た。
「スタビライザーのボルトが緩んでました。締めておきましたので、もう大丈夫ですよ。GWじゃない時に予約して来ていただけると、スムーズに対応できますので、次回からよろしくお願いします。」

以前から、異音がするので見てもらったが、取り敢えずは異常がなくて、ディーラーで現象が再現できないと対応のしようもないと言われ、すごすごと帰った経験もある。車検を普通に通してても、オーバーヒートしかけた事もある。

事後的にしか対応できないなら、それは検査とは言わないんじゃないかな?車検で言われるのは、タイミングベルトなどの、いわゆる部品寿命に関するものと、液体系の目減りに関するものが中心で、今回のような部品が緩んだり、ポンプが詰まったり、という現象へのカバーはできていないように思う。

そして、仮に異常の兆候を掴んだとしても、再現性がなければ対応できないとなれば、事前に余裕をもってディーラーに持ち込むなんて事はできるワケもなく、単に客にムリを強いているだけになる。

今回のディーラーの対応をどうこう言うつもりはないが、どうもサービスとして帯に短したすきに長し、という感は否めない。持ちうる敷地や設備の大きさとの整合を取る必要もあるし、なかなか一朝一夕にはいかない事も分かるが、サービスという領域はまだまだ改善の余地が残されている事を感じた出来事だった。

2010年9月22日水曜日

お前らがしっかりしないと、俺たちが楽できないだろ

世代間のギャップを感じる一言。最近言われた。無視したけど。

別にあなた達に楽をさせたいから頑張るつもりはない。あるとすれば、もっと個人的なモチベーションで、家族を楽させたいからとか、自分が楽しく仕事したいから、とか。

世代間ギャップのあるモチベーションは会社の中で解消するしかないが、個人的モチベーションは解消方法を外部に持っていくことができるところが違う。

同期の例を挙げて、もっとシッカリせぇと言わんばかりの話が続いた。個人の問題もあるかも知れないが、教育・育て方に不備があったと感じる部分も多い。

現在の60才前後の方がバリバリだった頃と今では、世界を覆うメッシュの細かさが違う。

人の能力は古今東西そんなに変わらないと思う。もちろんある分布で優秀な人とそうでもない人のバラつきはあるだろうが、95%の人は誤差の範囲内の認知空間の中にいる。つまり、理解できるメッシュの目の数は人によってさほど変わらないとすると、荒いメッシュで育った人と細かいメッシュで育った人は自ずと認知できる空間領域が違うはずだ。

そう考えると、人は年代を経るごとに小粒になっていくのは必然だ。特異な才能を持つ巨人だけが、その年代のギャップを超えられる。昔の人に比べて小粒な自分を嘆く必要はまったくない。

メッシュの細分化は文明の進化スピードと相関があるように感じる。ここ30年ほどは文明が急速に進展しており、それに伴ってすごいスピードでメッシュが細分化している。それゆえ、人が理解できる空間の大きさが急激に縮んでいると考えられる。

だから、団塊世代の人たちが、バブル世代の我々を見て、シッカリせぇというのも分かるが、そう言う前にメッシュサイズの変化を理解する必要があるし、それに合わせた人材育成をしてきたか、という自らの行動を振り返る必要がある。

こういった認知空間の縮小に対抗できるのは、新たな空間への挑戦だけだろう。

昔の人が作った空間はシュリンクしていく運命にあり、先に居た人が圧倒的に有利だ。後に続く人は、前の年代がリタイアするまでは基本的に空間の支配者になれないし、常に小粒と言われ続ける運命にある。空間の支配者たちも、別の空間に行けば小粒との誹りを免れない立場に落ちるとすれば、今いる空間に居続ける方が合理的だ。

そんな関係性が日本の企業/社会の遺伝子には組み込まれている。特に歴史の古い会社には。

ゼネコンは、あらゆる産業の中でも最も古い部類だろう。ほとんどの人がシュリンクする世界の呪縛から逃れられずに、小さな空間の支配者として生きる道を選んでいる。哀しい事だが、そこに居る人たちの気持ちは「お前らがしっかりしないと、俺たちが楽できないだろ」という言葉に集約されている。

2010年9月20日月曜日

認識のズレ

会社の人と話をしていて、全くかみ合わないのは、将来への展望というか、キャリアパスの考え方というか。

自分は、今現在ある程度高い地位にある人の勇気ある決断を望んでいる。まだ、そこまで逼迫した状況ではないので、仕方ないのかもしれないが、会社を辞めた後にどのようなパスが有り得るのかを示すのも年長者の役目だと思うからだ。

例えば、課長で出ていったら、その後どんなパスを描けるのか?部長では、センター長では?さらに上のポジションでは?

例えば、どこまで社外での知名度が上げた後で独立したら、こんな仕事ができて、こんな未来が有り得るとか。例えば、研究をひたすら続けて、オンリーワン技術を身に付けたら、こんな未来が待っているとか。例えば、しがない形で会社人生を全うしたら、その後はこんな事しかできないとか、いや、こんな事ができるとか。

一流の会社を謳うなら、何をどこまですればどうなるかの、ロールモデルが一杯あってもおかしくない。逆にそれがないと、何をするにしても、何の指標や道標をも持たずに自分で歩んで行くしかない。誰かに連れて行って欲しいとは思わないが、何らかの地図はあった方がいい。少なくとも、社内での振る舞いは、そういったものが無いと、情熱を傾けるのは難しいだろう。

そんな意味で、明らかに上がりのポジションの人や、これ以上上に行く目のない人には、そういった規範を示して欲しいと思ってた。僕たちに色んな可能性を見せて貰いたいと思っていた。

こういった議論は、社内でも意見が分かれる、というか、賛成してくれる人はいない。

みんな何を参考に人生を選択するんだろう、といつも思う。別に選択なんて無いのかもしれない、とも思う。そんなの、誰かを参考にするようなイシューではないのかも、とも思う。

でも、自分の人生だし不安だ。何か、仄かな灯りでも良いから、足元だけでも良いから照らしたいとも思う。まあ、どうすれば上のポジションに上がれるかの指標すら曖昧な会社に望むべくも無いが。

きっと自分の身の周りに、そういったロールモデルを見つけられた人は稀なんだろう。多くの人は、歴史上の人物や著名人の振る舞いを参考にして、自らの身の振り方を考えていくんだろう。

つまり、歴史に学ばない人は、変わりようがないという事かも知れない。

自分も直接に部下や後輩がいる訳では無いが、何らかの範を示すような時期にきている事は感じる。

2010年9月17日金曜日

代表選って何のためにあるの?

国民と国政を全く無視した民主党代表選が終わった。

今回はオザワかなーと思ってたが、正直なところ、全く興味がなかった。ほとんどの人がそうだったんじゃないかな?だって、国民とは関係のない所でやっている権力闘争に過ぎなかったから。

今、揉めてる場合じゃない。

経済、赤字国債、社会福祉、為替、不明高齢者、地方の疲弊、領土問題など、多くの膿が吹き出し、すぐにでも治療を始めなければ、全身が不全状態に陥り、静かに衰弱していくことになる。今こそ政治の力が必要な時のはずだ。

そんな、一刻の猶予もない日本において、言葉の力や組織の力やお金の力を持たない社会主義者がトップに立つことは、無為の時間が長くなるだけ有害と言えるだろう。最小不幸社会なんていう下に合わせる政策で、日本が良くなることは絶対ない。

いつもいつも、長い国政の空白期間を経て生まれる日本のリーダーは、その空白期間を生む権力闘争に注力するあまりに、国を放置しがちだ。今まではそれでも良かったのかも知れない。それで、政治家はその本分を忘れてしまったのかも知れない。そうなってしまったキッカケが田中角栄だとすれば、すでに35年も国という存在を蔑ろにしてきたことになる。

でも今は、個人よりも国を優先できる人でないと、もう保たないと思う。少なくとも菅ではダメだろう。とは言え、重大で分かりやすい失策がない限りは、ユルユルと続くのが日本の政治だ。

本当ならば首相が進退を問うのは、国民に対してでなくてはならず、だからこそ4年間何があっても職務を全うするか、衆院選と一体でなければ意味がない。

これで、次の衆院選までの残り2年ほどの停滞、すなわち日本を取り巻く状況の悪化が確定した。

2010年9月15日水曜日

ビジョンの重要性

グーグルとアップルの戦いを端で見ることになってしまった日本勢を見るにつけ、これからの時代は総合力なんていう曖昧な言葉ではなく、ビジョン(やコンセプト)が重要なんだと再確認した。

ビジョンはそれを考える主体によってレベルはバラバラで、ある時は曖昧だが、別の時には具体的になる。総合力は常に曖昧で具体的イメージがないところが違う。

今、元気が良い企業は、創業者が陣頭指揮している企業か、中興の祖と呼ばれる創業者に近いメンタリティを持ったリーダーが大鉈を振るっている所か、どちらかだ。つまり、ビジョンが極めて明確な企業が栄える時代になっていると言える。

かつては、何をする企業かが曖昧でも、総合力が高く、何でもできる企業が力を持った時期もあった。それは、塊としての人間の総量が企業の力だった高度成長期だ。今の中国やインドはそうなんだろう。

そう考えると、ビジネスはビジョンに始まり、総合力という名の人海戦術を経て、ビジョンに戻る、と言うことか。最初のビジョンから総合力への変化は、企業規模の拡大と呼応して自然に行われるが、次の総合力からビジョンへの移行は、相当意識的に行わないと難しい。

この二つ目の変化は、DNAとして変化を刻みつけている会社か、奇跡的に中興の祖が出現する以外にあり得ないかもしれない。

実際、中興の祖が生まれる土壌として、そのトレーニングの一つに、新規事業を立ち上げるリーダーとして30代のうちに抜擢する、ということを提唱している経営者もいるが、それは変化を前提とした会社だけが実施できる教育方法だろう。つまり、通常の会社で中興の祖が生まれる確率は限りなく低い。

もう、総合力で勝負できる時代は終わった。

総合商社、総合電機、そして総合建設業者は、その看板を下ろす時が来ている。ただし、変化することが少しでもDNAに刻まれてないと、看板を下ろすのは容易ではない。究極の選択が待っている。

2010年9月13日月曜日

比較ベース戦略はダメ

日本は、ここで言うまでもなく元気がない、閉塞感に溢れていると言われる。ここ最近は、技術で勝って事業で負ける、という妹尾式評価がコンセンサスを得ているように思う。

そして、競争戦略の専門家や経産省などが好きなのは、他国との比較から日本のあり方を考えようという姿勢だ。

妹尾式にしても、アップルやインテルはうまくいってるよねという視点だし、経産省の産業構造ビジョンは韓国との比較で、危機感を表現していた。でも多分、他国はそんなに他国を比較した上で自国のポジションを考えてはないと思う。

アメリカはたまたまシリコンバレーやニューヨークなどIT技術や金融技術が卓越した地域があっただけだし、中国は人口の多いだけ、韓国は微妙な国のサイズが企業を大きくして国際化を促進しただけだし、ヨーロッパは地続きという地域特性を活かしているだけなんじゃないかな?

つまり、みんな自国の強みを伸ばすような産業政策を打っているだけで、他国の状況がどうとか、評論家レベルでは調査するにしても、方針を決める際のカギにはなってないように思う。

つまり、日本も日本の強みをフルに発揮できるような産業政策を打てばそれで良いのであって、別にアメリカ、中国、韓国、ヨーロッパがどのような方針で動こうとしているかなんて、気にする必要はないんじゃないかな。

じゃあ、日本の強みってなんだ、という話だが、過当競争に裏打ちされた、消費者の購買レベルの高さじゃないかと思う。つまり、コストパフォーマンスの見極めがかなりシビアで、なおかつ、良いものを求める意識が強いと言うこと。ここは、国際的にも比較優位なポイントだと思う。

比較的大きな国内市場に支えられて、多くのメーカーが激烈な競争を繰り返したことがもたらした効用は、消費者にレベルの高い商品を見比べる機会を与えた、ということだろう。

今後を考えると、その唯一と言っても良い比較優位ポイントが、急速に劣化していく方向なのは間違いない。

人口は減少し、市場は縮小し、企業は弱体化する。つまり、今までのような、消耗戦と揶揄されながらも、商品を鍛える場ともなっていた国内競争ができなくなるということだろう。

また、若者から高齢者への所得移転を伴いながら、高齢者が増え、若者が減る。つまり、枯れたニーズしか持たずお金を持て余している高齢者と、お金を持たず商品を鍛える目を育てることのできない若者が、バラバラに存在する状況が加速している。この状況は、外国企業のいいカモだろう。

他国比較ばかりして、自国の強みを見失ってばかりいると、やり直しが効かない状況に陥りそうでコワイ。

2010年9月10日金曜日

インセプション

これは、面白い。
ストーリーがユニークで、CGがすごい。
まぁ、主人公が追われる理由とか、案件の依頼理由とかが今一つだったけど、そんな事は些末な事だろう。

夢と現実の境界線は曖昧で、夢はカスケード式に階層化されており、階層が深まるにつれて時間軸が伸びていくという設定。そして、意識的に複数の階層を行ったり来たりできるスキルを持った人たちが主役。夢から潜在意識に入り込み、頭の中にあるアイデアを盗み出す。または、アイデアを植え付ける。夢と現実の整合を取るために世界観を設計し、環境やストーリーを作り込む。

複数の時間軸を作り込む事ができるので、現実世界では非合理なシーンが同時進行することになる。下位階層は上位階層の影響を受け、世界が矛盾に満ちていく。

---
何がなんだか分からない状態がしばらく続き、徐々に世界観が理解できてくると、一気呵成にゴールに向かって突き進んでいく。

普段でも、今見えているもの、感じていることは現実なのか、そうでないのかと考える事がある。もしかしたらイメージを共有しているだけじゃないか、と。

夢からさめるには、現実世界で設定された「目覚まし」で起きるか、夢の中で死ぬしかないとしたら、そこにいる人たちが、現実か夢かを判断する術を持っていない事になる。

映画の中では、現実と夢の区別がほとんどなく、ただ階層が違うだけという感じだった。つまり、今、自分たちが暮らしているこの世界も、実は、一階層深い夢の中なだけかも知れない。そのことは、死んで初めて分かる。

そう考えると、ある種の宗教的な考え方を映画という表現方法に落とし込んだようにも思えた。あるいは世界各地に残っていると言われる浦島太郎的な伝説の、一つの表現なのかも知れない。

夢の中の登場人物は、現実世界の写像であり、夢の所有者の意識でしかないとしたら、その登場人物たちが考えることは、所有者の想像力を超えることはない。つまり、夢の階層が深くなるほど、アイデアはリジットに、リアリスティックになっていくのだろう。

だからこそ深い階層で見い出したアイデアは、頭にひどくこびりつき、増殖する。最後には、無視することができないくらいに巨大化し、囚われ、アイデアを実行せずにはいられなくなると言うことだろう。

2010年9月8日水曜日

ソーシャルゲームの立ち位置

そう言えば先日、佐々木俊尚さんのtweetでテレビCMに関する面白い考察をしていた。

『サラ金(消費者金融)→パチスロ→法律事務所→ソーシャルゲームとTVCMに出稿する広告クライアントの主流は21世紀以降移り変わってきたけども、業態は違えど"これらのビジネスターゲット"が全く変わっていないことに注目すべき』

食いものにされているのは常に同じ層で、また、この層はよくテレビを見る層でもある。つまりテレビ番組は、彼らにウケるよう企画されている訳で、そうとは気付かずに見ている我々は、そちらに誘導されてる訳だ。

---
SNSはどうも性に合わず、ほとんど使ったことはないが、アカウントを持った数年前はどちらかというとGREEに肩入れしていたように思う。完全にMixi優勢だった時期だから単なる判官びいきだったんだが。

最近のGREEはどうも好きになれない。

同じくDeNAに関しても、Yahoo!オークションよりビッダースを信頼し、チェックしていた時期もあった。

同じく、最近のDeNAは好きになれない。

単にゲームをやらないからだとも思ってたが、佐々木さんのtweetで理解できた。彼らは消費者金融やパチンコと同じ穴に入ってしまったからだ。射幸を煽り、依存度を高めるそのあり様は、見方によっては麻薬と同類かもしれない。

はてなのCTOがGREEに転職したように、エンジニアにとってライバルのいる関係は、新しい事へのチャレンジをするに適した環境でもあり、理解できる。

ただ、ビジネスとして見た時に、そんな企業が今現在、最も伸びているITベンチャーだとは情けない。さらに、それらに肩入れするVCを始めとする企業も、日本のITベンチャーをどうしようと思ってるのか、聞いてみたい。

ソーシャルゲームのように、社会に資するインフラとなり得ないサービスが、メインストリームになってはいけないと思う。消費者金融やパチンコのように「必要悪」というポジションでないとおかしいだろう。

そういった観点で、儲けるのは良いが日本のITベンチャー/Webサービスを代表しているような顔をされるのを快く思ってない人も多いのではないかと感じている。

自分なんかが言っても、何とかの遠吠えでしかない訳だが。

2010年9月6日月曜日

アンチ・グルーポン

グルーポンクローンの勢いがスゴい。

個人的にはあまり浸透するとは思ってないが、それにしても少ないパイを分け合うには余りある事業者の数だ。かなり早い段階で、下手すると今年末ぐらいには、淘汰が始まるのではないだろうか。

---
最近のクローンサービスの面白いのは、元祖のサービスを何の躊躇もてらいもなく、丸ごとコピーすることだ。その一例が、グルーポンによるクーポッドの買収だろう。サービスの独自性を追求せず、元のサービスの日本語版として忠実に構築した結果、アッという間にグルーポン傘下になった。VCが、なぜか自ら手掛けるサービスだったので、丸ごとコピーも本家に買ってもらうための戦略通りということだろう。

その他のクローンも、似たり寄ったりで、ほとんと同じインターフェースになっている。本家がデザインを変えた時にはどのように動くのだろう?

インターネットサービスの場合、既に地位を築いている強者を真似するのはよくある事で、古くはヤフーとライブドアとか、最近だとモバゲーとグリーだとかは有名だ。少しでも慣れた手順でユーザーにアピールしようとするフォロワー戦略としては、順当だろう。

---
一方で、サービスとしてのグルーポンは、中国のクローンが桁違いの実績を上げていることで分かるように、参加人数こそがサービスのパワーだ。その点で日本市場は限界がある。小さなディールを積み重ねることで、食べて行く事はできるだろうが、それ以上ではない。

お店にしても、Twitterとの連動によるバイラルの効果は高いが、50%オフで訪れた一見客が、その店の味やサービスに惚れてリピーターになるという美しきストーリーは、多くの場合、夢でしかないだろう。つまり、大赤字で集客した結果、定着しないという最悪の展開が予想される。

グルーポンで集客できたお客は、グルーポン内を流通することになり、お客さんを囲い込めたのは、お店ではなくグルーポンサービスだ、という事になると思われる。ぐるナビなどのサービスと全く同じ構図だが、結局、お店にお客さんが定着するには、もう一工夫も二工夫も必要なのだが、そこまでの面倒を見る事はない。

---
グルーポンは、初期の知名度を高めるとか、年に一回程度、カンフル剤として使うといった意味では有意義だが、定期的、定常的に使う類のサービスではない。つまり、お店にも街にも、お客さんにも決定的な影響を与えるサービスではない、という事だ。

逆に日常的に使われるサービスにフラッシュマーケティング的要素が入ったら、その有効性、有用性はグルーポンの比じゃなだろう。

2010年9月3日金曜日

自己中心的ソーシャル

ソーシャルサービスが花盛りである。全部アメリカからの輸入だが。

twitter、facebook、foursquare、groupon、etc。これらは連携して、さらに存在感を高めている。中でも、twitterがバイラルの核になっており、そういったソーシャル系においてはインフラ化している。

何となく釈然としないのは、少なくとも日本人の中で、ソーシャルサービスを活用できるほど、コミュニケーションが得意または好きな人がいるのか、という点。もちろんいない訳ではないだろうが、サービスの隆盛を支えるほどの人数なんだろうか?

そもそも中心となっているtwitterが、実は限られた人々のコミュニティとも言えない繋がりしか作ってないとしたら、コミュニケーションの質こそがサービスの形を決める。つまり、アメリカ発のソーシャルサービスってのは、コミュニティではなくコミュニケーションに軸足を置かざるを得ないと言える。

もともと匿名でdisることが目的の一つになっている2chと、世界一投稿数は多いがほとんどがソーシャルな意味を持たないブログに支配された日本のネット界は、コミュニケーションよりもコミュニティに重きを置いてきた。いわゆるムラ社会において、本名が基本のfacebookや同好の士が集まりにくいtwitterは馴染まないんじゃないかと思ったり。

もっと、日本人の特性に合ったサービスってのがあるはずだと思う。つまり、コミュニケーションではなくコミュニティに主眼を置いたサービスだ。ガラパゴスと言われようが、DNAに刻み込まれた日本人的特質までは変えられないだろう。

ムラ社会という狭いコミュニティに属していながら、日本人は極めて個人主義が強いのが特徴だ。社会のために何かとか、口で言っても行動は伴わない。つまり、損得勘定で動く事が多い、ということ。これって、そもそもアメリカ的なソーシャル行動とマッチしない。

そのメンタリティのベースにあるのは宗教だろう。コミュニティの中に個があることを前提にしているキリスト教などと、個人の生前死後の幸せを願う仏教や自然との関わりの中に個の存在と幸せを感じる神道など日本的宗教との違いだと思う。つまり日本の宗教において、個人と自然は登場するが、他人との関わり方、すなわちコミュニティやコミュニケーションについての示唆は比較的少ないのではないかと推察する。

他人の事や関わり方が分からないから、横目に見ながら、遅れないように早すぎないように、他人を観察しながら歩調を合わせてゆるゆると進む。そんな社会が日本だ。つまり、人との距離感を測ることでしか、自分の立ち位置を決められない。

その一方で、先に挙げた2chやブログ、そしてニコニコ動画もそうだが特徴的なのは、「見て!見て!私を見て!」という独善的で刹那的なコメントだ。これが日本人の基本姿勢だ。

言わば、「人は一人では生きられないが、地球は自分中心に回っている」というのが、日本的メンタリティだと言える。そんな日本的なモノの見方、考え方に合うサービスは、シリコンバレーからは生まれてこないと思う。

日本的なソーシャルサービスは、コミュニケーションをできるだけ排除するか、コミュニティに強くコミットするか、といった極端な二択を迫られるような気がする。ほどほどのコミュニティ、ほどほどのコミュニケーションといったアメリカ的ソーシャルに行き着くほど、ヒトが成熟していない。

2010年9月1日水曜日

グッときたメッセージ

先日、霊山記念館に行き、展示内容がイマイチだったことは既に書いた。

実は、心が動いた展示もあった。

それは展示と言うと、やや憚られるような感じで、展示室の窓ガラスに貼った、若干やっつけ感の漂うものだった。ほとんど、見る人もいなかったようだが、龍馬の書簡を抜粋して、シールにして貼ってあった。

中でも乙女宛、慶応元年9月9日付のものはグッときた。

『じつにおくにのよふな所ニて、何の志ざしもなき所ニぐずぐずして日を送ハ、実ニ大馬鹿ものなり』

維新のど真ん中、薩長同盟締結の半年ほど前、薩摩、長州、京都の間を日本の未来について熱い議論しながら駆け抜けていた頃ではないだろうか。

今にも時代が変わらんとしているのに、何をグズグズしてるんだ、という焦り。志を持てないような場所に居続けることは無意味だという想い。そんな所にいたら腐ってしまう、自分の目には見えている未来。日本は変わるんだ、だから志があるのなら今すぐ飛びたて!という気持ち。

どの時代の、どのレイヤーにいても、共通する想い。勇気と覚悟を持って行動した人だけが真に感じることのできる想いだと思う。

2010年8月30日月曜日

カラフルな人生

100年前のロシアで撮られた写真がある。なんと、カラー!しかも、鮮明!

http://www.boston.com/bigpicture/2010/08/russia_in_color_a_century_ago.html
撮影された当時には、カラーで復元する技術はなかったと思われる。光の原理に基づき、RGB三色のフィルターをかけた3枚のモノクロ写真を残しておけば、いずれカラーで復元されるだろうと考えたのか。

モノクロでしか見たことのない昔の人物、風景をカラーで見ると、突然としてリアリティを増してくる。彼らも僕らと同じように、二度とこない時間を懸命に生きていたのだと思うと、少し切ない気持ちになる。

モノクロは余分な情報を落とすことで、カラーよりも饒舌に語り始めることがあるが、やはり絶対値としての情報量が少ない。

会社のフィルターを通して見るモノクロの世界から抜け出し、カラフルに生きないと、風景に埋没して無価値になり、リアリティのない過去のヒトになってしまう。

2010年8月27日金曜日

位置認識をアウトソーシングするか否か

従来の情報提供サービスは、サービス受容者の位置をGPSやWi-Fiなどを使って自動認知するという形で設計されていることが多い。つまり、自己位置認識に関してはアウトソーシングしているという事だ。

位置認識の自動化は、提供するサービスに注力できる事が大きなメリットだろう。

例えば食べログや30min.は、ブログなどのソーシャルな意見を集め、整理するプラットフォームであれば良い。こういったマッシュアップサービスは、既存のデータがフル活用できるのて、非常にクレバーなやり方だと思う。お店の場所は住所で、利用者の場所は例えばGPSで、それぞれ住所なり店名で結びつけて一つのサービスとして提供している。

課題は、利用するデータが公開情報ばかりなので、うまく行きそうなサービスは、すぐにコピーされることだろう。UI以外の優位性がないのが痛い。逆に、追い込むべきは極論するとUIしかないので、開発のスピードは早い。つまり、良さげなサービスほど競合が生まれやすく、ラットレースになるという特徴がある。

また、サービスとしては色んな意味で曖昧にならざるを得ない。

住所データは、お店の場所と1対1ではなく、指し示す場所が区画の中心であることが曖昧さの元凶だ。また、GPSは精度がイマイチで天候に左右される。実際、カーナビの精度はGPSとは別に速度計測、ジャイロ、マップマッチングと、様々な機能の組み合わせで成立している。Wi-Fiは電波強度を計測しているので、キャリブレーションが必要だ。つまり、どこでも使えるものではない、という点が課題だ。

一方Kozchiでは、各店舗に付与するメールアドレスに位置情報を紐付けているので、自己位置認識も内製化している事になる。

メリットはデータがシャープなこと。ココにいてアソコに行きたい、という行動に高い精度で追従できる。Kozchiでは中距離と呼んでいるが、目視できないけど近くにある店にアプローチする術ってのは、そんなに多くない。

そして、情報獲得にスキルが必要ない事が挙げられる。何でもそうだが、自動化されている仕組みを使った時にシステム側の認識の誤りってのはどうしても発生し、これを修正するのには、それなりのスキルが必要になる場合が多い。つまり、多くの人は間違いを間違いのまま受け容れるしかない。マイクロソフトオフィスで、自動的に設定されるグラフの色などを変えるのが意外に難しいことからも、自動化の弊害は割と身近に存在していることが分かる。

Kozchiでは位置認識の自動化をしない、つまり、"自分はココにいる"ということを自己申告することで実現している。

位置認識を自動化しないことは、利用手順に一手間付け加えることになり、サービス設計として不利なのは否めない。それでも、精度の高さがサービスの質を高めるとともに、万人にとって使いやすい仕組みになると信じている。

2010年8月25日水曜日

京都・霊山護国神社

お盆休みの終わり、関西から横浜へ帰ってくるのに、京都発を選んだ。理由は色々あるが、京都にはチャンスがあればできるだけ訪れるようにしている。

今回の目的は霊山護国神社。

それにしても人が多い。日本全国、お盆でお店が閉まっているのに、京都だけが全開だ。年末年始やお盆といった日本的行事は京都なしには語れない。

霊山護国神社は、祇園八坂神社と清水寺の間、高台寺の隣にある。神社と寺は、お互いを補完するかのように、多くの場合、隣り合っている。面白いもんだ。

八坂神社や清水寺は何度も訪れたが、霊山護国神社は実は初めて。何でだろ?

この辺りは、意外にアクセスが悪いので、季節の良い時期に一日かけて歩き回るのは良いが、この季節は倒れそうになる。折角なので、その他史跡巡りを兼ねて、京都から地下鉄に乗り、四条で降りる。まず向かったのは近江屋跡。四条河原町、坂本龍馬、中岡慎太郎の遭難の地である。何の変哲もない碑が、人通りの多い河原町通りにある。遺構があるわけでもないので、ただ、その時に事件が起こった事が事実として伝えられているだけだ。ネットで検索して得られる以上の情報はない。




その後、河原町通りの向かい側にある中岡慎太郎寓居地の碑を確認し、まぁこれだけ近ければ遊びにも来るわな、と思いつつ祇園方面へ歩くが、あまりの人の多さに四条通りを諦め、祇園の中を通り抜けていく事にした。

ここは韓国人ばかり。きっと外国人観光客はかなりの数なんだろう。さすが、京都。

建仁寺を抜け、八坂通を東へ。東大路通を越えると間もなく目的地、霊山護国神社。その麓に立ってみると、ここは割とよく通った場所だと気づく。うーむ、こんなに身近にありながら、一度も登った事がなかったとは。




猛暑の中、登っていくのは中々辛い勾配のキツい坂を登り、到着。300円払って墓地へ。

ここは、国の為に亡くなった人々を祀る場所で、坂本龍馬、中岡慎太郎を筆頭に、桂小五郎、高杉晋作など維新の志士達が多く眠る。彼らの墓前に立つと、自分の不甲斐なさ、未熟さを感じる。暑い中、多くの人がお参りし手を合わせていたが、自分は手を合わせる気がしなかった。私利私欲を排して生き抜いた彼らに対して、何者でもない自分が私利私欲を叶えんが為に手を合わせるという行為が全く整合せず、ただ墓を見つめて、自分を省みるのみだった。



その後、すぐ近くにある霊山記念館に寄った。入場管理が緩く、料金を払わなくでもよさそうなものだったが、一応払った。700円。しかし、払うに値しないレベルの低い展示にガッカリした。展示内容が整理されてないし、ほとんどがネットで確認できる程度の情報でしかなかった。何にも知識のない人に向けた展示施設と思えば、間違いがない。小学生向き。

記念館を出て川端通まで歩き、木屋町を三条まで北上。新京極を南下して、錦で西へ。烏丸まで歩いて、気がついたら先ほど出てきた四条の出口に着いた。グルーっと一周した事になる。

京都の街は、他の都市にない特徴がある。

それは信じられない範囲で、お店が広く低く軒を連ねている事だ。この酔狂な一周コースでも、そのほとんどの場所で通りの両側にはお店が並んでいた。街の全域が観光地だから、駅が近いか遠いかはほとんど関係ない。だから、お店の数なんて分からないんだけど、Kozchiの導入が最も奏効する場所と考えられる。

間違いなくKozchiにとって、最重要な都市と言えるだろう。




2010年8月23日月曜日

見苦しい地デジカ

このままだと期限までに全面普及できないと見て、なりふり構わず露出を増やしている地デジカ。

この費用対効果の低い作戦を考えたのは一体誰なのか?既に地デジを導入している世帯にしてみれば目障りでしかなく、未だに地デジに対応していない世帯にとっては何の訴求力もない、愚策中の愚策だろう。

最近、視聴率が取れそうな番組のCM時間の長さは尋常じゃない。単価が下がっているからなんだろうが、番組を劣化させ、結果としてCM価値を落としているだけのような気がする。

こういったTV局の施策を見るにつけ、テレビの時代は終わったと痛感する。既に見たいと思える番組も少ない。ニュースも含めて偏向的な番組も多く、正確な理解の妨げになっている場合も多い。

テレビ業界も、お互いに横睨みで尻を追いかけ合うのではなく、それぞれの立ち位置を明確にして、ビジネスモデルを変えていく必要がある。

無理矢理テレビを買い替えさせて、愚劣な番組を供給するのでは、詐欺に近いだろう。

2010年8月20日金曜日

池田・小林一三記念館

阪急電車の中だったか、阪急創始者・小林一三氏の記念館が池田にある事を知った。

自分が生まれ育ったエリアの代表的な電車であり、現在住んでいる東急沿線の発展にも大きく寄与した人物である事は知っていたので、取り合えず行ってみた。

最寄駅は阪急池田駅。実家からさほど離れてないが、初めて訪れる場所だった。いかにも古い街並みを抜けて、クネクネと10分ぐらい歩く。途中、逸翁美術館というこれも小林一三氏の美術蒐集品を展示した施設がある。どうやらこの辺りは、阪急が宅地開発、住宅分譲に乗り出した場所らしい。その当時のものと思しき長屋風の建物も残っていた。

その先に、先日亡くなった阪急元会長で小林一三氏の孫である小林公平氏のお宅があり、隣に目的の記念館が見えた。



立派な門をくぐり、チケットを買う。どうやら建物は二つあるようで、時間もないので手際良く見ていかなければいけない。一つ目は、小林一三氏の業績をビデオ、パネル、模型、実物でバラエティ豊かに展示した施設だった。

まぁ、この人は色んな事をやっている。事業を始める前の経歴も変わってて、面白い。山梨県に生まれ、慶応義塾に入る。三期生で、同級生は30人くらいだろうか。福沢諭吉を中心にした卒業アルバムがあった。その後、三井銀行に入社。まだ、銀行として営業を始めたばかりで「為替バンク三井組」と呼ばれてた頃だろう。三井で14年ほど勤める。あまり取り立てられず、知り合いの証券会社設立話に乗って退社。「うまい話があるんだ」という感じだったのかも。しかし、その会社も設立叶わず廃業。途端にプー。見るに見かねて、知人が職を紹介。でも、清算予定会社の監査役という微妙な役回り。ここまでは全く良いことがない、という感じだ。

その清算寸前の会社を立て直した辺りから風が吹き始める。立て直しのカギになったのは宅地開発。線路に沿って何度か歩いている時に閃いたらしい。人が住めば路線を栄える、と。そのアイデアを例の紹介者にして見ると、総論賛成だが出資については首を縦に振らない。覚悟を見せろと言われ、自分も目一杯出資する上に、出資者のリスクは小林が被ると言う。つまり、損はさせないという事。これで出資が集まり、無事、会社を清算せずに済む。これが阪急の前身。

その後、高校野球やタカラヅカを始め、阪急は大企業となる。小林はその手腕を買われ、電力業界の立て直しや商工大臣などを歴任した。

華やかな人生も、そこに至るまでの艱難辛苦は計り知れない。逆境に負けない力と覚悟が必要だ。

最後に、池田駅のKozchi特性を測る意味で商店街をブラついて見た。池田駅前は二つの商店街が繋がっており、全部で100店舗くらい。さらに商店街から少し離れた場所や駅の反対側を考慮すると、250〜300と推定できる。割と駅前にまとまって、広く低く分布しており、Kozchiが活かせそうな場所と感じた。




2010年8月18日水曜日

2010夏琵琶湖

先週、夏休みを取って恒例の琵琶湖へ友人たちと行った。

もう20年近くは続いているだろうか?最初は単に「一緒に遊ぼう」という程度で、それでも年に2〜3回は集まっていたかもしれない。それが、段々と旧交を温める意味合いが強くなり、年1回に。そして、皆が家庭を持つようになって、家族としての交流会のようになっていった。今は、ちびっ子ランドと化している。

しばらく続けて分かったのが、こういった定期的な集まりには、とても意味があるということ。

特に年に2回ぐらい集まると、互いのステータスに飛躍がないので、相手の状況を確認し合う時間が必要ない。それぞれ違う会社で勤め、ルールや文化の違いに戸惑い、地元を離れた悩み多き若者には貴重な機会で、下らない事から、それなりに哲学的な事まで夜を徹して語り合った。そして互いが互いに刺激を受けつつ、散会する。そんな時に、互いのステータスが分かっている事は、時間的にも会話の質的にもプラスだったと思う。

時は流れ、年1回になるとともに新しい仲間や家族も加わり、20年前とは互いの状況も悩みも違う訳だが、相変わらず、その存在を確認しあえる環境がありがたい。特に今年はちびっ子が多かったせいか、極めて健全で、酒もほどほど、夜も素早く、語り合うほどの時間も無いまま、時は過ぎた。それでも十分に有意義だと言える時間だった。

しばらくしたら、子供は子供の時を過ごすようになり、手が掛からなくなって、今度は離れて行くことになるだろう。それでもこの集まりは続いていくだろう。

これからの10年、20年(還暦!?)は、どんな会話をするのか、今から楽しみでもある。また、その頃の自分は、皆に刺激を与えられるような生き方をしてるのだろうか?そんな事を考えた、琵琶湖の夕闇だった。





2010年8月16日月曜日

平和だから幸せなのか?

昨日、終戦記念日だった。65年という何となくの節目でもあり、何となく過ぎたように思う。

テレビを見ていて目立ったのは「今の日本は幸せだと思いますか?」という質問で、TBSドラマ「歸國(きこく)」でも、南の海で戦死し幽霊となって帰ってきた兵士たちが問い続けていた。ドラマ自体は極めて陳腐で、我々がこれら戦死者の犠牲の上にいる事を想起させるほどのリアリティもない、ただの情緒的なドラマだった。

ドラマの中で、現代社会の成功者モデルとして描かれる石坂浩二が「私はどこで間違ってしまったのでしょう」と、幽霊である戦死者のビートたけしに問うていた。このドラマの文脈では、金を稼ぐことに終始することではなく、貧しくとも忠孝を忘れず、祖先を敬い子供を育てる事、小さな世界の小さな満足に幸せを感じるべきだ、という論調だった。足るを知ることで、真の幸せが得られる、と。今の日本は、決して幸せではなく、間違った道を歩いているという事らしい。

きっと民主党が影のスポンサーになって作ったのだろうと推測するが、行き過ぎた資本主義を憎み、最小不幸社会が理想であるとの思想が見え隠れして見苦しかった。

そう考えると、様々な番組で繰り返される「今の日本は幸せだと思いますか?」という質問自体が民主党のキャンペーンなんだろう。「幸せか?」と問われて、多くの人が幸せと答え、不幸せと答える人は直近に離婚したり、職を失った人ばかりと言うのも、かなり作為を感じさせる。

幸せの尺度なんて人それぞれで、金に求めても良いし、家族に求めても良い。それをどうこう言う権利は他人にはないはずだ。が、日本人は他人との相対感の中でしか自分を見つけられないので、他人の幸せを羨ましく感じて、結果、悪平等な最小不幸社会なんて言葉にコミットしてしまう。

一方で「国としての幸せ」の解を、今現在にのみ求める刹那的な回答に、この国の民度の低さを感じる。過去からの流れ、そして未来への展望も含めて、現在の幸せのカタチが見えてくるものだと思う。

未来に責任を持たない人は、「こんな平和で安全な国で不幸な訳がない」と答える。この平和や安全を維持するために何をすべきかに思いを馳せ、現時点としてのやるべき事がなされているか、それが国としての幸せの尺度になるはずだ、という所に思いが至っていない。

今現在のように、祖先の努力、蓄積の上に安穏と暮らし、未来への積み上げに意識が向かない国、さらに言えば政治及び国民性では、国としての幸せは程遠いと言わざるを得ない。

勘違いしてはいけない。平和で安全だから幸せなのではない。

平和で安全になる努力を続けているから、未来もそうだと信じるから幸せなのだ。だから、戦争で亡くなった方々は、ある種の幸せの中にある。個人としては絶大な不幸である事は間違いないが、自分たちの子孫や国の未来という視点で見たときの幸せのみを頼りに死んでいったのだ。

彼らの気持ちを無駄にしてはならないし、こういった視点を未来に対して持ち続けなければならないと感じた終戦記念日だった。

2010年8月13日金曜日

機能とデザイン

機能を重視する姿勢が日本の製造業をダメにしてきたんじゃないかな?高機能を追求する姿勢の先にイノベーションはほとんどなく、漸進的な進化があるのみ。

持っているモノの中でかなり大切な何かを捨てないと、新しいモノは得られないということではないかな?そしてそれはムリのあるデザインや設計などによる追い詰められた状況がドライブするとは考えられないか?

機能優先ではイノベーションが起こり得ず、デザイン優先によってのみ生まれると言えないか?

2010年8月11日水曜日

物を作る人と価値を創る人

物を作る人は収益を消費に回し、価値を創る人は次の投資に回す。物を作る人は身を削ってお金を作り、価値を創る人は周りを巻き込んで収益を作り込む。

2010年8月9日月曜日

モノ作りと仕組み作り

2005年ごろ、自分はモノを作りたいのか、仕組みを作りたいのかを自問していた。まだ、プラットフォーム戦略なんて言葉もなかったし、少し日本の景気も良くなってモノ作りに勢いが戻ってきた頃だった。

その時の結論は、自分は仕組みを作りたい、皆が使える便利な仕組みを作って世の中を変えて行きたい、と思った。それからは、ゼネコンの研究所にいながらも、モノ作りには全く興味がなくなり、どうやったら今いる場所と仕組みの整合を取れるのかばかり考えていた。

今後、50年かけて作った仕組みは、その後50年間は使われ続けるだろう。つまり、良きコンセプトは今後100年間に影響を与え続けられるという事だと理解していた。

そこで気付いたのは、社会の仕組みを考えるのは比較的できそうだけど、会社の仕組みを変えることはかなり難しそう、ということだった。

つまり、社会にはまだまだ仕組みとして不備があり、ニッチを狙えば、将来的な拡がりも含めて可能性が感じられるのに対して、会社は仕組みを仕切っているゲートキーパーのような役割が厳然とあって、新たな仕組みを入れる余地が少ない上に抵抗も大きそうと感じた。

今、プラットフォーム戦略とか言っているのは若い企業ばかりで、伝統的大企業がプラットフォーム的な振る舞いをする事はほとんどないことを見ても、既存の会社にとってプラットフォームという事業の枠組みはフィットしないんだろう。

そんな事を考えていた時に、Kozchiの原型を思いついた。

2010年8月6日金曜日

技術とビジネスのギャップ

「日本には技術はあっても、それをお客様に伝える力が欠けている」

よく言われる言説ではあるが、真理なんだろう。大前研一のようなプロから、渡辺謙のような素人までが感じる、わが国の閉塞感の元凶。それが、技術とビジネスのギャップだ。

そのギャップのベースにあるのは、『ビジネス』をどういったレベルで認識しているか、の違いではないかと感じる。ビジネスを、モノを売るだけと捉えるか、売った先にある世界を意識するかの違いとも言える。

某ゼネコンも、ライフサイクルパートナーと称して、ビジネスを広く捉える姿勢を取っているが、提供するモノの使われ方を継続的に提案したり、周りに拡がるエコシステムを構築したり、そういったプラットフォームを積極的にハンドリングしたり、という活動をする訳ではない。

つまり、いつでも体制を整えておくので継続的に仕事を下さいね、または、新製品も買って下さいね、ということでしかない。欧米の得意な、いわゆる『ビジネス』の形ではない。

根本的な違いは、メンタルにあると思う。とにかく日本人はケチくさい。

水平分業に象徴されるようなビジネスは、物事を大きく見れないとダメだし、Win-Win-Win---な関係を目指さないとダメだし、ギブアンドテイクではなくギブアンドギブンでないとダメだし、大きなモノを得るためには少なからぬモノを捨てなければならない。

日本人のように狭い心で商売していたら、当然自分だけ儲かれば良いという部分最適に陥る。プレーヤー全員がそんな気持ちで動いていたら、お互い疑心暗鬼になり、ベストを尽くさず、ほどほどのお付き合い、と言うことになる。自分に降りかかる作業は最小限に、メリットは最大限にという考え方が主流になるだろう。そして、同業での棲み分けは進まず、同じ様な商品を同じタイミングで作り出し、開発費を回収する間もなく、コスト競争に巻き込まれる。

エネルギー関連の動きを見てもそうだし、社内を見てもそうだ。こういうのを蛸壺って言うのかな。

技術だけでなくビジネスでも世界をリードしたいと思うなら、このケチくさいメンタリティーを何とかする必要がある。正直者がバカをみる社会、成功者が妬まれる社会には先がない。

まずは自らの立脚点を明確にすること。そこでの優位性を絶対的なモノにすること。そして、そこからの兵站を無闇に伸ばさないこと。しかし、エコシステムとしては拡がる形で仕様を公開すること。そして、そのエコシステムをデザインし、ハンドリングすること。

みんなの意見をよく聞き、みんな/大多数が納得/妥協できるポイントを探し当てる能力が必要だろう。

2010年8月4日水曜日

建設会社の科学的ポジション

人文科学や社会科学が研究するのは、主観と客観の程良い妥協点なんだろう。

主観的すぎてはもちろんダメだが、客観性の過度な追求もナンセンスだ。「過半数の専門家が納得する事のできる主観性を帯びた主張」という辺りが定義としては適当なのではないか。自然科学系が客観性に立脚しなければ意味がないのとは、当たり前だが立ち位置が違う。

思えば、自分が建設会社にいて研究と言ってきたものは、社会科学系のものが多い。建築なんて自然科学の塊なのに、不思議だが。実は建築には、自然科学で処理できる部分と、社会科学的に解を見つけていかなければいけない部分とが、あまり明確に分かれていないという特徴がある。

分かりやすいのが「設計」と言う行為。大きくは3つに分かれ、相互に依存しあっている。

その中でも全てをまとめ、設計プロジェクトとしてハンドリングするのは意匠設計である。意匠設計は、与えられた敷地と希望の用途を鑑みて、正解のない解を組み立てる役割を担っている。つまり、社会科学的な振る舞いを求められている、と言うことになる。

施工においても同様で、作る行為の裏付けは自然科学的な論理性を基礎としているが、実際の行為は職人さんを取りまとめて運営すると言う、およそ論理からはかけ離れた正解のない世界を漂うことになる。

また、建築を語る上で欠かせない歴史なんて、人文科学以外の何者でもない。

つまり、建築を覆っているのは、そういった科学のカテゴリーを超えた世界観なんだと思う。工学部でありながら、極めて曖昧な定義の中で、自由にそれぞれの立脚点を作り、拡大・拡張に向かう学問領域が建築なんだろう。

この辺りの認識がしっかりしてないと、定義が緩いがゆえに、また、客観性が乏しいがゆえに、道に迷う事になる。要は、客観性だけを求めるような認識を、本人が、上司が、組織が持っていると、人を正しく評価できなかったり、適切に指導できなかったりして、人材をうまく使いこなせず、ダメにしてしまうか、散逸してしまうかになる。

スピンアウトベンチャーや転職などで人材流出が顕著なゼネコンでは、社員たちが誇らしげに「人材輩出企業」と言っている場合があるが、実は、「もの作り」に固執して、会社が硬直化していることの証左なのかも知れない。

2010年8月2日月曜日

混んでない時間帯の女性専用車

所期の目的を見失っているものの一つ。

前から女性専用車という定義には不満がある。女性を痴漢被害から守りたいという気持ちはよく分かる。が、社会実験として取り組んだのであれば、実験結果を公表すべきだし、結果の考察をもってようやく、社会実験としての用を為す事になるのではないかと思う。

優先席もそう、携帯電話の利用ルールもそう、鉄道事業者の施策には結果を追求しないやりっぱなしのものが多い。しかも、一度設定したルールが見直される時は、それが強化される時だけで、廃止や緩和の方向に舵が切られることはない。

社会性の高いインフラ事業で社会実験を行うことは非常に有意義だとは思うが、社会に影響力を持つインフラ事業だからこそ、そのルール設定は慎重にするべきだし、結果の公開ならびにパブリックコメントの受付など、透明性確保にも努めてもらいたいものだ。

インフラ事業が普通のサービス業と違うのは、このポイントだ。ルールが気に入らないなら、使わなければいいじゃないか、という一般のサービス業に当たり前の感覚は当てはまらない。

インフラ事業を続けたいなら、利用者だけじゃなく広く一般市民に意見を聞き、誰からも文句が出ないことだけを目的にするのではなく、利便性と合理性を基本とした社会最適な仕組み、ルールを制定するべきだろう。

闇雲にルールで縛りつけるのは、インフラ事業者の傲慢でしかない。

2010年7月30日金曜日

スマートグリッドの危うさ

ここの所ずっとスマートグリッドの、少し広く言うとエネルギーについて考えている。

再生可能エネルギーや原子力、バイオマスなど、現代はエネルギーを選びたい放題なんだけど、コストとの見合いで、化石燃料メインで落ち着いている。

スマートグリッドは、大きく分けると(1)発電(2)送配電(3)デマンドサイドマネジメントに分かれる。スマートグリッド的には(1)はメガソーラーやウィンドファーム、(2)は直流送電、(3)はデマンドレスポンス、になる。

結局、何を選択しても莫大なコストがかかる。省CO2という目的に対しては正しい方向に進んでいるが、一体誰がそのコスト負担をするのかという事になる。まぁここには議論の余地がなく、最終消費者だと言える。つまり、省CO2な取り組みを許容するためにはカネが必要で、省エネを推進して、その原資を稼がなければいけない。省エネなくして省CO2はないのだ。

人々が省エネに取り組んできたのは、何よりカネの節約になるからで、その結果として個人の懐が暖まるからに他ならない。しかし、省エネはもはや節約の手段ではなく、カネを稼ぐ手段として期待されている事になる。そして問題は、省エネを推進しても、高コスト発電を使うようになった結果、電力単価が上がり、消費者の懐は何ら暖まらないという点だろう。むしろ、お寒くなる可能性の方が高い。

この先化石燃料の価格が上がり、再生可能エネルギーの価格は下がる方向にあることは間違いない。よく言われるのは、高コストと言われる再生可能エネルギーの価格がグリッドパリティに近づき、越える時期が遠からず来るだろうということだ。(グリッドパリティとは両者の均衡点を指す言葉)

これって化石燃料を使い続けても電気代は上がるんだから、相対的に安くなる再生可能エネルギーを積極的に使おうよ、ということだが、個人の電気代は否応なく上がって行く事になる。電力使用量は減ってるのに、上がって行く電気代。

頑張っても頑張っても、電気代をは下がらない。良くて現状維持。高いお金を出して省エネ家電に買い換えてもダメ。気を抜いてもダメ。絶対的なお得感もなければ、何年使えば元が取れるという計算もあまりリアリティのある話ではなくなる。

そんなスマートグリッドにみんな乗っかりたいと思うのだろうか?

可処分所得が減る中、上がり続ける電気代。やらなきゃ損する、という詐欺のような言い方しかできない省エネではなく、やると得する、という言い方ができるようにならないと、人々は積極的に参加できない気がする。

エネルギーは全て共有化して、みんなで作って、みんなで使う。賢い使い方をして「エネルギーポイント」を稼ぐと、ポイント数に応じたご褒美がある。エネルギー使いが荒いと、単価が上がるなどのペナルティがある。と言った仕組みがないとダメじゃないかな?

スマートグリッドを中心としてエネルギー問題を考えると、どうしても社会主義的になってしまうが、今後は資本主義と社会主義の使い分けが大事だと思う。また、日本はそういった曖昧な使い分けが得意な国だとも感じる。

政治力次第だが、意外にスマートグリッド的な社会構造は日本にフィットするのかも。

2010年7月28日水曜日

小さな命が呼ぶとき

面白さという観点では、5段階評価で3ぐらいか。

実話ならではのリアリティのある情熱や行動力に、自分が同じ境遇だったら、という想像が絡み付いて、見入ってしまう映画だった。ハリソン・フォードが演じるストーンヒル博士の濃いキャラクターがなければ、映画としては成立しづらい感じだったかもしれない。

障害を持つ子供の親の行動力が、世の中を前に進ませる原動力になることはよくある。北朝鮮拉致被害者も同じような感じなんだろう。

状況を打開するためについた軽い嘘を現実のものにする為に、西奔東走することになる主人公。でも、その頑張りが、新たな繋がりをつくり、情熱の相乗効果が良い結果を生み出す。

何より、ビジネスを前に進ませるのは、並大抵の決断力では間に合わない事がよく分かった。何をゴールにするかによっても、随分と方向が変わる。

博士は、自分の理論の完成をゴールと考えている。自分のアイデアに固執しているので、なるべく秘密にしたいし、事業化するなら自分の利得を最大化したい。つまり、事業化するための金は欲しいけど、口を挟まれたりして、自分の思うようにできなくなるんだったらノーサンキューというタイプ。

一方の主人公は、子供の病気を治す事しか考えていない。子供の病気を治すためなら、法に触れない限りは、何をしてもいいだろうというタイプ。

子供のために、パートナーにとって非情な選択を繰り返す主人公。パートナーにして見れば、こいつと出会わなければ、、、と感じるシチュエーションの連続だろう。

主人公の行動や言っていることは正しいが、パートナーの気持ちも分かる。主人公がこの映画の状況でのインサイダー(障害を持つ子供の親)なので、余計に正論を言われると戸惑うだろう。こいつは客観的に判断しているのか、それとも自分の子供を助けたいがための詭弁を操っているのか。。。

ミステリーのように伏線やどんでん返しがないので、ストーリーに深みが無い、と言ってしまえばそれまでだが、軽いジャブのような揺さぶりは最後まで続く。

実話だけに下手に間引くと、とんでもなく平坦なストーリーになる可能性があり、2時間弱の中に収めるのは難しかったのではないかと思う。できれば、ドラマで見たい。

2010年7月26日月曜日

ビジネスの立ち位置と方向性

「どんなビジネスでも、上質とお手軽の二択でどちらを選ぶのか、その方向性を明確にしなければいけない」とは、「トレードオフ」というビジネス書の内容。まだ購入していない。

最近、色んなセミナーに行く機会がある。主にエネルギーやイノベーションが主題のものだが、導入部分として共通しているのは、現在の日本が直面している閉塞感。その閉塞感の原因も解消方法もほとんど一致している。ビジネス的なセオリーで言うと、満場一致に近いような解は正しくないハズだが、どうなんだろう?

良く言われるのが、「技術で勝って、事業で負けた」という事。そして、その解決方法はインテル・インサイドか、アップル・アウトサイドか。いずれにせよ「コアを握って周りを振り回せ!」と言うのが、勝利の鉄則らしい。

別の視点から「イニシャルからランニングへ」というのもよく言われる。技術が主導的な時期はイニシャルで稼ぐ事が優位だが、ビジネスモデルが主導するタイミングではランニングで儲ける必要がある。当たり前だ。

両者は結局同じ事を言っている。

うまくやっている国や企業を横目で眺めて、「ああすれば、うまく行くハズだ」と評論する事は簡単だが、そこには高いハードルがある。今までイニシャルで収益を上げてきた企業がランニングに移行するために切り捨てなければいけないモノもいっぱいあるのだ。垂直統合を水平分業に変える時も同じだ。

今まで技術で食ってきた人に、もう技術はサチっちゃってるんだから、新しい技術を作ろうとせず、枯れた技術の組合せを考えて、それに儲かるビジネスモデルを被せなさい、と言うのが正しいのか?そして、可能なのか?

サムソンでは、リバースエンジニアリングから商品開発が進むそうだ。新しい事は何もない、と。そして、リバースのリバースはフォワードでしょう、という解釈をしているようだ。

先日のセミナーでは、そんなサムソンに完敗している日本企業は、新しい技術を開発しようと躍起になるのではなく、リバースに専念するべきだ、プライドや先入観は捨てろ、という事を強調していた。だが、全てのプレイヤーがリバース志向でビジネスを考えた時、技術の向上や価格下落からの脱却は、どのように、誰が成し得るのだろうか?

日本企業は何でもやろうとして、また、何でもできてしまうので、結果として全てが中途半端になってしまっている。全部をやろうとせず、うまい役割分担を目指して、コアの部分を握る。それが、水平分業だと思うが、そのためには自分がどこのパートを担当して、そのパートに関して他の誰よりも上手くやれる事を証明しなければならない。

技術に特化して高級路線を追求するのか、それともリバースエンジニアリング主体でお手軽路線を突き進むのかは、企業もしくは事業単位で方向付けしておく必要があるだろう。

そのいずれの路線においても必要なのが、ビジネスモデル、つまり儲けの仕組みを作る能力・機能だ。自社の得意領域を見極め、追求するとともに、それ以外の領域を大胆に捨てられなければならない。

アップルも大きくなって、全てを自社リソースで賄う内製化を進めているが、これは、大きな会社だけが取り得るリスキーな作戦だろう。一歩足を踏み外せば、資産を積み上げている分だけ、坂道を転げ落ちるスピードも速い。

一般的な企業は、立ち位置(どの領域を担当するのか)と方向性(高級/お手軽)を明確にして、目的とともに、常に振り返る必要がある。

2010年7月23日金曜日

脱藩とは

脱藩を考える時、重要なのは「藩」をどのように定義するかだろう。国なのか、会社なのか、それとも自分なのか。それぞれの危機に対して、するべき事とできる事を整理すれば、分かるのかもしれない。

茂木健一郎先生のクオリア日記には最近、わが国に対する憂いが頻繁にアップされている。「日本は今、劣化しつつある。明治維新以来、紆余曲折を続けながらも躍進し続けてきた「近代日本」の「賞味期限」が切れつつあるのかもしれない」だから「自分という殻を脱ぎ捨てよう」と、自分からの脱藩を勧めている。

つまり、日本の危機に対して、自分の殻を破る事に解決策を見出そうという事だ。

ちっぽけな自分ができる事と言えば、自分を変える事ぐらいなので、当然と言えば当然だ。自分すら変えられないのに、会社や国を変えようなんて、おこがましすぎる。

福沢諭吉は「国を支えて国に頼まず」と、独立自尊の心構えが肝要とした。坂本龍馬は土佐藩からの脱藩を利用して自分の殻を破った。そうして作られた近代日本の全てが、しゃぶり尽くされ、出汁殻になってしまったのかも知れない。実は、三島由起夫が嘆いたように40年前から、つまり、福沢諭吉や坂本龍馬が作り上げてから100年ほどで、日本は既に空疎になってしまっていたんだろう。

鮮烈な印象を残す明治維新ですら100年しか持たない。その事に驚くと同時に、次の維新を起こす事に対する不安が増大する。明治維新は外国に侵略されるかも知れない、その巨大な恐怖がトリガーになったが、それに匹敵しうる脅威があるのか。

もの作りは韓中台にやられ、コンセプトや事業化は欧米にやられている、そんな中でも他人事な机上の戦略論に終始している産業界。リアルな脅威無くして動くことのない国民性。危機感を感じる感受性に乏しい社会。果して、IMFの介入をもってしても動けるのか。

もし、人々に行動を促すような具体的な脅威が表面化しなければ、日本の破綻懸念が国民に変化を起こさなければ、日本は次の危機がくるまで、江戸後期のような退廃した期間を過ごさなければならないかも知れない。

そんな事を考えていると、国や会社の事を考えている場合ではないと感じる。やはり、自分が変わる事が社会のためになると信じて、自分からの脱藩を試みるしかないだろう。その時に、自分と会社のベクトルが合えば、自分の変革はそのまま会社の変革に繋がるだろうし、そうでなければ、自分からの脱藩は即ち会社からの脱藩でもある。

いずれにせよ、卵の殻は自ら割らなければならない。自分で割れば命を得られるが、他人に割られる時は食べられる時だ。

2010年7月21日水曜日

スポーツとベンチャービジネス

W杯前後で、本田選手が様々なメディアに露出し、自らの考え方を語っていた。彼のような、口に出して自らにプレッシャーを与えることで成功確率を高める、有言実行タイプには、おそらく必要なプロセスだろうと思う。自分への自信を一定以上に持ってないと取れないスタイルだが、うまく回れば成長は早い。

その中でも、とても気になった幼少期のエピソードがあった。

子供の頃から当然、上手下手の差はある。大人のそれよりは遥かに小さな違いだが。多分、本田選手は足はダントツに速かった訳ではないんだろうと思う。自分には好きで得意な分野がある。そこに自分よりも才能があるように見えるライバルがいる。そんな時、どうするだろう?

何となく、あくまでも主観だが、日本人的メンタリティとしては「あいつにはかなわない」として諦めるか、「あいつを負かしてやる」と足の速さを追求するか、どちらかのように思う。つまり、才能は努力に勝ると考えるか、努力は才能に勝ると考えるかの二択で物事を判断してそうな気がする。特に子供の頃は、得意な才能を活かす役割分担なんかは頭にないから、一つダメなら全部ダメ、となりがちだ。

本田選手は、そうじゃなかった。「足が早くないと、世界レベルになれないのか?」「足の速さが一番じゃないヤツは夢を諦めなきゃいけないのか?」と考えたという。結論は当然、「そうじゃないだろう!」

多少足の速さで劣ったとしても、別の才能とそれに見合ったポジションが見つかれば、十分に世界レベルで活躍できるはずだ、と。才能とポジションを見つけられたら、世界一の練習を積め重ねていくだけだ、と。

多分、指導者なり保護者のアドバイスがあったんだろうとは思うが、幼少期に正しい方向付けがされた訳だ。ベースに本人の気持ちや練習に取り組む態度があるのは間違いないが。

少し話は変わるが、ベンチャーキャピタルのIVSで代表をしている小林さんも最近のブログで、ファンド資金を集めるのに、なかなか苦労されている様子を書かれていた。小林さんは前職グロービスVCでグリーを発掘した事でも有名だが、前職の実績が資金集めの役に立つ事はあまりないそうだ。とにかく、現職でのトラックレコードがないと話にならない、と。

新しいビジネスを立ち上げようとすると、必ず出てくるのがトラックレコードの問題。資金を持ってそうな人やアドバイスをくれそうな人に話をすると、今までどういった事業の立ち上げてきて、その結果はどうだったのか?を問われる。

「トラックレコードが無いと、何にもできないのか?してはいけないのか?」と言うと、決してそんな事はないと思うが、サラリーマンでいると、事業立ち上げのチャンスなんてなかなか遭遇しないので、社内外から様々な形で試してみるしかない。人様に胸を張って紹介できるほどの実績を作るのも、かなり難易度が高いが、やるしかない。

逆に言えば、トラックレコードさえできてしまえば、こっちのもんだ。動かし始めは大変だが、動き出してしまえば何と言うことのない話だろう。

今は、人様に紹介できるトラックレコードをいかに作るか、それに注力したい。

2010年7月19日月曜日

アンチ産業構造ビジョン

6月に出された「産業構造ビジョン2010」の中で、韓国との比較をした上で、一社あたりの国内市場が少ない事を指摘している。最近、よく聞かれる議論だと思う。

この議論の帰結は、多すぎる企業もしくは事業領域は積極的に合併や統廃合、要は整理する必要がある、ということだ。

数字のお遊びとしてはYesと言えるが、一方で実際的な効用としてはNoとも言えるのではないか、と感じている。

つまり、日本企業が創り出す製品、サービスに何を求めるかが、大きな判断基準になると思うのだが、企業なり事業を整理した場合に、そこから生み出される商品なりサービスは、国際競争力を持ち得るのか、という疑問がある。

韓国を範として、国内市場を一社もしくは少数の企業で寡占化することは、国内競争をグローバル競争に置き換えるだけで、結局はより厳しい競争環境に身を置くことになるだけなんじゃないか、と思う。

従来の日本国内の競争は、一見消耗戦なんだが、他国に類を見ない品質向上、オリジナリティの追求につながる土壌ともなっていることを忘れてはならない。

飲料品、お菓子から家電や携帯電話などを見ても分かるように、ガラパゴスと言われる一方で、日本国民は非常に大きな選択の自由を得ている。しかも、世界的にトップの技術が、比較的安価で選り取りみどりな訳だ。

つまり、過当競争が差別化や顧客満足につながる商品開発や企業努力を促していると言える。企業や事業の統廃合は、我々からこういった選択の自由を奪うことになる。

そして、企業にしても、これからの競争相手は韓国、台湾、中国のローコスト商品だ。それこそ企業体力は再起不能なまでに削ぎ落とされ、労働市場、雇用環境はボロボロになることが予想される。

ローコスト商品は他国に委ねて、高機能、高収益商品に特化すればいいじゃないか、という意見もあると思う。が、国内市場での消費者の厳しい目をくぐり抜けるというプロセスを経なくなった商品が、どこまでグローバルな消費者の支持を集められるかは疑問だ。

私たち日本国民は、高レベルで多様な選択肢を経済発展の、ある意味副産物として自然に得てきた。その過当とも言える国内市場の洗練を受けた商品が、グローバル市場の厳しい評価をものともせず、躍進してきた事実を考えると、行政がするべき事は、企業もしくは事業の統廃合ではないだろう。

国内競争とそれに伴う商品開発が維持できるよう税制などで支援する事、グローバル市場の中に漕ぎ出すための手助けをする事、著作権なども含めた知的財産をしっかり守る仕組み、体制を作る事。

そういった事が、企業もしくは事業の整理を促すといったお節介な施策よりも強く求められている。

2010年7月16日金曜日

ブレーン・ハッカー

なかなか面白い本だった。「ブレーン・ハッカー -巨人の「肩」に乗れ!-」

自分の考えに近く、全く違和感がないので、ある意味、新鮮味も少なかった。が、考え方が整理されているので、自分の頭の整理にも使えて、有用だった。

この本で言いたいのは、「本当の意味でオリジナルなアイディアなどない。独創性とは、他の概念の上に構築されるものだ」という事。だから、他の概念からうまく流用、転用、援用するやり方を提案します、というスタイル。

自分もオリジナルなアイディアなんて、世の中には無いと思っている。あったとしても、他の人には理解できないから、日の目を見る事はないと思う。多くの理解者が必要な「ビジネス」という領域ならなおさらで、元となるアイディアをメタファーとして、使い回して行く事が大事になるだろう。

その意味で、本書で示される6つのステップは分かりやすいし、思考のレールとして有用だと思う。

曖昧にしがちで、でも曖昧にすると決して解が得られない第1ステップ「定義する」がもっとも大事だろう。

解決しようとしている問題は何なのか?範囲が広すぎるとボンヤリして解に辿り着かないし、狭すぎるとただのToDoになってしまう。適切な大きさの問題を定義する事が大切だ。

突如として話は飛ぶのだが、以前に読んだ任天堂岩田社長、糸井重里、梅田望夫の3者対談でも同じ事を言っていた事を思い出した。確か、エンジニアは皆、目の前にある問題を解決したがっている。それは本能のようなもので、解決せずにはいられない。ただそれが、適切な大きさの問題でないとダメで、適切に切り分ける能力こそが大事、みたいな話だったと思う。

本に戻ると、次は「借りる」というステップになる。同じような問題を抱えて、しかも解決している業界や商品やサービスを、想像力を最大限に使って広く探してくる、という事。そして、それらをメタファーとして認知し、組み合わせる。ここで、認知レベルをあげる事も一つのコツだろう。

で、しばらく寝かせる。。。
複数の業務を同時進行していれば、自然と寝かせる期間を作る事になるので、できればいろんな事に首を突っ込んで、思考を入れ替えながら進めるのが、良さそうだ。

しばらく頭を冷やした後で、冷静にプラスとマイナスを考える。ここでは極端に判断する必要があって、中間的で中庸な意見は必要ないだろう。冷静な、そして要素分解的な分析の上で、直感的で総合的な判断を行う。

そして、これらを繰り返す。

オリジナルなんて無いんだよ、模倣が大切だよ、としつこく迫るので、人によっては、やや素直に受け入れ難いような部分もあるかもしれないが、総じて真っ当で普遍的な考え方だと思う。

あと、洋書の翻訳本によくありがちだが、言い替え、繰り返しがすごく多い。多面的な理解を深めるには良いが、ややかったるい。

まあ、それを差し引いても良書だと思う。

2010年7月14日水曜日

チームの温度を下げない

plan do seeの社員心得の一つに「チームの温度を下げない」というものがあるらしい。(日経ビジネス2010.6.28 p29)

その行動規範というか作法は、「仕事場のドアを開ける前に自分のテンションを一度上げること」「常に仲間をモチベートすること」「どんな会話も否定から入らないこと」といった事のようだ。

最近、一橋大 野中名誉教授の講演を聞いた。前半はSECIモデルを使って、知の結合による新たな知の創造のような話をされていた。最近は特に実践知というのを重視しているらしく、その高め方としてホンダが提唱しているワイガヤの効用について熱を入れて説明していた。

マネジメントを論理的に体系化する手法はこれまで様々作られてきたが、結局最後は人のつながりがカギになる、というのは興味深い。

多くの日本企業はバブル崩壊と相前後して、論理的なマネジメントを志向する傾向を持ち、人のつながりを排除する施策を取り続けている。その多くが今、存亡の危機にあると言える。

福利厚生の縮小は従業員からウェットな関係・意識を捨てさせ、会社への帰属意識を薄れさせた。成果主義は個人プレーを助長し、チームワークという言葉を有名無実にした。四半期評価は短期での実績にフォーカスする事で、長期的な視点を失った。

そして今、高名な経営学者も昔に帰ろうと言っている。昔の日本企業が持っていた労使一体化したウェットな関係が、マネジメントにおいても、イノベーションにおいても重要である、と。

plan do seeの行動規範のように、チームの温度を下げないために、個々人ができる事をもう一度見つめ直して、個人と個人、個人と会社の関係を仕切り直せば、会社は良いようにしか変わらないだろう。

ただ、既に舵を切ったタンカーのように重鈍な大企業にそれを求めるのは無理がある。なぜなら日本の多くの企業は、変化する事をDNAとしてビルトインされてないので、自らが自律的に変化していく事ができないからだ。変われるのは、前任者を否定できるタイミングで、トップダウンでドラスティックにというのが、歴史の教訓だろう。

2010年7月12日月曜日

200

なんやかんやで、200エントリー目。1年と3ヶ月で達成。

相も変わらず、毎週月水金と更新を続けている。始めた頃と違うと言えば、手持ちのストックが少なくなったことか。元々、始める時にネタの枯渇を懸念して、事前にネタのネタを溜め込んでからスタートした。今ではネタとして古いものもあるし、単に一言キーワードのようなもので文章として膨らませられないものもある。

最近は、割と直近で感じたことをそのまま上げているパターンが多い。本業、通勤、時事、そしてKozchiに関する事がメインの4本柱かな。今後はKozchiを多めにして行きたいが、どうなることやら。

これからもよろしくお願いします。

2010年7月9日金曜日

5-why@kozchi

トヨタ式として挙げられる問題解決手法に5-whyというものがある。正式名称は知らないが、5回「なぜ」を追及すると、根本原因に辿り着ける、というものだ。

こう言った手法は、本を読めばいくらでも出てくるが、実は実践はすごく難しい。SWOTやブルーオーシャン戦略マップも、実際に使ってみようとすると、すぐに挫折することになる。

その理由は、対象物への理解や定義が足りないからだと思う。本に書かれている内容を読むと、ボンヤリした対象物の輪郭をクッキリさせることができるように感じるが、この対象物のボンヤリさが問題だ。

全く外形も見えていないものをSWOTにかけても、何も出てこない。ブルーオーシャンにしても、その対象物の構成要素が明確でないと、削る、減らす、増やす、付け加えるの各行為が意味を持たなくなってしまう。

これまでKozchiを題材にいくつかトライしてきたが、今回は5-whyを実践してみた。お題は、「Kozchiは何を問題と捉え、どのように解決しようとしているか? 」である。以下のようにざっくりまとめてみた。

自分の頭を整理する分には有用で、次にするべきタスクや検討課題が明確になって良いと思う。ただし、一人で「なぜ?なぜ?」とやっても、なかなか発想の飛躍は得られない事が分かった。当たり前か。

(問題)
 ・初めての場所で適切なお店を見つけられない
 ・なじみの場所でフレッシュな情報を得られない
(解決の方向性)
 ・どんな場所でも自分の望む店を素早く、簡単に見つけだせる
(解決策)
 ・お店を繋いで、情報のパスを作り、目の前の人を誘導する
  ・Connecting the Shops/Customers
(具体策)
■ 簡単、便利なサービスになる(機能を絞る)
  ・PC/WWWを使わない
  ・目の前のお客さんに向けたサービスとして提供する
 ■ ニーズをしっかり把握する
  ・物販店でも使えるサービスにする
  ・街歩き用サービスとして確立する
 ■ 面倒な仕組みがない
  ・メンテナンスは最小限にする
  ・登録情報は最小限にする
  ・分かりやすい使い方を提示する
 ■ 利用者/シーンを明確にする
  ・利用シーンを絞る
  ・利用者を明確にイメージする
 ■ 営業は最小限にする
  ・営業せずにすむスタイルを目指す
 ■ 費用対効果を明確にする
  ・費用も効果も透明化する
  ・最安価格を目指す
  ・反応率を捕足する

以上

2010年7月7日水曜日

たまプラーザ3商店街で、Kozchi導入内定!

9月から、横浜市青葉区の東急田園都市線たまプラーザ駅前にある3つの商店街で、Kozchiを導入することが内定しました。

たまプラーザは東急田園都市線を象徴する駅で、80年代にはドラマの舞台にもなり、全国的にも有名な住宅街です。最近では近隣駅も含めた宅地開発が進み、居住者層がやや若くなったのを受けて、駅前というか駅上の開発による活性化を図っています。

その駅前には3つの商店街が共存しています。あくまでも推測ですが、商店街加盟店舗はおおよそ250店舗、非加盟店舗も含めると500店舗超の一大集積地となっています。

一般に、集客力の高い駅前/駅上/駅中が発達すると、その周りにある商店は売上が落ちる傾向にあると思います。そのような中にKozchiを導入することで、駅と周辺商店街の連携が密になり、お互いに足りない機能を補い合うことができるようになると考えられます。

例えばラーメンなら、たまプラーザ駅を出てすぐにある一風堂が目につきますので、集客という意味では圧倒的に有利です。しかし強すぎるがゆえに、違うラーメンを食べたい時の選択肢が見つけづらい、という側面もあります。Kozchiを使えば、そんなお客さんのニーズに沿った、お店の選び方ができるのです。

そんなKozchiの第一歩を、たまプラーザから始められることは非常に光栄であると考えています。ここから一段々々、階段を上るように普及させて行ければ良いな、と思います。

ぜひウチでも使ってみたいという商店街やお店があれば、お気軽にお声掛け下さい。いつでもご説明に上がりますので、よろしくお願いします。

Connecting the Shops/Customers
http://www.kozchi.jp/

2010年7月5日月曜日

サービスのスピード

日本の銀行はサービスのスピードがすごく遅いと思う。海外の銀行を使ったことがないので、本当のところは分からないが。

最近、様々な用件で銀行に行くことある。大体の場合は、2時間位は見ておかないとヒドい目に会う。携帯ショップも同じだが、サービスの内容とリソースの関係が極めてアンバランスで、かつ、見直しが掛かってない気がする。

それにしてもスローすぎる。普通に考えれば、1時間で済む作業には1週間、1日で済む作業には1ヵ月掛かる。とても、国際競争力があるとは思えない。

そのうち誰にも相手にされなくなるんじゃないかと思う反面、これは時間と金のある高齢者を前提にしたサービスなのか、とも感じる。今後、高齢者比率が高まってくると、これぐらいスローなサービスでないと、消費のマジョリティに到達できないのかも、なんて思ったり。

スローでも高コストでも高品質であれば許された時代はとっくの昔に終わり、今は十分な品質をより早くより安く提供しなければいけないはずだ。

でも、日本企業の凝り固まったビジネスに対する意識は、まだまだ変わりそうにない。そしてプアなサービスに必要以上の時間・コストを投入して、日常に汲々としながら人生が終わる。

この負のループから抜け出す策を皆で考えないと、日本はただ「生きる」事のみを目的化した国になってしまう。いや、それすら怪しい。明治維新が西洋文明を参考にしたように、海外の文化・思想に活路を見出すしかないんじゃないかな。

2010年7月2日金曜日

成果と期待

成果が出ているときだけ期待するのは間違っている。成果が出ていない時こそ、信じて、勇気付けてあげなければ。成果を出すのに、ショートスパンで見てはダメだ。ロングレンジで、期間を区切ってジッと見守る、そんな姿勢も大事だろう。

岡田ジャパンを見て、そんな事を思ったが、このスタンスは正しいのだろうか?

W杯直前の試合では、周りにポジティブな印象を与えるパフォーマンスは見られなかった。それ以前の試合でも、際立って将来を期待させる結果を作り出せてきてはいない。

そのような中でもグッと堪え、成果とすべきタイミングでのパフォーマンスを期待する、と言うのが周りにいる人の持つべきメンタリティなんだろうか?

それはすなわち、W杯で考えると、4年間を丸ごと預け、最終結果だけでそのプロセスの全てを評価する、と言う事になる。代表監督は基本的に勝っても負けても、目標とする大会が終了すれば退任する。評価はボーナスと名声ぐらいだろう。

これだと、監督選出が決定的に大事になるので、誘致合戦で契約金の高騰だけを生むことになり、うまくない。

だとしたら、一つひとつの結果に一喜一憂するべきなんだろうか?

これも、毎度々々W杯決勝トーナメントのような環境だと、新しいチャレンジはできないし、戦術としては守備的になる一方だろうから、得策とは言えない。

では、どうしたら良いか?

やはり、対象期間を幾つかに分割して、その時点までの目標と成果の比較をする、いわゆるMBOしかないかも知れない。ゴールと、そこに至るまでの個別目標/プロセスを可視化して、評価する事になる。

にしても、外から見て個別の目標やプロセスが理解できる訳もないので、結局、外野は一喜一憂せざるを得ないんだな~。

要は、内部でゴールや期間ごとの個別目標/プロセスなどがシッカリ共有されていて、外野の騒音に負けない事が大事だ。

2010年6月30日水曜日

無念...

日本のW杯南アフリカ大会が終わった。

最後は無情のPK。PKは運、と言われる。残念だが最後の試合、風が吹いてなかったということだろう。パラグアイ最後のキッカーが蹴るとき、日本代表イレブンが膝立ちになって、キーパー川島に念を送ってたシーンでは、本当に胸が熱くなった。

ゲームは互角。日本にも得点のチャンスがかなりあった。十分に勝てる試合だったので、なおさら残念感が残る。

今日は、これまでで最も世界に近づいた瞬間だったと思う。近づいたがゆえに、今までにない悔しさを感じる。格上相手に、力の差を見せつけられて、なおギリギリで凌いだ結果の敗戦ではなく、互角に戦い抜いた上での敗戦。プレーヤーもスタッフも、そしてサポーターも、新しい感覚を得たんじゃないかな。

8年前よりも確実に前に進んだ感じがする。今日の敗戦は、決してムダにはならないだろう。

課題は、やはり決定力不足だ。

時間内に得点していれば、問題はなかったはずだ。運に任せるしかないPKにまでもつれる時点で、力不足は否めない。どんな試合でもチャンスはある。そこで確実に決められる力が必要だ。オランダ戦のスナイデルを見れば明らかだ。玉田のように、シュートで終われない、つまり、相手に脅威を与えられないプレーヤーは、今後出番がなくなるだろう。

日本というチームの戦い方には、新たな光明が見えた。守備を固めて相手のエースに仕事をさせず、カウンターを狙う。オランダ、パラグアイ、デンマーク、カメルーン相手に通用した戦略は、しばらく使えるだろう。

最後に、W杯グループリーグの戦い方だが、本大会では決勝トーナメントを勝ち抜いた8チーム中、ガーナを除いた7チームが、グループリーグ1位通過だ。つまり、ベスト16を狙うなら、グループリーグ2位通過でも良いが、それ以上を望むなら1位通過は必要条件と思っておいた方が良い。

そんな中、ベスト8を掴むギリギリの所まで歩を進めた日本代表には、心から感謝を伝えたい。様々な意味で実りの多い大会だった。

ご苦労さま。そして、ありがとう。

2010年6月28日月曜日

サマータイム...ではない

二匹目のドジョウを狙う環境省の「国民運動」。あまりに浅はかで、刹那的で哀しくなる。

========
クールビズの次は「朝型生活」、日光活用しCO2削減
http://www.asahi.com/eco/TKY201006210079.html

 家庭の二酸化炭素(CO2)排出量を減らそうと、環境省は21日から早寝早起きの朝型生活を呼びかけるキャンペーンを始めた。朝型生活で電力の使用を減らし、地球温暖化防止に役立てるのが狙い。
========

まず、国民運動という位置づけが気に食わない。そもそも早起きな人は、人から、ましてや国から言われるまでもなく、早寝早起きを実践している訳だし、そうでないひとにとっては大きなお世話だ。

クールビズでもよく分かったが、日本人は、特に会社などの組織体では、自分の考えよりも、(都合の良い)大義を優先する傾向が極めて強い。実際、自分の上司も「長いものには巻かれないとしょうがないだろう」という考え方なので、良く分かる。

基本的に、都合の良い大義は都合の良く使われ、都合の悪い大義は無視されるので、政治的に使う場合は気をつけた方が良いだろう。

そして、早寝早起きを呼びかけると言うのは国の仕事ではないと思う。こんなのは、個人の心掛けの話であって、そこに「CO2排出削減」と言った空疎なニンジンをぶら下げたところで、何の意味もない。

今回の国民運動と同等以上の効果を持ち、国としてすべきなのは、サマータイムの導入だろう。これは実質的に早寝早起きと同義だ。

なぜ、サマータイムの導入についての議論を深めることなく、早寝早起きといった情緒的な施策を、短慮かつ刹那的に進めようとしているのか、そこに現政権の問題があるように思える。

2010年6月25日金曜日

決勝トーナメント進出!

下馬評ではほとんと不可能に近かった、決勝トーナメントへの進出が決まった。しかも、デンマークを3対1で下しての結果だ。

立ち上がりは予想と異なり、どちらかと言えばやや攻撃的に始まった。デンマークも普段とはフォーメーションが違ったらしく、トマソンのマークを見失っていたようにも見えた。いつもの安定した守備が若干浮き足立ち、何度も決定機を作られてヒヤヒヤする展開に。

そんな中でも、切れてる前3人がいつもの様にかき回し、慣れてきたMF2枚が、かなり攻撃参加できるようになってきた。皆が落ち着きを取り戻し、相手の動きに慣れてくると、いつもの安定感が戻った。

このW杯で一番良いのは、攻撃がシュートで終われるようになってきた事。今までのようにこねくり回してる内にボールを獲られるというシーンがないので、気持ちの切替えも早くなっている感じがする。観ている方も前向きに応援できる。

そして、素晴らしかったのはもちろんゴールシーン。FKが決まりにくい今大会において2つも成功させたのは、まさに日本の技術の高さを物語っている。最後の完全に崩してのゴールも、今までヤられることはあっても、ヤることができなかったシーンだと思う。

これでグループリーグ2勝1敗と、思いもよらぬ好成績で、2位通過となった。

次は、パラグアイ。今大会初の南米相手の試合になる。南米は個人技が強いイメージがあるが、今の日本代表は、個人技を組織で消すプレーが本当にうまく機能している。むしろ抑えやすい相手なのかもしれない。

決勝トーナメントに進出した段階で、既に今までの記録に並んだ。対戦相手は格上ばかり。失うものは何もなく、充実したサブのメンバーがフレッシュな状態で残っている。後は、悔いを残さぬよう、全力でぶつかって行くのみだ。

優勝目指して、頑張れ!日本!!

2010年6月23日水曜日

商店街の未来

商店街という枠組みが非常に弱いものになっているという事実は、私も活動を続けていく中で随所に感じています。チェーン店が増え、商店街加入店舗は減り、問い合わせメールアドレスは有名無実、商店街の意義すらも疑問視されているのではないでしょうか。

私がKozchiを提供することを思い立ったのは、街をもっと便利にする仕組みはできないだろうかということと、ネットは便利だけど街が弱体化する事に何とか歯止めはかけられないものかという、二点からです。

かつてはスーパーが街を破壊すると言われていましたが、今はネットです。個店は常に脅威に晒されていますが、街が活気を失っても良いと思っている人は一人もいないはずです。

リアル店舗はこれからネットとの親和性を高めつつリアル店舗の優位性を磨いていかなければいけないんだと思います。

商売を知らない私が偉そうな事を言って、すみません。

先のエントリーにも書きましたが、リアル店舗の優位性は「ついで買い」だと思います。そのためにはお店を繋いで、互いのサービスを可視化することが大事で、それがお客さまの満足を最大化することに繋がって行く、と考えています。

Kozchiはそのためのサービスです。だからコンセプトは「Connecting the Shops.」
もし、ご興味を持って頂けましたら、これも一つの機会ですので、どうぞお気軽にご用命下さい。いつでも説明に上がります。

これからもKozchiと本ブログをよろしくお願いします。

オランダ、撃破ならず

先週末のオランダ戦。敗戦。勝負の過程を見れば惜しかったが、ここは勝敗にこだわるべきW杯。良い勝負ができたことよりも、薄氷の勝利を喜びたい。

しかし次戦、デンマーク戦は引き分け以上で予選通過できる。そう考えると、オランダ戦における引き分けまたは僅差の敗北は、結論に影響なかったことになる。

結果として、良い勝負をしながら負けた事が、良い結果を生むのかもしれない。互いの勝敗が、その後のメンタルにまで影響するグループリーグは、奥が深い。

こんなに優位な立場で予選最終戦を迎えるとは思わなかったが、課題も多く見つかった。

まず、引き過ぎはダメだ。前半は様子を見る意味もあるのだろうが、引き過ぎていたように思う。相手に何らの脅威も与えられないようでは、相手の体力を奪う事すらもできない。

前線のサイド2選手は良かったが、本田がイマイチだった。ボールを待っているだけの選手ならば不要だ。やはり前線には、クロスを待つだけではなく、自力で打開できる選手が必要だろう。あまり攻撃に人数を割けない日本のようなチームならなおさらだ。

そういう意味では、玉田か森本に期待したい。

あと、中村俊輔はダメだ。松井の代わりに入った途端、チームのスピードが落ちた。なにせ、持ち過ぎるのが良くない。正確に言うと、勝負を仕掛ける訳でもないのにボールをコネすぎだと思う。

監督は「前線でタメを」と言っているようだが、現代サッカー、特に日本のような早いパス回しが命のサッカーにおいて、タメが必要な場面は多くないだろう。プレースキッカーも遠藤がいれば大丈夫となれば、俊輔の居場所はない。

次戦は、相手は勝たなければいけない訳だから、攻めてくるだろう。前半は徹底的に守勢に回ることが考えられる。今までの日本代表がそうだったように、攻め続けると後半確実に失速する。後半始まって10分と70分以降がチャンスだろう。それまでいかに体力を温存できるかと、交代のタイミングが鍵になる。

素人ながら自分なら、松井と大久保を後半に残しておきたい。前半はワントップでカウンター勝負をねらうとしたら、岡崎が良い。

松井、大久保、本田の代わりに、中村憲剛、稲本、岡崎でどうだろう?後半から憲剛、稲本に代えて松井、大久保。70分過ぎに岡崎に代えて本田。

いずれにせよ、予選突破は目の前だ!
頑張れ!!日本!!!

2010年6月21日月曜日

展示会初体験

先週末(水〜金)にビッグサイトで、ある展示会に出展した。いつも見る側で、運営側は始めてだったので、何かと新鮮だった。

準備は約3ヶ月間。

出し物は最初からある程度決まっていたので、全体像をどう作り込むかが課題だった。ステークホルダーが多いので、最後の最後まで決まらないのはいつもの事で、大企業病に冒されている当社の特徴とも言える。

それでも何とかまとめて、本番へ。

案ずるよりも産むが易しとはよく言ったもので、始まってみれば、多くの人が懸念したような定義の曖昧さやゴールの不透明さについては、ほとんど質問されるような事も無かった。

ありがたい事に来場者も、当社のブースに足を運んでくださる方も予想より多く、嬉しい悲鳴が上がっていた。

色んな人に役割を振ったあげくに、事務局としてできる事は幾つかあった。VIPの対応、全体の統括、説明員補助、集客、雑用など。何をするかは、やや迷う所だったが、泥臭い順にやっていく事にした。つまり、雑用>集客>説明員補助>全体の統括>VIPの対応という事。

後で聞くと、雑用はともかく集客(声掛け、呼び込み)をする人はほとんどいないとの事だったが、まぁ良しとしよう。結局、出ずっぱりになってしまい、気がついたら、昼飯を除くほとんどの時間をブース前をウロウロしていた事になる。

そのお陰かどうかは定かでないが、バーコードリーダーのカウンターで読み取れるだけで、来場者の1割ほどの方に足を運んでもらうことができたので、それなりに盛況だったと言えるだろう。

今後の展開に向けて、自分で自分のクビを絞めただけとも言えるが、所期の目的は達成できたと思う。

何か身になったかと問われると答えに窮するが、少なくとも良い経験になったし、今後の類似活動の、ある意味でのベンチマークになったと思う。

そう言えば、周りが唖然としていたのが、朝礼、終礼時のシュプレヒコール。あれが、意外に一体感とか高揚感とか、メンバーの気持ちに一滴のエッセンスを加えて、良い効果をもたらしていたように思う。ここも現場なんだな、と感じた。

Let's Smart!

2010年6月18日金曜日

リアルとネット

リアルとネットの対立軸の文脈で語られるのは、スーパー、デパート、コンビニなどばかりだ。でも、本当にネットとリアルの狭間で日々戦っているのは、個人商店や商店街だと思う。

飲食店はネットを活用し、なんらかの検索に引っかからないと、特に都会では存在しないも同然だし、物販店はより深刻な問題として、ネットの競合店が強い。

ネットは品揃えも豊富で、情報も整理されているので、目的を持った買い物には適していると思う。

何か欲しいもの/気になるものがあって、ボンヤリとでもキーワードが分かっていれば、目当ての商品に辿り着くのは簡単だ。類似商品の比較もできるし、配送までしてくれる。リアル店舗にはなかなか手の届かないサービスだと思う。

一方でネット店舗にも弱点はある。中身や手触り、大きさなどは、なかなかネットでは分かりにくいし、品質も分からない。家具なんかでも表面の感じや引き出しの感触が想像と違うとか、カニを買ったら思ったより小さかったなんてことは、皆が経験していることではないだろうか。

また、検索やリコメンドでは、ある関連性を持った商品しかでてこない。つまり、歩いててふと見つけたとか、目当ての商品の隣に置いてある商品が/も欲しくなったといった、日常的な買い物風景には追従できていないと言うことだ。

こういった領域では、まだまだリアル店舗の優位性は揺るがない。が逆に言えば、このような領域に注力しないと、リアル店舗の未来は無いとも言える。

(1)つまり、中身や手触り、品質をお客さまに見えるようにする事が大事で、対面商売である以上、そこはこだわり抜く必要があるだろう、と言う事。

(2)もう一つは、ついでの買い物を加速させる仕組みを持つ必要があると言う事。同じお店の中にある商品をついでに買ってもらうには、今までよりも意識的でシビアな商品選定や並べ方の工夫が必要だろう。

(3)さらに、お店をまたいで「ついで買い」を促すには、周りにどのようなお店があって、どのようなサービスを提供しているのかを知らせる必要がある。しかも、そのお店の顧客でもない、目の前の道を歩く人々に。

(1)(2)はお店の努力次第という側面が強い。(3)は1980年代くらいまでは商店街という枠組みが担うべき機能だったのかも知れないが、今やそれを期待するのも酷なぐらいに弱体化しているのが実態だ。

(3)が弱まると必然的に(1)(2)に強い店舗が単独で活動し始めることになり、ますます(3)の必要性が薄れて行くことになる。つまり、飲食店、美容院、チェーン店など強いお店だけが生き残り、個人商店は衰退するという図式が完成する。

しかし、最近よく見かけるシャッター商店街を見ると、この図式は正しい未来を指していないことが分かる。強くなれない弱い個は見捨てられ、強い個だけが残ると、結局その生態系は破綻することになる。これは、自然の摂理だろう。

大事なのは、弱い個も強い個もお互いに助け合いながら、全体系として発展して行く豊かな未来を志向することだろう。そして、個の利益と全体の利益は、背反したり無視したりするものではなく、同時に追求するべきものである、という認識を共有する事が大事だと思う。

そのためには、お店がお互いに繋がり合う事から始めるしかない。

Connecting the Shops.
http://www.kozchi.jp/

2010年6月16日水曜日

祝!W杯アウェー初勝利!!

日本がカメルーンに1x0で勝った。ジリジリと緊張感のある中、前半に獲った1点を守り切った。

日本は伝統的に70分以降に弱い。前大会のオーストラリア戦が顕著だったが、前半に頑張りすぎて後半失速。70分を過ぎた辺りから足が止まり、失点する。このパターンの敗戦は非常に脱力感を感じるが、懲りずに何度も苦汁を舐めてきた。そのせいもあってサッカー人気は低迷中だ。

今回は、70分過ぎても集中力を切らさず凌ぎ切ったことに、大きな価値があると思う。その力となったのは、前の3人だろう。

前の3人だけである程度(相手が脅威と感じる程度)の攻撃を成立させ、残り7人の体力を温存できていたように思う。「攻撃は最大の防御」と言うが、今回のような試合運びの事を指しているだろう。闇雲に攻撃するのではなく、効果的に攻撃する事で相手の攻撃を抑えると言う事。

これで、次のオランダ戦の戦い方が決まった。

前エントリーのストーリー通りだと、初戦に勝利した事で、確実に予選突破への道筋はついた。後の2戦は負けない事が大事だ。最低でも引き分け。そして、最高でも引き分けかもしれない。ベストシナリオは日本がオランダに引き分け、カメルーンがデンマークに勝つことだろう。

いずれにせよ、より守備的であることが望まれる。しかし、カメルーン戦で分かったように「攻撃は最大の防御」だ。

攻撃の3人に、より自由度を持たせる必要がある。これは、自力で展開してフィニッシュまで持っていける、と言うことを指す。中盤からのクロスボールを待っているだけのプレイヤーじゃダメだ。ドリブルで切り込んで行けないと。

そして、残りはやや守備的に。中盤は、どちらかというと体が強いよりもインターセプトが上手いことが求められると思う。

いずれにせよ、より攻撃的かつ守備的な布陣で勝ち点をゲットしてくれ!頑張れ!!ニッポン!!!

ところで、散々ネガティブな発言をしていたサッカー界の重鎮は、今後発言を控えてもらいたいものである。

無責任な立ち位置のセルジオ越後は、テレビ的なポジショントークを求められる事もあるだろうから良いとして、問題は釜本副会長だ。日本サッカー協会を代表する立場として、3敗を予想していた。自分が育てた組織を、選手を公の場でこき下ろすリーダーに、誰がついて行きたいだろうか。

即刻、退陣を求めた方がよいと思う。

2010年6月14日月曜日

FIFAワールドカップ2010開幕

6月11日に開幕して、いよいよ今日は日本×カメルーン。

グループEは、FIFAランキングで見ると日本が一番弱いのは間違いないが、何が起こるか分からないワールドカップという場を考えると、オランダだけが図抜けていて、後は状況次第と言えるのではないか。

その意味でも初戦は重要だ。

オランダが3勝または2勝1分けと予想する。楽観的に、実力が拮抗しているとすると、残り2試合で2勝するチームも2敗するチームもいないだろう。1勝1敗か、1勝1分けか、2分けか、1敗1分けか。つまり、デンマークかカメルーンに勝つ事が必要条件、そして、得失点差を最小に抑えるのが十分条件だ。

そのように考えると、日本×カメルーン戦は、その勝者が予選突破に大きく近づくと言っても過言ではないだろう。引き分けると苦しくなる。

つまり、取れる戦略はシンプルだ。初戦カメルーン戦は攻撃的に、次のオランダ戦は守備的に、最後のデンマーク戦は前二戦の状況を見ながら柔軟に、という事だろう。

よく、点を取らないと勝てないと言われるが、逆に点を取られなければ負けない訳で、この両方の戦略を効果的に使い分けられるチームが強いんだろうと思う。

日本は、試合単位でも切り替える事が難しいが、タレントが揃って来ると時間単位で切り替える事が可能になるんだろう。

いずれにせよ、今晩のカメルーン戦に勝つ以外に、道はない。頑張れ!ニッポン!!