2011年12月30日金曜日

さらば、2011

2011年は、本当に色んな事があって、誰の身にも落ち着いた時間は少なかったのではないだろうか。こんなに時代の流れを強く感じた年もなかったと思う。

諸処の出来事を書き連ねる事はしないが、忙しいだけではなく、身の回りに不幸があった方も多い。ただ安らかにとご冥福をお祈りするとともに、一刻も早く安寧の時が訪れる事を願うばかりだ。

2011年は時代の節目だったと、後で思い出されるのかも知れない。様々なパラダイムが変わった。新しい潮目をいち早く見つけるのが、2012年の全ての人のミッションだろう。

明日で2011年も終わる。この一年、色んな方にお世話になった。この場を借りて、お礼を言いたい。

ありがとうございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。
良い年をお迎えください。

2011年12月28日水曜日

「坂の上の雲」完

年末の楽しみだった「坂の上の雲」が終わった。

三年間に亘って、12月の一月だけオンエアされるという新しいドラマの形は、ドラマ作りの時間的な制約から、ある部分では解放されたのだろうと思う。豪華なキャストと重厚なセットやCGに、その成果を見ることができる。

一昨年の冬は三人の主人公の青春群像、昨年は日露戦争へと転がり落ちて行く政治緊迫と軍の台頭、この12月は日露戦争の攻防が、そのテーマだった。

司馬遼太郎の小説は恥ずかしながらまだ読んでないが、このドラマで毎回繰り返される、小説のあとがきに書いてあるというセリフが、全てを物語っている。

『このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでいく。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。』

ドラマのシーンでいつも印象的なのは、軍や戦争における情景は欧米と全く遜色ないのに、一般家庭の暮らしぶりは、たかが100年ほど前の物語とは思えないほど、遥かに慎ましく、貧しいことだ。衣食住の全てに亘って、江戸時代の雰囲気を残し、近代化という言葉からはほど遠い暮らしをしていた事が分かる。考えてみれば、登場人物の殆ど全ては江戸時代生まれなのだから、当たり前なのかも知れない。時代と言うのは、結局数十年というペースでしか変わらないと言う事だろう。

全てにおいてキャッチアップしなければならない時代であり、し損ねた時は植民地化される危険性を孕んだ、とんでもない緊張感、危機感に満ちた時代だった。だからこそ、特に軍においては、その存在や方針に迷いやブレはなく、結果として、坂の上の雲を一目散に目指すしかなかったと言える。そのような中では、楽天家以外に存在し得ないというのも分かる気がする。

日露戦争の日本海海戦での完璧な勝利以降、秋山真之は「人が死んでいくのを仰山見過ぎた。坊さんになりたい...」と嘆く。要は、坂の上に登ってみたら、雲は遥か高く、届かないどころか行き方も分からなくなった、と言う事ではないだろうか。国同士が競争する時代に、軍備を拡張していくことの意義は分かるけど、戦いに勝利しても得られるものはなく、ただ恨みや悔悛が残るだけ、ということだろうか。

日露戦争は第0次大戦と言われることもあるらしいが、単なる局地戦ではなく世界中を巻き込んだ初めての戦争という事になる。第二次大戦での終戦間際のソ連の参戦やその後の北方領土占拠は、この日露戦争の仕返しなのかも知れない。

翻って、今の時代は、ある意味キャッチアップはおわり、諸外国と肩を並べる立場になっている。追われる身を長年続けてきている欧米に比べて、ベンチマークされ、リーダーシップを期待される立場にいた事がない日本は、非常に頼りない政治・経済状態が続いている。

明治維新から日露戦争まで一直線に進んでなお、庶民の感覚としての時代の変化は始まったばかりだったとすれば、変化が認知できるようになるまでには25~30年はかかっている事になる。仮にキャッチアップをある程度済ませた時期を、バブルが頂点にあった1985年ごろとすると、2011年現在で26年が経過している。つまり、今からが目に見える変化の時期で、今まではその雌伏の時間だったと考える事もできる。

ようやく「雲の下の坂」が見えてきたとは言えないだろうか。足元が見えずフラついていた時は終わりつつあると思いたい。

2011年12月26日月曜日

憂いなければ備えなし

浅間山荘事件で有名な佐々淳行の名言。

一般的な慣用句としては「備えあれば憂いなし」だが、「備え」と「憂い」の前後関係を考えると、「憂いなければ備えなし」が正しいだろう。

今回の大震災・津波・原発事故を考えてもそうだ。

ある想定内の備えを万全にして憂いはないと考えていたが、想定外の事が起これば、軽々と備えを超えて行ってしまう事が分かった。憂いのない備えなんて無いんだ、という知見を、多くの犠牲を払って、ようやく手に入れたと言ってもいいだろう。その知見が活かされるかどうかは、今後の取組にかかっているのだが。

一方で、何かを限界を設定して備えを充実させる事から離れて、限界を設けず全てに憂いることは、現実的にはとても難しい。全てに憂いてみたところで、掛けられるコストや時間には限りがある。その妥協点で想定内外の境界線が引かれてきた。そして、その境界線設定が、ご都合主義に走り、本来あるべき境界線からずれたところで、事故は起きたということだろう。

今までの時代は明確な目標を持って、まさに「坂の上の雲」を目指すかの如く邁進する事が是だったが、そういった考え方を超越するほどに、世界は複雑化したと言えよう。

たぶんこれからの社会で必要なのは、明確な線引きによる二元化による備えではなく、曖昧で緩い線引き、一応の境界線を超えた淡い憂いに対しても何らかの対策が打てるような、柔軟性のある備えのあり方なんだろう。

つまり、震災を期に明らかなパラダイムシフトが起こっていると考えられる。

憂いなければ備えなし。どれだけ想像力を逞しくして、「憂う」かに掛かっている。

2011年12月23日金曜日

システムアップデート

7月末ぐらいから粛々と始めていた、家のIT環境整備もようやく落ち着いた。


7月にMacOSX10.7 Lionがリリースされた事に端を発する。それまで、昨年10月発売日当日に購入したMacbookAirを溺愛していたが、Lionによって少しの違和感を感じるようになった。若干重くなり、節約して使っていたハードディスクを、今まで以上に頻繁にメンテナンスしなければいけなくなった。思い切ってMBAからiPadへ、利用スタイルを変えてみようと決意した。

あんなに溺愛したMBAを手放すことになるとは思いもしなかったが、非情なるリストラを敢行した。

その時、手元にあったのはMBAとMacbook(White)。前者は主に個人用、後者は主に家族用として写真や音楽などを管理していた。用途的にはデスクトップでも大丈夫で、Macminiが安くなっているので、液晶テレビにMacminiをつないで使ってみると、家庭内資産がそれぞれにつながって、非常に良い感じかな、と。簡単に言うと、MBAをiPadへ、MBWをMacminiへとリプレースする計画だ。

その後、Macmini+液晶テレビが思いの外使いにくかったりして、一旦導入したMacminiをMacbookPro(Early2011)にリプレースすることにした。

そのほとんどをYahoo!オークションで行い、結果として+5,000円ほどで、現在のシステムに移行完了。2007年モデルのMBWと2010年モデルのMBAを、ともに2011年モデルのMBPとiPadに変えれたと考えれば、+5,000円は安いものだろう。

このシステムアップデートの過程で、色んなモノをオークションに出品し、また、色んなモノをオークションで落札した。オークションを活用したことで、古いシステムを一掃でき、新しいシステムを導入できた。よく分かったのは、オークションシステムは非常に健全に動いているということ、あと、労を厭わなければ、それなりに高いコストパフォーマンスで売買できることだ。

あと、Macで言えばノートブックがやはり使いやすく、大画面から移行した割には、その画面サイズは気にならないということが意外だった。ノートブックに最適化されているOS Lionの効果かもしれない。そして、iPadは十分に日常の用に足るデバイスで、一般的な作業のかなりの部分が問題なく扱えることも、この半年間で分かった。Mac、iPad、iPhoneの連携が非常にスムーズだということも、iPadが使える理由の一つかもしれない。

来年はネットワークとiPhoneの関係を見直すことにしよう。

2011年12月21日水曜日

共感できない"自炊"反対

有名作家が集まって、"自炊"業者を提訴した。

自炊そのものは違法ではないが、第三者が代行するのはダメということ。そして、自炊後のデジタルデータもそうだが、自炊に供した原本がネットで販売されている実態もあり、商売の危機を感じる、と言うことだ。

ある意味正しいが、新しい時代に対応したくない人たちの戯言とも思える。

多くの人が知恵を出し合って作るという本の価値を毀損する、と言っていた人もいたように思うが、そういう人にとって、ハードカバーと単行本の違いは気にならないのだろうか?紙質も装丁も一頁に収まる文量も違うのに。

作家という職業が成り立たなくなる、と言っていた人もいたが、それは、自分の作品が多くの人に読まれたいという欲求よりも、それがおカネに変わらなければ意味がないという欲望が上回っている、と言う事なのかな?綺麗事で言えば、おカネはさて置き、自分の作品を多くの人に読んでもらいたいという、クリエイターの本能のようなものがまずあって、その作品に応じた適正な対価が貰えればハッピー、という感じではないだろうか。

とは言え、職業が脅かされ、作品が軽んじられる可能性があるという不安は、理解できないことはない。

一方で、電子書籍の未来は不透明だと言ってしまうのもどうかと思う。しかも、不透明だから乗れないという。それではいつまで経っても透明度が増すことはないだろう。透明にならなければ棲めないといった、環境変化に対応しようとしない魚は生き残ることができない。ただ、泥の中で餌を見つけることもできず、息絶えるだけだ。

ではどうするかというと、スティーブ・ジョブズとiTunes (Music) Storeの顛末が参考になるのではないか。当時、違法コピーが横行し、P2Pソフトによって蔓延していた状態で、誰もが音楽の電子配信は不透明だと思っていたし、産業、市場として成立すると思っていなかった。その中でジョブズだけが透明化に向けた解を提案し、実践した。そして、それは今のところ正しい解のように思える。未だに日本の音楽業界は電子配信に及び腰だが、それが意味するものは産業としてのシュリンクでしかない。

同じことが本にも言えて、違法コピーが増えるから嫌だ、著作権を侵害しているというのは簡単だが、どうやったら違法コピーが減るのか、ということを考えた時に、自炊業者を提訴する事が解になるとは思えない。自炊せざるを得ないのは、電子書籍がないからで、違法に手に入れている人もいる反面、例えばアマゾンから自炊業者に直接配送して、電子化して手に入れる人もいると聞く。つまり、彼らは正規料金に自炊代を支払ってまで電子化しているのだ。そういった人たちのニーズに応えようともせず、ただただ、自分の権益を守りたいがために、提訴に踏み切るというのは、全く共感できない。

作家の仕事ではないかも知れないが、電子書籍の産業化、市場化を目指す必要があるし、電子書籍の将来性を探る意味でも作家だからできる事が結構あると思う。そういう行動をしている作家も多く存在する。

自炊業者の商売自体はグレーだとは思うが、電子書籍化の対案を出さない老害にしか思えない。

2011年12月19日月曜日

Four Pockets

前回に引き続き、その当時に考えていた4つのポケットという事を少し振り返りたい。ここで言うポケットとは、収入源の事を指す。

ベースは先に書いたような三世代理論であって、サラリーマンポケットだけでは何とも物足りない。昔と違って、劇的な昇給のある時代ではないし、不動産価値がどんどん膨らむ時代でもない。そのような中で、三世代理論を成就するには、何らかサラリーマンではないポケットが必要になるだろう、という事。その頃にはNPOを立ち上げていた事もあり、営利/非営利という観点も重要と考えている。そういった中で、ポケットを4つと考えた。

1st Pocket:サラリーマン収入
これは非常に大きなベースだ。特殊な才能がある人を除いて、ほとんどの人にとって、好不況や運不運の影響が最小化された、一つの平準化された属性としてのサラリーマンは重要で、そこから得られる収入は、一定の安心感を与えてくれる。サラリーマンという属性だけを考えると、ベストな世界は大企業だろう。業種や職種に関係なく、大企業に属していることは一つの価値と考えられる。

2nd Pocket:会社経営
サラリーマンポケットだけでは物足りない前提に立つと、アドオンできる収入源は不可欠だ。そのために必要なのは、別の会社から収入を得るか、もしくは、今ある収入を殖やすかしかない。その一つの選択肢として、会社を経営する事を考えたりする。別の会社に雇われると労働協約的に問題があるが、サラリーマンとしての拘束時間外に自らをマネジメントするのは自由だ。いわゆる週末起業という形とも言える。

3rd Pocket:投資
2nd Pocketはともすれば金食い虫だ。夢に投資するようなモノなので、うまく行って、1st Pocketを凌駕するほどに成長すれば良いが、そうならない場合も多い。もう一方で、おカネは集まって殖える性質もある(もちろん、減る性質も併せ持つ)ので、何とか利殖に回したい。要は不労所得を増やすということだ。一発逆転を狙わないとすれば、投資は時間がキーファクターなので、早めに始める事が大事だろう。何を選ぶかは難しい。

4th Pocket:非営利
最後は、収入という面ではPocketとは言えないが、活動上のポートフォリオとして位置づけたい。法的な枠組みは別として、個人の満足度をそこから得られる収益で割ったものが、高いものを4th Pocketに位置付けているとも言える。

収入としては2と3に集約し、4を余力でできるようになれば、一つの理想型だ。その前に、1で完結していれば最高なんだけど。

2011年12月16日金曜日

三世代理論

数年前に、自分の置かれている立場や環境から様々な事を考えていた。

少なくともポケットは4つ必要だと言う事。サラリーマンとして、いくら頑張っても社会的に影響を与える事はできない事。幸せにする半径や、5年後どうありたいか、そして50年後どうありたいか、など。その中のひとつに三世代理論というのがあり、最近になって、幼なじみと言っても良い大学の友人に指摘されて思い出した。

その頃、良く言っていたのは、人は皆、三世代を幸せにする義務があるという事。つまり、自分の世代を中心に親の世代と、子の世代だ。この三世代に責任を持って、幸せにすることができたら、それが本人にとっても最大に幸せなんだろうと考えていた。今でもその考え方に、さほどの変化はない。

自分の場合は、1.自分と配偶者、2.自分の両親、3.配偶者の両親、4.子供の(未来の)家庭が対象だ。今のところいずれの親も健在であり、子どもは一人なので、4家族ということになる。三世代4家族。

最高のパターンは、自分の収入で、全てを責任もって扶養する事。実は、自分に取っては最高のパターンでも、子供に取っては不幸の始まりかも知れないが。いずれにせよ目指すべきはココであり、そのためにはサラリーマンではあり得ないというのが、ひとつの結論になっている。

非常に親孝行である件の大学友人に加えて、最近は変わった経歴の人と知り合いになった。この人は、まさに若くして自分の収入で全てに対して責任を持って扶養している人で、まあ同じ事はできそうにない。

皆、それぞれのやり方で三世代に対して何らかの関与を続けていく訳だが、幸せの総体が最大になるような努力を続けるしかないのだろう。

2011年12月14日水曜日

新聞の契約形態

新聞はどうやら口約束が原則のようだ。不思議。何となく話をして、何となく取り始めるような言質が取れたらそれだけ。別に契約書も何もない。

昔、その販売店から新聞を取っていて、すぐに止めたのだが、その履歴が残っており、それをベースに時折営業を受けていた。最近になって、小学生新聞を取ってみようと思い立ち、営業に来た機会に話をしたら、すぐに持ってくる事になった。特に期間や料金の話もせず、契約書の提示もない。契約書がなければ、困るのは販売店だろうと思い、放っておいても何の音沙汰もない。改めて電話してみると、契約書はないが、三ヶ月契約になっているとの事。で、しばらくしたら集金に来るとの事。

そんないい加減な商売ってあるだろうか?サービスを受ける側として、何も聞いてないし、明確な意思表示もしていない。ましてや契約書もないのだから、販売契約として成立するとは思えない。そんな曖昧な契約があり、何ヶ月かの無料期間や洗剤や何らかのチケットなどと抱き合わせで販売するような商売が、この現代に存在している事が非常に驚きだ。

電子化の波が目の前に訪れている事を差し引いても、終わりに近づいている事を予感させる出来事だった。

もし、新聞がその役割を終えようとしているとしたら、各戸の郵便受けに情報を届ける主体がいなくなってしまう事になる。例えば新聞に代表されるニュースもそうだが、スーパーのちらしなどにとっても媒介がいなくなることは、その商圏維持・拡大に大きな影響があるだろう。

iPadみたいなタブレット端末へ、地域を特定してPush型で配信するようなサービスの必要性が高まってきている。

2011年12月12日月曜日

日本メーカーの悲哀

CNETの「アップルの2012年--迫り来る競合各社の脅威」を読んで、日本メーカーの悲哀を感じた。

iPhoneにはGaraxyが、MacbookAirにはUltraBookが、iPadにはKindleFireが迫ってきているということだが、こういった記事は、これからの社会におけるAppleの優位性を過小評価しているように思う。

これからの社会が性能ではなく体験が重要なのは、言うまでもないだろう。今後も新しい技術はドンドン生まれてくるだろうが、当面は性能ではなく、それが与えてくれる体験にこそ焦点が当たることになる。なぜなら、CPU速度やディスプレイ解像度は人間が認知できる限界を既に超えており、向上スピードとそれがもたらす効用がリニアの関係になくなっているからだ。端的な例は、iPhoneのRetinaディスプレイであり、その名の通りその精細さは網膜レベルに達している。

そういった今後の社会において重要なのは、速度や解像度ではなく、全体としての齟齬のない作り込みである。その意味で、Appleに対抗できるメーカーはいない。

ハード、OS、ソフト、コンテンツを一貫して作っている事の優位性は、今後ますます顕著になるだろう。発展途上段階にあった今までのように、分業体制に優位性があった時代は終わった。ハード、OS、ソフト、コンテンツの中で代替が効かないのはOS/コンテンツなので、OS/コンテンツを中心に世界は回るだろう。

Windowsの能力を最大限に引き出せるPCを作れるのは一体どこか?MouseやKeyboardではとっくの昔に実現しているように、Microsoft以外にないように思う。ではAndroidにとって最良のハードはどこが作れるか?Googleだろう。先日買収したMotorolaがその役目を果たすのかも知れない。Amazonのコンテンツを活かせるハードは、Amazonにしか作れない。

つまりGoogleはスマートフォン、タブレット端末について準備ができつつあるが、PCはない。Microsoftに至っては全てにおいて何もない。Kindle FireがAppleにとっての唯一の脅威になっているのは、当然の帰結だろう。

では、OSもコンテンツも持たない日本メーカーが取り得る選択肢はどこかというと、今まで通りGoogle/Microsoftからライセンスをもらい、差別化とも言えない差別化によってコスト競争のレッドオーシャンを泳ぎ続けるか、完全に傘下に入って主導権を放棄するしかない。コモディティ化したハードから新しいコンセプトが生まれない限りは。

日本メーカーの悲哀は続く。

2011年12月9日金曜日

ポイントの訴求力

サービス運営にポイントを組み込むことはよくある。

Tポイント、Ponta、nanacoなどが有名だ。ショッピングモールも独自のポイントシステムを持っている事が多いし、JR東海も新幹線利用額に応じてグリーン車に乗れるポイントをつけてくれる。また、マクドナルドなどはしょっちゅうサービスクーポンを配っているが、割とロイヤルティの高いユーザーにとっての、マグネットであり、ポイント還元になっている。

 ポイントで感じるのは、その換金性とロイヤルティには相関がありそうだ、ということだ。

お金に換えれないものには、例えばJR東海のグリーンポイントがある。新幹線の利用距離に応じて加算されるポイントで、一定以上に貯まると普通席をグリーン席に無料で変更できるものだ。新幹線の場合は、それなりに快適に座れる(と感じている)普通席指定席との差があまり大きくなく、乗車時間もさほど長くない現在においては、あまり価値を感じられない。例えば東京-大阪をこだまでゆっくり移動し、その時間を有効に使いたい時などには有用かもしれないが、かなり特殊解だ。

換金できるが、換金率の悪いものの代表はPontaだ。Pontaを例えばローソンで使うと、100円(端数切り捨て)で1ポイントが獲得できる。数百円レベルの買い物が中心になるコンビニでは、実質1%以下の還元率になる。この程度だと、せっかくのポイントがあまり訴求力を持たない。つまり、ポイント欲しさに選択を変えるほどの力を持っていないと思う。

換金性が高いものとして、家電量販店のポイントが挙げられる。多くの家電量販店は5%〜20%ものポイントがつき、かつ高額商品を購入する可能性が高いため、ポイントが貯まりやすく、訴求力が強い。つまり、ビックポイントを貯めてたら、ヤマダ電機が目の前にあってもビックカメラを探すという、ポイント欲しさに選択を変える力を持っている。

 ポイントのポイントは、貯まりやすさと換金性にある。

当たり前のようだが、貯まりやすく換金性が高いポイントサービスが少ない事を思えば、その管理が大変なのかもしれない。また、実際の換金に備えて資金を積み立てておく必要があることも一つの要因かもしれない。ポイントサービスも一時期の隆盛は過ぎ、あまり話題に上らなくなってきた。

新しいポイントサービスが求められているのかもしれない。

2011年12月7日水曜日

ソーシャルの限界

事業者側よりも利用者側で情報を作り込むということは、情報に対する責任が曖昧になる。特に匿名の場合は。

利用者の人数もしくは密度でその有用性が決まり、ある閾値を下回ると極端に使えなくなる。

情報密度を上げるためには情報発信できる人を集めなければならず、世の中の限られたリソースを奪い合うことになる。

また、意味のある情報密度を得るには、ジャンルをかなり絞りこむ必要がある。

そのため、利用者から届けられる情報は本来の多様性を失い、ある意味画一的になる危険性を孕んでいる。

決まった人が決められたジャンルのネタを、不必要なまでの高解像度で表現することになるか、さもなければ、必要な解像度も得られないような低解像度の情報が広く薄くばら撒かれた状態になるか、の両極端な二択になる可能性も高い。

いずれにせよ、その解像度を制御することはできない。

コントロールされた世界では見つからない情報が見つかる可能性は大いにあるが、普段見逃さないものにも気付かない危険性もある。

ソーシャルが意味を持つにはビッグデータが必要になり、ビッグデータを集める仕組みは、それゆえ普遍性を持たなければならない。

つまり、自然なニーズに対して愚直にシンプルに突き進んでいるサービスが、結果としてソーシャルな価値を持つだけであって、ソーシャルな価値を生み出すことを命題としたサービスが、その目的通りの価値を生み出すことは稀だろう。

ソーシャルって、そういうものだと思う。

2011年12月5日月曜日

誰かが決めたルール

日本人はセットが好きだ。自分で組み合わせを考えるよりも、誰かが考えた組み合わせの選択肢から選ぶことが好きだ。まぁ楽だからね。

アラカルトで頼むよりも、例えばセットだったり定食だったりする方が安心するんじゃないだろうか。誰かが決めたルール、それがある程度合理的でリーズナブルであれば、一旦は乗っかってみようとする傾向は強いと思う。人が設定した土俵は、そこに乗っている限りにおいては快適だ。いかにも評論家的にセットの良し悪しを論じるだけで、事は足りる。また、セットには組み合わせの妙が入り込む余地が生じる。ある意味で一段の加工を加えた形になる。うまくハンドリングできれば付加価値が高まるということだ。

つまりセットメニューは、作り手側にとっては利益の源泉となりうるし、受け手側にとっては判断を簡略化するための提案ということになるが、実はセットメニューというのはPull-Push型のシステムだということに気づいているだろうか?

通常、セットを構成するメインの要素を選択することで、残りの部分がくっついてくる。一つを選ぶと、その他がある程度自動的に抽出され提案される。その抽出方法はさまざまで、定食だとメインを引き立たせて栄養バランスが良くなるような組み合わせが選ばれる。パソコンでも一昔前は大量のソフトをバンドルし、それが一つの魅力のように語られていた時期もある。何かが欲しいという消費者のニーズをトリガーとして情報や商品を手繰り寄せてもらい、そこに乗せる形で別の情報や商品を提供するという形が一般的に用いられ、さまざまな領域で効果を発揮し続けている。

しかし、いまだにネットのサービスはPull-Pushをうまく使えていないように思う。大体がPullだけ、またはPushだけだ。検索して目的の情報を得られたら、その情報をひたすら掘り込んでいくようなドリリングサービスか、自己位置認識などをベースにしてユーザーの意図とは関係ない情報を単に提供するだけか、しかない。

何をPullしてもらって、その時に何をPushするのか?それが問題だ。

2011年12月3日土曜日

横浜かDeNAか

DeNAのプロ野球参入が決まった。楽天だけが反対したようだが、11 vs 1で参入決定。

以前にも書いたが、DeNAは昔は応援していたが、モバゲーを始めてからは、どちらかといえば嫌いな企業に入る。少なくとも自分の子供に使って欲しくないサービスの一つだ。お金と時間の無駄だと断言できる。それでいて企業としては利益率が50%近い。ということはパチンコと同じで、射幸心を煽り、お金を毟り取るサービスということだ。しかも、対象年齢が低いことが非常に問題だ。オッサンでモバゲーにハマっている人は、お好きにどうぞとも言えるが、中高生をハマらせるということは、その後の人生にも大きく影響を及ぼす。これは国益にも関係するだろう。だから、DeNAは応援できない。

そんなDeNAがプロ野球に参加するということは、プロ野球を愛好する年齢に訴求したいということだろう。すっかり斜陽感のあるプロ野球を愛好する人にモバゲーが浸透していないという認識なんだろうが、果たしてそうだろうか?

スポーツは映像がないと面白くない。プロ野球を愛好する人は、比較的テレビの視聴率が高い人だとも言える。昨今のテレビを見ているとグリーとモバゲーのCMは腐るほど流れている。名前だけで言うと知らない訳がないだろう。では、それらの知っているけどプレーしたことのない人を誘引する魅力をモバゲーが備えているのか、というとそれも怪しい。しかも有料ゲームにハマってもらわなければいけないとすれば、かなりハードルが高いのではないか。

きっと、ある一定の割合で有料ゲームにハマってしまう人がいて、それ以外の人はいかに情報を増やしたところで参加しないような気がする。そうであるとしたら、既に不参加を決めてしまった人を宗旨替えさせるのは余り効率の良いやり方とは思えない。むしろ既にハマっている人の単価を上げる施策か、全く未開拓の世界に踏み出すかしかないのではないか、と思う。いかにDeNAが「スポーツ振興にも力を注いでいる健全な企業です」と声高に言っても、やっていることはいわばパチンコと同じなのだから、誰も納得しないだろう。

であれば、DeNAのプロ野球進出はあまり成果を上げることはできないだろう。いかに成績を上げてもDeNAの良い宣伝にはならず、成績が上がらなければただの無駄飯食いだ。楽天のマー君のようなフレッシュな看板選手を捕まえないかぎりは、うまく行きそうにない。きっと早期に撤退したいと考えるだろうが、なかなか撤退のタイミングをつかめずにズルズルと保有することになりそうな気がする。

一つの試金石は、これから横浜と呼ばれるかDeNAと呼ばれるか、にかかっていると思う。

セ・リーグは巨人、阪神、ヤクルト、中日、広島、横浜、パ・リーグは、日ハム、ロッテ、ソフトバンク、楽天、西武、オリックスとあり、呼称とオーナー企業名が一致していないのは、巨人、広島、横浜だけだ。その内、巨人=読売は何の説明もいらないし、広島は実質オーナーはマツダであっても市民球団としての位置づけを確立している。つまり、オーナー企業名で呼ばれていないのは実質、横浜だけなのだ。これをいずれの日にかDeNAと呼ばせることができたら、その時にこそ買収した価値があったと言える。

2011年11月30日水曜日

時限クーポンの有用性

Grouponを始めとして時限クーポンというのが、一時期ほどの隆盛はないにせよ、一定の知名度を得ている。国産アプリでいえばイマナラ!が有名だ。

最近スマホに変えたというやや高齢の方が、スマホはお店と地図が連動していて使いやすいという感想を漏らしたのに反応して周りの人が勧めていたのは、イマナラ!だった。曰く、「今いる場所で使えるクーポンが見つかるので、お店選びに役立ちますよ」との事。他の人も「そうそう」。でも最後には、「使ったことはないんですけどね(^-^)」。

結局、時限クーポンってそういうものなんだろう。お得なクーポンが見つかるサービスとして認知されつつも、意外に使っている人は少なく、いわゆるバーゲンハンター御用達になっているということ。断言するにはサンプルが少なすぎるが、感覚的にはそんなに間違ってないと思う。

普通の人が使いたいサービスは、お得だけがフィーチャーされるようなものじゃないんだと思う。お得が無くても行きたい店はある。無性にカレーが食べたい時にクーポンの有無だけが行動のトリガーではないだろうし、腰を落ち着ける場所を探している時に重要なのは安さではないだろう。手芸用品が欲しい時にはその存在が貴重な情報になると思う。

人の行動にとって、クーポンのようなインセンティブだけが、そのトリガーになると思うのは大きな間違いだろう。むしろ、それ以外の行動起点が多く、その割にはそれをサポートするサービスがほとんど存在しないことに注目する必要がある。行動とインセンティブは密接な関係があるという前提が一般的になっていることもあって、インセンティブ以外の行動トリガーについて深く考察されてないように思える。

何が行動の起点になっているか、置かれている状況にも依るだろうが、よく考える必要がある。

2011年11月28日月曜日

ハシズム

橋下前大阪府知事が大阪市長選で見事に当選した。これから大きく日本が変わることは間違いない。これで変わらなかったら、日本は二度と変わらないだろう。

良いほうに変わるのか、悪いほうに転ぶのかは正直言って分からない。ただ、体制のドラスティックな変化と外国からの圧力でしか変われない国なので、その大きな一歩と言っていい。

ただ、国政との関係の中でしか地方分権の絵は描けないので、まだ一歩目でしかないのも確かだ。国政に楔を打ち込むことができたその先に地方分権の世界が開け、国にしなだれかかる様な地方のあり方から脱却できることを期待している。

また、他の地方が乗れるスキームにするためには、二重行政の解消だけではダメだ。広域行政のカタチをしっかり作って、そのメリットを最大化するような行政のあり方、国と地方の関係を作り上げる必要がある。

税金のあり方を変えて、教育と高齢者福祉を民間の活力を利用してうまく作り込めれば、日本の成長エンジンになる可能性はあると思う。

現段階では、かなり難しいチャレンジになると思うが、既得権益層の妨害や利権などに惑わされることなく、本当の改革を実現して欲しい。平成の大久保利通として清廉潔白な改革者の道を進んで欲しいと、同世代の人間として思っている。

2011年11月21日月曜日

TPPと明治維新

以前、江戸末期の考え方は二つの軸で表現できると書いたことがある。つまり、徳川体制を残すか滅ぼすか、そして、国を開くか閉めるかだ。4象限のいずれにもそれなりの合理的な理由もあり、それを応援する人もいた。

で、意見は四分したかというと、ほぼ三分となった。徳川を残して開国する(公武合体)、徳川を残して鎖国する(現状維持)、徳川を滅ぼして鎖国する(尊皇攘夷)というのが多勢であり、徳川を滅ぼして開国するという、後世から見たときの本流を支持する人は少なかった。

現代も同じような時代の転換点だとすれば、歴史に倣えば、現体制の破壊とグローバル化が暗黙的に求められているのではないか?

そして、破壊すべき現体制とは、劣化し崩れ落ちそうな中央集権官僚体制だろう。

つまり地方分権とTPP加盟こそが、明治維新以来綿々と続いた近代日本のパラダイムシフトを導く鍵になるのかも知れない。

以前のエントリーではTPP加盟反対と書いたが、あくまでもルールが明確でないゲームに参加するのは危険だ、という意味でしかない。今、政治に求めるべきは、ルールの精査と国民への説明だが、もしかして、TPPがトリガーとなって、平成維新が起こるのを恐れているのだろうか?

2011年11月18日金曜日

ネットは見つける、リアルは見つかる

ネットの情報は「見つける」という行為なくして見つかることは少ない。

Googleのシンプルなトップ画面を見れば分かるが、ネットには何でもあるが、見つけようとしない限りゼロだ。例えば、Yahoo!のニュースやAmazonの「New for you」とか「閲覧履歴からのおすすめ」のように、見つける前に見つかることは非常に稀だろう。

見つけてもらえなければゼロというネットの特徴が、SEO/SEMを意味あるものにし、レコメンドや行動ターゲッティングの研究を加速させた。みんな見つけて欲しいから。

容易に見つけられる=見つかる状態にしておくと言う事だろう。それを「見つける」という行為を前提に考えればSEO/SEMになるし、「見つかる」ことを前提にすればレコメンドや行動ターゲッティングになる。大量の情報で溢れかえるネットの世界では、見つけてもらうためのトリガーを何に求めるか、そこにフォーカスした方法論が開発される。

実は、リアルの世界においては、事情が違う。探す意識を持たなくても、リアルの情報は歩いてたら、ある程度見つかる。つまり、探してもらえなければゼロ、という訳ではない。知らない街でも目の前にマクドナルドがあることは分かる。探す意識がなくても何かは見つかる。それがリアルの世界だ。

また、リアルの情報量っていうのは、ネットに比べると多くないし、昔からさほど変わっていない。看板やPOP、お店のメニューなんて、大昔からほとんど変わってないだろう。そこに書かれている内容も、極端に増えている訳でもなく、これからも変わる気配はない。

リアルとネットの接点には、このような性質の違いがあり、そこを理解したシステム構築が求められる。

つまりリアルにおいては、闇の中を懐中電灯を照らして探すイメージではなく、明るい中を歩く人の視野を広げてあげるような仕組みが必要と考えている。Mecke!はそういうサービスだ。

2011年11月16日水曜日

女ジョブズ 山口絵理子

マザーハウスの山口絵里子さんの講演を聞いた。前から、ぶっ飛んだ人だなという印象を持っていたが、話を聞いて、すっかりファンになってしまった。

この人は、女性のスティーブ・ジョブズなんだ。もっと言えば、女性の松下幸之助と言っても良い。いずれにせよ、そのメンタリティは彼らに匹敵することは間違いない。

他人のレールに乗ってつまらない人生を送りたくない、死ぬ時に後悔したくないという考え方は、ジョブズの講演を聞いてるようだ。そして、結果だけをみると驚くべき行動力だが、肝っ玉とか勇気とか覚悟に裏打ちされたものではなく、むしろ、歩みを止めてはいけない、歩き続けることに意味があるという自分の「好き」に一直線なスタンス。エレキが体を走り、水道哲学を世に広め、成功の秘訣は止めない事と言い切る松下幸之助そのものと言える。

経歴も正直、訳がわからない。小学校で虐められて、反動で始めた柔道を続けるために入った工業高校。皆が就職する中で、一念発起して入った慶応。竹中平蔵氏の薫陶を受け開発学に目覚めるも、現地から離れた先進国から覗く新興国支援の現状に納得できず、単身バングラデシュの大学院に留学。そこで出会ったジュートに魅せられて始めたバッグ作り。。。

話を聞いていると自分が恥ずかしくなるぐらいに、人生と真剣に向き合っている。

自分は確たるポリシーも持たずに、なんとなくサラリーマンになった。自分が育った時代はそれが普通だった。でも、大きな会社の大きな仕事に段々と興味を失って行ったのも事実。人とのコミュニケーションが仕事の鍵を握る建設業は短期的には面白いが、長期的には話がデカすぎてリアリティに乏しい。だからみんな短期的な仕事に集中して、自転車操業を続けている。とは言え、長く業界に生息するとぬるま湯から出るのが億劫になってくる。

今回、講演を聞き、本を読んで、自分を見つめ直す良い機会になった。「退路を断ち、覚悟を決める」時機がきている気がする。山口さんのようにはいかないが、自分なりに納得の行く方向を探したい。

2011年11月14日月曜日

何を有償で、そして何を無償でサービスするべきか

カンブリア宮殿で大垣共立銀行を取り上げていた。地域シェア80%を超え、日経金融機関ランキング顧客満足度3位に輝いた地方銀行だ。

社長は、銀行は金融業ではなくサービス業だと言い切る。実際、コンビニのようなサービスがいっぱいで、面白いのは学校帰りの中学生が銀行に寄り道し、立ち読みを楽しんでいることだ。他にどこの銀行に、中学生の存在する余地があるだろうか。

サービス業と言っているのは、もちろん間違っている訳ではなくて、銀行は金融サービスを提供する企業だ。ただ、そのサービスが定義する範囲の広さだけが違うのだろう。

ある時期からコンビニにATMが設置されてきた。コンビニから見ると当然ながら物販がメインで、ATMは人寄せパンダ。銀行がコンビニ化するときは金融業務が中心で、コンビニ的なサービスはあくまでもCS向上施策。

コンビニが銀行をサービスにする方がいいか、銀行がコンビニをサービスする方がいいか、どっちなんだろう?

両者ともに本業でしっかり稼ぐ前提に立って、客の目線で見ると、コンビニのATMサービスは「便利さ」があり、銀行のコンビニサービスは「楽しさ」がある。また、客が支払うコストを考えると、前者は通常の手数料、後者は無料である。単に便利であることと無料で楽しいことを比べると後者のほうが優位だが、どちらのサービスもないと困る。


大垣共立銀行の事例から、2つのことが分かる。
一つは、会社もしくは業種/業界のコアを明確にすることだろう。収益の源泉であり、差別化要素となる領域を確立することが大事だ。銀行は窓口業務だろうし、コンビニは品揃えなんじゃないかな。
もう一つは、会社もしくは業種/業界が互いに侵食しあう領域を認識することだろう。銀行はATM、コンビニは人が集う目的と言えるかも知れない。

ゼネコンにおいても、Kozchiのようなネットサービスにおいても同じだろう。

2011年11月11日金曜日

比較優位の原則

TPP加盟への肯定意見として、比較優位の原則を持ち出す人も多い。確かに単純化した理論上はその通りだろうが、成立条件として、A国で作られた工業製品はB国に、B国で作られた農作物はA国に渡らなければいけない。そうでないと単に供給過剰になるだけだろう。

工業製品が得意なA国と農業が中心のB国は言ってみれば、A国:先進国、B国:新興国、といっていいだろう。A国で作った工業品を買えるほどの経済力がB国にあるのだろうか、そして、B国で作った農作物を受け入れるだけの文化の共通性はあるのだろうか、という気がしている。

そんなのB国に合わせた工業製品をA国が作ればいいだけだ、と言うかもしれない。生産量としてはそうかも知れないが、ペイするのかと言われると、少し怪しいような気がする。B国の農作物はもっと難しくて、文化が合わなければインパクトのある貿易量にはならないだろう。A国に合わせて品種改良するぐらいなら生産性の高いA国で生産する方が安くなることだって考えられる。

日米のコメ問題を例にとっても、大規模農業で中粒米の得意なアメリカと、小規模農業で短粒米中心の日本でコンフリクトが起こるとは思えない。

TPPに加盟したらコメが壊滅するという典型的なTPP反対論者の意見は、マクロな比較優位をベースとしたもので、コメの生産量と価格をザックリと比較すると、このような結論にはなるだろう。一方、TPP賛成論者は、高品質な短粒米しか食べない日本のコメにおいては、国内産の優位性は変わらないとする、ミクロな比較優位に基づいて反論する。(エキセントリックな意見としては、マクロな比較優位を採用しつつ、国際競争力のないコメは壊滅してしまった方が良いと言ったりもする。)

論理的には比較優位で方がつくが、実際には諸処の条件から、教科書的な比較優位に基づく自由貿易がもたらす産業の棲み分けなんてほとんどない、というか自由化を待たずして農業は、既に平衡状態に近いのではないか。

とすれば、農業において自由化するメリットはなんだろう?そして、自由化のデメリットはないことになるのかな。

結論なし。

2011年11月9日水曜日

エネルギーシステムのバランス

震災後、スマートグリッドが脚光を浴び、エネルギーの分散化が叫ばれている。拠点の分散化とエネルギー源の分散化。

今まで効率性や安定性を求めて大規模集中を推し進めてきたが、震災を機に安全性やロバスト性に大きく舵を切ろうとしている。効率性や安定性は多少犠牲にしても安全性やロバスト性には替えられないということだ。

よく考えてみると、阪神大震災の時は電気の安全性やロバスト性が証明され、オール電化の引き金になったように思う。復旧に何ヶ月もかかったガスに比べて、3日ほどで80%以上回復した電気の強さを身をもって感じたはずだった。

原発も環境負荷が少なく、コストも安い日本向きのエネルギー源だと思われていた。そして、数十年後には日本の電力の半分以上を賄うはずだった。

時代は流れ、東日本大震災。津波によって原発が破壊され、誤解を恐れずに言えば、たまたま起こった電力不安。電気の評価はひっくり返り、オルタナティブな選択肢としてガスが持て囃されている。

ここはよく考えたい。
本当に電気は不安だろうか?本当にガスはオルタナティブたりうるだろうか?本当に大規模集中より分散が良いのだろうか?

日本人は極論に走るのが大好きだから、脱原発を果たしてしまうかも知れない。日本的ガラパゴス化にまっすぐ突き進んで、丁度良いバランスを探ることなく、究極の安全やロバストを目指しそうな気がする。

本当は、効率性、安定性、安全性、ロバスト性は、少なくとも一部にはトレードオフの関係を持っており、いずれかに極端に振れることが最適の解とは言えない。どこかにあるバランスを見つけて、はみ出た部分は、何らか別の方法で手当てすべきだろう。

エネルギーでバランスを失うと、間違いなくコストに跳ね返る。ペイするレベル、サステナブルなバランスが重要だ。極論に走るとスマートから遠ざかる。

今考えるべきスマートな世界は、集中と分散のバランスを見つけることから生まれる。

2011年11月7日月曜日

auのiPhone戦略

なぜ、auはiPhoneのテザリングを開放しないんだろう?iPhoneユーザーでテザリングができないことを不満に思っている人も多いのではないだろうか?

iPad欲しいけど、もう一回線はキツイでしょ、という人はいっぱいいるだろう。クラウドサービスを頻繁に使うようになると、全てのデバイスで、同時にじゃなくてもいいから、ネットに繋がる環境が欲しくなる。iCloudでフォトストリームを使うだけでもそう感じる。

今、iPhoneのテザリングをApple製品にだけ認めたら、Appleに対して強力なカードを持つことになる。何百万台か販売ノルマを呑まされているとの噂だが、そこに楔を打つことが可能なんじゃないか?Apple製品の拡販にも繋がって、ソフトバンクにも痛烈な一撃を与えることができる。そして、現状ソフトバンクにはそれに追随するだけの回線的余裕がないとすればなおさらだろう。

auは一部Androidスマートフォンでテザリングを認めていることを考えると無茶な要求ではないだろうし、回線の同時使用さえ認めなければ、流れるパケット量も大して増えないのでは、と思える。

iPhoneとiPadとMacbookAirがシームレスにクラウドと繋がったら、どんなに素晴らしいだろう。それぞれを得意な環境で使えて、データは全てクラウドにあって、常に同期が取れている。夢のようだ。

ぜひ実現して欲しい。Apple限定で構わないのでテザリングが実現したら、auに乗り換えることを検討したい。いや、乗り換えたい。

2011年11月4日金曜日

TPP是か否か

TPPは簡単に言えば、国内市場は攻められ、海外市場には攻め込める「可能性」が高まる、という事だろう。つまり、国内市場がメインの業種は反対し、輸出産業は賛成する。

議論する上で、いくつかの切り口があるように思う。

例えば、日本経済における貢献度合いで言うと、農業に比べると輸出産業のほうが大きいので、TPP賛成となる。逆に、国内市場の荒廃につながるという視点で考えると、国内市場に留まっている産業は、生活や生命に関わるものが多いので、TPP反対となる。また、業を守りたいのか人を守りたいのか、という視点もある。農業 vs. 農家の構図だ。TPPに賛成したからといって、農業が荒廃するかどうかは分からないし、そうならない道もありそうに思う。ただ、従来の意味での補助金付けの農家は、かなりダメージを受けるかもしれない。

自由化によって国内市場がどのように変化するのか、また、変化への対応は可能なのか、を議論し道筋をつけていかなければいけないだろう。そして、変化への対応ができない領域があり、それが大きいか、極めてクリティカルで自由化しがたいと判断された場合にのみ反対するべきだと思う。

まず農業はどうだろう?
関税が撤廃されると安い米、肉、果物などがいっぱい入ってくるだろう。野菜は長距離を移動させるメリットがあまりなさそうだが。では、日本の米、肉、果物は競争力がなくなるのだろうか?米で考えると、TPP参加予定国で東南アジアは長粒種がメインなので、アメリカ米が対象だろうが、実質的にアメリカ米の生産量はさほど多くないので、日本の米農家に深刻なダメージがあるほどには入ってこないような気がする。肉や果物は既に多くが輸入品なので、今までと変わらないかもしれない。もちろん事業者にとっては問題だが...

同じように、金融、医療などを考えてみる必要がある。どうやら非関税障壁の撤廃がキーワードになりそうだ。自由競争の名の下で障壁になりそうなものが協議の対象になるようだが、国民皆保険を始め、多くの日本の制度は、その槍玉に上がる。つまり、日本社会のインフラというべき制度が破壊される可能性が高いのだ。

そして、別の問題もある。
TPPによる自由化は海外市場に攻め込める「可能性」が高まると書いたが、では、その攻め込むべき市場はどこかというと、現状で中心になるのは米国で、それって今までとほとんど変わらないんじゃないか、という議論もある。現在のところTPP参加を予定している国のGDPを足し合わせると90%が日米2カ国で、わずか10%程度を残りの8カ国が占めるらしい。TPPに入ると、アメリカが日本のものをいっぱい買ってくれるのかね?TPPに参加するということは、アメリカも市場を広げたいということだろうから、当然日本を攻めてくる。さて、どちらの力が強いか?

そして、最も大事なのは、TPPが不要と分かったときに脱退できる権利と、現時点での交渉状況の開示だろう。どうも事実上の途中脱退が不可能な仕組みのようでもあり、中身が分からずに加入するかどうかを決めるというのは、危険すぎるというか、あり得ない事なんじゃないだろうか?

ということで、一般によく言われている農業は、実はさほど大きな問題でもなさそうだし、グローバル化、自由化は賛成だ。でも、TPPの問題はそこにはなく、それ以外の枠組みやポリシーという面にある。TPPに日本が参加する意義、メリットは薄いような気がする。というか、TPP参加は大きな社会変革へのトリガーになるのは間違いなく、不利な方に転ぶ可能性が高いと思う。

TPP加入に反対します。

2011年11月2日水曜日

サーチ

「探す」という行為には、「ヒント」と「明かり」が必要だ。

例えば、頼まれて友人の部屋から何かを探すときには「ヒント」がないと難しいだろう。ヒントとしては、「書類」「人形」というような対象物の種類や「窓際」「廊下」といった場所、「黄色」「ピンク」のように色を示す必要がある。一般に、ヒントの数が多ければ多いほど、対象物は特定されやすくなり、見つかる可能性が高まる。

つまりこれがサーチエンジンだ。対象物に関連するキーワードを切り口として、無数にある候補から一つのモノに探し出していく。しかし、キーワードが余りに一般的だと、その切り口断面上に現れる候補が多すぎて絞り込むことができないという課題がある。

「探す」ことのもう一つの前提条件は、そこが暗闇であることだろう。自然に目に入ってくるものは何も無い。暗闇で何かを探すには、「ヒント」に加えて「明かり」が必要だろう。手探りで探しても見つかるわけはなく、何はともあれ光がないと始まらない。

サーチエンジンでは、キーワード選択という行為の巧拙をフォローするために、機械的な重み付けが存在する。Googleの場合はPage Rankだ。それぞれのページの重要度を、そこに紐付くページの数によって判断し、それを検索の順位に反映させている。このPage Rankがインターネット検索において、非常に重要な「明かり」の役目を果たしている。SEO/SEMなどは、自分のページを見つけてもらうために「明かり」の下に出ていくための方法を示していることになる。

「ヒント」は単純だが、「明かり」をどのような強さで盛り込むかはサービスの特性によって異なる。Facebookのように、人のつながりを「明かり」とするならば、かなりシャープな光と言えるだろうし、iタウンページのようにカテゴライズされたポータルを「明かり」とするならば、かなり拡散したボワッとした光だと言える。

個人的には、その間に正解があると思っている。つまり、光がシャープすぎると見えない領域が広すぎるように思えるし、逆に全面的な光は見逃す可能性が高くなると考えている。Kozchi -mecke!-は、位置情報とステッカーを使うことで、その丁度良いバランスを目指している。

2011年10月31日月曜日

行動の目的ときっかけ

どこかに行くと決めた時、そのきっかけは人、店、街の3つに分かれるように思う。

「人」は、友人知人から有名人、無名の講演者など色々いるが、その人に会う、もしくはその人の話を聞くことを目的に、決められた場所に行くことになる。「店」は有名店や新しいお店や馴染みの店などだろうか。そして「街」の場合は通常、有名な街に行くものだろう。端的に言うと名前の売れている街だ。

それぞれは何となく、人と場所の要素が混ざり合う割合の違いでしかないようにも思えるが、「街」が最終的に行動を決めている場合が多い。人が行動のきっかけになる場合も多くは「さてどこに行こうか?」となるし、集客力のあるお店の多くがチェーン店で、それ自体が行動のきっかけになることはあっても、行き先を決めるほどの力はない。

そう考えるとやはり、街の魅力が集客力のベースになるんだろう。街が本来持つ魅力に加えて、バラエティ豊かな多くのお店が集まることで、その力を倍加させていると言える。

翻ってサービスという観点ではどうだろう?

行動のきっかけとしての「人」をサポートするサービスは、Facebook、mixiなど数多い。ソーシャルグラフという言葉が使われ出してから「人」に向けたサービスは増える一方だ。同じく「店」を紹介するサービスもタウンページ、e-まちタウン、ぐるなび、ケイティに代表されるように数限りなく存在する。これらは全て行動のきっかけになるように設計されている。


また「人」と「店」をつなぐサービスとして、友人・知人とのつながりと場所への帰属に着目したFoursquareやロケタッチ、利用者の視点で店を評価する食べログ、30min.、イベント性を組み込んだGroupon、イマナラ!というサービスもある。一方で「街」を紹介するサービスはほとんど存在せず、それぞれの街がそれぞれにホームページを立ち上げて周知に励んでいる程度だ。これらのホームページは、お世辞にも行動のきっかけになるとは感じられない。

つまり人の行動として、「街の魅力+多彩なお店の存在」が重要なファクターになっているにも関わらず、そこを掘り下げることのできるサービスは存在していない。

ごのギャップは埋め難い。

なぜなら、サービスの対象を「街」とした途端に、誰に向かって話をしたらいいのかが曖昧になるからだ。特に我が街の魅力に対して無頓着であればあるほど、サービスの受け皿としては頼りないものになる。どの街も「色んな人に来て欲しい」「街を活性化したい」と考えてはいるが、実際の所何をすべきか、どこにフォーカスすべきかを深く検討してはいない。

街の魅力をアピールして、多彩なお店に集客をもたらすようにするには、街のどこにいても、迷子にならないことが重要だ。そして、街の意図に沿って効率的に誘導することも必要だ。見せたい場所、来て欲しい場所を、人が歩ける範囲で近い順に提示してみせることができれば、街にも店にも人にも有益だろう。あっちにもこっちにも良い所がありますよ、ではなく、こっちに行けば、そことそこに良い場所がありますよ、という提示の仕方が、歩ける距離感にあるローカルサーチには不可欠だ。

2011年10月28日金曜日

昔は「体験」を提示するのがうまかった?

体験だの施設だのと書いていたら、回覧で回ってきた日経ビジネス(2011.9.26号)に同じような内容が書かれていた。これからは単品の製品を販売するのではなく、体験を売りたいと日本の大企業がこぞって考えているそうだ。

先に書いたように、そう簡単なことではない。例えばガラパゴスも、液晶テレビの単品売りに飽きあきしたシャープが出した、体験売り型の製品だったが失敗。

体験を売るには、前段取りと構成を綿密に考える必要があるんだと思う。つまり、解決したい課題とそれを煮詰めたコンセプト。次に体験。体験を構成するサービスと製品といった形だ。

そして、「体験」はうまくいけば長い期間収益を上げれる可能性があるが、ヘタをすると長いながい我慢の時間が続くかも知れない。そういった事を念頭においた、勇気と覚悟が必要になる。

同じ雑誌の中で、元ソニーの久夛良木氏が、ウォークマンの頃のソニーは体験を提示するのが上手だったと言っているが、決してそんなことは無いと思う。意図して体験を提示していた印象はない。現在のAppleのCMと見比べるとよく分かる。

iPadやiPhoneは、それを持つ事でどんな事ができるようになるのか、まさに体験を全面に出したCMを流している。かたやソニーは、思い起こせば、猿もうっとりするほど音が良いウォークマンや、スゴく発色の良いテレビなど、あくまでも高性能な製品にフォーカスしたCMだったと記憶している。

つまり、利用者が今の延長線上にある「より良い体験」「より新しい体験」を想起しやすい製品を作れたのが、昔のソニーだったんだと思う。

問題は、体験を想起しやすい製品を作れてない事、昔は体験にフォーカスしたモノづくりをしていたと勘違いしている事、何より現在の延長線上にある高性能化に対するニーズが減退している事にあるんじゃないかな?

体験を想起させる事は、体験をダイレクトに伝える事よりもレベルが高い。ウォークマン時代は高性能化ニーズが高かったので偶々うまく行ったが、今後もうまく行くとは思えない。

早く勘違いを解いて、体験にフォーカスできる体制をつくるべきだろうが、巨大企業になってしまったソニーが、カリスマなしに実現するのは難しいだろうな。

勘違いしたまま堕ちていくだけなんだろうか?

2011年10月26日水曜日

隣人との距離感

あるブログを読んでいて、新幹線でパソコンを広げて作業していたら、前の席に座った男が目一杯背もたれを下げてきてムッとした、という話があった。

そこで、ふと思ったのが、自分の座席の前のスペースって誰のものなんだろう、という事。

前の席に座る人からすれば、目一杯背もたれを下げる権利はありそうなもんだが、一方で自分の前に広がるスペースは自分のもので、優先権はこちらにあるようにも思う。特に作業してたり弁当を食べてたりすると、そう感じるだろう。

まぁ、当事者間で妥協しながらシェアするしかないのだが、行動のトリガーも意思決定も前の席に委ねられ、こちら側でできる事は注意して交渉することぐらいだ。なんだかすごく不公平。

そう考えると、そういった微妙な境界線は、いたるところにあるような気がする。そもそも社会生活における人間関係なんて、何かしら片務的なんだろう。

少なくとも自分の行動が、どんな形で周りに影響を与えているかを、常にモニタリングしておく必要はあるんだろうな。

人に迷惑を掛けないって、難しい。

2011年10月24日月曜日

400回達成

特に目標にしていた訳ではないが、このブログも400エントリーを迎えた。

誰に伝えるでもない独り言のようなブログなので、カテゴライズもしてない。その時々に自分が感じたことを記録に残すつもりで続けている。

この400回、2年半の間にも、部署が変わったり、勤務地が変わったり、震災が起こったり、政権が変わったり、デバイスが変わったり、Steve Jobsがいなくなったりした。

これからも色んな事が起こるだろうから、日々思いつくままに書こうと思っている。

こんなブログだが、読んでくれている人もいる。ありがとうございます。まずは三年間継続する事、そして、500回を目標に続けたいと思います。

2011年10月21日金曜日

コンセプトからパーツに至る段階

ディズニーの「体験」とシーパラの「施設」という二つの異なるコンセプトを考えながら、それらをつなぐ段階的な流れについて整理してみた。

大きくはハードとソフトで分類される。ハードは「施設」「製品」「パーツ」に分かれる。一方ソフトは、「サービス」「体験」「コンセプト」に分類できる。製品は多くのパーツでできており、施設は製品を組み合わせてつくる。その施設なり製品の使い方がサービスであり、そのサービスで得られる効用が体験となる。体験を設計する際の軸になるのがコンセプトだ。

逆に書くと、コンセプトは体験の集合、体験はサービスの集合、以下、サービスは施設の、施設は製品の、製品はパーツの集合になる。

収益を上げる方法論におけるハードとソフトの違いは、ハードは基本的に売り切りで、ソフトは運用で継続的に、という辺りだろう。つまり、ハードはすぐに結果がでるが、ソフトは結果が出るまでに時間が掛かる。長期間に亘ってマネジメントを続ける勇気と覚悟が、ソフトには必要だ。メーカーを始めとした日本企業の多くは、製品もしくは施設などのハードしか取り扱わない。

高収益を上げやすいのは、一般的には最終消費者に近いポイントだと考えられるが、Appleのように垂直統合しているとハードに利益ポイントを置くことができる。

結局、自らのビジネスの対価としての限界価格はおおよそ決まっており、その限界価格に見合う競争力のある価格設定をした中で、自分の手の内にある工程における最もグレーな部分に利益ポイントを持ってくることになる。通常、ものを作る場合の製作コストにグレーな部分は少なく、そのことがハードにおける利益率の低さに直結している。

だからこそソフトに手を伸ばし、ソフトで収益を上げるとともにハードでも収益が上がるような仕掛けをしていくべきだと思う。

それには勇気と覚悟が必要で、今まさに、そこが問われている。

2011年10月19日水曜日

日本的サービスの限界点

最近、八景島シーパラダイスによく行く。ここは、水族館を中心とした総合アミューズメントパークで、水族館好きには中々楽しい場所だ。イッテQ!水族館もここにある。

八景島という人工島を開発し、海をテーマにしたアミューズメントパークを作ろうという構想は理解できるが、ここに行くと、日本的サービスの限界点を感じることが多い。日本的サービスは総合的ではなく、単発的だ。企業は総花的な総合企業化を目指すパターンが多いのに、サービスの総合化が得意ではないのは不思議だ。米国的サービスの代表、ディズニーリゾートと比較すると理解しやすいかも知れない。

ディズニーリゾートは「体験」を中心に考えているが、シーパラダイスは「施設」を中心に考えていることが大きな違いだ。


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「体験」には施設、サービス、スタッフなど、様々なものが含まれていて、その全てをマネジメントすることになる。ベンチマークするべきは、一日を過ごす「体験」であって、その体験の質が、他の体験に比べて差別化されていて、なおかつ最高であるように設計される。一日を過ごす体験とは、例えば動物園かも知れないし、南の海のリゾートかも知れない。もしかしたらオーロラツアーや山登りや温泉やウィンドウショッピングもライバルになるのかも知れない。少なくともそこを訪れる人は、それ以外の選択肢を全て捨ててきているのだから、後悔させないだけの「体験」の設計は必要だろう。

一方で「施設」も、その中の設備、動線、サービス、スタッフなどが含まれている。そして、水族館という施設でベンチマークして、水族館として差別化されている事が最重要課題になる。「体験」の時と同じく、他の水族館を選べば良かったと思われないような施設にする必要がある。だから、シーパラダイスではジンベイザメをイルカプールで飼育し、鑑賞するだけでなく、芸を仕込もうとしている。


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施設中心の考え方の欠点は、施設間の一体感がないことだ。それぞれの施設として、類似施設をベンチマークした上で、他にないものを作っただけで、それ以上ではない。すごく縦割りな印象だ。だから、施設間でサービスレベルが大きく異なり、しっかりしたサービスを受けられる施設から、ほとんどボッタクリに近いようなものもある。そして、その不均質感が全体としての体験の質を下げている。

また、施設は飽きるというのも大きな問題だ。施設というハードを中心に考えると体験が画一的になり、いつ行っても同じなので、何度も行く気にはなれない。子供は別だが。体験というソフトで考えると、バリエーションが無限に存在し、いつ行っても何かしら新しい発見があるので、リピートする意味が出てくる。

つまり、施設は一見さんをいかに呼びこむかが重要であり、体験はリピーターをいかに増やせるかが大切になる。ビジネスととしての拡がりと安定感は、間違いなく後者が上だろう。

逆に、施設中心で設計すると、その施設はレベルの高いものになる場合も多い。例えばミシュランの三ツ星レストランは日本が一番多い。個々の施設が同じ業態の施設をベンチマークし、切磋琢磨した結果、非常にレベルの高い飲食店に成長する。


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そう考えると結局、日本は職人の国で、腕の良い職人が自己研鑽を深めて、高レベルなサービスを個別に提供することしかできていないと考えられる。どの分野も総合化・体験化・サービス化できずにいて、単に使われている職人として、その腕が良い事だけを自慢にして、報酬は二の次といきがっている。iPhoneがいい例だろう。部品は日本から調達して、体験を売って、ハードで稼いで、サービスを総合化している。

いつまでもこんなことで良いのだろうか?

2011年10月17日月曜日

街歩きのセレンディピティ

セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。

セレンディピティの有無は、人生の広がりにおいて、大きな意味をもちそうだ。ほんの些細な事の観察から、別の意味ある何かを発見する力をもつというのは、才能や観察力だけでなく、幅広い興味や価値観を求められる。人間は極めて合理的にできているので、興味がないものに思考力を使うことはないばかりか目にも留まらないというのが普通だろう。

にも関わらず、求めているものとは違う何かの価値を見出すのは、言葉で言うほど簡単ではない。まさに「セレンディピティ」という能力があればこそだろう。

インターネットの世界は実に混沌としていて、実はセレンディピティを発揮するのに適したフィールドなんだろうと感じていた。つまり、一つの情報を目的を持って探しても、別の情報が抽出されてくるからだ。自然と多くの情報に触れる機会が生まれ、それがある種のセレンディピティアクセラレータになっていたように思う。

一方で、最近の検索は非常に精度が高くなっており、探している言葉に対して、かなりの確率で答えが導き出せるようになってきている。逆に、トンチンカンな答えというものが減って、「別の意味ある何か」を見出すことは非常に難しくなってきている。

精度の高い検索が示す未来は、寄り道のない人生のようなもので味気ないが、精度の低い検索なんて利用価値がないと思う。

全てのフィールドでセレンディピティを生むような仕掛けを埋め込むことは難しいだろうが、一部に限定すればできそうだ。実にKozchi-mecke!-がその一つの解になると考えている。

Kozchi-mecke!-が以前より提唱しているように、お店を偶然に見つけることは、街歩きの本質だし、非常に重要な行動だと思う。この記事がそれを証明している。

iOS執事のAlfred、レストランのおすすめは偶然から
しかし、最も重要なデータはユーザーが実際どのようにアプリを使っているかに関するものだ。具体的には、Alfredに送られるリクエストの94%は「セレンディピティー」[偶然の巡り合わせ]によるもので、明確な検索はわずか6%だった。

つまり、94%にも及ぶ人が、明確な目的を持ってお店を探していないということで、何らかの情報トリガーによって「偶然に」見つけ出しているということになる。

Kozchi-mecke!-は偶然の出会いを促すことを一つの目的としている。

同じく、この記事も示唆に富んでいる。

成長まちがいなしのセレンディピティ分野? SNS情報を統合して、今いる場所の「再発見」を目指すRoamz登場
いずれにせよ、現在は位置情報に基づく「新たな出会い」(セレンディピティ)をうまく演出できるアプリケーションはない。今はまさにそうしたサービスが待ち望まれているのではないだろうか。

Kozchi-mecke!-は「街の再発見」が一つのテーマだ。戦略ストーリーを考えたときに、明確に示している。

そう。言いたいのは、街中でお店を見つけるというフィールドにおいては、セレンディピティを補完することができそうだ、ということ。そしてKozchi-mecke!-も、そういったセレンディピティ補完サービスの一つだということである。

2011年10月14日金曜日

Jobsが守ろうとしたもの

毎日.jpの「時代の風」を読んで、少し違和感を感じた。

実際iOS上のソフトやコンテンツの流通に対し絶対的な決定権を維持し、維持し続けるために自らの支配の及ばないアプリケーション流通を可能にするFlash等の技術は、どんなにユーザーの要望が強くても受け入れなかった。(中略)しかし、ネットの世界の変化は早い。アップル社が推していたインターネット上の最新技術であるHTML5は、Flash以上にアプリケーション流通をOSから自由にする技術に成長した。ジョブズが必死で維持していたiOS上での流通支配権は早晩崩れる運命にあった。


はたして、Jobsが守ろうとしていたのは流通支配権だったのだろうか?
ここ数年のJobsは、以前にも増して達観していた。もちろんAppleの収益が伸びることはうれしいが、それが目的ではなく、もっと大きなビジョンの下でどうすればより良い世界を作れるか、ということに腐心していたように思う。そう考えると流通支配権なんてせこい話はどうでも良かっただろう。

Jobsが守ろうとしていたのは、ユーザーが安心して使える環境だと思う。その証拠は、Pixer時代の逸話にある。

ジョブズが創業したもう1つの会社。ピクサーアニメーション・スタジオのジョン・ラセター氏が以前、こんな話をしてくれた。

映画「ファインディング・ニモ」の試写を見に来たジョブズが、「海の中の海藻の動きが不自然だ」と指摘したところ、そのコンピューターグラフィックスを担当しているエンジニアが「バレたか」という顔をして「今の技術で、その海藻を自然な動きにしようとすると、映画の公開が1年遅れるか、膨大な追加予算がかかる」と言い訳をした。

ジョブズはそれを制し、素晴らしいストーリーとリアルなグラフィックスで、すっかり作品の世界に没入している観客を、たった1本の海藻の不自然な動きで夢見心地からさませて本当にいいのか、といったことを問い返した。


コストよりも時間よりも、観客のエクスペリエンスを重視する姿勢が伝わってくる。
Jobsにとって、利用者に最高の体験を提供するにはどうすればよいかが最大課題であって、そこでどの程度儲けるかは二の次だったのだ。ましてや支配権なんて言葉は、まったく当てはまらない。

携帯電話業界に参入することを決めた段階で、iOS(当時はiPhoneOS)端末がかなりのボリュームになることは見えていたはずだ。また、市場がつくりあげる段階であることを考えると、シェアも相当なものになることは想定内だろう。今までのPCビジネスを考えると、それはすなわちウィルスなどとの戦いになるということだ。しっかりコントロールしなければ大変なことになることが自明だったとすれば、Webアプリしか許可しなかったり、AppStoreの規制を強めたりすることは、当然の策だったのだろう。

もともとWebアプリしか使えなかった時代もあったことを考えると、HTML5によってアプリ並みの機能を持たせられることは福音なのかもしれない。本来あるべき姿に近づいたと考えれば。

iOS端末の利用者はJobsのポリシーによって、様々な攻撃から守られてきた。そしてそれによって、最高の体験を得てきたことに感謝したい。

2011年10月12日水曜日

スモールライト

東京の地下鉄を使ってると、時に非常に中途半端な動きをする人がいる。例えば、乗車する時のタイミングが遅かったり、人の流れに乗らずに少し抵抗してみたりして。

こういう人は大抵、ドア脇のスペースが好きか、すぐ降りるかなのだが、少し不愉快に感じる。

クルマのスモールライトは何のためにあるか、と良く似た議論になると思うのだが、自分の事だけを考えると、スモールライトは必要ない。つまり、自分にとっては、計器や道路が見やすいか否かの二元論でしかないので、ライトも点けるか消すかの二つのパターンがあればいいはずだ。

それでもスモールライトが必要な理由は明白で、他車に自車の存在を気づいてもらうためだ。

ウィンカーもそうだが、クルマの場合、自分のためというよりは周りの人のための装置がいっぱい付けられている。それは、周りに配慮する事が結果的に自分の利益になるためだからだ。

クルマの運転は、不特定多数に囲まれた環境で、どのように行動するべきかを端的に教えてくれる。

要点は3つだけだ。ルールを守る事、流れに乗る事、周りに気づいてもらう事。

東京を始めとする都市圏の満員電車での行動原則も、この3つに集約される。もう少し領域を拡大して、社会生活も同じ原則を適用する事ができるだろう。

生きていくためには、スモールライトが必要だ。

2011年10月10日月曜日

CEATEC2011

幕張メッセで開催されているCEATEC2011に行ってきた。

最も印象に残ったのはAppleだった。もちろんAppleはCEATECに出展していない。が、あらゆる場所で、Appleの匂いを強く感じた。

今年は色んなブースでタブレットPCが展示されていた。スマートフォンもタブレットPCもAppleに端を発している。

それだけではなく、今までプラスチック筐体だったものをマグネシウム合金にしたり、シールだったロゴや認定マークなどをエッチングにしてみたりと、何とかApple流モノづくりに追いつこうと必死になっている事が、あからさまな模倣から伝わってきた。

インテルのブースで展示されていたパソコンも、MacbookAirソックリだった。薄さ、ポートの配置、大きなトラックパッドやキーボードの形など、どこを切り取っても、MBAの模倣にしか見えない。

それだけでなくパソコンやテレビとつないで、自由にコンテンツを楽しもうというメッセージのプレゼンテーションが各所で行われていたが、このコンセプトもAppleTVで、すでに実現しているものだ。





それぞれに決定的な違いがある。

スマートフォンやタブレットPCは、OS、ハード、プラットフォームを一体開発しているAppleと、Androidのライセンスを受けてハードだけを作っている各社の違いは、当然、完成度に表れている。

美意識を共有していないモノづくりには魂が宿らない。性能だけ良ければ受け入れられる時代はとっくに終わったのだという事に気づく必要があるだろう。

パソコンも同じで、スタイリッシュになったという事だけでは、何も解決していない。

どんどん作り出される、様々な技術を取捨選択して、本当に必要なモノは何かという議論をする事なしに、意味あるプロダクトが作れるとは思えない。ハードだけでできる事もあるはずだが、おそらく、パソコンを再定義しようなんて考えてもいないんだろう。

最後のデバイス連携なんて、ほとんど説得力がなかった。致命的なのはコンテンツを持ってない事。その意味で、ソニーは少しだけ先行している感じがした。

それにしてもBravia、PlayStation、スマートフォン、タブレットPCと、どれだけ投資すれば、その未来に辿り着けるのか。東芝やパナソニックは、コンテンツサーバーも持つ必要があるので、気が遠くなる。スマートフォンとタブレットPCを抜いても30〜50万円ぐらいだろうか?

囲い込みたい気持ちはわかるが、そのエゴが導入の足を引っ張っている。高機能な大物家電を導入しないと実現できない未来は、本当の意味での未来なのだろうか?もしかして、ただの幻想ではないだろうか?

Appleで同じ事を実現するのに必要なコストは、AppleTVの8,800円だけだ。Appleが想い描く未来は、誰の手にも届くだろう。

どんなに素敵な未来でも手に届かなかったら意味がない。勝負になる訳がない。

みんなAppleが設定した土俵で相撲をとろうとして、ことごとく負けている。しかも、完敗。横綱vs.幕下という感じじゃないかな。

Jobsがいなくなった今こそ進撃のチャンスかも知れない。そして、そのために必要なのはパラダイムを変えることだろう。Appleの土俵から離れる事だ。

今の所、その兆しは見られない。

2011年10月7日金曜日

Mac遍歴

所属していた組織が入社当時、Macを標準として導入していた事もあり、様々な機種を使ったことがある。

どれも好きだったが、中でも思い入れが強いのは、初めて使ったPowerbook540c、まだまだ作りは荒かったけど、よく持ち歩いていたPowerbookG3、完成度が高かったMacbookAir、ほとんどの人がその可能性に気がつかなかったiPhone3G、コンピューティングの概念を変えたiPadかな。

このブログはほとんどを、iPhone4かiPadで書いている。

ColorClassicII
PowerMac7200
PowerMac7600
PowerMacG3
Macmini 1st
Macmini core5i

Powerbook540c
PowerbookG3 12inch
Macbook White
MacbookAir 11inch

AppleTV 1st
iPhone3G
iPhone4
iPad
iPad2
iPod 2nd
iPod nano 1st
iPod shuffle 1st

ありがとうございました。
そして、これからもよろしく。



2011年10月6日木曜日

一つの時代が終わってしまった…

Steve Jobsが亡くなった。56歳の早すぎる死に言葉もない。

これまで、このブログでも何回もJobs/Appleについて思うところを書いてきた。Jobsは間違いなく世界を良い方向に変え、自分もその恩恵に浴してきた。

Appleは自由の象徴であり、Jobsは未来を見通す神のような存在だった。だからこそ世界はBJ/AJで分類できる。

二度とJobsの「One more thing」が聞けないかと思うと、非常に寂しい気がするが、これも予想された結末ではある。

今はただ、ご冥福をお祈りするしかない。

さようなら、Steve Jobs。今まで素晴らしい夢と、もっと素晴らしい多くのプロダクトをありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

2011年10月5日水曜日

正統進化

iPhone4Sが発表された。

A5プロセッサ、8Mカメラ、音声認識、au、そして、iPhone5が大方の事前予想だったので、サプライズがないばかりか、かなり期待外れだったのではないだろうか?その証拠に株価もかなり下がったようだ。

しかし、今まで何度か書いている、商品開発の3要素に当てはめると、今回の発表は予測できたし、正しい進化だと確信できる。

商品開発の3要素とは、コンセプト、デザイン、技術のことで、商品開発にはその3つの要素が大切であるとともに、どれか一つしか(大きく)進化させてはいけない、という原則があると考えている。

なぜなら、二つ以上の要素を動かすと、ユーザーがついていけないからだ。Windowsなんて悪しき例だと思う。進化の度にコンセプトを変え、デザインを変え、技術を変える。新しいだろとばかりに出されても、ほとんどついて行けず、未だに約10年前のOSであるXPを使っている人すらいる。

MacOSで10年前と言えば、OSXができて間もない頃だと思うが、10.1とか10.2を現役で使っている人がいるとは思えない。Windowsは全てを変化させるので、単なるバージョンアップなのにスイッチングのハードルが高い。なので、それぞれのバージョンで取り残される人がいて、それが様々な弊害をもたらしている。

Appleは、そこのコントロールが絶妙で、だからこそ在庫を残さず、利益率も高く、バージョンアップに皆が付いてきてくれる。ハードもソフトもOSも。そんな目で今回の発表を見ると、全く正しい進化だと言う事が分かる。革新と熟成を交互に行うことで、浸透とスイッチングをスムーズにしている。

今回味わった若干のガッカリ感も、おそらく来年6月に発表されるだろうiPhone5への一つのスパイスになるだろうし、CPUが強化されて使いやすくなると共に、auからも発売されるiPhone4Sは、意外によく売れると思う。来年、iPhone5が発売された後も。

ただ、iOSデバイスの種類が増えることで、革新と熟成のサイクルを維持するのが難しくなるのも確かだ。例えば、iPadでは革新だったものを半年後に発表するiPhoneに載せても熟成でしか無い、とか。

このサイクルを好循環させるには、ユーザーの期待を良い意味で裏切らなければいけない。つまり、ユーザーにできるだけ正しい想像をさせないようにしなければならない訳なので、iOSデバイスをバラバラと発表する事はできるだけ避けたい。

しかし、少なくともiPhoneとiPadはどちらも訴求力があるので、できれば別々に、半年ぐらい離して発表したい。となると、そこのバランスを取りながら、うまく革新を作りこんでいく必要がある。

絶好調のAppleはMacも含めて、革新のバランスを取る事が目下最大の懸案事項になるのだろう。贅沢な悩みだ。

2011年10月3日月曜日

アンノウン

事故によって記憶に混乱をきたした男の話。

記憶が部分的になくなり、自分の置かれている状況が分からなくなるだけならまだしも、記憶を取り戻した後に、従前の価値観を失うのは、少し違うと感じた。もしそうであるなら、今までも自分の生き方に疑問を持ちながら、過酷な職務を遂行していたことになる。部分的に描かれる当時の様子にそのような悩みや葛藤は存在しない。

リーアム・ニーソンと言えば、「96時間」も面白かったが、凄みのあるアクションと優しそうな表情・人柄のギャップが、ストーリーの謎を深めているように感じる。

事故で生死の縁をさまよい、そのため記憶が混乱する。病院で目覚めても、自分が何のために、そしてなぜここにいるのかも分からない。テレビを見て断片的に思い出していくのだが、その断片感が少しご都合主義的で、より事態が混乱していく。後で考えると合理的な、様々な登場人物の行動も、その理由はようとして知れない。

最後の最後で全てを思い出すのだが、その期に及んでも、かつての価値観を取り戻すことはない。なぜ?一見楽観的な未来への旅立ちに向けた最後の仕掛けも、どうやって?という疑問は免れないし、そもそも楽観的な旅立ちにはなり得ないだろう。

途中までは面白かったが、最後に失速。少しシナリオの詰めが甘いかな。

2011年9月30日金曜日

戦艦武蔵、そして、男たちの大和

先日、「三陸海岸大津波」や「関東大震災」を読んで、思い出したように「戦艦武蔵」を読んでみた。吉村昭が描く時代の匂いというのは、本当にリアリティがあって、身震いがする。

「戦艦武蔵」は、最後の戦艦となる武蔵の建造から沈没に至る物語だ。

武蔵が、日本の切り札として計画され不沈艦として神格化されていく、そのプロセスは、当時の人間からすれば疑問を挟む余地のない時代の渦だったのかも知れない。しかし、後付けで歴史を見ると、戦争に勝利するという観点において、決して正しい道では無かったと感じる。

そもそも太平洋戦争は、その端緒を切った真珠湾攻撃において飛行機による攻撃の優位性が、日本によって証明された所から始まった。これを機にアメリカは空母と航空兵力を強化していく一方で、日本は旧来の大砲巨艦主義に邁進し、大和型戦艦にまで辿り着く。

大和型戦艦は、その巨大さにおいて従来最大の長門型に対して1.5倍ほどにもなる。大砲も大きく、装甲も厚い。全てが想像をはるかに超える規模だったが、全てが従来パラダイムの延長線上にあったといえる。

哀しいかな日本は、海戦のパラダイムを変革したにも関わらず、それをうまく展開できなかった。

何か現代に似た匂いを感じないだろうか?

携帯電話も自動車も太陽光発電も、全て同じ轍を踏んでいるような気がしてならない。世界的なパラダイムシフトについて行けない、意思決定能力、判断力の欠如が日本の最大の欠点だろう。

武蔵建造に関わる人々も、また大和の乗組員も、一つの大きな大義に包まれて、疑問を抱く余地を奪われる。正確には、皆が疑問を持ちながらも、疑問を口に出せない空気に飲み込まれる。海軍艦政本部は機密を、長崎造船所は品質を、乗組員は故郷を守るという大義を「不沈艦」という言葉に託して、盲目的に職務を遂行する。今思えばもっと冷静な判断はあるはずだし、するべきだったと思うが、時代の空気がそうはさせないのだろう。

「戦艦武蔵」からも「男たちの大和」からも、そういった時代の空気を感じる事ができる。自分自身がこの時代に生まれなくて良かったと、本当に思う。このような不遇な時代に不本意な人生を送った人々にも、自分たちと同じような平和な時間もあったであろう事を、想像すると切なくなる。

過去を教訓にすることが大切だと思うが、日本はパラダイムシフトに素早く乗り、躊躇無く展開することは教訓としなかったようだ。残念ながら。

2011年9月28日水曜日

巨大で身動きが取れない会社の困った要件定義

JRのシステムがクソだ。
関西に行く機会が多く、よく東海道新幹線を使っている。その事もあって、エクスプレス予約は昔からクソだと思ってた。システム設計者が、利用者の行動の基本的な部分を全く理解してないように感じている。特にログインとか、予約行動や決済に至るプロセスとかボタンの配置とか。

こういったシステムは、最初クソでも利用が進むに連れて改善されて行くのが普通だと思うが、JRのような巨大な官僚組織では、そういった改善もままならないようで、長い間クソのままだった。最近になってスマートフォンに対応したサイトデザインになり、少し良くなったと評価している。

サービスについても、恩着せがましいだけで使い勝手の悪いグリーンポイントは意味がないけど、期間中何度でも予約変更できるところなんかは便利で、素晴しいと思う。

と、JR東海に関しては、システムもサービスも良し悪しありつつも、改善傾向にあるので、使い慣れていることもあり、一定の評価をしている。

ところで、最近はJR東日本のシステムを使うことがある。つまり、えきねっとだが、これがエクスプレス予約を上回るクソシステムでビックリする。

全く利用者の使い勝手を考慮されておらず、直感的ではないインターフェイスばかりで、使っていてガッカリすることばかりだ。全てのプロセスにおいて詰めが甘く、サイトデザインが古い。つまり、使いにくい。

何より驚くのはえきねっととモバイルsuicaの連携がないことだ。えきねっとで新幹線を予約しても、モバイルsuicaでは入場できない。どちらもJR東日本のサービスなのに。その点、エクスプレス予約はスムーズにモバイルsuicaと連携しており、ストレスなく利用することができる。

思うに、JR東日本は大きくなり過ぎて、システム開発する時に承認を取るべき階層が異常に多いのではないか。なので、一回開発したプロダクトに対して、改良・改善ができないのではないかと思える。最初の要件定義が全てで、そこでイマイチな設計になると、そのシステムはイマイチなまま使われることになる。

えきねっととエクスプレス予約とモバイルsuicaの関係を見れば、グループ内とは言え他社との連携はできるのに同じ会社内でのコラボレーションが困難である実態が透けて見えるように思える。

日本企業が抱える課題が見事に反映されていて、悪いけど笑ってしまう。いわゆる、代表的な化石企業ということだ。そう考えると、エキュートは良く実現できたと思うし、大宮駅で成功しなければその後の展開は無かったんだろうな、と改めて感じる。

2011年9月26日月曜日

山を登る

「今まで山に登ろう、山を見ようと思ったこと、もっと言うと、会社に山があると思ったことはありませんでした」

『陽はまた昇る』を観て、「山」とは何だろうか、と考えた。

「山」とは、「実現するかどうか分からない事柄」を指すのではないだろうか。ある程度の困難さを伴いつつも、実現するのが確実な事柄ではなく。そして「山」は、単に属する会社の与えられた仕事の中にあるだけではなく、様々な組織やビジネスアイデア、さらには個人の家庭の中にもあるのだろう。

多くの建設プロジェクトは、ゼネコンの目線で見ると後者であり、つまり「山」ではない。

「山」でないとダメなのかと言うと、そう言う訳でも無く、「丘」や「単なる起伏」であっても存在意義はあって、登り甲斐はあるのだろう。ただ、それを見る時の意識が違うだけかも知れない。淡々と歩を進めれば良いと思うのと、山頂に辿り着けるかどうかも分からない中で一歩を踏み出すのとでは、覚悟が違う。

そういった意味では自分も、「会社に山があるとは思っていない」タイプかも知れない。典型的なサラリーマンだ。

でも、山に登りたいと思っているのも確かで、山が「実現するかどうか分からない事柄」だとすれば、そのような中で、どうやったら比較的安全に山を登れるのか、山の定義とともに山に登る心構えを、改めて考えている。

2011年9月23日金曜日

力不足のWiMax

WiMaxはネットワークが弱過ぎる。回線選択において何よりも重要なのは、スピードではなく、エリアの広さだということを痛感している。

ここで言うエリアは、単に物理的なアンテナがカバーする範囲の事ではない。例えば大雨の時など、大気の状態が不安定な時でも安定して繋がる範囲の事である。

とにかくWiMaxは田舎にいくと使えない。特に地方に行くと酷い。

本当に使いたい時に使えないという事は、すごくストレスがあるし、その回線に対する不信感と諦めを増大する。ソフトバンクなんか相手にならないくらい繋がらないWiMaxは、正直、常用に値するネットワークではない。昔のように回線や機器のご機嫌をうかがいながら使うモノであって、そういった事に喜びを覚える人が使うべき代物なのだろう。

スピードも思ったより出ないし、よく回線が切断される。また、複数機器で使うと、無線LANの暗号が混乱してしまい、すぐに繋がらなくなってしまう。

インフラサービスは後発企業が一定の地位を確保するのは難しい。特にドコモのように、緊密なネットワークをすでに整備している競合がいる場合はなおさらだろう。WiMaxの場合は普及に当たって複数企業がフランチャイズ的にを展開しているが、サービスや展開方法が固まってないモノに対して、あまり適した方法とも思えない。誰が、WiMaxのアンテナに責任を持つのかが曖昧、もしくは消費者に伝わりにくいからだ。つまり、誰に文句を言えば、アンテナを増強してもらえるのか、だ。

このままだとWiMaxは、高い潜在能力を持ちながらも、その本領を発揮し切れないニッチなネットワークに終わってしまう可能性もあるだろう。

逆転の施策を練る時期にきている。

2011年9月21日水曜日

陽はまた昇る

日本ビクターのVHS開発にまつわる物語。2002年の映画。
かつてのNHK名番組プロジェクトXで最も反響が大きかったストーリーを映画化したもので、細かいところはフィクションだが、大きな流れは実話だろう。

映像一筋で来た男が、1970年頃にVTR事業部を任される。当時は業務用VTRは存在しており、日本ビクターは参入を果たしていたが、故障が多く、事業として成立していなかった。また、ビクター自体が不採算事業を抱え込んでおけるような経営状態でもなく、会社全体にリストラの嵐が吹き荒れ、VTR事業部への風当たりは日増しに強くなっていった。そのような中での事業部長就任は周りからは左遷と思われていた。

事業環境を好転させる手がかりを得るために、業務用VTRの販売促進を進め、何とか生き残ろうともがくが、退却しながら戦うようなスタンスで事業が大きくなるわけもない。ある時、家庭用VTRのニーズに気づき、本社に内緒で新製品開発に乗り出す。本社をごまかし、開発資金を捻出する。業務用VTRの営業によって得られた2時間録画という開発要件を見出し、開発を推進する。

もちろん、家庭用VTRのチャンスに気づいていたのはビクターだけではなく、いち早く製品化に成功したのはソニーだった。ベータマックスという規格で販売をスタートするが、技術はソニー一社で囲い込む戦略を取った。一方のビクターは、遅れること数ヶ月、ようやく製品化に漕ぎ着ける。後発となってしまったビクターは、規格を公開し誰でも使えるようにすることで、巻き返しを図る。普及展開にあたっての大きなハードルは二つ。通産省と松下。

通産省は規格の統一を図るために、各社にベータマックスの採用を働きかける。そして、1976年11月1日以降に新規格製品を出すことを禁止し、これがVHSの発売日(1976年10月31日)を決める。そして、VHSの飛躍には松下が不可欠だった。日立や三菱も松下の動きを注視していた。松下を仲間に引き入れるためには松下幸之助を落とすしか無いと考え、深夜、車を飛ばして大阪に向かう。その道中で語られた言葉が印象的だった。

同行した次長が、自分は事業部長が赴任してこられてから考えが大きく変わったと語る。
「今まで山に登ろう、山を見ようと思ったこと、もっと言うと、会社に山があると思ったことはありませんでした」

そして事業部長は、生来自分は弱い人間だから、いつも心に言い聞かせている言葉があると言う。
「易しい戦いに勝つよりも、厳しい戦いに負ける方が強くなれる」

最後はサラリーマン的感動で終わる。。。

非常にベタで、日本の企業人的なウェット感と事なかれ主義的な経営陣や通産官僚に嫌悪しつつも、事業の失敗による閉塞感あふれる職場を、夢の共有と、それを実現する技術者のこだわりと、支える事務方の献身的な努力と、なにより、全員の気持ちを背負ってあらゆる困難に立ち向かっていく靭やかなリーダーシップで大きく変えていく、その人間模様に感銘を受けた。

サラリーマンのみならず、全ての働く人、その周りで支える人は必見。

2011年9月19日月曜日

希望の国のエクソダス

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」

パキスタンで起きた出来事をきっかけとして、中学生の不登校が全国的に広がって行く。中学生のリーダー ポンちゃんと参謀 中村くんと偶然に知り合うことになった雑誌記者 関口の物語。

中学生たちは、インターネットを使って互いに繋がり合い、数十万人規模の組織となり、徐々に力をつけていく。ニュース配信に始まり、ITや人材派遣、金融など幅広く事業を手がけ、莫大な資産と社会的認知を手に入れる。最後には、希望のない日本という国に見切りをつけ、北海道に独立地域をつくる。

過疎化が進む地域に大量移住することで人口面の、ウィンドファームおよび地域開発に伴う投資資金として市に起債させた地方債を自ら引き受けることで財政面の主導権を握るという壮大な計画の下に、理想郷が作られて行く。国からの交付金を受け取らず、エネルギーと通貨を独自化することで、独立性を高めて行く。。。

前から読みたいと思っていたこの小説を手に取ったきっかけは、カンブリア宮殿だったか。

一番の驚きは時代の描き方だった。

2000年発売のこの小説に書かれていることは、10年以上経った現代日本にもピタリと当てはまる。日本が10年以上も進化していないのか、村上龍の洞察力が卓越しているのか。

特に、ASUNAROという中学生の組織が社会的に認められつつ段階で、頻繁にメディアに露出し始める時のやり取りには唸らされる。

テレビキャスターが「日本の中学校はつまらなかったと、要するにそういうことだな?」と、テレビ的単純化をしようとすると、中学生は反論する。

「いいえ、それだけではありません。今の日本にはリスクが特定されないという致命的な欠陥があります。(中略)この国では、原子力や内分泌物撹乱物質とか、あるいはそれらを含む環境までモデルを拡げてもいいんですけど、(中略)ニ、三パーセント程度の確率で起こる中小規模のアクシデントやクライシスに対するリスクの特定はできているんだけど、0.000001パーセントの確率で起こる超大規模のアクシデントやクライシスに対しては最初からリスクの算出はやらなくていいということになっているんです。そういった傾向は家庭から国家まであらゆる単位の共同体で見られるので、結局リスクマネジメントができません。(後略)」

どうだろう。東日本大震災の結果を鑑みると、驚くべき洞察と言えないだろうか?ここまでハッキリと、しかも原子力災害にも触れつつ、この国のリスクマネジメントの不在に言及したことって、あっただろうか?

ただ、リスクマネジメントの不在は危険過ぎるので、この国に依拠せず独立地域を構築しようとする発想は、やや深みがないような気もする。むしろ、なぜ、そのような欠陥のある思考様式に陥っているかに言及して欲しいと感じた。

以前も書いたが、ゼロイチ思考がリスクマネジメントの不在を招いていると個人的には感じている。つまり、ゼロでなければ全てイチであるとの考え方が、極めてゼロに近いゼロではない確率の存在を無視する結果をもたらしていると考えている。

リスクマネジメントの不在が、シリアスな結果を生む事は今年発生した様々な災害が教えてくれた。ではどうすれば良いかの一つの解がこの小説で、それこそ国の在り方から再構築し直す必要があるのだろう。

小説としてはこれでいいが、実際に実行可能な国づくりとしては、どうすればいいんだろう?そのことが今問われていて、その前提条件となる課題の多くは、この小説の中にある。

2011年9月16日金曜日

ブラック・スワン

色んなストレスから、現実と幻想の区別がつかなくなっていくバレリーナの話。終わってから思い起こしても、どこまでが現実だったにか、どこからが幻想だったのか分からない。

ディカプリオ映画によくあるパターン(最近だとインセプション、それ以外にもビーチ、ティパーテッド、シャッター・アイランドなど)だが、ナタリー・ポートマンもかなりハマってた。

技術は確かだが、線が細く、見るものを惹きつけるような演技ができない主人公。そして、その憶病な性格は、自らの夢を押し付けるあまりに過保護のなり過ぎているステージママによって、形成されてきた。

主役に憧れる主人公は、劇団の顔として長い間主役を演じてきたダンサーの控え室に時々忍び込み、盗みを繰り返す。安いものから段々と高価なアクセサリーまで。憧れとは言え、やや常軌を逸した行動が、精神的なバランスの崩れを感じさせる。

公演の主役を張ることは、劇団のプロデューサー?監督?のオンナになることと、ほぼ同義で、今まで主役を務めていたダンサーに飽きたプロデューサーが、新しい「白鳥の湖」を創るにあたって、オンナを取り替えるように、主役を交代させる。

当然、激烈な主役争奪レースが始まる訳だが、主人公はその憶病さ故に、美しい白鳥は踊れても、官能的な黒鳥が踊れない。そして、一旦は落選する。どうしても主役を演じたい主人公は、意を決して、プロデューサーのドアを叩き、一瞬の感情の爆発によって、ラッキーにも主役の座を射止める。

ここから、劇団の顔になって行くのだが、演技力はいまだに追いつかない。初演が近づくに連れて、プレッシャーが増大していく。プロデューサーからの容赦ない叱責、共演の男性ダンサーからの辛辣な評価、ライバルたちからの嫉妬が入り混じった視線、そして、過度に世話を焼く母親。それら、全てがプレッシャーになり、幻覚を頻繁に見るようになる。

そこからは、現実と幻覚が交錯しつつ、怒涛のようにクライマックスへ。

緊張の中で初演を迎え、第一幕で致命的な失敗をする。それが、主人公の精神を崩壊させることになる。幻覚の中、自我を失った主人公は、今までにない完璧な黒鳥の演技をこなす。

その後、想像もしなかった結末が待っていた。。。


非常に面白かった。
精神が崩れ落ちるような事態に陥ったことはないが、こんな状況で正常でいられる自信は、自分には全くない。ナタリー・ポートマンは、高度なバレエもさることながら、精神的カタストロフィに至る演技が素晴らしかったと思う。

現実と夢の間、正気と狂気の間といったテーマが好きなら、オススメ。

ところで、映画の中でも「ダンサー」と称していたが、最近はバレリーナとは言わないのかな。

2011年9月14日水曜日

安易なゼネコン批判

大西 宏のマーケティング・エッセンス
アジアに進出する日本の建築家

付加価値の高い建物をつくろうとするとデザインが鍵になってきますが、それを実現する建築家が高松伸さんはじめ日本にはいるということでしょう。しかし能力の高い建築家がいても、それがビジネスとなると、やはりゼネコンが抑えているのが日本です。デザインや設計よりは、モノの価格が優先してしまいます。



極めて安易で、稚拙なゼネコン批判と感じる。少なくとも、三点において、明らかに間違っている。

一つは、優秀な設計は国際的に著名な建築家でないとできないという思い込みだ。ゼネコンも優秀な設計部をそれぞれに持っている。一般的に建築家は食える職業ではないので、多くの優秀な設計者はゼネコンや設計事務所に属することになる。優秀な設計をアートと捉えると、それはいわゆる著名な建築家の領域になるが、そのデザインを施主が受け入れるかどうかは別の問題で、現実的な選択としてゼネコンや設計事務所が設計することになることが多い。

二つ目はデザインによって建物の付加価値が決まるという考え方だが、デザインはその一つの要素でしかなく、最近では居住性や省エネ性能が重視される傾向にある。それはすなわち、デザインではなく設備や仕上げのプライオリティが高いということだ。また、日本の場合は自然災害が多いこともあって、構造性能も付加価値の要素として大きい。デザインのみでは建物の付加価値は決まらないし、デザインが付加価値に与える比重は小さくなっているのが現実だろう。

第三に、建設事業を仕切っているのがゼネコンだ、というのもよくある誤解だ。ゼネコンは、正式にはゼネラル・コントラクターといい、日本語では総合請負業と呼ぶ。つまり、生業は請負業なのだ。多くの場合は、土地を持っている事業者の意向に沿って、技術を提供しているにすぎない。どの建築家を使うかは、基本的にゼネコンが決めることではない。なぜなら、品質確保とコスト・パフォーマンス最適化の観点から考えると、自社の設計部隊を使ったほうが良いからだ。それでも社外の建築家、または設計会社を使うのは、施主がそれを望んでいるからであって、ゼネコンが意図している訳ではない。

つまり、建築行為において、デザインや設計よりモノの価格が優先されているとしたら、それはゼネコンが仕組んでいることではない。また、デザインや設計がモノの価格より優先されている事例は多いかも知れないが、すべての建築がそうである訳ではない。数十年から百年という単位で未来に残るモノを作る気概を持って設計されているものも多いし、その多くにゼネコンが関わっている。建物は設計者に焦点が当たることが多いが、施工技術があってこその設計であることを忘れて欲しくない。

ゼネコンが諸悪の根源であるかのような物言いは、明らかに間違っているし、業界の実態も知らずに、適当な事を言われるのは、あまり気持ちの良いものではない。

2011年9月12日月曜日

iPad! iPad!! iPad!!!

最近、iPadを手に入れた。しかも2台。

1台は、家のPC環境を整理して行く中でMacbook AirよりiPadが魅力的に見えてきたことで、これはiPad2が出た時から薄々感じていたことだった。少々衝動的に、家にあった色んなガジェットをオークションで売り、iPad2の一番安いヤツをオークションで手に入れた。

もう一台は、一年ほど前に実家にあげたiPad1。段々と、色んなことが億劫になってくる年頃の両親に、ある種の脳トレとして提供。割と写真が好きなこともあって、フィットすると思っていたが、もう一つ主体的な使い方が見出せなかったようで、1年で挫折。要らなかったら返して、とは言ってたものの、まさか戻ってくるとは。。。iPad3で老人向けに更なる改善があることを望むばかりだ。

と、思いがけずiPadを2台保有することになってしまった。iPad1を常用とし、iPad2は妻の実家に送り、ビデオチャット端末とする予定。

iPadを様々な形で使い、気付いたことの第一は、画面の大きさがもたらす使いやすさだ。第二の気付きにも関連するが、画面が大きいことで、できることが増える。ウェブが見やすくなる。キーボードが打ちやすくなる。全く違う体験だ。

第二は、ネットサービスとの親和性だ。画面が大きいから、見やすいし、キーボードも使いやすい。結果として、ネットにつながっている時間が極大化する。iPhoneを始めて使った時も感じたが、手許にネットがある便利さは、今の時代、必要不可欠だ。いつでもどこでもネットに繋がることによって、ネットに触れる時間はかなり長くなる。

第三はiPadのポジショニングの良さだ。簡単に言えば、これ一台で95%ぐらいの作業はできる。実は、PCってほとんど必要ないことが分かる。逆に、iPadでできない作業のためにPCは存在する、と感じる。そして、画面がこれ以上大きかったらハンドリングが悪くなるし、小さかったら、これほどの利便性は得られないだろう。

iPhoneを3年使った上での感想だが、これからはiPadだろう。しかも3G+Wi-Fi。

ただし条件がある。iOSに限定したテザリングを実現して欲しい。現在は、WiMaxのWi-FIルーターで、iPadとiPhoneを同時接続しているのだが、同じ環境を3G+Wi-Fiで実現したい。いつでも繋げたいネットワークとして、WiMaxには不満があるので、3Gを使いたい。満員電車で通勤する身としては、iPadの常用は厳しいので、満員電車ではiPod touch、それ以外ではiPadという形を取りたい。

日本では、その使い方がベストと思えるし、こういった利用形態が取れるのはiOS端末だけだろう。Androidとの差別化の意味でも、ぜひ実現して欲しい。

2011年9月2日金曜日

mecke!の安全・安心への活用

大規模施設や商店街のような不特定多数の人が集まる場所では、安全への配慮が欠かせない。

震災以降改めて見直されている避難場所や避難経路、元日本代表松田選手の事故以来その重要性が再認識されたAED、また、緊急連絡先やインフォメーション、非常口の案内も欠かせない。さらに、個人からの積極的な情報検索に加えて、施設や街から情報を提供していく必要もあるだろう。

少し卑近な例で言うと、トイレや最寄りの公共交通機関へのアクセス方法なんかも、アナウンスすべき重要な情報だと感じる。

今まで、こういった情報を適切にハンドリングするサービスはなかった。

こういった情報の特性として、時間的・空間的許容度が非常に低いことが挙げられる。つまり、今・ここで必要とする情報と、明日・あそこで必要とする情報が全く違うということだ。それだけ情報を必要とする条件が、時間的・空間的に固定的されている。グルメ情報サービスを考えれば、その違いが明らかになるかもしれない。それらのサービスは、「今・ここ」と「明日・あそこ」の両者の条件において、利用者の検索方法から情報の提供方法まで、ほとんど変わりがない。

つまり、非常時に必要となる情報をハンドリングするための条件は、従来サービスではカバーしきれないのだ。そして、「明日・あそこ」という条件を重視する限りは、これからもカバーし得ないだろう。

mecke!は、「今・ここ」という条件に絞ったサービスで、日常の街の情報を非常時情報と同等に扱うことで、リアルタイム・リアルプレイスの情報ハンドリングを実現している。だからこそ、非常時に求められる安全・安心コンテンツにも違和感なく活用することができる。

2011年8月31日水曜日

前に進む事を怖がる人

パソコンが苦手な人がいる。身近にもいるし、多くの高齢者はそうだろう。そういった人たちを見て気づいた共通点は、彼らが「Enter」や「クリック」を怖がっていることだ。

パソコンの作業で「Enter」や「クリック」は、何かを決めて、前に進む時に使う。つまり、これらの人は何かが起こる事に、やや恐れを抱いているのだろう。クリックしたらクラッシュするかもしれない、変なサイトに飛んで架空請求に引っかかるかもしれない、という事なのかもしれない。きっと本人に聞くと、そんなに深刻な恐れではないのだと思うが、無意識下にインプットされているんだろう。

そう考えると、パソコンを触るのは結構なリテラシーが必要だとも言える。iPadにしても同じだという事が最近明らかになった。つまり、パソコンを使い慣れた人からすれば、非常に直感的に使えると一般的には言われているタブレットPCでさえ、そうでない人にしてみれば、変わらず敷居の高いものなのだ。

考えてみれば、そのように感じるものはデジタルガジェットに限らず、ある。

人それぞれの苦手意識の中で、これより先に進むと何かしら不測の事態が生じるかもしれないという感覚があり、それが行動を止めてしまうということだ。

別に珍しい事ではない。自分を振り返っても、よくある感覚だと言える。

一方で、自分が苦手と感じていない領域において、苦手意識から二の足を踏む人の気持ちが分からず、上から目線の対応をしてしまうことがある。相手が家族だと尚更だ。

自分も同じように一歩が踏み出せない事が多々あるくせに、そういった態度を取ってしまった時は、非常に情けない気持ちになる。

今後は、そう言った事を念頭において、もう少し人に優しく接していく必要があると、強く感じた夏の夜。

2011年8月29日月曜日

日本の未来を選ぶプロセス

本当に国民を小馬鹿にしてるとしか思えない日本のリーダーを選ぶプロセス。完全に国民を無視して、一体誰のための政治なのかと問いたい。

国民が党を選び、党がリーダーを選ぶ。議院内閣制とはそういうものだが、日本独自の進化を遂げてしまったのだろうか。あまりに情けない。

国民の意思が反映された党という存在は、選挙の時に約束した形を失っている。自分は、そもそもマニュフェストに固執すべきではない、と考えているが、マニュフェストを変更していいのは、変更が事態の好転を促す場合に限りたい。最初に掲げた段階での検討が甘く、財源が確保できないから止めますなんて、ちょっと許せる形ではない。

(個人的には最初から支持してなかったが)党が当初の形から変わった時点で、元々の支持は反故になったと思っていいだろう。

にも関わらず、政権党は変わらない。政権党党首が持つ最大の権力である、衆議院解散権を行使しない限りは。つまり、政権与党が厚顔無恥であれば、衆議院任期の4年間は、政治と国民にコミュニケーションを取るタイミングはなく、しょうもない小競り合いと無意味な独裁が続く。

二年前に予測したとおり、小悪人を一年ずつ上がりポジションに追いやって、日本という国に無為な時間を過ごさせ、ただ破滅へと突き進むだけに成り下がった民主党に、一体何を期待したら良いのだろうか。

松下政経塾出身の野田氏は、政治が果たすべき役割を強く認識しているだろう。自分の利益のために寝技を弄する政治屋ではないとも思う。今までと変わらぬメンタリティの民主党議員を率いての船出には不安が残るが、長い目で見守りたい。野田氏には、少なくとも2年間は踏ん張って欲しい。

2011年8月26日金曜日

BJ/AJ

世界はJobs前後で大きく変わった。

Jobsがいたからマウスが日の目を見て、GUIが発達した。それ以前は、というかその当時のJobs以外の人間はCUIで十分だと考えてたし、まさかコンピュータが、こんなに個人生活に不可分なものになるとは思ってなかった。

その意味では、Jobsがパーソナルコンピュータを作ったと言えるし、そもそものコンピューティングの概念を再定義したと言える。

でも、新しい概念がマスに届くまでには時間がかかり、その間に他社が追い上げ、結果として戦略的にゲイツがグローブと組むことで、世界を支配した。それでもPCの世界で、BJ/AJという形でJobsが歴史上の転換点になっていることは間違いない。

言うまでもないが、その後もフロッピーディスクを葬ったり、USBに日の目を見せたりしつつ、パソコンを機能から価値に変換したのもJobsだろう。それまでのパソコンは、単に機能の寄せ集めでしかなかった。機能が高いものが良いパソコンだった。iMac以降は機能ではなく、それがもたらす価値に、より重心が置かれるようになった。

iMacでコンピューティングは二度目のBJ/AJ転換を迎え、そして今、iPadが次なる転換を起こそうとしている。

業務用途でしかなかったコンピュータを個人用途に開放したMac、ネットにつなぐ事で価値が飛躍的に拡大させたiMac、そしてデバイスが持つ力を何倍にも拡張するクラウドとの付き合い方を提案しているiPadと、Jobsはコンピューティングの歴史において3度の再定義を実現している。

その間に、音楽、映像を製作から配信に至るまで再設計し、それに伴うデバイスのあり方も作り変えた。そのデバイスとデータのハンドリング方法は携帯電話を再発明するに至り、iPhoneを生んだ。

Jobsがいなければ、コンピューティングは今とは比較にならないぐらい小さなものだったに違いない。そして、インターネットは、未だにただのネットワークだったかも知れない。

Jobsが引退した今、1976年から続くコンピューティングの歴史に一つの幕が降りた。Jobsによる再定義・再発明が二度と見られないと思うと一抹の寂しさを感じるが、次の世代が生み出すコンピューティングの進化に期待したい。


2011年8月24日水曜日

平時と非常時

今日、とあるセミナーで、日本人は非常時に対する備える力が遺伝子レベルで存在していない、という話を聞いた。その人が言うには、地震や台風などの自然災害に備えることは、戦争や暴動などの人的災害に備えるより難しいとのこと。

遺伝子まで話を広げるのは、ちょっと暴論だとは思うが、主旨は理解できる。

日本的な意思決定は極めて極端なゼロイチで、ゼロでなければイチ、白じゃなかったら黒というものだからだ。こんなメンタリティで非常時の判断なんかできるわけがない。

非常時の備えというのは、万が一の時のゼロ限りなく近いがゼロでない場合を想定して行う。これを日本的なメンタリティに置き換えると、どんなにゼロに近くてもイチという事になる。で、イチというのは非常時ではなく、平時だ。

つまり、非常時への備えは、どんなにレベルが高くても、逆にどんなに発生確率が低くても、平時の備えと同義になる。

結局、Fukushimaに見られるように、その当時の知的レベルにおいて想定された問題以外の問題(または、コスト等の観点から意図的に想定したくなかった問題)は、全て想定外として、人知の及ぶ世界ではなかったとしてしまう他ない。そうしないと想定しなかったことの責任を問われるからだ。

そんなこんなで、対応できる問題だけを選択的に想定し、100%確実な対応を実現する。この結末が、津波被害であり、放射能汚染だ。

間違いなく、日本は同じ道を進んでいる。

また以前とおなじように、想定しうる中で100%の対策を講じようとしている。そこには景観に対する配慮も、生活に対する配慮も、建前上は謳っていても、本質的にはない。

キッシンジャーは言ったそうだ。
「日本と安全保障の問題は議論できない」
チャーチルも言ったらしい。
「日本語は近代戦争(クリティカルな状況)を議論するのにふさわしくない」

まさに、そういう事だろう。ゼロかイチしかない世界に、戦略も交渉も不要だし、不毛だ。日本はいつまでもこのままで良いのだろうか?ゼロとイチの間にある状況は無視し続けて良いのだろうか?この判断による未来は、生活も文化も歴史も景観も、人間の思考能力さえ奪って、全てを破壊して、最後には何も残らないように思えてならない。

遺伝子が問題なら、遺伝子を進化させよう。思考能力が問題なら、思考能力を鍛えよう。判断基準が問題なら、判断基準を変えよう。日本語が問題なら、状況に応じて英語で議論すれば良い。破綻しない可能性がゼロでない日本国債を信じ続けることの意味を考えてみよう。

ゼロかイチに結論を収斂させることで、思考は止まる。思考停止からの脱出に必要なのは、ゼロとイチの間にある存在に気付くだけでなく、それをゼロに持っていくでもなく、イチに持っていくでもなく、ありのままに理解することだろう。

思考を停止させず、ゼロとイチの間にある存在を考え続けること、これこそが今、求められている。

2011年8月22日月曜日

商品開発の三原則

以前も書いたことがあるが、商品開発には三つの要素があると感じている。
コンセプト、デザイン、技術だ。それらのうちのいずれかは卓越している必要があるが、全てがそうである必要はない。

つまり、コンセプト、デザイン、技術のいずれかに他社/他者と異なる部分があればそれでよく、それ以上ではないということだ。

実はこれって、あまり理解されていないようで、通常は全てにおいて新しいことが期待される。特に技術的に新しくないと、なかなか納得してもらえないように思える。しかし、この三者の中で最もプライオリティが低いのは「技術」だろう。なぜなら技術だけで商売になることが、極めて稀だからだ。

デザインだけで買ってもらえること、コンセプトだけで使ってもらえることはあっても、技術だけで人の目を惹きつけるのは難しい。つまり、技術はそれ単体では、商売にならないのだ。

だから、コンセプトやデザインが大事で、そこでユニークな価値を見つける必要がある。

2011年8月19日金曜日

節電キャンペーンの顛末

結局、節電ってなんなんだろう?
一部営業が始まっていたとはいえ、お盆休み期間中の昨日、東京電力管内で電力使用量は制限令発令後始めての90%越えを記録した。

産業部門での使用量は平時に比べるとかなり低かったに違いないにも関わらず、今夏最大の使用量を記録したということは、今までやってきた節電の方向性が間違っていたのではないか、と感じる。

昨日と同じレベルの猛暑が、国民的夏休み期間から外れてたらどうなるんだろう?たらればかも知れないが、猛暑日が訪れるタイミングなんて確率でしかないので、「今年はラッキー」で済まされる問題でもないと思う。

今後に向けた節電行動はどのように考えればいいのだろうか?

産業部門の使用量が少ない日でもギリギリだから、供給力としての原発が不可欠ということか、それとも家庭部門ももっと真剣にやらないと今後の電力不足は解決できないよ、というメッセージなのか、それ以外なのか、どうなんだろう?

いつもそうなのだが、メッセージが不明瞭かつ片手落ちで皆が主体的に動けるものになってないことに大きな問題があると思う。我が国で電子化が進まない理由の一つも、この片手落ちメッセージにあると感じている。サーバーを集約化・仮想化したり、タブレットPCなどの最新デバイスを導入することは簡単に決まるのだが、そういったスタイルを受け入れる行動定義が共有できず、一向に電子化が進む気配はない。オフィスも医療も教育も。

電力も同じで、需要と供給の技術的な問題を解決すると同時に、ライフスタイルを明確に定義しないと意味がないし、効果がない。今夏の節電キャンペーンと電力使用量実績を元に、早急に方針決める必要がある。供給力、需要側デバイスのあり方、そして行動様式とライフスタイル。これらについての明確な意志を持った人が次の首相になるべきだろう。

そんな人、いないけど。

2011年8月17日水曜日

破壊と創造の奇跡

アメリカの財政状況悪化にともない、世界が混乱に陥っている。特に日本が。

アメリカに連動して、株式市場の大きなポーションである輸出産業の株価が下がっている。また、相対的に安定していると判断されて円が強くなっている。日本は今、デフレ、円高、株安という困難に直面している。

よく購買力平価仮説を盾にとって、まだ日本は円安だと主張する人がいるが、その判断は果たして正しいのだろうか?

これ以上の円高が進んだ場合、日本の産業構造は大きく変わらざるを得ないだろう。円高は輸出品の競争力を落とすので、国内で生産を続けることは事業継続上不利なのは間違いない。

ともあれ、理想はゆるやかなインフレ、円安、株高だろうから、真逆への転換になる。日本の状況が好転するには、奇跡を待つしかないだろう。

以前も書いたが、日本が変わるきっかけは二つ。徹底的なカタストロフィと外部からの価値観の(強制的な)輸入だ。不透明なものに対峙することが苦手な日本は、一旦破壊されなければ先に進めない。また、先に進むには外から下敷きを持ってこなければいけない。

徹底的な円高で、輸出産業(主には二次産業)の生産拠点海外移転は加速し、国内は空洞化するだろう。同時に、一次産業の輸入と三次産業のガラパゴス化が進むだろう。

破壊と創造の時が近づいている。

2011年8月15日月曜日

鎮魂の原野

先日、初めて被災地を訪れる機会があった。女川、石巻、閖上、仙台港、仙台空港...

大きな衝撃は、ゼロになった土地にかつては住宅がいっぱい建っていたという事実と、その全てがガレキと化し、いたるところに高さ10mはあろうかという山を堆く作り上げていたことだ。

正直言って、かつての風景を知らない人間からしてみると、そこに何があったのかを想像することすらできない。この5ヶ月の関係各位の努力によって、ガレキが綺麗に片付けられているので、今更ながら現地を訪れる自分のような人間にはリアリティが薄く、ただただ荒野が広がっているのみだった。

それにしても被災地というのは、一緒くたに語れるものではないということが良く分かった。

基礎自治体が完全に破壊されている場所、街の9割方は今まで通りの生活をしている場所、高地移転に適した土地がある場所、逃げ場のない平野部、漁港、農地...

様々な被災地の形があり、また同時に復旧・復興の形があるんだろうと感じた。いずれにせよ、長い時間がかかるのは間違いない。復旧・復興の形についてコンセンサスを得るだけでも、かなり難しい。

戦後66年、もしかしたらもっと長い時間をかけて作り上げてきた社会資本がゼロになってしまったのだから、相応のコストと時間がかかるのは当然だろう。今までの投下資本量を考えると、完全に復旧するのは無理だろう。中途半端な復旧はサステナビリティを損なう可能性が高い。

街が衰退していくことを、かつてそこに住んでいた人々は望んでないだろう。新しい街づくりに向けたグランドデザインが求められている。鎮魂のためにも。

2011年8月12日金曜日

ネットにおける存在

検索されなければ存在しないも同然といわれて久しい。

SEO/SEMなどがビジネスになるぐらいに、皆がそういう意識でいるように思える。しかし、ネットショップならまだしも、リアルに存在するお店の場合に検索されなければ存在していない、ということはない。リアルへの誘引力を期待してネットに力を入れるお店も多い中、やはり検索というかお店を見つけるパラダイムを見直す必要があるように感じる。

ネットは空間を超えられることが特徴なので、ネットで検索されることの前提には、距離の概念が欠かせず、特に物理距離が遠く離れているほど効果が高い。つまり、近くの客はリアルで、遠くの客はネットで、ということが基本ルールだろう。では、ネットは近距離に弱いのか、というと必ずしもそうではなく、ネットの使い方を近距離に合わせていないだけではないか、と思う。

遠距離を対象にしたネットショップは単純だ。その昔はカタログ通販やテレビショッピングがやっていたことを、よりダイナミックにした、ということでしかない。情報流と物流を分けることで、それぞれを最適化して、運用しているに過ぎない。大切なのは、情報選択において利用者のリクエストにぴったり合った商品を導き出すことで、商品の差別化と差別化された商品を適切に抽出できる検索方法が鍵を握る。最も効果的なのは、やはり物販だろう。

中距離を対象としたものの代表格はグルメだ。渋谷にいて、品川と池袋のお店は等価だろう。多くの選択肢の中から、自分の好みのお店を選び、実際に足を運んでサービスを受ける。ここで大事なのはクーポンなどのおトク情報で、それが利用者の足の向きを決めることもある。ここでは等価な選択肢を多く並べておくことがサービスとして重要で、情報を提供するお店としては、その等価な情報の中で目立つことが重要だ。

では、近距離はどのように考えればいいだろうか?

半径300mぐらいを対象にすると、等価なお店は多くない。また、存在する情報量に限界があるので、差別化された商品を適切に抽出することのプライオリティはさほど高くない。そのような環境においてはネットは無意味だろうか?

昨今は手元にネット環境があり、どこからでもアクセスできる。ただ、リアルな存在としての人の行動には限界があって、遠距離、中距離の情報を活用することもあれば、近距離の情報が大事なときもあるだろう。その近距離情報を取り扱う手段というのは、今までのような「検索」を中心としたパラダイムでも、「おトク」を中心とした情報構成でもないはずだ。

そんな近距離におけるネットの活用と、情報の存在について、考えている。きっと今までとは違う情報のハンドリング方法が、そこにはあるはずだと思っている。

2011年8月10日水曜日

文化を滅ぼす考え方

京都五山送り火に陸前高田の松を使うというプランがあったが、受け入れ直前に断られ、8日に陸前高田で迎え火として燃やされたそうだ。

断りの理由は「放射能」。

もともと含まれていたとしても、ごく微量だろうが、受け入れ側としては一応検査をして、汚染されてないことの確認は済ませていた。

にも関わらず、ということらしい。

陸前高田はいわゆる計画的避難区域にも入ってないし、基本的に放射能汚染に対して過度に警戒するよ必要もない。また、仮に汚染されていたとしても、野焼きした薪からでる灰が、さほど広範囲に広がるとは思えない。

そのような地域から送られる鎮魂のための松明。

京都五山送り火は、今となっては一つの観光事業だが、元々はお盆で帰ってきている死者の霊を、お盆の終わりにお見送りする儀式だ。

今年は、東日本大震災で亡くなられた方が身内や知合いにいる方にとっては、特別な、本当に特別なお盆だと思う。その鎮魂の場の一つとして京都が選ばれたのは、すごく意味のあることだし、実現していれば、被災された方への癒しにもなるし、五山送り火の価値が高まるとともに、少し質が変わったかもしれない。

観光色よりも儀式色が強まり、より厳粛な、宗教色の薄い日本にとって意味のある行事になったのではないか。

京都は新しい価値を築くチャンスを逸した。

この下らない決定は、そもそもの送り火の意味を毀損し、京都の価値を貶めたと思う。これからも、歴史遺産に寄りかかって、過去を振り返ることでしか存在意義を見出せない、レベルの低い都市になっていくのだろう。

こういった決定を促してしまう民度の低さと、東北の産物を全て拒絶する思考停止ぶりに、驚くばかりだ。

2011年8月8日月曜日

鶏口となるも牛後となるなかれ

最近よく思い出す慣用句。史記の一節だが、昔の人は正しい。

頭が何を考えているか分からない尻尾の辺りにいると、自身の存在意義も疑問に感じる。牛の尻尾であることの意味は、牛の一部だということ以上ではなく、牛の行動に対してなんらの影響力を与えることはない。

対象が何であれ、主体的に動くのと、そうでないのではまったく意味が違うということだろう。このように考えると、牛そのものを対象にすると対象が巨大すぎて、尻尾にならざるを得なくても、牛と共生している何らかの生き物を対象にすれば、頭となって主体的に行動することも可能だと思える。ただし、牛に取り付いている以上、牛の行動がベースになるのは変わらないのだが。

実は、牛の頭たち(牛口?)も、ほとんど牛の行動に責任を持っていないし、ポジティブな影響を与えていないのは、尻尾にいても理解できる。

例えば、東電の経営陣が震災前に作り上げた組織は、極めて内向きな自由競争を無視したものだったことは、周知の事実になった。とりわけ、社長になれるのは秘書、総務、企画畑の人たちだけで、具体的には社内外の事情に詳しい人、総会などトラブル諸事を仕切れる人、発電所立地に際して地権者などに大して上手に立ち回れる人、ということが全てを表している。

別に、東電を批判したいわけではない。日本の企業は多かれ少なかれこのような性質をもっている、ということだ。つまり、組織の結束を強めるために、極めて内向きな行動を取ることが是とされており、そのことがもたらす影響は、社会的にはゼロだし、社内的にはネガティブだということに対しては関心を持たない、ということになる。

これは牛がでかくなればでかくなるほど、また、インフラ企業ほどその傾向は大きくなる。鶏口というのは、そこから脱却した自由な存在としての鶏を指すのだろうと思う。自分の体を維持することだけが目的と成り下がった牛ではなく、社会にポジティブな影響を与える鶏。それは牛とは独立した存在だと言える。

今の自分は完全に「牛後」にいることを、つくづくと感じる。

2011年8月5日金曜日

急性心筋梗塞

松本山雅FCの松田直樹選手が急性心筋梗塞で亡くなった。34才というあまりに早い旅立ちに言葉を失う。

先週火曜日に突然飛び込んできた突然のニュースに、二つのことを思った。

一つは、自分が松田を応援していたこと。

松田のような親分肌の人間には、いつも憧れを感じる。自分にはない要素だからだろうか。何かに突出して、才能と努力でトップに立ち、そのことを鼻にかけるでもなく、ひたすら自己を貫き、その価値観を情熱を持って周りの人に伝え、影響を与えていく。そんな風になりたいと思いながら、そのいずれのポイントにおいても力を持っていない自分には、見果てぬ夢のようにも感じている。だからこそ、そのような人間を見ると、尊敬というか畏怖というか、そんな感情を持つ。そして、こういう人に巻き込まれてみたい、そして少しでもその人に影響を与えてみたいと思う。

実は、そういった人はさほど多くなく、自分のサラリーマン人生の中でも数えるほどしかお目にかかっていない。そういう人は、周りに押されて、リーダーの地位に立つ。その時に、そのリーダーが作る世界観の中で一緒にいたいと誰もが思うのだろう。

きっと松田はそういった人で、皆が松田の世界観に巻き込まれる事を楽しんでいたのだと思う。口では「あいつ、うぜー」とか言いながらも、巻き込まれる事に喜びを感じていたのではないだろうか。

そんな松田を応援していた。というか気にかけていたということを改めて感じている。

二つ目は、AEDがあれば死なずに済んだのだろうかということ。

AEDは割と一般的になってきていると思うが、当然使う機会も少ないので、一つの街の風景になっていると感じる。AEDが活躍するニュースは数年に1回あるかどうかでしかない。今回のような、突然多くの血栓が心臓の血管を塞いでしまうような場合に、AEDで蘇生するものなのだろうか。印象としては心室細動を除去するためにあって、血栓を取り除くことができるのかどうかはよく分からない。ただ、蘇生する可能性が高まったことは確かだろうと思う。

AEDのような予防措置がなければ、人は意外にあっさり死ぬ。どんなに鍛えていても、どんなにストイックに自己を律していても、それは変わらない事実なんだろう。

社会的にはAEDをより普及させるのも重要だろうが、個人としては、いつ死ぬか分からない、その現実を受け止めて、強くまっすぐに生きるしかないのだろう。

その意味で、松田は十分に天命を全うしたのかもしれない。
心より、ご冥福をお祈りします。

2011年8月3日水曜日

国民栄誉賞の形骸化、無価値化が進む

なでしこジャパンが国民栄誉賞を受賞するらしい。初めての団体での受賞。何となく違和感があるが、まあ本人たちは貰う気だし、喜ばしいことだと思うし、この時期に成し遂げた功績として称えるのに異存はない。

もともと定義がなくて、その時々の宰相が人気取りも兼ねて贈るもののようなので、余命いくばくもない菅内閣にしてみれば、格好の的ということだろう。

正直言って、このタイミングだからという事と、全く予想もしてなかった事がが大きかったのだろう。

スポーツで言えば、北島康介のオリンピック2大会連続で2種目金メダルなんて国民栄誉賞ものだと思うし、浅田真央とか安藤美姫とかもそうなんじゃないか、と思う。柔道の野村忠宏なんてオリンピック3大会連続金メダルだよ。女子の場合、サッカーに比べるとバレーの方が競技人口が多いので、最近の女子バレーの躍進も目を見張るし、錦織圭もいよいよ日本人最高位だし、頑張ってるスポーツ選手・団体はいっぱいある。

違和感があるのは、「なでしこジャパン」としてしまったことで、今後の活動に影響が出ないか心配する。何となく、今までの功績をそれぞれの業界並びに社会への影響大なることを祈念するものだろうと思うので、少なくとも競技なり活動を辞めるもしくは一定の地位を築いた段階で、ということが普通だろう。そうでないと、せっかくの喜ばしい顕彰が、足を引っ張りかねないからだ。

引退後ならば、素晴らしい人がいた、という以上の事はないのだが、「なでしこジャパン」としたところで、素晴らしいチームが永遠に存在することになる。それとも、金輪際「なでしこジャパン」とは付けないつもりかな?

国民栄誉賞を受賞した王貞治はスゴイ選手だったという事と、国民栄誉賞を受賞したなでしこジャパンはスゴイチームだったというのは、同じかな?例えば5年後にも同じように言われるのだろうか。王貞治は5年歳を取るだけだが、なでしこジャパンは全く別物だ。なでしこジャパン2011としてみたところで、これから日本代表になる人たちは、過去の亡霊と戦うことになる。それも、追いつくことはできても追い抜けない亡霊と。

なでしこジャパンの今後も心配だが、もともと曖昧な国民栄誉賞が更にグダグダになっていくのも気になる。菅直人のやり方は、全てをグダグダ、グズグズにして、周りの人を巻き込みつつ無価値化していく。

2011年8月1日月曜日

リスクを取り込む時

日本はリスクを排除したがる傾向がある。排除できない場合には、なかったものにするという行動を取る。それは政治も民間企業もみんなそう。

きっとリスクを押さえ込むことでしかコントロールする術を知らないんだろう。そのコントロールを超えた事態は、想定外として思考を止める。先日の地震やそれに伴う津波や原発災害もそう。その後の行動は、想定外だった事象を想定内に入れるだけ。想定外を取り込んだ形での想定はしない。

最近だとSonyの顧客情報漏洩とハッカーに対する対応、ホリエモンやLibrahackの事件も同じだろう。とにかく想定を超えたモノに対しては、異常なまでにエキセントリックに対応し、なかったことにする。想定を超えるような事象があり得るというアタマがないので、取れるリスクを線引きして、それ以上は関知しない事で対応する。

かつての黒船来航もそうで、それ以前に多くの兆候があった訳だが、それらを一切なかったものとして無視し、いざ起こったときに慌てる。想定外を排除する形に慌てて修正しようとするものだから、非常に極端な対応になってしまう。実はそれが思いもかけぬ奇跡を生み出すこともあるから不思議で、極端な対応が明治維新や高度成長に繋がっている。

欧米が、日本のような奇跡を起こせないのは当たり前で、彼らは想定外をしっかりとリスクの中に取り込んでいるので、想定外と思えるような巨大な事象が発生した後も極端な行動に走らない。だから、歴史には連続性があるんだと思う。

これらは一見、一長一短あるそれぞれの国民性のようにも思えるが、その時代を生きている人にしてみれば、ある程度読める未来と読めない未来では大きな差がある。

江戸末期、終戦に至るまでの期間、そして現代は、そうした日本人のDNAによる停滞時期でもある。異常な円高も想定外だろう。為替対策はせず、無視している。富士山大噴火も東海地震も想定外だろう。実質的には何の対策もしていない。想定外を無視し続ける間は社会が停滞し続けるのは、歴史が証明している。

様々な想定外が起こり、それらを全て取り込めた時、次の歴史が始まるハズだが、いつ始まるのかは誰にも分からない。そして、それがどれほど大きな波になるのかも。

日本の未来は読めない。

2011年7月29日金曜日

今まで見逃されてきたセグメント(2)

前回は客という個人について、感じていることを示した。最近は徐々に焦点が当たりつつも、中々決定打がないという状態じゃないだろうか。Google Offers、Facebook Checkin Coupons、Groupon Nowといったサービスが出始めており、それらのコンセプトはいずれも「その場所に行ったとき、近くのおトクなお店が見つかる」というものだ。

このコンセプトはおおむね正しいと思うが、人は決しておトクなお店だけを探しているわけではないし、ネットに載るような「おトク」を打ち出せるお店も多くはない。

近くにいるという前提条件の中で考えると、おトクというのは強い訴求要因にはならないことが多いと思う。

ネットで殊更に「おトク」を強調するのは、ネットが空間を越えるメディアだからだ。つまり、二子玉川に住んでいる人にとって、新宿のお店と飯田橋のお店は、ほぼ同列の選択肢になるだろう。そのような条件で検索によってお店を選ぶ場合には、おトク情報などで人を惹きつける必要がある。

では、すぐそこにいる人に対しても同じような選択肢の量があると考えた方がよいのだろうか?そこには、ネットを活用しながらも、純粋なネットサービスとは異なる状況があると考えられる。

多くの場合、近くにあるお店の数は、そのカテゴリーごとに1~3軒程度だろう。繁華街の居酒屋なんてのは例外かもしれないが、それでも焼鳥、刺身、焼酎など得意分野を絞っていけば、競合店っていうのは通常多くない。そして、お客となるべき人たちも、多くの選択肢の中からお店を選ぶというよりは、行きたいお店のカテゴリーを選ぶ、という方がニュアンスとして正しいように思う。

つまり、「おトク」が行動のきっかけになるほど選択肢が多くないというのが「近くのお店」というセグメントの特徴だろう。

そのように考えたときに、現在の近くのお店を探す仕組みは、正しく機能していないだろう。というのも、ネットにある情報は先に書いたように「おトク」を中心とした切り口でしか構成されていないからだ。そしてネットに情報を効果的に載せるためには結構なコストが掛かるため、利益率が低かったり、商品単価が安かったりすると、ネット上に存在し得ない。

今、ネット上に存在する情報、特に「おトク」を中心とした情報に付加する形で「近くの人」に対して意味のある情報を提供できることはないだろう。一部に人には受けるだろうけど、それ以上ではないと思う。

街を便利にするには、あらゆるカテゴリーのあらゆるお店が対象とする必要があるが、現時点においてネット上に存在しない(ことになっている)お店は多い。これらをうまく俎上に乗せてあげることが、最大の課題といえる。

2011年7月27日水曜日

近未来のライフスタイル

段々と、徐々にMacbookとiPadの距離が近づいている。タブレットとノートでできること、したいことは明らかに違うようだが、多くの部分はラップしている。

メール、Web、twitter、pdfの閲覧、写真管理、音楽管理、簡単な書類の作成、動画編集...ぐらいかな?あと、blogの更新か。正直言ってユーザビリティの問題だけだ。コンテンツの作成に重きをおくのか、閲覧だけで良いのかによって、MacbookとiPadのどちらがベターかが決まる。

悩ましいのは、この線引きがかなり難しいことだろう。境界領域にいる人はかなり多いと思う。Macbook Airの携帯性が高まったことが、より判断を難しくしている。

最近「断捨離」という言葉が流行りだが、これもひとつの例になるだろう。外出時に行う作業の10%にも満たない、コンテンツ作成を捨てられるかどうかが、iPadを使えるかどうかの分水嶺でもある。そう考えると、やはりiPadというのは偉大な製品で、人々のライフスタイルを見直すきっかけを作っているとも言える。

決め切れない人のためのプロ仕様「MacPad」もあり得るかと思ったが、せっかく崩したライフスタイルを旧来の形に戻す可能性のある製品は必要ないだろう。

iPadのみならずApple製品を見ると、その制約の作り方がすごく気になる。Apple製品は決して万能を目指したものではない。というか万能なものはなく、極めて明確に制約を設けており、その制約の中でのベストを目指している。同じ制約された領域で戦う限りはAppleに勝てないし、ずれた領域では顧客を獲得できない。それぐらい、その領域設定は見事に近未来のライフスタイルを言い当てている。

米国国債までデフォルトを懸念されるような状態にあり、先進国がこぞって経済成長した時代はとっくに終わった。高齢化を通り過ぎ、高齢社会にある日本で、新しいライフスタイルはどこにあるんだろう?iPadでは無い、更なるパラダイムシフトが求められているのかも知れない。

2011年7月25日月曜日

ライオン登場!

MacOS Xが新たにOS Xとなり、バージョン10.7 Lionをリリースした。当然すぐにアップデート。4G近くあるので、ダウンロードには時間がかかったが、インストールは超簡単。この辺りが他のOS、特にWindowsとは違う。極力ユーザーの手を煩わせない方針が貫かれており、責任回避を目的とした使用許諾のようなものは一切ない。


まだ全然触ってなくて、何のレビューもできないけれど、ログイン画面が変わり、タッチパネルのジェスチャーが変わった。

一つ面白いのはページスクロールで、ページをめくるのと、ページを移動するのではジェスチャーとして逆になるということが分かる。スクロールバーを使って間接的に動かすか、ページを直接動かすかの違いだ。例えばpdfなどでページを動かそうと思うと、下への移動はスクロールバーを使うと下に動かすのが普通だが、ページを直接つかむと上に動かすことになる。これって、iPhone以降に気がついた視点だろう。

こういった操作系を始めとして、LionはSnowLeopardと違って一目で分かる変化があるので、非常に期待感がある。

Appleの製品開発プロセスは、イノベーションと熟成を交互に繰り返すことが特長で、堅実さと革新性と期待感を同時に満たす非常に優れた手法だと思う。同時に発売された、Macbook Air、Mac miniは熟成プロセス、Thunderbolt Displayはイノベーションプロセスに入っている。

常にイノベーション風の改良を余儀なくされる日本メーカーとの違いは、この製品開発プロセスだと思う。革新と熟成のどちらにも意味を持たせられるようになると、堅実な進化ですら次の大きな革新に向かう一歩と解釈され、世界は自分中心に回りだす。

2011年7月22日金曜日

無税特区しかない!

被災した東北地方の都市を復旧・復興するための議論が続いている。建設業の出番はいくらでもありそうだが、全てを失った人々にとっての雇用創出の意味合いもあり、なかなか地場以外のゼネコンが出る幕はない。アイデアや技術をいくら用意しても、よっぽど需給が逼迫しない限りは出番がなさそうだ。

復旧・復興に関して、高台に街を作りなおすという基本線は共有しているものの、漁業中心の街において、産業をどこに、どのように発展させていくのか、という話が出ると、議論が止まってしまう。また、ただでさえ若者の流出が激しく、高齢化が加速度的に進んでいた所に起こった未曾有の災害が、流出速度を早めている。

以前にも書いたように、復旧・復興に向けた大きなイシューは、命、産業・雇用、街の魅力をいかに守るかであって、対症療法的に高台へ移動したり、職住を分離することではないと思う。そんな事をしたら、更なる高齢化への引き金になって、結果として高台が「姥捨て山」になる可能性が高い。また、一定以上の高齢化は、年金・医療費の急激な高騰を引き起こし、税金がいくらあっても足りない「ザルで水を掬う」ような状態になることは目に見えている。

必要なのは、東北地方の産業を活性化させ就労機会を増やすこと、そして、消費機会を増やすことだろう。雇用と消費があれば、高齢者だけでなく若い人も集まってくるだろうし、新しい文化や街の魅力が作られていくきっかけにもなるだろう。

今、行政が用意すべきは、そういったことが実現できるような下地でだろう。であれば、税制をいじるのが手っ取り早いと思う。せっかく総合特区の枠組みもあることなので、東北地方を無税特区にしてみてはどうだろう?無税はムリでも半分にするとか、とにかく国内にありながら税金が安いエリアとして特区化することはできないのだろうか?

被災者支援にもつながるし、企業誘致のきっかけにもなる。雇用が生まれ、消費が活性化する。域外からの来訪者も増え、観光との連携も期待できる。

経済再生なんて言っていた3.11以前は、よく法人税を上げるのか下げるのか議論されていたように思うが3.11以後、税制改革の話はすっかり鳴りを潜めた。今こそドラスティックな税制改革を東北地方で実現し、その効果を評価すべき時だし、そういったトライアルができる数少ない機会だと思う。

ぜひ無税特区を実現して欲しい。

無税特区という言葉がイマイチなら雇用促進・消費活性・観光連携特区でもいい。再生可能エネルギーにどれだけ投資しても、雇用にも消費にも観光にも寄与しない。もう、これしか残って無いと思う。

2011年7月20日水曜日

規律の共有化とフィードバック

組織運営には規律の共有化とフィードバックが大事だと思う。というのも、自分が所属している組織がその両者を完全に欠如した組織だからだ。日本的従来型産業ということでいうと、社内規律は厳格に設定されているが、共有化いう観点では、全く不十分と思える。

本来、企業というのは、組織としての規律を個人個人の規律に置き換える作業が必要で、その作業を段階的に、かつ効率的に行うために組織が存在する。この翻訳作業を個人で行うには、かなり客観的な目と達観した精神を持っていないとムリだろう。

通常は、仕事を通じて、立ち居振る舞いだとか考え方だとか型を学ぶことになる。その過程に介在するのが上司や同僚であって、自分たちの社会的な位置づけ、存在意義などを共有化していくことになる。共有化されている意識は、いわゆる世間一般常識でなくてもよい。組織ごとのローカルルールで十分だが、共有化されている、組織のコモンセンスになっていることが重要だ。こうすることで、個人の意思や行動と組織の価値基準が一致させることができる。

共有作業が不十分だと、個々人が好き勝手に規律を作ることになる。

また、共有していく以上はフィードバックが必要で、個々人の考え方が組織のコモンセンスに沿ったものであるかどうかは、同様に上司や同僚によってフィードバックされるものだろう。フィードバックプロセスを経ることで、個人と組織の価値判断のズレが微調整される。

だが、規律の共有化が未熟な組織には行動に正解も不正解もないため、明確なフィードバックを与えることができない。つまり、自分の行動の良し悪しを自分で考えるということになる。

組織として、規律の共有化とフィードバックができていないと、そこにいる個人は自分で好きなように組織そのものや社会的意味を定義してしまい、その独自の定義に基づいて行動を判断するようになる。組織とのつながりや連携の強弱は、個人の意識に任せられる。そこに組織の意思が介在する余地はない。

当然、制約が無い方が精神的なストレスが少ないため、規律の共有化やフィードバックが自律的に動き出すことはあり得ない。そこには組織としての強制力が必要になるハズだろうが、自分を振り返ると、なぜか今まで規律の共有化やフィードバックを受けてきた記憶がほとんどない。

こういった組織は、組織と呼ぶことができるのだろうか?スイミーのように、大きな流れの中で「群れから離れないこと」だけを規律とする組織って意味があるんだろうか?

なでしこジャパンを見ても答えは明らかにNOだろう。

2011年7月18日月曜日

なでしこジャパン、W杯優勝!

スゲーよ!
女子サッカーW杯2011ドイツ大会で、
なでしこジャパンが優勝した。W杯で優勝って、本当にスゴい。
おめでとう。そして、ありがとう。

今、振り返っても決勝戦は奇跡としか思えない。ニュースでダイジェストで伝えるのとはケタ違いに、前半はヤバかった。何せ、開始0分から攻め込まれ、シュートまで持ち込まれるんだから、力の差は歴然でしょう。

ほとんど入ったと思える強烈なシュートを何本も放たれる一方で、なでしこは防戦一方。たまにシュートまで行っても、十分な態勢は作らせてもらえず、力なく終わる。

そんな事を繰り返して前半が終わった時には0対0。これは、神様がついてる、と感じた。

そして、1点を入れられた後の、宮間の滑り込みながらのアウトサイドキック。あれって、相当冷静じゃないとできないだろう。

アメリカにして見れば結構良い時間帯に点が入って、後は逃げ切るだけという感じで、あのまま終わってたら、「日本も強かったけど、予定通りの勝利です」と、ワンバックのドヤ顔が目に浮かぶようだった。

で、同点延長。

延長前半終了間際という、またも絶好のタイミングでワンバックのキレイなヘディングシュート。フリーで、あたかも練習のように決まったシュートを見て、またワンバックのドヤ顔がよぎる。

そして、奇跡の延長後半。

宮間のコーナーキックに走り込んだ澤が、ソバット(バック?)ボレーシュートを決めた。何が奇跡って、このシュートが入るのが奇跡でしょう。

普通なら当てるのも困難。当てても思った方向に飛ばすのはもっと困難。さらに威力を持ったシュートにするのはとんでもなく難しいと思う。そして、コーナーキックの密集したゴール前で誰にも当たらず、ネットを揺らすなんて奇跡でしかない。

よくメディアで報道されるように、恵まれない環境にいながらも、腐らず弛まぬ努力を続けてきた結果のゴールだと思う。

この時点でアメリカのココロは半分折れたようなものだったろう。

PK戦は鉄人ワンバック以外は運に見放され、本来あるアメリカの強さは全く見られなかった。それに対して、宮間のふてぶてしいコロコロ、阪口のラッキーシュート、熊谷の強気の蹴り上げと、もう完全になでしこのペースだった。

ほとんどの人が現実のものと思ってなかった、一度も勝った事のない世界一のアメリカ相手だから、負けてもしょうがないと思ってた、W杯決勝を勝ち抜いた。

日本代表が、あのW杯を天高く掲げる姿を見ることができるとは、思いもしなかった。日本女子のココロの強さに脱帽する。そして、心からの祝福を。

それにしても、澤の攻守にわたる活躍は驚くばかりで、チャンスの時にもピンチの時にも等しく顔を出し、攻めては得点王に輝き、ピンチの時には日本のゴールを何度も守った。遠からず来る澤なき後のなでしこジャパンに一抹の不安は残る。

そして毎試合後、横断幕を持ってグラウンドを一周している姿は、世界中に届いたと思うし、あの横断幕を会期中ずっと掲げることができたのは、優勝したからこそであり、本当に意味があると思う。

なでしこ達の結果と行動に敬意を表します。なでしこジャパン、おめでとう。そして、ありがとう。

2011年7月15日金曜日

ほとんど意味のない正論

菅首相の「脱・原発依存」宣言は正論だと思う。ただ、ほとんど意味はない。

ビジョンを掲げるのがリーダーの役目と言う人がいるが、それはその人をリーダーと認めるフォロワーがいる場合だろう。早期辞任が前提となっているリーダーの口から出る言葉に、何の重みがあるのか分からない。たぶん、次のリーダーも同じメッセージを出すことになると思うが、その時になって、「あれは俺が言い出したことだから」とか言いたいだけなんじゃないか、と思う。

原発をすぐに全て止めるわけにはいかないし、世論を考えると原発への依存を高めると言うわけにもいかない。でも経済活動を考えると、一定の電力量は原発で賄う必要があるだろう。

そう考えると、誰が宣言しても「脱・原発依存」ということになる。

この国では(他の国でも同じかも知れないが)、政権が変われば、前政権の決め事は反故にして良いことになっている。郵政民営化がいい例だ。ただ、政権が変わって、方法論が変わって、政策の重みが変わっても「脱・原発依存」というメッセージは変わらないだろう。

だから最初に言っておきたかった。自らの業績を永遠に残すために。

現在の支持率の低さなんて、歴史には残らない。歴史に残るのはターニングポイントで発した言葉や行動だけだ。実際は国をボロボロにして、政治をグズグズにした張本人の一人と言えるが、歴史上の文脈では、ある一定の評価をされてしまうだろう。

とっくに役目は終わってるし、自らの目標も実現したんだから、あとはその歴史的評価をひっくり返さないような(短期的視野での)引き際だけを考えているんじゃないかな。

今、引いているレールに乗っかってくれる人、院政を引けること、次の総選挙まで頑張れそうで、フレッシュな印象で、再生・復興という言葉とイメージを重ね合わせると、次のリーダーが見えてくる。玄葉・細野のいずれかでしょう。

2011年7月13日水曜日

今まで見逃されてきたセグメント(1)

集客という観点で、今までほとんど相手にされてこなかったセグメントがある。客という個人に関して言うと「近くを通る人」だ。お店の近くを通っている人というのは、ネットが得意とする距離感に合っていない。

ネットのサービスというのは、情報がどこかのサーバーに保管されており、それをダウンロードして活用するというスタイルがほとんどだが、最も特徴的なのは距離という概念がないということだ。世界中の情報が瞬時に行き交うネットの世界と、認知空間として半径15mほどのリアルの世界は、あまり整合しない。

なので、グルメ系サービスのようにPCの前に座って東京にいながら新潟の情報を見るという用途には向いているが、すぐ裏の通りにあるかもしれないB級グルメ店の情報を歩きながら得る事は難しい。

とは言え、最も来店してくれる可能性があるのは、近くを通る人だ。ランチを食べるのに、新宿にいながら銀座の店を探す人はほとんどいないだろう。薬を買うのに、上野からわざわざ渋谷に移動する人はいない。

このように一般的な商店では、地元に密着した商売を営んでいるハズなので、想定する商圏は狭く、半径1kmぐらいのエリアに居住している人が中心になるだろう。もっと言うと、半径100〜300mほどの至近距離を通る人が、利用者の大半を占めると考えられる。

この狭い商圏に対して効果的に訴求する手段は、ほぼチラシ配りか新聞折込ぐらいしかない。ネットを活用した施策は、逆に訴求範囲が広すぎて効果が薄まる可能性が高い。そして、客の立場に立つと、任意の地点で近くのお店を知る手段は、ない。

近くを通る人にネットから情報を送り込むには、以下の4点が条件を満足していなければならないと思う。
(a) 対象となる人が、「そこ」にいることを確実に正確に捉える
(b) 対象となる人が、何らかの購買意欲を持っていることを見極める
(c) 必要な店や施設が、自らの情報を確実にネットに上げておく
(d) 対象となる人が近くを通る時に、タイミングよく情報を出す

これって意外に難しい。
(a)に関して言うと、GPSは精度があまり高くなく、また屋内で使えない。(c)は理想を言えば、あらゆる店や施設が掲載されているべきだが、現状ではクーポンが使える飲食店が中心だ。さらにクーポンも、従来のネットの距離感で出したいクーポン(来店促進用)と近くを通る人に出したいクーポン(買い回り促進用)は、種類が違うと思う。

近くを通る人は、まだネットに最適化されてないセグメントの一つだと感じている。

2011年7月11日月曜日

進むべき道を選ぶ時

日本は一つの岐路に立っている。原子力の問題は言うに及ばず、さまざまな問題が重なり合って、相乗的に押し寄せている。

たぶん一つの拠り所とすべきなのは価値観だろうが、今、その価値観が揺らいでいる。というか、今まで価値観を意識してこなかったことのツケが回ってきている気がする。単一民族の欠陥といっても良いだろうが、国民が価値観を共有している気になっていて、改めて意識することがなかったし、そもそも価値観を脅かされるような事象が起こる事もほとんどなかったんだろう。

近代では唯二の事象として、明治維新と第二次大戦があって、どちらも欧米の価値観をぶち込まれたわけだが、それとても日本人が共有していた価値観を塗り替えたというものではなく、新しく新鮮に感じた価値観に、ある意味寄り添ったという方が正しいように思える。

ヤマト運輸の小倉元社長の著書「経営学」では、30才を過ぎた頃、静岡運輸に出向した時のエピソードがある。経営改善の為に見学した木工の工場において「安全第一、能率第二」と書いてある壁の張り紙に注目する。この工場の経営者は、「安全も能率も、どちらもしっかりやれと言っていた時分は、結局どちらも中途半端でしたね」と語る。静岡運輸に帰って「安全第一、営業第二」のモットーを掲げ、安全運動を推進したところ、事故は減り、営業はむしろ活発になったという。その後、ヤマト運輸でも同様の運動を推進し、安全と営業を両立していったのである。

『どんな工場にいっても「安全第一」の標語が掲げられていないところはない。しかし安全第一の言葉は、マンネリの代名詞のようなもので、どれだけ実効を上げているか疑問である。というのも、第二がないからである。(小倉昌男著 経営学 p.145)』

今現在日本が置かれている状況も良く似ている。経済と安全を両立させようと思ったら、一方を第一に、他方を第二に、明確に位置づけてあげる必要があると思う。それをしてようやく議論が前に進むし、ゴールが見えてくる。

別に、経済や安全でなくてもいい。環境でも良いし、自然でも歴史でも外交でもなんでも良い。とにかく優先順位をつける事が大事で、それが日本人の価値観を定義することだろう。そして、それをなくして状況が好転する事はあり得ないと思う。

既に、今までのように曖昧で済んだ時代は終わった。そろそろ、進むべき道を選ぶ時だろう。何を第一にして、何を第二にするか。それが全てを決める。

2011年7月8日金曜日

Facebookの価値

Facebookのアクティブユーザー数が7億5000万人を越えた。これは本当にすごい数字だと思う一方で、そのカウント方法には疑問がある。

「過去30日以内のログインしたユーザー」とのことだが、実質的にFBを使ってない自分でも、何かのログインアカウントにFBログインが使われてたり、FBを使う訳ではないけれど何かのきっかけでログインしてしまったりとかは、たまにある。ということで、FBを使ってない自分もFBのアクティブユーザーの一人だ。

こういったユーザーは何人ぐらいいるんだろう?
ともあれ、順調にユーザーが増えているということは、それなりに活用されていることの証左でもあるだろう。

FBも、今後は「人々が得た価値の量、費やした時間、アプリの数、動かした経済」で測定されることになる、としている。その一つの指標が共有量で、共有する人は今後2年間で倍増することになるらしい。ムーアの法則を彷彿とさせるような指標だが、イマイチ。

共有量は客観的指標と言えるようなものになるんだろうか?そもそも、何の結果として共有量が上がって行くんだろう??人の集積度の結果であったら、アクティブユーザー数で表現すればいいだけだから、きっと別のものなんだろうけど、なんだろう?

FBを始めとするSNSの価値は、そこに集う人の情報共有・交換なんだろうから、共有する事を評価軸に置くことは間違ってなさそうだが、少し考える余地がありそうだ。

いずれにせよ、7.5億人も集まるサービスって、すごい。自分の中では、未だに価値を見出せてないけれど。

2011年7月6日水曜日

マーケティング5領域

最近は「買い回り」という言葉について、よく考えている。

先のエントリーにも書いたように、一つの対比軸は「来店」という言葉だ。つまり、お店もしくは施設に来てもらうまでをゴールと考えるか、その後も買い物を継続してもらうことをゴールとするかの違いだ。実は、その間に来店後に商品なりサービスを買ってもらうまでをゴールとする考え方もあり、大きくは3つの集客レベルがあると考えている。

つまり、「来店」「買い物」「買い回り」ということだ。

縦軸にこれらの集客レベルをおき、横軸に情報の到達距離をおく事で、新しいマーケティングマトリクスが表現できそうな気がしている。今日のエントリーは、まず集客レベルについて、この3つのレベルをベースに5つのマーケティング領域があるのではないかという話をしたい。

(1)牧歌的マーケティング領域
純粋に来店だけを考えたもの。昔ながらのイエローページやよくある地域ポータルなんかが当てはまると思う。お店の存在は見つかるが、それ以上ではない。欲得を考えずに、ただ情報を公開するというスタンスで、昔はこんなサイトばかりだった。

(2)古典的マーケティング領域
来店と買い物の中間領域。お店に来てもらい買い物をしてもらう、メーリングリストやチラシが分かりやすいかも知れない。昔からある方法で、今もそれなりに効果があるように思われているが、実際は影響力がかなり低下している。ネットで言うと、食べログやぐるなびもそうかもしれない。また、新しい所ではTwitterでのお店の紹介みたいなものも、この領域に入りそうな気がする。

(3)肉食系マーケティング領域
買い物に焦点を当てた施策で、最近ではグルーポンやフェイスブックチェックインクーポンなどが当てはまる。かといって、さほど新しい施策でもなく、古くからあるポイントカードやホットペッパーもこのカテゴリーに入るだろう。要は、おトク感を餌に、インセンティブに重きをおいたものになる。

(4)草食系マーケティング領域
買い物と買い回りの中間領域で、現在のところ当てはまるのは当社が提供しているサービスだけだと思う。つまり、個々のお店への来店よりも、エリアとしての集客に注目したサービスになる。エリア内での買い回りが増えれば、必然的に個々のお店も潤うハズという考えの下、共助を中心に据え、「見つける」から「見つかる」へのパラダイムシフトを目指している。

(5)植物系マーケティング領域
買い回りに絞ったやり方で、大規模集客施設で必ずある案内板やガイドマップが相当する。これらは買い物に対するインセンティブを与える訳ではなく、個々のお店が行う来客促進というよりは、施設が行う買い回り行動支援といった方がしっくりくる。あると便利だが、ほとんど出番は無いというものだろう。

以上、5つのマーケティング領域の中で、(1)→(2)→(3)というように進んできており、現在は肉食系が花盛りである。ただ、肉食系マーケティングは、うまく使わないとお店にダメージを与える場合があることと、基本的に客の回転率が良く購買単価の高い飲食店か、変動費がほとんどない一部のサービス業しか使えない事が課題であり、おトク感だけで煽るのも、そろそろ限界ではないかと感じている。

次の時代の方向性は見えてきていないが、買い回りへと動いていることは確かであり、(4)に向かっていると思いたい。

2011年7月4日月曜日

127時間

先月の「岳〜ガク〜」に引き続き、山の物語。
正確には山ではなくアメリカはユタ州に広がるキャニオンランズという国立公園で、物語というには余りに生々しいドキュメンタリーかな。

山や岩や渓谷が好きな人っていうのは、皆、自由を追い求める人として描かれる。漫画で言えば釣りキチ三平も同類だろうか。多くを捨てて、自然と向き合う。その道程には多かれ少なかれ冒険が含まれ、それゆえ、サバイバル能力に長けている。

そんなサバイバル能力に過信した男の、残酷な127時間が、ストーリーの全てだ。

荒野を自在に動き回るだけの、知識と能力を持ち、その荒涼たる大地を第二の故郷と言って憚らない。秘密の地底湖へダイブしたり、さながらプライベートビーチのような遊び方を楽しんでいる。

大きな誤算は、そこは管理されたプライベートビーチではなく、人気の少ない危険の潜んだ渓谷だということで、自信に満ちあふれた男は、そこに行く事を誰にも告げずにいたことだ。

いつものように新しい景色を探して渓谷を駆け回っている最中、足下の岩が動いて足を踏み外した。ここまでは、ある程度想定済みで、そこからリカバリーできる身体能力があると信じていた。

ここでもう一つの誤算が生じる。自分と一緒に落ちた岩に、右腕を挟まれてしまうのだ。既に手首から先は潰れてしまっている。何とか助けを呼ぼうにも、人気の無い渓谷。誰も来るはずが無い。

様々な手段を使って脱出を試みるが、いずれも失敗。水も食料も無くなり、段々と精神的にも追いつめられ、幻覚を見始める。腕の切断にもチャレンジするが、安物のナイフでは鍛えられた筋肉が切り裂けない。突き刺しても骨にあたり、どうにもならない。120時間を越えた頃に意を決して、腕の切断に再挑戦。大きな苦痛を経てようやく成功し、無事救出される。

自分の能力を過信した男が主人公だが、確かにその高い能力のお陰で、127時間に及ぶサバイバルが可能だった。普通の人なら、すぐにダメになってしまうだろう。

それにしても、なぜ127時間も掛かってしまったんだろう?
同じ立場になってみないと分からないが、1日目が過ぎた辺りで、取り得る選択肢はほとんど無かったはずだ。岩が削れる見込みはなし、遭難届けが出て救出される見込みもなし、水や食料が増えるはずもない。時間が経てば経つほど、不利になる事は目に見えている。たぶん、普通の人なら127時間ももたないけど、24時間ぐらいで、右腕切断の意思決定はしていたんじゃないかな、と思う。

ドラマではあるが、前回見た「岳〜ガク〜」では、遭難後半日ぐらいで足を切断している。条件は全く違うので参考にはならないし、自分がその状況に置かれた場合に腕や足を切れるかというと、ムリかも知れない。ただ、能力があるがゆえに起こってしまった事故とサバイバル体験だったと言えるだろう。

肉体的・精神的に追いつめられて行く様子と切断のリアリティが、よく描かれている映画だった。少しリアルすぎるので、お薦めしにくいが、血を見ても大丈夫な人は、見ても良いかも知れない。

2011年7月1日金曜日

社会性と個人主義

社会性を持つのって、意外に難しい。

ある意味、置かれている状況を俯瞰し、客観視できないとダメだ。それができない場合は、個人主義的な行動に走ってしまう。でも、我がままな振る舞いをする人は、自分では分かってない。なぜなら客観視できないから。

そのように考えると、個人主義で自己中心的だと思える人も、実は自分はそうは思ってないんだろう。

自分を自己中心的だと思えるぐらい客観視できてるような人は、自ずと他人との距離感も把握しており、社会性の高い人だと言える。だから、周りが見えてないな、という人に「周りを見て下さい」といっても、自分では見えているつもりになっているのでムダなのだろう。

東京は、極めて高い社会性を求められる社会だ。人が多いからしょうがない。どこで他人と妥協し合うのかを、暗黙的に探り合い、自分のポジションを決め、その環境の中での義務と権利を確認しなければならないからだ。

でも、そんな事を考えている人って、ほとんどいないんだろうな。

社会が、ナリで(有るがままに自然と)助け合い、支え合い、分かち合うようになるには、一人一人の社会性(民度と呼んでも良いかも知れない)の高さが鍵になるが、現状としてはほとんど期待できない。

やはり日本の場合は、制度で縛る「お上統制」型の社会しかあり得ないのかな。

その場合は、一人一人は個人主義的で良く、実際そうなっている。サービスの形も社会性を期待するものよりは、個人主義的なものが流行るのは、そういった国民性もあるんだろうな。

2011年6月29日水曜日

Grouponが教えてくれた事

グルーポンのIPOが近づき、何かと話題が絶えない。そのような中でグルーポンビジネスの危うさに関する記事がTechcrunchに掲載された。

クーポンビジネスが崩壊する理由
クーポンビジネスが崩壊する理由―パート2

グルーポンが世に広めたフラッシュマーケティングは、そのビジネススキームからキャッシュの回し方まで焼畑商法的で、伸びている間は良いが、伸びが鈍化したとたん破綻が近づくということらしい。サブプライムなどと同じでバブル化し、胴元だけが儲かり、その他大勢は損をするパターンだ。

グルーポンビジネスで分かる事のその1は、顧客の増大=利益の増大ではないということだろう。むしろ、フラッシュマーケティングに依存した形での顧客の増大は、利益を激減させることさえある。もともとフラッシュマーケティングはざっくり言うと、半額セールをして、売上の半分をクーポン事業者とお店で分けあうという、お店にとっては完全に赤字で行うやり方だ。しかも、普通に考えたら、バーゲンハンターと呼ばれる安売り大好きな人、つまり永続関係を期待できない客だけが増える可能性も多分に含んでいる。

その2は、クーポンによるおトクを目当てに遠くから来る客が、クーポンなしにもう一度お店に訪れる可能性はほとんどゼロに近いという事だろう。そういった、お店にとって将来性の無い客だけを選択的に集めるやり方とも言える。

その3は、依存性の高いビジネスモデル故に不良店舗が集まりやすく、活用して行く中で不良店舗化していくという事も言えるだろう。もとより出血覚悟のマーケティングを実施せざるを得ない時点で、お店の状況が良いとは言えないだろうが、多くの場合は、クーポンの売上の一部を先にお店に渡し、キャッシュが回るようにしているらしい。お店としては短期資金が手に入る事で当座を乗り切れる訳だが、この当座資金で賄えない(ハズの)量がすでに予約されていて、その壁を乗り越える資金を手に入れる為に、クーポンを再発行してしまう。まるで、我が国の赤字国債のようなスキームだが、これは借金を膨らましながら未来に先送りしているだけなので、どこかで経済状況が劇的に好転し、借金を返せるだけの利益が得られるようになるまで、延々と続く。稀に好転するかも知れないが、ほとんどは返すメドが立たないまま沈んで行くだろう。

今までの店舗支援サービスは、多かれ少なかれ客にインセンティブを与える事で来店を促すパターンで構成されている。グルーポン、ぐるなび、ホットペッパーなどや、Foursquare、コロプラ、Google Offers、Facebookチェックインクーポンなど、全てそうだ。こういったサービスを、例えばショッピングモールなどで使うと、客に買い回りの動機付けを行うことができる。

これらのサービスは短期的メリットが分かりやすいので、飛びつきやすい。客にはおトクが、店には集客が、モールには買い回り客が増えるように見える。しかし、こういったサービスを活用して得たい成果は、バーゲンハンターによる一時的な活況ではなく、継続的に来店してくれる新規客だろう。

客にとって継続的に来店するインセンティブになっているのか、店にとって継続的に来店してくれる新規客を呼び込む仕組みになっているのか、モールが主体的に買い回りを活性化させる手段になっているのか、をよく考える必要があると思う。

グルーポンが作り出した環境を観察して、インセンティブを施策の中心に置いたサービスは限界に近づきつつあるように感じた。グルーポンビジネスでインセンティブの量はもはや溢れ出さんばかりになっている。

今後はインセンティブを過剰に煽り立てる”おトクな”サービスよりも、客、店、モールにとって”便利な”サービスが優位になると、個人的には考えている。もちろん、自分がそういったサービスを運営しているからだが。

2011年6月27日月曜日

復興構想会議による不透明な提言

先日、公開された復興構想会議による提言にガッカリしたのは自分だけだろうか。
復興への提言〜悲惨のなかの希望〜

この極めて情緒的で文学的なタイトルからして、提言の趣旨を間違っているような気がしている。そもそもこの会議体から何か意味のある事が出てくるとは思ってなかったが、予想を上回る無意味さだと感じた。

復興構想7原則とやらを見ると、会議の迷走具合が分かる気がする。

原則1:失われたおびただしい「いのち」への追悼と鎮魂こそ、私たち生き残った者にとって復興の起点である。この観点から、鎮魂の森やモニュメントを含め、大震災の記録を永遠に残し、広く学術関係者により科学的に分析し、その教訓を次世代に伝承し、国内外に発信する。

まず、「鎮魂の森やモニュメントなどの記録を残し、教訓を次世代に伝承し、国内外に発信する」ことを原則1に置いている時点でおかしくないだろうか?

3ヶ月経っても、ドラスティックには進展していない震災復旧・復興に対して、まず最初に言うべき事が、記録や教訓の伝承なのだろうか?私は違うと思う。現在の復旧を阻んでいるものは既に見えてきているだろう。高地避難、仮設住宅、がれき処理、遺体埋葬、ボランティアの減少など、直近でやるべき事、越えるべき、変えるべきハードルは山のようにある。

本会議体が、もっと未来を見た提言であるとしても、第一義とするのは記録ではないだろう。

原則2は当たり前だからいいとして、原則3は、何か具体的な策を提示しない限り、全く意味がない。「技術革新を伴う復旧・復興を目指す。この地に、来たるべき時代をリードする経済社会の可能性を追求する」。失われたと言いながら手を拱いて、口だけ動かしてた20年間に定番になった文言だ。これって、若者を呼び込めるような技術の集積地になる必要があると思うが、そういった方向性は微塵も感じられない。

原則4の前段「災害に強い安全・安心のまち」は被災地である以上、当たり前だが、自然エネルギー活用型地域の建設は言い過ぎなんじゃないか、と思う。まだ、原子力をどうするかも決まってないし、自然エネルギーがエネルギーの中心に躍り出る可能性は、今のところ、低い。きっと、この地域で住宅を建てるときは、太陽光発電パネルを標準装備とする、といった辺りでお茶を濁され、全く本質的じゃない形で実現しそうな気がする。

そして、原則5は日本経済の再生と同時進行での復興を目指すとある。確かに今のままだと復興の原資がない。ただ、今のように電力を制限して、結果として電気代を上げて、産業の空洞化を促進させるような策を打っている中で、日本経済の再生もないもんだ。今回の被災地が復興し、日本経済にプラスのインパクトを与えるようになるまでに、最低でも10年は必要だろう。どうやって再生と復興を同時進行させ、これからの10年間をどういった心構えで進むべきかは、具体的なマスタープランを提示しないと、空疎に響くだけだ。

原則6になって、ようやく原発対策だが、基本的に何も言っていない。

最後に原則7。中身はなく、「国民全体の連帯と分かち合いで復興を推進する」という、あえてここで明文化する必要があるのか疑問に感じる文章だけが踊る。

こんな情緒的な内容は誰も望んでないんじゃないかな。望んでいたのは、もっと合理的に、現状考え得る最善策としてのマスタープランだったと思う。原則に掲げられている順番を見るだけで、この会議体の結果が復興にプラスに働かないことだけは分かった気がする。

2011年6月24日金曜日

つなげる意思とつながる未来

「見つける」から「見つかる」へ、「集める」から「集まる」へ、「つなげる」から「つながる」へと、様々なものが徐々に変わりつつあるように思う。

見つける、集める、つなげるという従来のパラダイムは人の意思を強く感じるが、見つかる、集まる、つながる、という言葉にはそれがない。元からそこにあるものが、あるキッカケで浮き上がってくるような、少しリアリティに乏しい未来的なイメージだ。

AppleのiCloudも同じだ。今までのクラウドは意識的に使うものだったが、これからは自然とそこにあるものになっていく。

意思と未来。
英語ではどちらもwillを使う。きっと、表裏一体の概念なんだろうと思う。

見つける意思と見つかる未来。
常に未来を意識しながら進みたい。

2011年6月22日水曜日

買い回りに関する二つの視点

最近、世の中がだいぶ変わってきたと感じている。集客という一つの事象を取ってみても、来店促進から買い回り促進へと意識が変化してきている。

今まで飲食を中心に数多のサービスが生まれているが、その多くは来店促進、つまりお店にいかに来てもらうかが中心課題だったと言っていいだろう。Grouponにしても同じだと思う。

買い回り促進と言えば、いわゆるポイントカードや駐車サービスなどが挙げられるが、一つのお店に留まらず、複数のお店での「買い回り」を楽しんでもらう為の施策だ。ただ、ここにも特長があって、基本的には買い回りという行動にインセンティブを与えるものが、今までの買い回り促進施策になる。

つまり、買い回りという行動そのものを支援するサービスというのは、今までほとんどなかったと言ってよい。

なぜなら、今までは自分の店に来てくれれば良いお店側の都合と、よりおトクな条件で買い物なり食事ができれば良い客の都合でバランスしていたからだ。だから、どちらかと言えば来店促進だし、内容としては買い回り行動にインセンティブを与えるサービスしか存在していなかっただと思う。

その意味で、現在、存在する買い回り促進施策というのは、すなわち来店施策の延長線上にあるものであり、決して買い回り行動をサポートしてくれるものではない。

実際、買い回り行動を支援するサービスは、由緒正しい案内板とガイドマップの類い、ということになるだろう。これらは、全く進化しておらず、買い回りを支援するつもりで設置してあるが、現実の効果となると、かなり怪しい。

特にガイドマップは、テンポラリーに手に取る客の数が影響して、発行部数だけは多いが、実のところ、施設から一歩外に出た段階で捨てられるぐらいならましで、一通り眺めただけで捨てられる部数も相当数に上ると考えられる。

風向きが変わってきたな、と感じるのは、少なくとも来店から買い回りへと、客へのアプローチが変化してきた事、また、この先は希望的観測だが、単なるインセンティブ刺激策ではなく客を支援するためのサービスも、徐々に視野に入ってきている事だ。

僕たちのサービスは、まだ誰も取り組んでいない「見つける」から「見つかる」へのパラダイムシフトに挑戦し、あくまでも客の目線で、買い回りが便利になる為のサポートを行っていきたいと考えている。

2011年6月20日月曜日

マイクロインフォメーション

5年ほど前に「マイクロインフォメーション」というキーワードを、周りの人にしきりに語っていた記憶がある。

個人個人にとっては取るに足りない情報でも、多くが集まることで意味が出てくるハズ、という事を力説していた。

まだスマートフォンはカケラもなく、携帯は通信回戦としての活用方法が中心的だったし、得られたデータがどのように使われるのかといった、具体的で明らかに有用な利用シーンが描き切れずに頓挫した。

振り返ってみると今は、マイクロインフォメーションが極めて重要になっている。

世の中の取るに足りない情報は、全て誰かの役に立っている。例えば、誰かが上着を脱いだという情報であっても、周辺環境と合わせ考えると、場の雰囲気作りや空調設定に意味を与えるかも知れない。

近い内に、誰かが利用シーンを想定して収集する情報なんて無くなるんだろう。全ての情報は人を介さずにクラウドへ送られ、人属性を排した形で保管され、サービスに応じて活用されるようになると思う。

その時には、どんな情報がクラウドにあり、どんなサービスが提供されているのか。遠いようだか、もうすぐ近くに迫っている未来だろう。

5年後が楽しみだ。

2011年6月17日金曜日

硬直化して、思考停止。。

「原発重視」の日本政府に化石賞 環境保護団体が批判

こんな意思表示ってあるだろうか?軍事利用においても、平和利用においても被爆国である日本が、いまだに積極的に原子力を推進するなんて。原子力がCO2排出という切り口において優等生なのは疑う余地もないが、CO2排出よりも優先すべきことがあることに気がついたのではなかったのか?

原子力をCDMというバーチャルな枠組みに組み込むには、燃料棒のライフサイクル全般に亘る絶対の安全性が担保される必要があるだろう。

CDMに組み込むという事は、途上国に向けた開発に対するインセンティブを与えるということで、原子力技術を海外に売り込みたい311以前の日本政府、日本企業にとっては、CO2削減に向けた京都プロトコル達成の一つの武器だった事は確かだろう。

ただ、時間は過ぎ311を超えて3ヶ月。未だ何一つ収束を見せない状況の中で、優先すべきはCO2排出じゃないし、原子力の推進でもない。東北地方を復旧・復興する事、そして、原発問題を片付け、エネルギーの未来への道筋を立てる事なんじゃないかな?

原子力をこのまま続けるなら、絶対の安全性が必要だろうし、それができそうにないなら、再生可能エネルギーなどに力を注ぐしか無い。どちらに体を向けるかは、今後少なくなって行く開発投資資金を割り当て、日本の国力を維持して行く為に必要なエネルギーを考えると自ずと答えがでそうなものだ。

米国がシェールガスの採掘技術を確立した事によって、エネルギー事情を改善させたように、メタンハイドレードに力を注ぐべきかもしれない。今までのように、あれもこれもと全方位的に網を張る事はできないので、今こそ選択と集中が必要だろう。

2011年6月15日水曜日

人格は一つに収斂できるのか

facebookをはじめとするsnsは、人の人格や人間関係を一つに収斂させようとする点で、全く共感できないし、正しいとは思えない。

様々なサービスのアカウントを持ってはいるが、一つとして活用していない。

facebookで繋がりを持ちたいのは、誰なんだろう?家族?故郷の友人?現在地での友人?知り合い?趣味仲間?子供の学校関係の親仲間?彼女?昔の彼女?秘密の関係?会社の同僚?仕事の関係者?

サッパリ分からない。

家族との会話を会社の同僚に聞かせたいとは思わないし、秘密の関係にある人との秘密の会話が彼女に聞かれるとマズイだろう。

人格や人間関係を一つに統一するという事は当にそういった事で、一ヶ所でもその関係の輪と整合しない主体があれば、破綻する。

全てを開けっ広げにできる人っているんだろうか?また、いたとして、その人は魅力的な人なんだろうか?

新しい関係が生まれる度に昔からの関係の輪に取り込み、整合させなければいけない。素っ裸の自分を曝け出さなければいけないのだ。少なくとも自分には無理だ。

新しく知り合いになった人が、表面上はとても良い人だけど、深く付き合えるような人じゃなかった場合、昔から関係の輪にいる人は、どんな反応を示すんだろう?

「あいつ、やめといた方がいいよ」というのをfacebookで伝えるのもどうかと思うけど、そこにメールを使うのも間抜けだ。それとも静かに顛末を見守り、ヤバくなったら忠告するのかな?

どっちも人間性を疑うな。。。

いずれにせよ、人格や人間関係を一つにまとめるなんて事、できるわけが無いと思う。それぐらい人間っていうのは複雑にできている。

ソーシャルグラフなんていって無邪気に喜んでいる人に、そういった人間の多面性、多様性についてどの様に考えているのか、問うてみたい。

ネット上でリアルの人間関係を、一つのシステムで再現するのはムリだ。様々なサービスがニッチなサービスをそれぞれに提供し、アカウント情報だけを共有する、という方法はあるだろうが、ニッチなsnsサービスが長続きしないのは、既に実証済みだ。

ソーシャルグラフの未来は、そんなに明るくないと思う。

2011年6月13日月曜日

責任と権力と役割

東電を見ていると、大きな会社には相応の大きな責任がある事がよく分かる。

より広く、社会に役立つような会社は、より大きな責任を負うことになり、それが、社会をより良くして行く。とりわけインフラ企業は、特に日本の場合は地域独占も手伝って、責任が重い。

小さな会社は、社会へのインパクトも小さく、利用者も少なく、責任も小さい。必然的に産業ヒエラルキーが生まれ、暗黙的な産業ヒエラルキーは、日本の産業構造の中に身を置くと、否応なく理解できる。

下から見上げると明らかな産業構造も、上から見下ろすとそうではないのかもしれないが、問題は、その責任の大きさを社員が理解しているかどうかにあると思う。

自分たちが持つ大きな責任が生み出す大きな権力に溺れてなかったか、が問われている。

1000年に一度の権力を揺るがす事態に、自身が持つ責任の重さと、責任を全うするに足る諸行動のあり方を議論すべき時だろう。今まで、そこまで大きな権力と責任を我社が負っていると、深刻に考えた東電社員はさほど多くなかったのではないかと思う。

東電の中で、どのような議論か行われているか分からないが、権力と責任に関する道筋が明らかになれば、少しは光明が見えてくる。これまではどんな責任を負っていて、それに対してどの程度の権力を行使してきたか。また、今後についてはどのように考えるのか。皆で議論してもらいたい。

実はこれは東電に限らない。それぞれの会社で、負うべき責任と、振りかざすべき権力の大きさを、よく理解しておくべきだと思う。その中に、各人が果たすべき役割があるはずだ。

僕たちはもっと、社会に対する責任と権力と役割について、敏感であるべきだ。今までの年功序列、終身雇用の内向き世界では、無用の長物かもしれないが、もう、内向きではいられないということだろう。

2011年6月10日金曜日

iCloudとiTunes Match

Appleがクラウドサービスを使ったOTAを発表した。みなが待ち望んだ機能で、ようやくiPhone/iPod touch/iPadがMacの呪縛から放たれる。

逆に言うと、MacもiPhoneなどと同列に並ぶ訳だが、いよいよ全てのデジタルアプライアンスがクラウドセントリックになる時代が来たんだろう。

今までのクラウドは、利用者が使うものだったが、これからのクラウドは利用者に気づかれないようにマシンが使うものになっていく。それはクラウドがより人の生活に近づく事であり、生活とインターネットがシームレスにつながる事である。

扱うデータ量も遥かに増えるだろうし、そうなると3Gでは手に負えなくなってくるので、どうしてもWi-Fiとの連携が必要になってくるだろう。(安定した技術しか使わないAppleが4Gを採用するのは、かなり先の話になるだろう)

iCloudが他のクラウドと違うのは、全てのデータを扱わないことと、iOS機器に自動同期できるということだ。Apple製品を対象に絞った事で、できる事が広がった。

割り当てられる5Gの中には、Eメール、書類、カメラロール、アカウント情報、各種設定、そのほかのアプリケーションのデータなどしか置かないのだが、実際は、購入した音楽やアプリケーション、ダウンロードした本、そしてフォトストリームの写真もバックアップされる。

つまりiPhoneに入っている全てだ。最大で64GにもおよぶiPhoneのデータを、たった5Gで納めるのはAppleだけだ。

何でそんなことができるかと言うと、購入した音楽やアプリは、全てのデータをAppleが持っているからだ。Appleは、ファイルの実体ではなく、リンクを保管しておくだけで良い。つまり100万回ダウンロードされた音楽をGoogleが管理するのと、Appleが保管するのでは100万倍の差が生まれる訳で、Appleのサーバー効率も良くなるが、当然、同期するのも簡単になるので、利用者にも大きな影響がある。

さらにiTunes Matchという有料サービスを使うと、自分でリッピングした音楽を、自動的にAAC256に変換してくれる。そうすることで、Appleはサーバー効率を上げ、音楽業界は不正ファイルを撲滅でき、利用者は正式なファイルを手に入れる事ができる。また、この有料サービスで得られる収益の70%を音楽業界に渡す事になっているらしい。

結局、iCloud周りでAppleが得る収益はほとんどないが、iCloudが利用者をAppleに引き寄せ、離れられなくするマグネット効果は極めて高い。

何という構想力なんだろう。

Googleは偉大な企業だが、検索と広告を結びつける以上の事はできていない。Amazonはネット小売りとして、そしてクラウドサービスとして最大だが、それ以上ではない。Facebookの中には6億人以上が住んでいるが、それだけだ。

Appleだけが別次元のビジネス構想を持っている。世界の中でJobsだけが異なる目線で未来と現在を見ていることになる。

秋になったらiOS5とiCloudが公開される。iPad2を買ってしまいそうだ。

2011年6月8日水曜日

アンチ合理的判断

東北地方の復興について議論すると、どうも噛み合わない。正しいかどうかは分からないが、自分はアンチ合理的判断派だからだ。

東京にいる人のほとんどは、ある一定の合理的判断をした結果の人だろう。故郷を離れ、一人暮らし。家を持つ時も、土地に対する情念的な判断はなく、費用対効果が中心的な価値になる。

東北地方、特に三陸辺りに住む人は先祖代々、合理的判断を拒否してきた人ばかりだろう。そうでなければ、あの土地のあの海辺には住めないと思う。

そんな情念が絡みつく土地に合理的な判断を持ち込んでも、誰もイエスとは言えないだろう。それで納得できるなら、とっくの昔にやってるハズだ。

でも、東京に住む人は、基本的に合理的に行動を決めてきた人々なので、情念の判断が理解できない。

この両者間のコミュニケーションは、たぶん交わる事がない。

情念派は、合理派の言っている事は分かるが、そんなの判断材料にならないと思っている。合理派は情念派の言う事が分からないし、定量化し得ない情念なんてものは考慮する必要がないと考えている。

この哀しい平行線に終止符を打つには、互いの言ってることが、それぞれに理解できるようにならないといけないだろう。

自分のポジションは、情念派として、そこに住み続ける事が前提だ。

(1) 40年後に家が流される事を覚悟して、できるだけ持たない生活を目指す
(2) 財産はなるべく大きな銀行に預けるか、株などにしておく。
(3) 写真、ビデオ、手紙、思い出の品などは、なるべくデジタル化し、クラウドに置いておく。
(4) 非難経路を確保する。
(5) 堅牢な避難場所を、動線も含めて確保する。
(6) 地域のコミュニティに参加する。
(7) 避難訓練を欠かさない。
といったところか。

つまり、東京の人が考えるようなスマートな案ではない、というか解決策ですらない。こんな、被災前提の案が通るわけもないが、命と雇用と街を残していくには、これしかないんじゃないか、とも思う。

2011年6月6日月曜日

復興に向けた、たった三つのイシュー

東北地方の復旧・復興に向けた議論が喧しい。
住民の意向を無視して、メガソーラーやウィンドファームを作り、基本的に人は立ち入らない、といった案を出しているところもあるが、本質的なイシューはたった三つしか無い。

・どうやって命を守るか?
・どうやって産業・雇用を守るか?
・どうやって街の魅力を作り直すか?

それだけだ。

命を守るのに、より高い防波堤を作って、街の魅力がなくなってしまったら本末転倒だろうし、産業・雇用を守る為に漁村を無分別に立て直すのも間違っているような気がする。

いま現在、提案されているアイデアは、善意のものもあれば利益誘導のものもあるだろう。各地域の首長に求められるのは、玉石混淆のアイデアを上の三つのイシューに向けて収斂させて行く事で、それに対する冷静な判断力が何よりも必要になる。

そこに縁もゆかりも無い人間が、「高台に行けばいいんじゃん」と簡単に言えるような問題ではないと思う。

人を守り、産業を守り、雇用を守り、街の魅力を作り直す。

何がその街の魅力を形作っているのか、街の人々が中心になって、深く議論して行く必要があるだろう。その上で、街の魅力と相反しない命の守り方や産業のあり方を検討して行くべきだろう。

遠く東京で、机上で適当に考えて、答えがでるとは思えない。

2011年6月3日金曜日

岳 〜ガク〜

久しぶりに邦画を映画館で観てみた。名前つながり。

ストーリーは一言で言うと、新米山岳警備隊の葛藤と成長、というところか。山での事故をきっかけに一つ一つ課題や悩みを解決していく。

山岳救助というテーマ柄、死を扱うシーンが多く、山でのルールを描いた場面の一つ一つが、印象的だった。

とは言え、ストーリーに予想外の部分はほとんどなく、昔好きだった「俺たちの頂(塀内夏子作)」よりは、登山家そのものを取り扱わない分だけソフトで、割と登場人物それぞれが客観的に淡々と描かれていたように思う。

この映画で特筆すべきは、ストーリーや山のルールではなく、山の美しさと小栗旬の笑顔だろう。

この二つを見て、何で自分は岳という名前を持ちながら、山にさほどの興味も持たなかったのか、と少し後悔した。

正確に言うと、山には興味があったが、ヘビーデューティな世界に足を踏み入れる覚悟も、ハイキングでお茶を濁せるほどの腰の軽さもなかった。

山と一体になっている主人公を見て、他の全てを捨てれば、この究極の自由が得られるのに、とは思う。卑俗な自分には、そんな勇気はない。

自分は、割と笑顔は褒められる事が多かった。

悩み事なんてなさそうだね、と小栗旬バリに言われてたような気もする。でも、いつからか笑顔を失った、というか笑顔の質が変わったのかな?何も言われる事がなくなった。

つまらない愛想笑いに終始しているのかも知れない。

山と笑顔の爽やかさと強さを感じて、せめて屈託なく笑えるようにしなければと、自分を振り返れる良い映画だった。

見ておいて損はないと思う。

2011年6月1日水曜日

街の価値

chikirinさんのブログで「都市はローカル、地方はグローバル」との意見に非常に共感した。

街ならではの価値を残そうと思うと、ある一定以上の人口集積が必要で、そうでない街はユニークな価値を維持する事ができない。その結果、標準的な価値に身を委ね、グローバル化する、ということ。

確かにその通りなんだろうな。

人を集める事を第一義に置くと、便利さやステータスが最大の価値になる。集まってくる人を飽きさせない事を第一義に置けば、多様性だとか面白さだとか拘りだとか思いがけない出会いだとかが、価値になるだろう。

自然と人が集まってくるポテンシャルを持った街は、幸いな事に便利さやステータスを追求する必要がない。だから、そこにあるお店や施設は自由だ。自由でいる事が、その街での価値の一部になり、それを求めて人が集まる。

ただし、自由であればあるほど、興味を持ってくれる人は少なくなるので、それでも生計が成り立つほどに集客規模=街の魅力や商圏が大きくないとダメだろう。

地方都市は商圏という点で、新興都市は魅力においてポテンシャルが低い。こういった都市は、便利さを第一義としてグローバル化するより他ない。結局、商圏と土地の魅力を兼ね備えているのは、昔ながらの大都市しかあり得ない。

そして、渋谷はよりローカルに、新三郷はよりグローバルになっていく。

面白い事に、ローカルを追求した都市の商圏は広がる一方だが、グローバル化した都市の商圏は小さく固まった状態になる。銀座には日本中、いや世界中の人が訪れるが、ららぽーと横浜を訪れる人は半径20km圏内ぐらいだろうか。

善し悪しではなく、街の役割分担とも言えるかも知れない。

街の価値は街それぞれだが、人を集め、その人々に何らかの効用を与えようと言う事では一致している。そういった意味では、集まった人々にどういった価値を提供しようとしているか、という明確な意思の持たない街が、だんだんと厳しくなって行くのかな。

人も会社も街も同じだね。きっと国もそうなんだろう。

2011年5月30日月曜日

商品で一つ、サービスで一つの拘り

スターバックスに限らず、今、街中で普通に見かけるお店と言えども、最初期の段階では、誰も知らなかったハズ、なんてことを考えることがある。

コーヒーなんて、世界中どこでも過当競争になってて、どこで飲んでも同じ、差別化されてない商品の代表例だったんではないだろうか。

シアトルのどこかにお店を広げて、評判を呼ぶまでにはそれ相応の時間がかかったものと推察する。それまでに、何度も自分を振り返り、一つは商品としてのコーヒーの質に拘り、もう一つとして提供する空間の雰囲気に拘った。

提供する商品の質に拘るのは当然だが、それだけでは競合に勝てない。でも、だからと言って闇雲に勝負を掛けてもしかたがない。今まで、競合が意識的には作り込んでこなかったけど、実は利用者からしてみたら結構重要なポイントになるものが、一つのカギになるのだろう。

確かに、喫茶店に求めるものは、コーヒーの美味しさだけではない。むしろ快適に過ごせるかどうかが非常に重要で、そこで出されるコーヒーが美味しかったら通っちゃうよねー、という感じかも知れない。

これは大きなヒントに思える。

サービスで一つ、商品で一つの拘りがあって、それらが利用者の潜在的な継続利用を促すスイッチを押すようなポイントであれば、利用者としては、そのサービスなり商品なりを断る自分の中の言い訳を失うのだと思う。

ファインド・アラウンドは、お店や施設が発信する情報を、他のどのサービスより素早く利用者に届けることができる。このスピードと質を磨き続ける事が商品としての一つの解だろう。

サービスとしては、どこでも使えるようにする、とにかくアクセスポイントを増やし、空気のようにそこにある、という状態を作る事が答えのような気がする。

これらは相手をだれと設定するかによって、大きく変わるんだろう。要検討。

2011年5月27日金曜日

満員電車に乗る資格

満員電車は時間と空間の極端に制限されたシチュエーションなので、そこに参加する人間には一定のルールが必要だと思う。

狭く、暑く、苦しい時間、空間を共有する時に必要なのは、同じ環境の中で身を寄せ合っている人々への配慮だろう。

足を過度に広げたり投げ出したりは論外だが、荷物の配慮や素早く乗り込み、なるべく奥に進む事なども重要だ。また、座っているときは無闇に深く腰掛けず、肩同士がケンカにならないようにした方がよい。逆に立っているときは、入ってくる人の圧力に対抗する為に、吊り革を持ったり、ある程度は肩同士が支えになっていた方が良いと思う。

先日いたのは、立っている時に不必要に足を広げ、肩を押し当てると肩を逃す人がいた。これが一番困る。足下が不安定な上に上半身も圧力に対抗できないので、こちらの体勢は非常に不安定になる。こういった人って、自分の安定しか頭に無くて、周りにいる人はその平穏を脅かす外乱としか考えていないんだろうな、と感じる。

満員電車って難しい。日常なんだけど非日常で、個人としてはプライバシーが極端に制限された苦痛なシーンだ。自分を取り巻く環境の快適性を最大化するのか、最適化しつつ確保するのか、何も考えずに流されるのかで、大きく行動が変わる。皆が最適化しようと考えながら行動すれば、かなりましになると思うのだが、当然そういう訳にはいかない。

そんなこんなでカオスは続く。
こんなことを考えている自分は、逆に、満員電車に乗る資格がないんだろうなぁ。

2011年5月25日水曜日

情報の到達距離

ファインド・アラウンドは、情報の到達距離が料金設定の鍵だ。これは一つのパラダイムシフトで、既存のサービスにはない視点だと思う。

情報の到達距離はコントロールが難しく、それが何らかの指標になる事はあまりない。

通常のWebサービスは基本的にどこでもアクセスできることが一つの特長なので、到達距離に制限は無い。携帯のサービスは少し狭く、国内に限定される。また、チラシ配りのような物理的な情報伝達手段を使うと、手配りだと到達距離は1mぐらい、ポスティングだと1kmぐらいになる。

逆にチラシ配りの情報到達距離を無制限に伸ばせるかというと不可能だし、Webを1mや1kmに絞れるかと言われてもムリだろう。

つまり、情報の伝達距離っていうのは、情報を運ぶメディアの特性に依存して、一意に決まる。だから、情報到達距離が何らかの指標になることは通常無いし、できない。

では、ファインド・アラウンドではなぜ可能かというと、情報のアクセスポイントは物理的な「店頭のステッカー」でありながら、情報そのものはWebから引っ張ってくるからだ。

この引っ張ってくる情報に、その人限りなのか、それとも物理的距離として半径30mに広げるのか、人伝えで距離を稼ぐのか、無制限に距離を伸ばすのか、が設定されている。

情報到達距離の設定は、誰を相手に商売を考えているのかによって変わる。人通りの多い場所にある店舗なら近くを通る人だけでもいいかも知れない。可能性を広げたかったら到達距離を伸ばせばいい。

情報の到達距離と言うのは、情報を発信する主体にしてみれば、かなり意味のあるものだろう。

今まではアクセス権の設定で、個人か友人か誰でもかといった、情報の公開範囲を決めてきた。これからは到達距離と言うのも一つの考え方になってくると思う。

そして今のところ、情報の到達距離が設定できるのは、ファインド・アラウンドしかない。

2011年5月23日月曜日

人それぞれ

3.11からしばらく、足が痛かった。というのも、震災当日に30km、7時間歩いて帰宅した、その影響が残っていたからだ。

歩いて帰ったことは良かった。何せ初めての体験だし、一つの経験として必要だと感じた。徒歩帰宅に関して気づいたことは既に書いたが、後日談としての教訓が二つほどあった。他の人にしてみれば当たり前のことかも知れないが。

一つは、体力って動き回るのに必要な筋力、というだけではないことが分かった。

足の痛みは、本当に長引いた。震災翌日の土曜日に、様子を見に会社に行ってみたが、亀のようにしか歩けなかった。その後も平地はある程度歩けても、上りや下りになると、途端に足が動かなくなり、かなり苦しんだ。その痛さは、膝裏の腱と足首の関節に集中していた。両足。

正直言って太ももや脹ら脛といった、通常の歩行や走行に必要な筋肉に関しては、全く問題なく、いつでも走り出せそうだった。が、腱や関節が言う事をきかなかった。あの時、現地に調査に行けと言われても、たぶん見て回ることすらできず、何の役にも立たなかっただろう。

そのような状態の中で、体力って言うのは筋力だけではなくて、しっかり動ける状態を指すんだな、としみじみ感じた。

今回、歩いて帰ったのは間違ってなかったが、今後は体力の維持も念頭に入れて動かなければならない。それが、自分の為だし、周りの人の為だろう。

二つ目は、人には様々な事情がある、ということ。

震災後は、節電でエスカレーターがかなり止まっていた。でも、自分の足は流れに乗れないほど痛かったので、なるべくエレベーターを使っていた。

足が痛くなる前は、若いのに駅のエレベーターに乗る人を見て、なんだかな〜と感じてたが、自分がそのような状態になると、外聞も無ければ、ポリシーも関係なかった。人それぞれの状態に合った移動手段って、あっていい。そして、その移動手段の選択理由が他人から理解できなくてもいい。

人それぞれ、健康状態や体力は違うし、考え方も違う。誰が何をどのように言う事もできないと思う。そんな基本的な事を考えながら過ごした3週間だった。

それにしても、腰もそうだが足の痛みは、体験してみないと分からない辛さがある。上りより下りが辛い。エスカレーターも、多くは上りを残して下りを止めていたが、実は逆の方がいいんじゃないかと思ったりした。大きな荷物のある人はどうせエレベーターを使うのだから。

2011年5月20日金曜日

偶然の出会い、とは

有意義な出会いの多くは偶然だったりする。計画された出会い、出会うつもりで出会ったものは所詮想定内で、新しい発見や新鮮な驚きは少ない。

そう考えると、偶然の出会いって本当に大切。でも、偶然で気をつけなければいけないのは、これも所詮偶然なので、コントロールされていない事だろう。いわゆる玉石混淆という事になる。

こういった玉と石が入り交じった状態の中から、どうやって玉を選り分けるかは大事だ。それ以上に大事なのは玉の比率を高める事。玉ばかりが並んでいる中からだと、逆に石を見つけるのが大変なぐらいだろう。

つまり、最も良い形は単なる偶然の出会いではなく、計画された偶然の出会い。「計画された偶然」というのが肝心だ。ただ、偶然を計画するのは難しい。

まあ「計画された」っていうぐらいだから、偶然の出会いを積極的に求めに行った結果ということだろう。単なるラッキーではないということ。簡単に言うと「犬も歩けば棒に当たる」という事かもしれない。

ファインド・アラウンドは、長さや太さや色の違う棒をなるべく多く立てておいて、一つの棒に当たった時に、周りの棒が連鎖的に反応するような事を意図したもので、街歩きにおける偶然を誘発することが一つの目的だ。そういった意味で、計画された偶然を生み出す仕組みと言っても良いかもしれない。

大きく言うと、計画された偶然が導く豊かな未来を提供して行きたいと考えている。

2011年5月18日水曜日

正確な位置情報、とは

最近は位置情報を使ったサービスが多い。とは言え、位置情報として簡単に使えるのは、曖昧な住所と、不確実なGPSだけ。

住所はもともと10m単位で付けられている番号なので、10mメッシュの解像度しか持っていない。ららぽーとやイオンなどといった集客施設は、全体で一つの住所しか持っていないので、100m四方ぐらいが一つの住所として表現されていることも多い。さらにいうと、地図上での住所標記は、その住所が指し示す範囲の重心に置かれているので、道に沿っているわけでもない。

このような理由で、お店や施設を住所標記でマッピングすると、地図が表現する土地の形状とは全く異なる上に、同じ位置に複数のピンが立つことになる。ましてや集客施設では、施設内にあるという事以上の情報を得られる事は無い。

GPSは精度的に言うと、50mは誤差を覚悟しなければいけないもので、特に天候が悪かったり、遮蔽物などで電波が乱れる環境にあると、誤差が大きくなる傾向がある。条件が整った時の精度で10m程度。つまり、住所標記と同じ程度の解像度しか持っていないことになる。さらに、GPS電波が届かない屋内では使えない。

つまり、GPSで言える事は、自分は大体この辺りにいる、という事だけだ。隣のお店のお得な情報とか、一筋向こうでイベントとかは分かるはずも無い。

これらの事から分かるのは、正確な位置情報を天候等の環境条件に左右されない形で取得できる方法って、今まで一般的にはないと言うことだ。

では、集客施設を対象にした場合に、正確な位置情報の把握は必要ないだろうか?また、商店街等お店が密集した地域で、情報をお客さんに届けるのに、正確な位置情報が合った方が便利ではないだろうか?

ファインド・アラウンドは、正確な位置情報を使った、屋内でも使える唯一のサービスである。正確な位置情報が分かっているからこそ、自分の居る場所とその周りの情報を、使える精度で提供する事ができる。だからこそお客さんの回遊を促す事ができ、滞在時間を伸ばす事ができる。

住所とGPSに頼っている他のサービスには真似のできないサービスが提供できる。

2011年5月16日月曜日

つながる、とは

東日本大震災を機に、「つながる」というキーワードが目立つようになった。ここで言う「つながる」とは、人と人がつながる、もしくは気持ちと気持ちがつながる、といった意味だと思う。

震災で存在感を高めたSNSやTwitterやSkypeは、いずれも人と人をつなげるためのサービスだ。古くは郵便に始まり、電子メールを経て、これらのサービスに進化して、段々と、時間や場所やデバイスを選ばずに使えるようになってきた。

そうする内に、人を選ばなくなりつつあり、どんどんとネットの中だけでのつながりも増えてきたりしている。

なんともスゴい時代になったものだ。

ほんの10年前には、そのほとんどが片鱗も見せておらず、つながりと言えば、リアルな知り合いがほとんどがだし、ネットのコミュニケーションと言えば、せいぜいが携帯メール程度だったことを思えば、隔世の感がある。

ここ1〜2年で「つながる」も次のフェーズに入ってきており、人と人から人と場所に、つながる対象が変わってきている。

そして、「つながる」にはトリガーが必要だと思う。

対象が人の場合は、知り合いだったり、意見を聞いてみたかったり、といったことかも知れない。場所やモノの場合は、馴染みだったり、お気に入りだったりするかも知れない。いずれにせよ、人という意識を持った主体からの「想い」がきっかけになることが多い。

そうでない場合は、相対的な位置関係がきっかけになっているように思う。

中学校に入学するとき、公立の場合は、相対関係というのは小学生の間に培ってきた人間関係だろう。それは先に書いたような「つながり」のトリガーだ。私立の場合は、周りには知らない人ばかりで、つながりに必要な「想い」はない。だから、隣の席や同じクラスの人など、相対的に近い関係を「つながり」に必要なきっかけとすることになる。

つまり「想い」がない場合は、相対的位置関係が「つながり」への第一歩だということだ。

近くのお店や施設をつなげて見せるというファインド・アラウンドの仕組みは、「想い」を持たない主体同士をつなげるための、普遍的な手法だと言えるかも知れない。

人と人、人とモノ、モノとモノの三者のうち、モノとモノだけはまだシステムとして、ほとんど確立されていない。しかし、三者三様のつながりが、全体系としての最適化には必要だと思う。

ファインド・アラウンドは、そんな時代に必要な、場所をつなげるサービスとして認知してもらえることを確信している。

2011年5月13日金曜日

メルトダウン

とうとう東電が炉心溶融を認めた。微妙な言い回しではあるが。

この期に及んで「燃料棒が溶け落ちた状態を炉心溶融というなら、結構です。ただし、チャイナシンドロームのような状態を炉心溶融とするなら違います。」なんて、詭弁以外の何者でもない。炉心溶融=メルトダウンは、燃料棒が溶け落ちた状態以上の意味はないだろう。

そういった詭弁を使いたくなるぐらい、メルトダウンという言葉は重い。もう、原子力としては最も恐れるべき状況、すなわち原発が放射能を撒き散らすゴジラと化してしまった、と言えるのかも知れない。

ただ、こういった時だからこそ、より冷静に状況を見極めなければならないと思う。メルトダウンが起こった状況で、我々はどのように行動すれば良いのか、また、こういった事態に陥った国が国際社会からどのように見られていると理解すれば良いのかなどを、よくよく考えなければいけないだろう。

東電や原子力保安院やメディアの言う事を鵜呑みにしてはいけない。恐れすぎては行けないが、鈍感になりすぎてもダメだろう。正しい情報が欲しい

2011年5月11日水曜日

大規模集客施設への適用可能性

ファインド・アラウンドは大規模集客施設で使ってもらうのが、第一段階としては正しいのではないかと考えている。ららぽーとのような施設がベストだろう。

先のたまプラーザでの実証を経て感じたのは、商店街は、そこを通る多くの人にとっては一つの通路である、という事だ。つまり、滞留したり回遊したりしている人はさほど多くない。理由は簡単で、商店街の利用者は多くが地元の人だからだ。もちろん、買い物をする機会はあるだろうが、日常的には通勤・通学で通り抜けるだけ、という方が多いだろう。

ファインド・アラウンドは、テナントや施設を繋げて相互連携の中で、エリアに利用者をつなぎ止めるような事を意図したサービスだ。そういった意味では、商店街というのはエリアと利用者のつながりは元より強く、あえてつなぎ止める必要はない。

一方、大規模集客施設はどちらかというと非日常の施設であり、様々な場所から集まった人々に対して、滞留と回遊を求める。長く滞在してもらう為に、エンターテイメント、ショッピング、食事、リラクゼーションと、多様なテナントを用意し、一日の行動の全てをフォローできるような仕掛けを持っている。だから駐車は実質無料に近いし、子どもは子どもで遊べるような施設を組み込んでいる事も多い。

こういった施設は、多様であるがゆえに複雑で、情報が多い。実際300店舗もあると、全てを把握する事は困難だろう。

にも関わらず、客に対するサポートは意外に薄い。せいぜい案内板程度で、あとはインフォメーションで確認するぐらいだ。実質的にお得な情報などは、ほとんど、その場に行ってみないと分からない。探すという行為を楽しむ意図があるのかもしれないが、客の方からすれば、効率的に見つけたいというのも実感として、ある。

施設で案内サービスを用意すると、どうしても施設ごとに異なるサービスにならざるを得ない。施設ごとに異なるサービスは、お客さんに認知してもらい、利用してもらうのが難しい。だから、あまり有効なサービスが無かったんだろうと思う。

ファインド・アラウンドはテナントごとに情報管理を行い、施設はどちらかというとスーパーバイザーのような形になる。だから、どんな施設にも適用できるし、施設が中心にならなくても適用できる。拡張して考えると、施設外の商店や商店街とも自然と連携が取れるという訳だ。

少し話を戻すと、大規模集客施設でファインド・アラウンドを経験した利用者が、最寄りの商店街で同じステッカーを見つけたときに、その商店街の使い勝手は格段に向上するだろう。そして、商店街での利用がたとえ頻度が低くても、大規模集客施設で同じステッカーを見つけたときに、その施設の使い勝手が格段に向上するのは間違いない。

緩い連携が全体の効率性を高める、そんなループが作り出せれば、と考えている。

2011年5月9日月曜日

浜岡原発停止

個人的には良い決断だと思う。たくさんある原発のうち、地震リスクが最も高く、備えが最も甘い場所だと言われている浜岡をいつまでも放ってはおけないだろう。

何より評価したいのは、今回の震災の影響エリアを50hz地域から60hz地域に拡大できる事だと思う。何度か書いているが、中部地方や関西地方を訪れると、その明るさに驚く。震災はエネルギー転換のきっかけとなりうる一つの出来事だったが、地域間意識差がそれを阻んでいた。

意識差が生まれた原因は、電力周波数の違いである。先のエントリーでは、周波数を統合する作業が最も大事だと書いたが、もっと簡単な方法は、震災に乗じて人為的に同じ状況を作り出す、すなわち原発を止める事だ。

その意味で、浜岡は止める理由も分かりやすく、国民の合意が得られやすい。浜岡の停止が実現できれば、次は美浜を始めとする70年代前半に運転を開始した、比較的古い原発がターゲットだろう。

産業への影響は避けられないが、それを言っていると何も始まらない。日本全体で危機感を共有してこそ生まれるものに期待したい。これこそが皆が言う、明治維新、戦後と同じ状況ではないだろうか。這い上がる為に必要な「どん底」ではないだろうか。

日本が一皮むける為の、そして、第四次産業を生み出す為の決断だと信じたい。