2009年10月30日金曜日

民から官へ

なぜ、郵便局があると格差がなくなるんだろう?

いまはネットバンキングがそれなりに便利になってるし、宅配便も場所の区別なくきてくれる。現金引出しも郵便もコンビニが取り扱ってる。保険なんて、窓口である必要すらない。コンビニも入らないような、本当の過疎地においては極めて情緒的な意味においての価値があるかもしれないが、買い物に出かけるなら、そこが郵便局的であればいいのでは?

イマイチ、郵便局が持つ絶対的な利便性や地域格差是正要因が分からない。

その郵政の改革において、脱官僚を謳う民主党が、民間人の首を切って大蔵省OBに舵取りを任せることになるんだろう?退任後14年経ってるからいいじゃないかと言うが、言い訳をせざるを得ない段階で、誰もが認める適任者という事ではないだろう。

子供手当をばら撒き、高校を無料化する。高速道路も無料化し、JALを救済する。何でもかんでも、国有化しようとしているけど、一体どこにそんな金があるんだ?ムダをなくす事が第一義だったように思うが、気がついたら、史上最大の予算規模になってるじゃないか。

将来にツケを回さないんじゃなかったのか?今のままだと、借金はますます積み上がっていくだけだよね。えらいこっちゃ!

経済拡大が期待できる時代ならいざ知らず、少子高齢化が進む中、そして、社会主義の失敗が明らかになっている中、大きな政府、社会主義を目指すことの意味が分からない。

こいつらは一体、日本をどうしたいんだろう?自分達の独裁国家を作りたいだけなんじゃないか?

2009年10月28日水曜日

新しいコラボレーションの形

Lotus Notesを筆頭に、様々なコラボレーションツールが世に出回っている。Knowledge Managementという言葉も使い古されボロボロになっている割には決定打がない。既に誰かが獲得した知識の水平展開もさることながら、現在進行形で流れている情報を捕まえ、蓄積し、知織化することもできていない。

この領域は、ある意味逃げ水なんだろう。

追いかけても、たぶんゴールに辿り着かない。一つ分かっているのは、リアルタイムにやり取りされている情報を野放図にしていては、次の一手が打てないという事である。

何で情報を捕らえるか、という点で今までのツールはポータル的なあり方に走った。提供するポータル(入り口)から情報のやり取りを促し、情報のストリームを全て監視下に置こうという考え方である。しかしこれは、前時代的な、Yahoo!的なアプローチと言えるだろう。

本当に使われるためには、日常的に使われているツールで情報のストリームを捕らえるべきじゃないかな。

2009年10月26日月曜日

無になるしかない

最近の通勤経路では、東京のヒトの多さ、人口集中、インフラの不備などを、ついつい考えてしまう。それほどまでに、東京における通勤行為は殺人的だ。

毎日通るJR区間は短いものの、日本有数の混雑地帯だ。少し前の週刊ダイヤモンドで「JRの秘密」という特集があった。そこには乗降客数ベスト20が一覧表として載っていた。自分が利用する品川〜浜松町間だけでなく、東京までがベスト20にランキングされていた。

品川(7)
田町(20)
浜松町(18)
新橋(8)
有楽町(17)
東京(6)

大阪(4)、京都(15)、名古屋(13)などの大都市圏は、中心地のみがランキングされているに留まり、東京圏の人口集中度は、極限に達しているとも言える。

1~3位を独占する山手線西側の、新宿、池袋、渋谷もスゴイが、品川から東京間のヒトの壁にも唖然とする。特に、些細なトラブルでダイヤに不調が発生した時は、ほとんど殺人列車だ。背の低い女性などは息苦しいだろうし、最悪だろう。

そんな中でヒトは何ができるかと言えば、誰にも迷惑をかけない形では何もできない。もう、無になるしかない。

何も考えず、何もしない。
こんな所から人間性を破壊されていきそうで怖い。実際、不機嫌なヒトが多い。こんな人生も不本意だ。何とか環境を変えなければ。このハードな通勤は続けられないし、続ける意味が分からない。

2009年10月23日金曜日

大人のイスとりゲーム

10月に異動し、通勤経路が変わった。今までは東急田園都市線で都心まで移動していたが、勤務地が山手線沿線湾岸部になったので、溝の口駅で東急大井町線に乗り替えている。この乗り替えが壮絶だ。

大井町線は溝の口駅が始発なので、朝の時間帯はとにかく大勢が並んでいる。特に多いのは座りたい人で、次が早くつきたい人。おかげで「先発」「次発」「次々発」はそれぞれに3列ずつ、みっちりと並んでおり、自分がどの列に並ぶかは、ある程度の経験が必要になる。

しかも悪い事に、大井町駅は改札が前にしかないため、乗客を分散させることもできない。結果、急行電車の先頭車両は大井町行の奴隷運搬車のような状態になる。まあ、極めて殺伐としている訳だ。

そのような状況で与えられた席は、出入口1ヶ所あたり7人掛けx2列で14名分になる。基本、3列なので4番目まではだいたい座れて、5番目の人は運次第ということかな。

そもそも座りたくて並んでる人で、急いでいる人が5番目あたりに並ぶと、ドアが開くと同時に駆け込み、競争になる。座ることを目的とした人たちの塊は、さながらイス取りゲームのようになってくる。

大の大人がケツを振り合い、僅かな隙間にケツをねじ込もうとする。ゲームと違うのは、その妙な勝負が終わった後に、ゲームに関係ないさらに多くのヒトが、ドンドン入ってくることだ。

結果、負けたヒトは完膚なきまで攻めこまれることになる。今日も勝負に負けて、その自分に競り勝った人を睨んでいる輩がいた。

こんな事ばかりが続くと、ヒトの心も段々と荒んでくるだろうな、と思った。思いやりも無くなり、気遣いも無くなり、自己中心的な考え方に支配されて、感情も失い、ただ淡々と生きる、そんな生き方になってしまいそうだ。

何となく、今までの流れで一番前に乗ってたが、今度は後ろの車両も確認してみよう。

2009年10月21日水曜日

ビジコン

このブログのタイトルである「Mallet of luck」は、日本語で「打出の小槌」と言う事。それは、今まさにビジネスとして検討している「Kozchi」というサービスのコンセプトになるキーワードだ。

「Kozchi」は、簡単な仕組みでお店を繋いで、芋づる式にお店が見つかる、画期的なサービスだ。いわゆる集客・販促に分類されるが、既存のサービスとは大きく異なる。

まず、格安で必要十分な基本機能を提供している。これによって、既存サービスでは取り込む事のできなかった物販店を中心とした、低単価店舗の利用も期待できるようになる。また、お店を検索するプロセスがユニークで、お店にとっても、お客さまにとっても、そして商店街にとっても大きなメリットが得られるサービスになっている。

まだ、プロトタイプ段階で、事業主体も株式会社化していないのだが、7月頃から3つのビジネスプランコンテストに応募してみた。結構、自信があったが、現在のところ、2つは二次落選、1つはファイナルに進んだ。後はプレゼン次第だ。

とりあえず落選理由を考えてみる。

一つは、かなりローカルなコンテストで、ファイナルに辿り着いたのは、地元のビジネスばかりだった。どう見ても負けてないだろ、というビジネスもファイナリストに名を連ねてたので、まあ、「地元」が最大のアドバンテージだったと思われる。

また、形としての事業主体もあり、やはり、事業主体の有無は選択の一つのキーになる場合が多いのかな、と。何らかの事業主体があると、継続性や覚悟が担保されるのかもしれない。仮に、まだ事業主体の組成が成ってない場合でも、チーム名か任意団体名は付けておく必要があるんだろう。

もう一つのコンテストは、落選理由もファイナリストも公表されてないので、サッパリ分からないのだが、過去の受賞企業を見ると、上記の理由に加えて、少しでも売上が出てるモノがほとんどなのかな、と。0から1にした努力と実績があると、プランに説得力が生まれるんだろう。

プランそのものの不備は不明なれど、コンテストに応募する資格というか、最低限のハードルを超えるための要件が、少し分かった。


2009年10月19日月曜日

独立自尊

福澤諭吉の教えに「修身要領」というものがある。個人、夫婦を基本とし、その上に家族、社会、国家、世界があるという考え方が述べられているそうだ。また、忠孝の教えは省かれ、道徳は時代とともに変化すると、新しいモラルのあり方を示しているらしい。

この「基本は個人」という考え方が、「独立自尊」「国を支えて国に頼まず」のベースになっている。この考え方は、自らの理想とする生き方を深く考察していくと、自然と到達するモノであるとも思える。

自分自身も、深く悩み見出した一つのコンセプトは「自立利他」だった。決して同じ深さの思索をしているとは思わないが、理想の形に「独立」「自立」と似たキーワードを挙げているのは嬉しかった。

もちろん福澤諭吉は、自分が到達している境地に他の人も辿り着けるよう、道標としてのキーワードを示してくれたのに対して、自分は自分の辿り着きたい境地を示したもので、位置づけは全く違う。

ただ、自分の志向する方向が決して間違ってなかったことを確認でき、大きな安心感を得た気がした。

2009年10月16日金曜日

国民の判断があれば、、、

ズルいよ、ポッポ兄ちゃん。

マニフェストをどの程度実現するかは、政権を取った今、考える事じゃないの?おママごとみたいな、野党時代に作ったマニフェストが100%的を射ているはずもないじゃないか。マニフェストを全て守って欲しいなんて思ってないよ。合理的な説明があれば、約束なんて反故にしたっていいんだよ。

それは、政権を担う人の責任であり、義務なんじゃないの?今現在、置かれた立場で考えた時に、どの程度マニフェストを守って、政策を実行していくのか、そういった重要な意思決定も含めて任せてみたんだよ。それを「国民のご判断を頂ければ、、、」なんて、ほざくようじゃ、まだまだおママごとからは脱していないのかね?

じゃあ聞くが、国民の意思を伝える機会ってのはあるの?そんなプロセスないでしょ?プロセスの不備・不在を知りながら言ってるなら、ただの詭弁だよね。国政に不要であるとの国民の意思を伝えた、国民新党や社民党と手を組み、国民の意思に反して借金を積み上げる。そんな、本質的に信用できない政党なんだよ、民主党って。

日本をどうしたいんだ?大盤振る舞いの各種無料化は、借金の後世への付け回しだし、国債の乱発もしかり。経済活力向上は何の施策もなく、少子化も手をこまねいて見ているだけ。ただマニフェスト実行のみが目的化している現状は、足下も将来もズタズタにする愚策の塊のように見える。

僕たちはどうなっちゃうんだ?もっと真剣に考えてくれないと、選んだ意味がなくなっちゃうよ。

2009年10月14日水曜日

日本人が親切でない理由は

先日、電車で席を譲っている若者がいた。曰く、次の駅で降りるので、どうぞ。譲られた初老の女性は、私も次の駅で……と座ることはなかった。

この若者は次も席を譲るかもしれないが、少しの躊躇を覚える事は間違いないだろう。こういった事の積み重ねが、人から優しさを奪っていくのではないかな。

確かに老人と言うには少し若かった気もする。まだまだ若いと考え、年寄り扱いされることに憤慨するのではなく、甘んじて好意を受ける度量の広さを見せるのが年長者の対応だと、私は考える。

自分の満足や感情と同等以上に、全体系としての社会の成熟を考えるべき年齢の人々の民度の低さは、この国を滅ぼす一因になるだろう。結局、親切を受け慣れてないことが、不親切(親切にできない事)の主原因じゃないか、と推測するに至った。

皆さん、他人の親切は甘んじて受けるべし。そこでは、ブライドも独自の価値観も不要であり、ただ感謝すべし。そして、恐れることなく、他人に優しくすべし。

2009年10月12日月曜日

いつからスタートしてもよい

先日、とある方を訪ねて甲府の白州にいった。その方は父の知り合いで、会社を経営されていたのだが、リタイヤ後、田舎へと居を移されたらしい。本当は複雑な訳もあるのだろうが、ここでは割愛させていただき、今現在の姿について、紹介させてもらおうと思う。

彼は現在、78歳である。
自分の父親よりも5歳年上で、十分に高齢者と言える年齢だろう。ただ、その時にいた私も含めて4名の内で、間違いなく一番エネルギッシュで行動的だと感じた。

田舎に居を移したのが、70歳を過ぎた頃だと言うから、普通に考えると余生をゆっくりと過ごすためかとも思える。しかし、その行動はそう言った事を感じさせない。

家庭菜園程度なら驚かないが、小麦を作り、大豆を作り、果樹を育て、味噌を作り、ワインを作る。そして、セラーを作り、井戸を掘り、池を作り、今また、石窯とワサビ田を計画中とのこと。

構想力と行動力が半端じゃない。
やってみたいとは思っても、行動に移せる人は少ないだろう。ただただスゴい!と感じた。

この方のお宅にお邪魔する前に、柳生博が主宰する八ヶ岳倶楽部にも行ってみた。こちらもスゴい!全く期待せずに訪れたのだが、その構想力、行動力に感嘆した。

どちらにも共通するのは、物事を始めるのに遅すぎる事は決してない、ということ。つまり、いつから始めても良く、裏を返せば「思い立ったが吉日」という事だろう。

とにかく、やりたい事に一途にまっすぐ拘って進む事が、人生を楽しむコツなんだろう、と感じた。また、周りのヒトたちの様子を見聞きすると、ヒトに巻き込まれて行く事も、人生の幅を広げる事になるステキな出来事なんだろう。

こうやって、巻き込み、巻き込まれながら、それを楽しめる人生が理想だ。人生にムダはないが、有限だ。この事を意識した生き方をしたい。


2009年10月9日金曜日

再生可能エネルギーの適用

スマートグリッドと呼ばれる電力供給網の新しい考え方がある。

今まで、電力会社が供給する系統電力以外に使える電力源は、ほとんどなかったのだが、昨今の技術開発により、例えばマイクログリッドのような、独自安定電力源を確保することが、コストの問題はあれど、可能になった。

ここで使われるグリッドとは、いわゆる電力網のことであり、マイクログリッドは小規模電力網、スマートグリッドは賢い電力網、ということになる。スマートグリッドの特徴は、太陽光や風力などといった自然エネルギー、再生可能エネルギーをその系統内に取り込んでいることにある。

エコ、CO2排出抑制といった観点では理想的な、これら再生可能エネルギーも、系統電力の安定供給という観点に立つと、問題児でしかない。

日本の電力品質は世界一で、例えば年間停電時間といった指標で見ると、他国の追随を許さない。そう言えば、先日観た「96時間」で、主人公が悪人を追い詰め、電気ショックで拷問するシーンがあったがその際、「かつて発展途上国では系統電力が安定しないので電気ショックは使えず、他の拷問方法を使ったものだ」と言っていたのを思い出した。ともあれ、アメリカが1時間ほどもあるのに対して、2〜3分程度と言うから、十分に高品質だ。仮にスマートである事のゴール指標に、電力品質があるなら、日本の電力はすでにスマートと言えてしまうのかもしれない。

その電力品質を担保するのが、読める電力源の最適連携とでも言うべき、系統管理にある。安定的に電気を作り出せる原子力や水力、需要の変動に追従できる火力、余剰電力のエネルギー置換を行う揚水式水力、と見事に読める電力源の組み合わせで、需要に対応している。

ここに再生可能エネルギーが入るという事は、火力もしくは原子力の代替を意味するが、お天気まかせの再生可能エネルギーに安定性も変動追従性も期待できない。何にも置き換えられない電力源は、ただの余剰電力でしかなく、有効に活用することができない。このことは定格電力を見ているだけでは分からない、再生可能エネルギーの活用に向けた大きなハードルだと思う。

結局、再生可能エネルギーは電力品質とは二律背反の関係にあり、化石燃料の使用量を減らすには、ある程度の電力品質低下を覚悟する必要がありますよ、とキッチリ説明し、理解を求めなければならない。江戸時代に戻る必要はない。ただ、年間停電時間を30分程度許容するだけかもしれない。

しかし果たして、極めて共同体意識の弱い日本人に、受け入れることができるのだろうか?

2009年10月7日水曜日

全体最適のモラル

日本で一番混んでいると言われる路線を通勤経路とする身として、人の性を感じるシーンには毎日のように出くわすことになる。特に自分のことしか考えてないような、ある意味で要領の良い行動には眉をひそめる事も多い。多分に鉄道事業者にも非はあると思うが。

例えば、列に並ばない、と言うか、列の脇をすり抜ける行為。大阪出身の自分的には列に並ばないことは、さして不自然な行為ではないが、大阪と東京のそれは全く質が違う。大阪の人は並ばないが、一番を競って駆け込むこともない。実際、席が空いてても立っている人は多い。東京は、確実に人より前に乗りたい、進みたいという人がほとんどだと思う。

また、乗り込むのが遅い人も東京には多い。一番前に立ってても乗り込むのにノンビリしている人がいて、後ろに並んでるとイライラすることがある。こういう人は大抵、ドア脇のスペースを確保したい、という人である。大阪には、こういった人はいない。

さらに、通路を通ろうとしたとき、道を塞いでいるのに避けない人も多い。特に帰りの電車は顕著だ。こういった人々は、社会が助け合いで成立していることに思いを馳せたことがないのだろう。

自分だけが良ければそれで良いという個人主義の塊であり、社会最適の意識が欠如しているとしか思えない。しかし、それぞれは悪い人ではないだろう。社会意識が極端に欠如した欠格者でもないと思う。ただ、そういった事象に対して問題意識を持ち、考えるという行動を取ってないというだけである。

全体最適は考えることから始まる。

2009年10月5日月曜日

老人は白痴、リーマンは無教養、若者は馬鹿者

この分類は楽しいけど、この国の未来のなさを示している。未来を憂い、行動する人材がいないのだから。

未来はヤバいと言いながら、既得権益の椅子から立とうとしない老人たち。彼らはテレビ漬けで、批判はすれど何一つ生産的な行動は起こさない。

サラリーマンもヤバいと言いながら、安穏とした正社員の椅子から降りようとしないのだから、同類か。教養のなさが、現状維持に拍車を掛けている。

若者はヤバさが我身に降り掛かる、最も不利益を被る主体であるにも関わらず、馬鹿であり、リアルに感じることができないので、どうしようもない。

本当にヤバくなってから行動するのは賢い人のする事ではない。ヤバくなる前に、一見不合理な、馬鹿な行動を取り、難を逃れる。もちろん、より大きい単位で難を逃れられるよう努力する訳だが、あるタイミングで見切りをつける。その潔さも同時に満たすべき資質であると言える。

30年前の著書が指摘し、今なお、違和感なく読むことのできる内容は、大前研一と白洲次郎の記述の共通性にも見て取れる。結局、人は変わらず、時代に合うか合わないかだけの話なのかも。

そういった意味では、日本の時代は終わったと、高らかに宣言しても差し支えないのかも知れない。

2009年10月2日金曜日

技能伝承の意義

昨日の延長線上にある未来のために、今までに描いた線分を確認する作業が、技能伝承と言えないか?

昨日と違う未来、不連続な未来を前提にした時、技能伝承は意味を持つのだろうか?

頑なに守り続けた技能が通用しなくなる世界、それが今目の前に広がっている世界なんじゃないのかな?