2010年3月31日水曜日

『ビジネス』の発想法

木村剛さんの「『ビジネス』の発想法」を読んだ。経営者たるべき心構えを、多様な切り口で示す良書だと思う。

経営者は甘くない、肚を決めてかからないと大変な目にあう、と繰り返し警告する。その実、あとがきにもあるが、今後の我が国の厳しい状況を冷静に見通した時に、経営者としてリスクをとってビジネスに突き進む人材が不可欠だという観点から、今から立つべき人間へのエールを集めた本だ。

先日読んだ本田直之さんの「アフォリズム」にも似たコンセプトで、自分のような立ち位置の人には、かなり参考になる、まさに「教科書」と言えるだろう。

最後に木村剛さんが示した、日本企業が追求すべき新しい日本資本主義のキー・コンセプトは、「感謝・自律・互助」という三つのワードに集約されている。これには、かなり共感できた。

今後の少子高齢化時代においては、個人が自立・自律していることが強く求められ、しかも社会としては無くなりつつある互助を復活させる必要がある。そうして、それらを回していくためには、感謝の気持ちが欠かせない。

Kozchiは、自律と互助をベースとするサービスと考えているが、うまく伝わるよう工夫する必要があると感じた。

以下、気になったフレーズを列挙する。こういった本に勇気をもらって、前を向いて進もう。
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諸井貫一
「マジョリティが現在を作り、マイノリティが未来を創る」

小倉昌男
「デメリットのあるところにこそ、ビジネスのチャンスがある」

野村徳一
「常に一歩前進することを心がけよ。停止は退歩を意味する」

J・P・モルガン
「どこかにたどり着きたいと欲するならば、今いる所にな、とどまらないことを決意しなければならない」

川淵三郎
「時期尚早という人間は、百年経っても時期尚早と言う。前例がないという人間は、二百年経っても前例がないと言う」

吉田忠雄
「他人の繁栄をはからなければ、自らも栄えない。私はそれを『善の循環』と呼んでいる。個人や企業の繁栄がそのまま社会の繁栄へとつながっていく」

藤原藤房
「天、その人に災いするは、天、未だその人を棄てざるなり」

塚本幸一
「この世に難関などない。難関というのはあくまでも本人の主観の問題なのである。難関だと思っている自分があるだけだ」

渋沢栄一
「小事を粗末にするような粗大な人では、所詮大事を成功させることはできない」

安田善次郎
「事業の成功は、一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何。その人物が満腔の熱心さと誠実を捧げ、その事業とともに斃れる覚悟でかかる人であれば十分」

2010年3月29日月曜日

中途半端な行動はやめてくれ

首都圏の超満員電車に乗り、クソ狭いホームに降り立つ時いつも思うのは、頼むから、中途半端な動きをするな、変なポジションを取るな、ということ。

乗りこむリズムの悪い人や焦りすぎている人。降りようとしている人がいても、頑なに動かない人。自分が降りたら、突如としてスローモーションになる人。列に極めて曖昧に並ぶ人。異様にゆっくり歩く人。

飽和した都市に共同生活をしていることを考えると、ある程度のルールはマナーだろう。逆に優先座席の携帯電話電源オフや女性専用者は、事業者が横並びで作った無意味なルールだと思う。少なくとも結果や効果が明らかにならない限りは。

こういった自然発生的なマナーは、ごく少数の無頓着な人がいるだけなのだが、全体系として非常に流れが悪くなる。こういった人たちは、明示的なルールには従順だっりするから、始末に負えない。

2010年3月26日金曜日

ユーザー視点レス

電通とフェリカネットワークスが実証実験するという「ピットポン」。今までにもどこかで聞いた事があるような、さほどの目新しさを感じないサービスだと思う。こんな提案ばかりだから、フェリカの多面的な利用って、散々言われながらも実現できてないんだろう。

一番問題だと感じるのは、この類いのサービスは、常にユーザー不在だという事だ。

たぶん、彼らは言うだろう。「いやいや、お客さんにはクーポンが、お店には集客と広告効果把握があるじゃないか。何の不満があるんだ?何か問題があるのか?」と。

ユーザーは、クーポンがあれば良いのか?ユーザーが求める満足とは、それだけなのか?
→別にクーポンだけでお店を選んでるんじゃない。何を売っているのか?お店はどんな雰囲気なのか?怖くない店か?値段は高すぎないか?そんな事がお店選びの基準になるだろう。クーポンは、一つの要素に過ぎない。

お店はお客さんが集まれば、無条件で納得するのか?効果を詳細に把握することが、本当に求められているのか?
→そんな即物的な効果を狙っている訳ではない。うまくお客さんを選別したい場合もあるので、何でもかんでもお客さんが集まれば、それで良いという訳ではない。また、効果を詳細に知ったところで、詳細な対応ができなければ意味はないし、実のところ、そのためのマンパワーもない。詳細データによるマーケティングが実践できるのは、ヤル気と体力のあるお店だけだ。

つまり、ユーザーにとってもお店にとっても押し付けの、しかも言い古されたメリットでしかなく、このサービスを使うモチベーションは低いだろう。

この手のサービスは、なぜかユーザー視点を失う。いや、勘違いする、という方が正しいかも知れない。それは、発想の原点が技術ありきだからだと思う。今回の場合は、フェリカがあるから、その性能・機能をフル活用したサービスを提案したいと思う。そこに落とし穴がある。

ユーザーやお店は、フェリカを使いたいんじゃない。そこが一番大事なんじゃないかな。

2010年3月24日水曜日

散髪して、思い出した

昔から、自分の髪型を指示するのは苦手だった。取り立てて真似したい有名人がいる訳でもなかった。どうせ、その日はキレイにセットされたとしても、次の日からはセルフメイドになる訳で、その手間も面倒だったし、スキルを磨こうという気持ちもなかった。

そんな自分が散髪に臨む時、期待するのは一つだけだ。それは、美容師さんから見て、良いと思う、似合っている髪型にしてくれ、というだけである。そこに主観は必要ないと思うし、自分の姿を見るのは所詮他人なんだから、他人から見て、印象が良ければ何でも良い。

そう考えると、服装もきっとそうだろう。昨日、シャツとネクタイを買ったが、もう少し店員さんの意見を聞いても良かったかと、反省している。

人は、主観と客観の融合、または、ほど良い妥協点を探っている。そのためには、自分の意見に加えて、サービス提供側の「多くの情報に触れた上に培われる」提案が必要だろう。

ネットのサービスも同様だ。使う人が、気持ちよく使えれば、何でも良いはず。何かしらサービスを考える時は、もちろん自分の主観がベースになっているが、どこかで脱却しなければいけないのだろう。

動機は「こんなサービスがあったら(自分は)良いな、便利だな」という事だが、形が見えてきて、公開する段になるころには、「このサービスを使ったユーザーには、どんな新しい世界・体験が待っているか」を語れなければいけない。

果たしてKozchiは、今、その過渡期にあるといって良い。今後、より深く、その客観的な価値に磨きをかけていく必要性を感じる。

お客さまにより良い提案をするために。

2010年3月22日月曜日

主観化と客観化

昨日の大河ドラマ「龍馬伝」は、第一部終了(脱藩)にむけた、龍馬を取り巻く環境の変化が際立った回だった。

とりわけ、武市半平太が吉田東洋に足蹴にされ、その行き場を失ったシーンは印象的だった。史実とは異なるかもしれないが、あれほどの強烈な挫折がなければ、その後の極端な行動は生まれなかったとも思える。

現時点での龍馬は、まだ思想が固まっておらず、武市や久坂にどんなにアジられようとも、何のためにどんな行動を取るべきかを見出せずにいる。この納得せずして行動しない、周りからみると優柔不断にも見える態度が、将来の日本を救うことになる。

平井を代表とする土佐勤王党のメンバーを見ると、多くの人が、自分の頭では考えず、ただアジられるがままに流されていく様子がよく分かる。彼らのような人は、現代においても大多数を占める。彼らは煽動されやすく、それゆえ、具体的メッセージに弱い。だからこそ、武市のメッセージに簡単に乗せられていく。

現代にも蔓延る、主観的、具体的メッセンジャーのズルい所は、危機感を煽り、反対しづらい大義名分を振りかざしてくることだ。武市の場合は「外国が攻めてくる」と危機を強調し、「天子は攘夷を望んでいる」という大義名分を担ぐ。龍馬が疑問に感じるように「外国は交易を望んで」おり、「天子が攘夷を望んでいるかどうかは(下々には)分からない」と東洋に喝破されるほど、脆弱な根拠であるにも関わらず、だ。

ともあれ、物事を客観的に評価したい龍馬と、主観(己の狭い見識)で物事を評価し、自分の考えが正しいと盲信する武市の違いが、今後の行動を分けていくことになる。

吉田東洋は、自分と同じレベルで世の中を見ている龍馬の将来に期待する一方で、(当時としては当たり前の思考レベルだが)主観的な武市や後藤を鼻で笑い、バカにしている。客観化、抽象化レベルの高い人からみれば、主観的で具体的に過ぎる考え方は、あまりに狭量で、短慮で、底が浅いと見えるのだろう。

その思考レベルの違いによる差別的な意識が、武市をして東洋を、後藤をして龍馬を暗殺せしめるトリガーになっている。主観的であり過ぎるがゆえに、自分の考え方に妄執し、極端な行動へと突き進む。

翻って現代は、様々な事柄が主観的にエキセントリックに決められ、将来の形は建前的にしか語られない。

現在の閉塞感溢れる社会に最も必要なのは、全ての物事について、一旦、一歩引いたポジションから客観的に評価して、未来に向けて、本当に必要な行動を選択して行くことだと思う。

これは、幕末の状況をなぞらえると、決して主流派ではあり得ないだろう。しかし今は、そんな行動が求められている、と思う。

2010年3月19日金曜日

日本破綻

藤巻健史の「日本破綻」を読んだ。一言で言えば、日本はこのままで行くと遠からず破綻するので、円安に誘導して時間を稼げ、ということだ。内容的には重複が多くかったるいが、自分の問題意識に近く、何かと考えさせられた。

本書を手に取ったきっかけは、住宅ローンの借り換えを検討し始めたことだ。もともと、8年ほど前に家を買ったのは、我が国が持つ債務の大きさから、近々に経済はインフレに進むだろうと予測し、負債を固定金利で持つのが一番賢いだろうと判断したからだ。

今は非常に変動金利が安く、かなりの人がこちらを選ぶらしい。銀行では、しきりに変動金利型ローンを薦められる。日本経済も低調で、デフレが伸長し、反転する兆しも見えないので、全く合理的な行動だろう。

一方で、一旦インフレ傾向に傾くと、たぶん良い頃合で止めることはできず、一気にハイパーインフレへと流れて行く可能性も高いと思う。その際に、変動金利から固定金利に柔軟に動けるかと言うと、かなり難しいと感じる。株をやったことがあり、損切りをする勇気がある人はその限りではないが、少なくとも自分には難しいと思う。

そもそもの赤字国債の大きさは、家を買った当時に比べても倍ぐらいになっており、国家破綻と金利の急上昇は、その危険度をますます高めていると言える。

そのような中で、藤巻さんが指摘する円安誘導アプローチは、様々な課題解決の基礎となる考え方だと思う。将来世代からの税収を期待する赤字国債をなくす事を目的とするならなおさらだ。

我々が負担せざるを得ない900兆円にまで膨れ上がった借金を返して行くためには、金融政策的な借金の圧縮と、経済成長による個人・法人を問わない税収増しかないだろう。

このソフトランディングを目指した、極めてデリケートな綱渡りのような経済制御には、官民をまたぎ、国を貫くコンセンサスの醸成が不可欠だろう。

一方で、以下のような意見を持つ方が、現状としてはかなり多いと思うと、道のりは遠く、険しい。

「少子高齢化を日本の経済低迷の原因にするのは、もう止めよう。そして成長戦略だけを追い求めるのも、もう止めよう」http://blogs.itmedia.co.jp/mm21/2010/03/post-33b6.html?ref=rssall

2010年3月17日水曜日

なぜ、温暖化が悪いのか?

今まで、盲目的にボンヤリと温暖化を止めた方が良いと思ってた。CO2に原因を求めて、その削減に躍起になることは気にいらないが、省エネを追求するのは間違ってないと思う。

昨日、CO2削減の強烈なアジテーションを聞いて、違和感を感じ、そもそもの温暖化について疑問を持った。なぜ、温暖化はダメなんだろう?もちろん、生態系への影響は避けられないだろう。でも、滅びる種があれば、生まれる種もあるかもしれない。沈む国があるかもしれないが、グローバルな水収支は改善されるかもしれない。

環境変化が及ぼす影響は、ある程度は制御可能だろうし、そうでなくても自然の摂理だと言うこともできるだろう。人間が、そして生物が生存しやすい環境だけを考えれば、どちらかと言えば、暖かい方が良いんじゃないか?

今後、生活レベル低下が懸念される我が国においては、なおさらだと思う。マイルドな温暖化はセーフティネットを必要とする生活レベルを下げる効果があるだろう。衣食住全てのコストが下がり、エネルギー消費も少なくなるだろう。医療費はさほど変わらないかもしれないが、風邪や肺炎は減るだろう。

長い目でみれば、CO2排出も抑制でき、社会コストも削減できる。何が悪いんだ?

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大岡山北口の商店街も、個人経営の物販のお店が多く、Kozchi適性は高いと感じた。

2010年3月15日月曜日

長崎なう(Kozchi適性も)

今日は、出張で長崎にきた。すでに、帰りの長崎空港行きバスの中。

会議は14時からだけど、観光しようと、ちょっと早めに到着。本ブログでも何度か紹介したが、ミーハーな私は、すっかり幕末、いや龍馬マニアと化している。長崎は、龍馬の足跡が多く残る場所だが、時間は限られている。せいぜい2時間半かな。行くべきところを心に決め、いざ長崎空港に降り立った。

雨。そして、風。
すっかり春の陽気だが、なかなか厳しかった。

スーツだし、メインの会議もある。「春雨じゃ、濡れていこう」とは言えず、小さな小さな、まるで傘地蔵のような傘をさしながら、身を縮めて歩くことになった。

観光ルートは、丸山から寺町を抜けて、亀山社中があったとされる場所まで。晴れてたら、1時間くらいの道程だと思う。

亀山社中跡地は、「竜馬がゆく」あとがきによると、司馬遼太郎が取材に訪れた時、まさに解体されんとしていた、とのことだったので、全く期待せず、ただ当時と同じ目線で風景を眺めてみることだけを目的とした。

長崎空港から市中に向かうバスに乗り、中央橋で降りた。そこから、丸山に向かって歩くことに10分くらい。入り口についたと思ったら、目の前に福砂屋本店が。お土産を頼まれてたのでラッキー、早速入ってみた。後で調べると、何やら博物館的な要素もあったらしい。店員さんはさすがに丁寧で、日本の老舗を感じた。すでにびしょ濡れの姿をみて、タオルを差し出してくれた。ありがたい。

その後、すぐ近くにある花月を見学。入れないと知りながら、玄関まで入り込み、歴史が刻み込まれた提灯と看板を確認。聞いてはみたが、当然入れてもらえず、退散した。





花月を出ると、ますます雨風が強くなり、もう体の半分は水浸しな感じ。会議を考えると、最後にどこか喫茶店で1時間はインターバルを入れないと、とても可哀想な感じになる。それでも路地を通り、なるべく昔の面影がありそうな場所を選んで歩いた。

すぐに寺町に着いた。ここは京都のような雰囲気がある。時々通るタクシーを横目で見ながら、ひたすらに歩いた。これだけ宗派の違うお寺が並んでで、よくケンカにならないものだな、とか思いながら歩く。と、「亀山社中記念館」なる文字が。良かった、ちゃんと整備されてたんだ、と少し安心。

「龍馬通り」と名付けられた石段を上ること10分くらい。丸山までの距離は、飲みに行くにはちょうど良いが、酒に酔った龍馬たちは、這々の体で石壁を手がかりに登ってきたことだろう。少し、石壁を撫でてみる。

ようやく頂上に。寺町も含めて、ここに至るまで、ほとんど人に出会わず、天候のせいなのか、まだメジャーじゃないのか、と思ってたら、意外に人がいた。といっても、7〜8人。

聞くと、「竜馬がゆく」の連載と文庫化に従って、保存の声が高まり、何とか解体を逃れたらしい。2009年8月に開館。展示品は基本的に見たことがある写真や書簡のレプリカで、あまり目新しいものはない。やはりここは、展示物ではなく、場所が貴重だ。もしかしたら、建物もなくても良いかもしれない。龍馬たちが見た風景を感じることができて良かった。





その後、記念館の展示室というところに行ってみた。さっきの展示品のコピーが置いてある、地元の有志が作った手作り施設のようだった。ここで見た、若かりし龍馬の写真は初めて見たが、全く印象が違う。27才当時と言うので、大河ドラマの現時点での年齢ぐらいだろう。目がパッチリしてて、現代風だ。格好良い。真贋に若干の疑いを感じるが、一つの目新しい発見だった。







その後は、若宮神社を抜けて、眼鏡橋に行き、そこでタイムアップ。昼飯兼服を乾かすのに必要な50分ほどを確保して、出張に便乗した観光を終了した。会議はつまらんかったが、長崎は良い所だった。

会議後は、Kozchiの運用を想定して、軽く散策した。こういった、お店が薄く広がる場所で、売上規模の小さな個人商店が多く、物販の比率が高いところは、Kozchiに最も適性があると思える。

2010年3月12日金曜日

ポータブル

物事や商品、技術やスキルをポータブルにするには、それぞれを再定義して、機能で分類しなおす必要がある。

機能によって分類されたモノは、その機能が求める性能を十二分に発揮できる環境や材料を選ぶことができる。インテグレートやハイブリッドは、その後の話だろう。

現在は、インテグレートやハイブリッドが大流行りなので、何でもかんでも総合的な観点で考える事になっている。

でも本当はそれぞれが精一杯の力を発揮することが、その手前にはあると思うし、重要だと思う。

2010年3月10日水曜日

環境が整った時

想定するシーンの発生確率と繰り返し頻度が、アイデアをビジネスに昇華するための方針を決めることになる。

例えば、環境が整った暁には充分な確率と頻度で想定シーンが発生すると予想される場合と、そもそもの確率や頻度が期待できないアイデアとでは、持って行き方は全く違うだろう。

当たり前か。

発生確率や頻度が高いアイデアの場合は、シーン発生に至る環境整備に力を注がざるを得ないし、逆に確率や頻度が低いアイデアは、ビジネスに結びつけるための、顧客の意識喚起に焦点を絞る必要がある。

もう少し詳しく書くと、夢物語のような想定シーンであっても、環境整備をしっかりすることで、一線を越えた途端に一気に動き出す可能性は、ある。その場合は、シーンをリアルに緻密に想定することと、そのシーン設定に基く環境整備に力を注ぐことが大事になるという事である。

一方、発生確率や頻度が低い場合とは、いわゆる不急の商品か不測の事態という事だろうから、それに対する必要性や備えといった意識喚起を強調する必要があるだろう。さらに言うと、ビジネスとして正直に取り組むならば、初期投資をなるべく少なくする工夫が必要になる。

家電のように、個人単位で見ると不急の商品であり、購入機会の発生確率も頻度も低いビジネスでも、マクロで見た時には確率も頻度も充分な領域もある。これは、生活必需品だからだろう。

このような商品は、環境整備を入念に行い、購入に至る言い訳を提示するといった、上記2類型のハイブリッド的アプローチが必要になりそうだ。

2010年3月8日月曜日

大きなチーム、小さな仕事

大きな会社は、大きな仕事ができる可能性がある。それは小さな会社ができる仕事とは量・質ともに比べ物にならない規模だろう。

でもそのような仕事を我が物とできるのは、ほんの一握りの人だけで、多くは組織の歯車でしかない。なぜなら、一人の人間が処理できる仕事には限界があるからだ。

つまり、大きな仕事には無数の歯車の貢献があるということだ。大きな会社であればあるほど、大きな仕事ができる可能性がある反面、歯車に終わる確率も高い。

大きな成功の小さな確率に身を投じるか、小さな成功の大きな可能性にかけてみるかは、人生最大の分岐点かもしれない。

多くの人は大きな会社の小さな歯車を目指す訳だけど。

2010年3月5日金曜日

小さなチーム、大きな仕事

この企業(37シグナルズ)の存在は全く知らなかったが、あるブログで紹介されていたので、購入。薄い本なので、一気に読み終わった。新しいビジネスを立ち上げ、回していくのに必要な心構えが散りばめられており、ドキドキしながら読んだ。多分、これから何度か読むことになるだろう。

■大切なのはまず、「信じる」ということ。
『すばらしいビジネスは単なる製品やサービスではなく、「視点」を持っている。何かを信じなければならない。気骨が必要だ。何のために戦うのかを知り、その世界を見せる必要もある。』
『自社の製品がやっていないことを、やっていることと同じぐらい誇りに思っている。』
『信じているものが何かをわかっていなければ、すべてが議論の対象になる。』
『あなたのゴールは製品があなたにとって正しいものであり続けることだ。あなたが最もそれを信じなくてはいけない。』

■そして「見極める」ということ。
『多くのすばらしいアイディアも、一度に実現しようとすると一気にくだらない製品になってしまう。』
『中途半端な一つのものより、とてもよくできた半分の大きさのものの方がいいに決まっている。』
『思い切って行動に踏み切る前にあなたが行おうとしていることの本当の価値を定めよう。』

■さらに「明確にポジショニングする」ということ。
『アンチでいることは、あなた自身を差別化し、人を惹きつけるのに非常に良い方法だ。』
『敵を持つことは顧客に伝えるためのすばらしいストーリーをもたらしてくれる。』

■商品・サービスは「本質を追求する」ということ。
『何が真に必要かにこだわるのだ。一番大切なものだけが残るまで切り落としてそれを繰り返していくのだ。』
『本質になるまで切り落とす。だが詩を取り除いてはいけない。余分なもののない、清潔な状態を保つが、不毛にしてはいけない。』
『競合相手を打ち負かすには、なにごとも相手より「少なく」しかしないのだ。簡単な問題を解決して、競合相手には危険で難しくて扱いにくい問題を残す。ひとつ上を行くかわりに、ひとつ下回るようにしてみよう。』
『あなたは少しだけ良いものを作るだけでなく、ルールを再定義しなくてはいけない。』
『多くのものは小さくすればするほどよくなる。』

■顧客は「会話は大切、でも振り回されないようにする」ということ。
『人々を舞台裏に導くと新しい関係が生まれる。彼らはつながりを感じ、顔の見えない企業ではなく、あなたを人間として見てくれるようになる。』
『プレスリリースは忘れて電話をかけよう。もしくは個人的に手紙を書こう。もし似たような企業や製品の記事を見つけたら、それを書いた記者に連絡を取り、自分の情熱や興味を伝えるのだ。意味あることをし、自分を目立たせ、忘れられない存在になる。それこそが最も価値あるニュースにつながる。』
『まずは顧客を得ることから始めよう。あなた自身の言葉に興味を持ってくれる人たちを見つけるのだ。そして、地道にそれを続けよう。』
『人が文句を言うときは、しばらく放っておくことだ。聞いていることを示し、不満を理解していることも知らせよう。だが、しばらく様子を見てみたいとはっきり言うことだ。たいていの場合、人はいずれ自分たちで変化に適応する。一回新しい方針に慣れればその方が前より良いと思うものだ。』

■他にも、心構えなどについて。
『文化とは行動であり、言葉ではない。』
『「今日」に視点を合わせ、明日のことは明日考えればいい。』
『大会社の何倍もの時間が必要なのではなく、より良い時間が必要なのだ。』
『あなた自身を製品やサービスの一部にすることだ。』
『模倣することによる問題とは、理解を飛ばしてしまうことだ。』

一番気に入ったのが、
『小さくて、シンプルで、基本的なものへのニーズは不変だ。まさにそれを必要としている顧客の供給は際限なくある。』
まさにその通りだと思う。Kozchiが目指すべき方向と感じた。

2010年3月3日水曜日

広告の本質とは

広告の本質について、考察している記事があった。一読して感じたのは、 当たり前だろう、という事だ。

でも、当たり前と思えるこんな記事を書かなければいけないほど、世の中の考え方は当たり前じゃない方向を向いているのかもしれない。

曰く「広告の目的は基本的に売上につなげる事であり、消費者を喜ばせることではない。売上につなげるために消費者を喜ばせる、というロジックでなければお金を出す側としては納得できないだろう。」

そりゃそうだ。別に取り立てて言うまでもないような気がする。

短期的な目的であれ、長期的な目的であれ、最終的に売上に結びつかないと、カネをドブに捨てるようなものだ。一つ違和感があるのは、「少なくとも、近い将来の販売促進につながらない限り、広告費を喜んで使おうとする経営者はいないのである。」という結論だ。筆者が力を入れて説明しているブランディングは、長期的な目的にカテゴライズされると思うので、別に近い将来の販売促進につながらなくても良い、という言い方はできるだろう。

広告の目的は販売促進か否か、という議論をしたいみたいだが、この分類は意味がない。意味があるのは、その手法と効果を期待する期間の関係だろう。例えばテレビCMなどは、どちらかというと効果を期待する期間は長く、ブランド構築の軸を持っていることが多い。一方で、インターネット広告は、短期的効果を狙って、見てすぐ購買行動に結びつくことが求められる場合が多い。

そのように考えると、効果を期待する期間以外にも提供する商品・サービスの属性や主な販売方法などが、手法を決める要因になるだろう。

元ネタがしょぼいので、結論がイマイチ。
結局、広告は顧客となりうる人・企業に対して企業・商品・サービスのプレゼンスを高める行為であって、その時間的・空間的な影響範囲における利益の中で帳尻が合う様なコストで運用されるもの、という一般的な結論になる。

2010年3月1日月曜日

神様はきっといる

先日、神様の存在を感じる様なできごとがあった。高速道路を走行中に車が故障したのだ。

初めてだったしびっくりした。メーター部に突然のアラートで「STOP!」と現れ、今まで聞いた事の無いブザー音が響いた。見てみると冷却水の温度が上がっている。オーバーヒートだ。季節は冬。しかも10年ものとは言え、既に世の中からオーバーヒートなる故障が撲滅されつつある時期の車だ。ちょっとありえない。

でも、何せ車の故障は初めてなので、勝手が分からない。車屋に電話して、原因を推定してもらい、保険屋に電話して、レッカーを手配してもらった。しかも、とあるイベントに参加するために道を急いでいた、そのゴール地点のわずか10kmほど手前の出来事。あとから原因を聞いてみると、冷却水のリザーバータンクが詰まっていたそうだ。

ここまでの話はアンラッキーなのだが、実は、このタイミングでの故障は、他のどの地点で発生するよりも良かったと言える。

まず、車の調子はなんとなく良くはなく、近いうちに検査しようと思っていた。そして、故障した地点が東関東道の大栄というICの近くで、交通量が少なく、路肩が広かった。また、イベント参加のために知り合いが近くに来ていて、代替の移動手段がすぐに確保できた。ICの入り口付近に止まったので、極めてスムーズに乗り込めた。あと、この車を購入した中古車屋さんが親切で、色んな手配を助けてくれた。さらに、イベント関係者の助けもあって、レッカー移動等に要する手間を助けてもらう事ができた。などなど。

もし、同じ故障が首都高で起こってたら、もう少し早いタイミングで目的地から遠い地点だったら、もう少し遅く帰り道だったら、本当にどうしようもない状態になって、きっとパニックになるだろう。ここに至るまでに間違って少し遠回りをしていたので、本来なら一旦目的地について、イベント終了後の夕暮れの帰り道で発生していた計算になる。そうなると助けも少なく、たぶん問題解決もかなり時間が掛かったのでは、と推測される。

すごく不思議な感じがした。結果として、ほとんど誰に迷惑を掛ける事も無く、解決に向かっている。故障は残念だが、最高のタイミングでの故障に感謝したい。
なぜか神様に守られている気がした。