2011年12月30日金曜日

さらば、2011

2011年は、本当に色んな事があって、誰の身にも落ち着いた時間は少なかったのではないだろうか。こんなに時代の流れを強く感じた年もなかったと思う。

諸処の出来事を書き連ねる事はしないが、忙しいだけではなく、身の回りに不幸があった方も多い。ただ安らかにとご冥福をお祈りするとともに、一刻も早く安寧の時が訪れる事を願うばかりだ。

2011年は時代の節目だったと、後で思い出されるのかも知れない。様々なパラダイムが変わった。新しい潮目をいち早く見つけるのが、2012年の全ての人のミッションだろう。

明日で2011年も終わる。この一年、色んな方にお世話になった。この場を借りて、お礼を言いたい。

ありがとうございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。
良い年をお迎えください。

2011年12月28日水曜日

「坂の上の雲」完

年末の楽しみだった「坂の上の雲」が終わった。

三年間に亘って、12月の一月だけオンエアされるという新しいドラマの形は、ドラマ作りの時間的な制約から、ある部分では解放されたのだろうと思う。豪華なキャストと重厚なセットやCGに、その成果を見ることができる。

一昨年の冬は三人の主人公の青春群像、昨年は日露戦争へと転がり落ちて行く政治緊迫と軍の台頭、この12月は日露戦争の攻防が、そのテーマだった。

司馬遼太郎の小説は恥ずかしながらまだ読んでないが、このドラマで毎回繰り返される、小説のあとがきに書いてあるというセリフが、全てを物語っている。

『このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでいく。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。』

ドラマのシーンでいつも印象的なのは、軍や戦争における情景は欧米と全く遜色ないのに、一般家庭の暮らしぶりは、たかが100年ほど前の物語とは思えないほど、遥かに慎ましく、貧しいことだ。衣食住の全てに亘って、江戸時代の雰囲気を残し、近代化という言葉からはほど遠い暮らしをしていた事が分かる。考えてみれば、登場人物の殆ど全ては江戸時代生まれなのだから、当たり前なのかも知れない。時代と言うのは、結局数十年というペースでしか変わらないと言う事だろう。

全てにおいてキャッチアップしなければならない時代であり、し損ねた時は植民地化される危険性を孕んだ、とんでもない緊張感、危機感に満ちた時代だった。だからこそ、特に軍においては、その存在や方針に迷いやブレはなく、結果として、坂の上の雲を一目散に目指すしかなかったと言える。そのような中では、楽天家以外に存在し得ないというのも分かる気がする。

日露戦争の日本海海戦での完璧な勝利以降、秋山真之は「人が死んでいくのを仰山見過ぎた。坊さんになりたい...」と嘆く。要は、坂の上に登ってみたら、雲は遥か高く、届かないどころか行き方も分からなくなった、と言う事ではないだろうか。国同士が競争する時代に、軍備を拡張していくことの意義は分かるけど、戦いに勝利しても得られるものはなく、ただ恨みや悔悛が残るだけ、ということだろうか。

日露戦争は第0次大戦と言われることもあるらしいが、単なる局地戦ではなく世界中を巻き込んだ初めての戦争という事になる。第二次大戦での終戦間際のソ連の参戦やその後の北方領土占拠は、この日露戦争の仕返しなのかも知れない。

翻って、今の時代は、ある意味キャッチアップはおわり、諸外国と肩を並べる立場になっている。追われる身を長年続けてきている欧米に比べて、ベンチマークされ、リーダーシップを期待される立場にいた事がない日本は、非常に頼りない政治・経済状態が続いている。

明治維新から日露戦争まで一直線に進んでなお、庶民の感覚としての時代の変化は始まったばかりだったとすれば、変化が認知できるようになるまでには25~30年はかかっている事になる。仮にキャッチアップをある程度済ませた時期を、バブルが頂点にあった1985年ごろとすると、2011年現在で26年が経過している。つまり、今からが目に見える変化の時期で、今まではその雌伏の時間だったと考える事もできる。

ようやく「雲の下の坂」が見えてきたとは言えないだろうか。足元が見えずフラついていた時は終わりつつあると思いたい。

2011年12月26日月曜日

憂いなければ備えなし

浅間山荘事件で有名な佐々淳行の名言。

一般的な慣用句としては「備えあれば憂いなし」だが、「備え」と「憂い」の前後関係を考えると、「憂いなければ備えなし」が正しいだろう。

今回の大震災・津波・原発事故を考えてもそうだ。

ある想定内の備えを万全にして憂いはないと考えていたが、想定外の事が起これば、軽々と備えを超えて行ってしまう事が分かった。憂いのない備えなんて無いんだ、という知見を、多くの犠牲を払って、ようやく手に入れたと言ってもいいだろう。その知見が活かされるかどうかは、今後の取組にかかっているのだが。

一方で、何かを限界を設定して備えを充実させる事から離れて、限界を設けず全てに憂いることは、現実的にはとても難しい。全てに憂いてみたところで、掛けられるコストや時間には限りがある。その妥協点で想定内外の境界線が引かれてきた。そして、その境界線設定が、ご都合主義に走り、本来あるべき境界線からずれたところで、事故は起きたということだろう。

今までの時代は明確な目標を持って、まさに「坂の上の雲」を目指すかの如く邁進する事が是だったが、そういった考え方を超越するほどに、世界は複雑化したと言えよう。

たぶんこれからの社会で必要なのは、明確な線引きによる二元化による備えではなく、曖昧で緩い線引き、一応の境界線を超えた淡い憂いに対しても何らかの対策が打てるような、柔軟性のある備えのあり方なんだろう。

つまり、震災を期に明らかなパラダイムシフトが起こっていると考えられる。

憂いなければ備えなし。どれだけ想像力を逞しくして、「憂う」かに掛かっている。

2011年12月23日金曜日

システムアップデート

7月末ぐらいから粛々と始めていた、家のIT環境整備もようやく落ち着いた。


7月にMacOSX10.7 Lionがリリースされた事に端を発する。それまで、昨年10月発売日当日に購入したMacbookAirを溺愛していたが、Lionによって少しの違和感を感じるようになった。若干重くなり、節約して使っていたハードディスクを、今まで以上に頻繁にメンテナンスしなければいけなくなった。思い切ってMBAからiPadへ、利用スタイルを変えてみようと決意した。

あんなに溺愛したMBAを手放すことになるとは思いもしなかったが、非情なるリストラを敢行した。

その時、手元にあったのはMBAとMacbook(White)。前者は主に個人用、後者は主に家族用として写真や音楽などを管理していた。用途的にはデスクトップでも大丈夫で、Macminiが安くなっているので、液晶テレビにMacminiをつないで使ってみると、家庭内資産がそれぞれにつながって、非常に良い感じかな、と。簡単に言うと、MBAをiPadへ、MBWをMacminiへとリプレースする計画だ。

その後、Macmini+液晶テレビが思いの外使いにくかったりして、一旦導入したMacminiをMacbookPro(Early2011)にリプレースすることにした。

そのほとんどをYahoo!オークションで行い、結果として+5,000円ほどで、現在のシステムに移行完了。2007年モデルのMBWと2010年モデルのMBAを、ともに2011年モデルのMBPとiPadに変えれたと考えれば、+5,000円は安いものだろう。

このシステムアップデートの過程で、色んなモノをオークションに出品し、また、色んなモノをオークションで落札した。オークションを活用したことで、古いシステムを一掃でき、新しいシステムを導入できた。よく分かったのは、オークションシステムは非常に健全に動いているということ、あと、労を厭わなければ、それなりに高いコストパフォーマンスで売買できることだ。

あと、Macで言えばノートブックがやはり使いやすく、大画面から移行した割には、その画面サイズは気にならないということが意外だった。ノートブックに最適化されているOS Lionの効果かもしれない。そして、iPadは十分に日常の用に足るデバイスで、一般的な作業のかなりの部分が問題なく扱えることも、この半年間で分かった。Mac、iPad、iPhoneの連携が非常にスムーズだということも、iPadが使える理由の一つかもしれない。

来年はネットワークとiPhoneの関係を見直すことにしよう。

2011年12月21日水曜日

共感できない"自炊"反対

有名作家が集まって、"自炊"業者を提訴した。

自炊そのものは違法ではないが、第三者が代行するのはダメということ。そして、自炊後のデジタルデータもそうだが、自炊に供した原本がネットで販売されている実態もあり、商売の危機を感じる、と言うことだ。

ある意味正しいが、新しい時代に対応したくない人たちの戯言とも思える。

多くの人が知恵を出し合って作るという本の価値を毀損する、と言っていた人もいたように思うが、そういう人にとって、ハードカバーと単行本の違いは気にならないのだろうか?紙質も装丁も一頁に収まる文量も違うのに。

作家という職業が成り立たなくなる、と言っていた人もいたが、それは、自分の作品が多くの人に読まれたいという欲求よりも、それがおカネに変わらなければ意味がないという欲望が上回っている、と言う事なのかな?綺麗事で言えば、おカネはさて置き、自分の作品を多くの人に読んでもらいたいという、クリエイターの本能のようなものがまずあって、その作品に応じた適正な対価が貰えればハッピー、という感じではないだろうか。

とは言え、職業が脅かされ、作品が軽んじられる可能性があるという不安は、理解できないことはない。

一方で、電子書籍の未来は不透明だと言ってしまうのもどうかと思う。しかも、不透明だから乗れないという。それではいつまで経っても透明度が増すことはないだろう。透明にならなければ棲めないといった、環境変化に対応しようとしない魚は生き残ることができない。ただ、泥の中で餌を見つけることもできず、息絶えるだけだ。

ではどうするかというと、スティーブ・ジョブズとiTunes (Music) Storeの顛末が参考になるのではないか。当時、違法コピーが横行し、P2Pソフトによって蔓延していた状態で、誰もが音楽の電子配信は不透明だと思っていたし、産業、市場として成立すると思っていなかった。その中でジョブズだけが透明化に向けた解を提案し、実践した。そして、それは今のところ正しい解のように思える。未だに日本の音楽業界は電子配信に及び腰だが、それが意味するものは産業としてのシュリンクでしかない。

同じことが本にも言えて、違法コピーが増えるから嫌だ、著作権を侵害しているというのは簡単だが、どうやったら違法コピーが減るのか、ということを考えた時に、自炊業者を提訴する事が解になるとは思えない。自炊せざるを得ないのは、電子書籍がないからで、違法に手に入れている人もいる反面、例えばアマゾンから自炊業者に直接配送して、電子化して手に入れる人もいると聞く。つまり、彼らは正規料金に自炊代を支払ってまで電子化しているのだ。そういった人たちのニーズに応えようともせず、ただただ、自分の権益を守りたいがために、提訴に踏み切るというのは、全く共感できない。

作家の仕事ではないかも知れないが、電子書籍の産業化、市場化を目指す必要があるし、電子書籍の将来性を探る意味でも作家だからできる事が結構あると思う。そういう行動をしている作家も多く存在する。

自炊業者の商売自体はグレーだとは思うが、電子書籍化の対案を出さない老害にしか思えない。

2011年12月19日月曜日

Four Pockets

前回に引き続き、その当時に考えていた4つのポケットという事を少し振り返りたい。ここで言うポケットとは、収入源の事を指す。

ベースは先に書いたような三世代理論であって、サラリーマンポケットだけでは何とも物足りない。昔と違って、劇的な昇給のある時代ではないし、不動産価値がどんどん膨らむ時代でもない。そのような中で、三世代理論を成就するには、何らかサラリーマンではないポケットが必要になるだろう、という事。その頃にはNPOを立ち上げていた事もあり、営利/非営利という観点も重要と考えている。そういった中で、ポケットを4つと考えた。

1st Pocket:サラリーマン収入
これは非常に大きなベースだ。特殊な才能がある人を除いて、ほとんどの人にとって、好不況や運不運の影響が最小化された、一つの平準化された属性としてのサラリーマンは重要で、そこから得られる収入は、一定の安心感を与えてくれる。サラリーマンという属性だけを考えると、ベストな世界は大企業だろう。業種や職種に関係なく、大企業に属していることは一つの価値と考えられる。

2nd Pocket:会社経営
サラリーマンポケットだけでは物足りない前提に立つと、アドオンできる収入源は不可欠だ。そのために必要なのは、別の会社から収入を得るか、もしくは、今ある収入を殖やすかしかない。その一つの選択肢として、会社を経営する事を考えたりする。別の会社に雇われると労働協約的に問題があるが、サラリーマンとしての拘束時間外に自らをマネジメントするのは自由だ。いわゆる週末起業という形とも言える。

3rd Pocket:投資
2nd Pocketはともすれば金食い虫だ。夢に投資するようなモノなので、うまく行って、1st Pocketを凌駕するほどに成長すれば良いが、そうならない場合も多い。もう一方で、おカネは集まって殖える性質もある(もちろん、減る性質も併せ持つ)ので、何とか利殖に回したい。要は不労所得を増やすということだ。一発逆転を狙わないとすれば、投資は時間がキーファクターなので、早めに始める事が大事だろう。何を選ぶかは難しい。

4th Pocket:非営利
最後は、収入という面ではPocketとは言えないが、活動上のポートフォリオとして位置づけたい。法的な枠組みは別として、個人の満足度をそこから得られる収益で割ったものが、高いものを4th Pocketに位置付けているとも言える。

収入としては2と3に集約し、4を余力でできるようになれば、一つの理想型だ。その前に、1で完結していれば最高なんだけど。

2011年12月16日金曜日

三世代理論

数年前に、自分の置かれている立場や環境から様々な事を考えていた。

少なくともポケットは4つ必要だと言う事。サラリーマンとして、いくら頑張っても社会的に影響を与える事はできない事。幸せにする半径や、5年後どうありたいか、そして50年後どうありたいか、など。その中のひとつに三世代理論というのがあり、最近になって、幼なじみと言っても良い大学の友人に指摘されて思い出した。

その頃、良く言っていたのは、人は皆、三世代を幸せにする義務があるという事。つまり、自分の世代を中心に親の世代と、子の世代だ。この三世代に責任を持って、幸せにすることができたら、それが本人にとっても最大に幸せなんだろうと考えていた。今でもその考え方に、さほどの変化はない。

自分の場合は、1.自分と配偶者、2.自分の両親、3.配偶者の両親、4.子供の(未来の)家庭が対象だ。今のところいずれの親も健在であり、子どもは一人なので、4家族ということになる。三世代4家族。

最高のパターンは、自分の収入で、全てを責任もって扶養する事。実は、自分に取っては最高のパターンでも、子供に取っては不幸の始まりかも知れないが。いずれにせよ目指すべきはココであり、そのためにはサラリーマンではあり得ないというのが、ひとつの結論になっている。

非常に親孝行である件の大学友人に加えて、最近は変わった経歴の人と知り合いになった。この人は、まさに若くして自分の収入で全てに対して責任を持って扶養している人で、まあ同じ事はできそうにない。

皆、それぞれのやり方で三世代に対して何らかの関与を続けていく訳だが、幸せの総体が最大になるような努力を続けるしかないのだろう。

2011年12月14日水曜日

新聞の契約形態

新聞はどうやら口約束が原則のようだ。不思議。何となく話をして、何となく取り始めるような言質が取れたらそれだけ。別に契約書も何もない。

昔、その販売店から新聞を取っていて、すぐに止めたのだが、その履歴が残っており、それをベースに時折営業を受けていた。最近になって、小学生新聞を取ってみようと思い立ち、営業に来た機会に話をしたら、すぐに持ってくる事になった。特に期間や料金の話もせず、契約書の提示もない。契約書がなければ、困るのは販売店だろうと思い、放っておいても何の音沙汰もない。改めて電話してみると、契約書はないが、三ヶ月契約になっているとの事。で、しばらくしたら集金に来るとの事。

そんないい加減な商売ってあるだろうか?サービスを受ける側として、何も聞いてないし、明確な意思表示もしていない。ましてや契約書もないのだから、販売契約として成立するとは思えない。そんな曖昧な契約があり、何ヶ月かの無料期間や洗剤や何らかのチケットなどと抱き合わせで販売するような商売が、この現代に存在している事が非常に驚きだ。

電子化の波が目の前に訪れている事を差し引いても、終わりに近づいている事を予感させる出来事だった。

もし、新聞がその役割を終えようとしているとしたら、各戸の郵便受けに情報を届ける主体がいなくなってしまう事になる。例えば新聞に代表されるニュースもそうだが、スーパーのちらしなどにとっても媒介がいなくなることは、その商圏維持・拡大に大きな影響があるだろう。

iPadみたいなタブレット端末へ、地域を特定してPush型で配信するようなサービスの必要性が高まってきている。

2011年12月12日月曜日

日本メーカーの悲哀

CNETの「アップルの2012年--迫り来る競合各社の脅威」を読んで、日本メーカーの悲哀を感じた。

iPhoneにはGaraxyが、MacbookAirにはUltraBookが、iPadにはKindleFireが迫ってきているということだが、こういった記事は、これからの社会におけるAppleの優位性を過小評価しているように思う。

これからの社会が性能ではなく体験が重要なのは、言うまでもないだろう。今後も新しい技術はドンドン生まれてくるだろうが、当面は性能ではなく、それが与えてくれる体験にこそ焦点が当たることになる。なぜなら、CPU速度やディスプレイ解像度は人間が認知できる限界を既に超えており、向上スピードとそれがもたらす効用がリニアの関係になくなっているからだ。端的な例は、iPhoneのRetinaディスプレイであり、その名の通りその精細さは網膜レベルに達している。

そういった今後の社会において重要なのは、速度や解像度ではなく、全体としての齟齬のない作り込みである。その意味で、Appleに対抗できるメーカーはいない。

ハード、OS、ソフト、コンテンツを一貫して作っている事の優位性は、今後ますます顕著になるだろう。発展途上段階にあった今までのように、分業体制に優位性があった時代は終わった。ハード、OS、ソフト、コンテンツの中で代替が効かないのはOS/コンテンツなので、OS/コンテンツを中心に世界は回るだろう。

Windowsの能力を最大限に引き出せるPCを作れるのは一体どこか?MouseやKeyboardではとっくの昔に実現しているように、Microsoft以外にないように思う。ではAndroidにとって最良のハードはどこが作れるか?Googleだろう。先日買収したMotorolaがその役目を果たすのかも知れない。Amazonのコンテンツを活かせるハードは、Amazonにしか作れない。

つまりGoogleはスマートフォン、タブレット端末について準備ができつつあるが、PCはない。Microsoftに至っては全てにおいて何もない。Kindle FireがAppleにとっての唯一の脅威になっているのは、当然の帰結だろう。

では、OSもコンテンツも持たない日本メーカーが取り得る選択肢はどこかというと、今まで通りGoogle/Microsoftからライセンスをもらい、差別化とも言えない差別化によってコスト競争のレッドオーシャンを泳ぎ続けるか、完全に傘下に入って主導権を放棄するしかない。コモディティ化したハードから新しいコンセプトが生まれない限りは。

日本メーカーの悲哀は続く。

2011年12月9日金曜日

ポイントの訴求力

サービス運営にポイントを組み込むことはよくある。

Tポイント、Ponta、nanacoなどが有名だ。ショッピングモールも独自のポイントシステムを持っている事が多いし、JR東海も新幹線利用額に応じてグリーン車に乗れるポイントをつけてくれる。また、マクドナルドなどはしょっちゅうサービスクーポンを配っているが、割とロイヤルティの高いユーザーにとっての、マグネットであり、ポイント還元になっている。

 ポイントで感じるのは、その換金性とロイヤルティには相関がありそうだ、ということだ。

お金に換えれないものには、例えばJR東海のグリーンポイントがある。新幹線の利用距離に応じて加算されるポイントで、一定以上に貯まると普通席をグリーン席に無料で変更できるものだ。新幹線の場合は、それなりに快適に座れる(と感じている)普通席指定席との差があまり大きくなく、乗車時間もさほど長くない現在においては、あまり価値を感じられない。例えば東京-大阪をこだまでゆっくり移動し、その時間を有効に使いたい時などには有用かもしれないが、かなり特殊解だ。

換金できるが、換金率の悪いものの代表はPontaだ。Pontaを例えばローソンで使うと、100円(端数切り捨て)で1ポイントが獲得できる。数百円レベルの買い物が中心になるコンビニでは、実質1%以下の還元率になる。この程度だと、せっかくのポイントがあまり訴求力を持たない。つまり、ポイント欲しさに選択を変えるほどの力を持っていないと思う。

換金性が高いものとして、家電量販店のポイントが挙げられる。多くの家電量販店は5%〜20%ものポイントがつき、かつ高額商品を購入する可能性が高いため、ポイントが貯まりやすく、訴求力が強い。つまり、ビックポイントを貯めてたら、ヤマダ電機が目の前にあってもビックカメラを探すという、ポイント欲しさに選択を変える力を持っている。

 ポイントのポイントは、貯まりやすさと換金性にある。

当たり前のようだが、貯まりやすく換金性が高いポイントサービスが少ない事を思えば、その管理が大変なのかもしれない。また、実際の換金に備えて資金を積み立てておく必要があることも一つの要因かもしれない。ポイントサービスも一時期の隆盛は過ぎ、あまり話題に上らなくなってきた。

新しいポイントサービスが求められているのかもしれない。

2011年12月7日水曜日

ソーシャルの限界

事業者側よりも利用者側で情報を作り込むということは、情報に対する責任が曖昧になる。特に匿名の場合は。

利用者の人数もしくは密度でその有用性が決まり、ある閾値を下回ると極端に使えなくなる。

情報密度を上げるためには情報発信できる人を集めなければならず、世の中の限られたリソースを奪い合うことになる。

また、意味のある情報密度を得るには、ジャンルをかなり絞りこむ必要がある。

そのため、利用者から届けられる情報は本来の多様性を失い、ある意味画一的になる危険性を孕んでいる。

決まった人が決められたジャンルのネタを、不必要なまでの高解像度で表現することになるか、さもなければ、必要な解像度も得られないような低解像度の情報が広く薄くばら撒かれた状態になるか、の両極端な二択になる可能性も高い。

いずれにせよ、その解像度を制御することはできない。

コントロールされた世界では見つからない情報が見つかる可能性は大いにあるが、普段見逃さないものにも気付かない危険性もある。

ソーシャルが意味を持つにはビッグデータが必要になり、ビッグデータを集める仕組みは、それゆえ普遍性を持たなければならない。

つまり、自然なニーズに対して愚直にシンプルに突き進んでいるサービスが、結果としてソーシャルな価値を持つだけであって、ソーシャルな価値を生み出すことを命題としたサービスが、その目的通りの価値を生み出すことは稀だろう。

ソーシャルって、そういうものだと思う。

2011年12月5日月曜日

誰かが決めたルール

日本人はセットが好きだ。自分で組み合わせを考えるよりも、誰かが考えた組み合わせの選択肢から選ぶことが好きだ。まぁ楽だからね。

アラカルトで頼むよりも、例えばセットだったり定食だったりする方が安心するんじゃないだろうか。誰かが決めたルール、それがある程度合理的でリーズナブルであれば、一旦は乗っかってみようとする傾向は強いと思う。人が設定した土俵は、そこに乗っている限りにおいては快適だ。いかにも評論家的にセットの良し悪しを論じるだけで、事は足りる。また、セットには組み合わせの妙が入り込む余地が生じる。ある意味で一段の加工を加えた形になる。うまくハンドリングできれば付加価値が高まるということだ。

つまりセットメニューは、作り手側にとっては利益の源泉となりうるし、受け手側にとっては判断を簡略化するための提案ということになるが、実はセットメニューというのはPull-Push型のシステムだということに気づいているだろうか?

通常、セットを構成するメインの要素を選択することで、残りの部分がくっついてくる。一つを選ぶと、その他がある程度自動的に抽出され提案される。その抽出方法はさまざまで、定食だとメインを引き立たせて栄養バランスが良くなるような組み合わせが選ばれる。パソコンでも一昔前は大量のソフトをバンドルし、それが一つの魅力のように語られていた時期もある。何かが欲しいという消費者のニーズをトリガーとして情報や商品を手繰り寄せてもらい、そこに乗せる形で別の情報や商品を提供するという形が一般的に用いられ、さまざまな領域で効果を発揮し続けている。

しかし、いまだにネットのサービスはPull-Pushをうまく使えていないように思う。大体がPullだけ、またはPushだけだ。検索して目的の情報を得られたら、その情報をひたすら掘り込んでいくようなドリリングサービスか、自己位置認識などをベースにしてユーザーの意図とは関係ない情報を単に提供するだけか、しかない。

何をPullしてもらって、その時に何をPushするのか?それが問題だ。

2011年12月3日土曜日

横浜かDeNAか

DeNAのプロ野球参入が決まった。楽天だけが反対したようだが、11 vs 1で参入決定。

以前にも書いたが、DeNAは昔は応援していたが、モバゲーを始めてからは、どちらかといえば嫌いな企業に入る。少なくとも自分の子供に使って欲しくないサービスの一つだ。お金と時間の無駄だと断言できる。それでいて企業としては利益率が50%近い。ということはパチンコと同じで、射幸心を煽り、お金を毟り取るサービスということだ。しかも、対象年齢が低いことが非常に問題だ。オッサンでモバゲーにハマっている人は、お好きにどうぞとも言えるが、中高生をハマらせるということは、その後の人生にも大きく影響を及ぼす。これは国益にも関係するだろう。だから、DeNAは応援できない。

そんなDeNAがプロ野球に参加するということは、プロ野球を愛好する年齢に訴求したいということだろう。すっかり斜陽感のあるプロ野球を愛好する人にモバゲーが浸透していないという認識なんだろうが、果たしてそうだろうか?

スポーツは映像がないと面白くない。プロ野球を愛好する人は、比較的テレビの視聴率が高い人だとも言える。昨今のテレビを見ているとグリーとモバゲーのCMは腐るほど流れている。名前だけで言うと知らない訳がないだろう。では、それらの知っているけどプレーしたことのない人を誘引する魅力をモバゲーが備えているのか、というとそれも怪しい。しかも有料ゲームにハマってもらわなければいけないとすれば、かなりハードルが高いのではないか。

きっと、ある一定の割合で有料ゲームにハマってしまう人がいて、それ以外の人はいかに情報を増やしたところで参加しないような気がする。そうであるとしたら、既に不参加を決めてしまった人を宗旨替えさせるのは余り効率の良いやり方とは思えない。むしろ既にハマっている人の単価を上げる施策か、全く未開拓の世界に踏み出すかしかないのではないか、と思う。いかにDeNAが「スポーツ振興にも力を注いでいる健全な企業です」と声高に言っても、やっていることはいわばパチンコと同じなのだから、誰も納得しないだろう。

であれば、DeNAのプロ野球進出はあまり成果を上げることはできないだろう。いかに成績を上げてもDeNAの良い宣伝にはならず、成績が上がらなければただの無駄飯食いだ。楽天のマー君のようなフレッシュな看板選手を捕まえないかぎりは、うまく行きそうにない。きっと早期に撤退したいと考えるだろうが、なかなか撤退のタイミングをつかめずにズルズルと保有することになりそうな気がする。

一つの試金石は、これから横浜と呼ばれるかDeNAと呼ばれるか、にかかっていると思う。

セ・リーグは巨人、阪神、ヤクルト、中日、広島、横浜、パ・リーグは、日ハム、ロッテ、ソフトバンク、楽天、西武、オリックスとあり、呼称とオーナー企業名が一致していないのは、巨人、広島、横浜だけだ。その内、巨人=読売は何の説明もいらないし、広島は実質オーナーはマツダであっても市民球団としての位置づけを確立している。つまり、オーナー企業名で呼ばれていないのは実質、横浜だけなのだ。これをいずれの日にかDeNAと呼ばせることができたら、その時にこそ買収した価値があったと言える。