2010年5月31日月曜日

立ち位置と見る角度

先日、今の会社のR&D部門に来年入ってくる予定の人(A)の話になった。どうやら、その人は、昨年度入社の人(B)の同級生らしい。

Bは、当社R&D部門で唯一と言っても良い強み領域の専門家だ。この領域は、競合他社だけではなく世界的にもアドバンテージを持っている。

BはAに「こんな良い会社はない。自由だし、世界とも近い。給料を貰いながらアカデミックな世界を追求できて、飽きたら大学に戻るパスもある。大学にいるよりよっぽど良い。」といった類いの話をしたらしい。

その気になって、来年入社する予定のAは、当社の弱み領域の専門家だ。多分、入ってしばらくすると「聞いていた事と違う」となるのではないかな?

R&D部門でも全社的にも、さほど発言力の大きくないAの領域。段々ともの作りの中での重みが増しており、プレッシャーが高まっている。また、シミュレーションが全てのB領域に対して、実験なり実地検証が必要なA領域。

AとBでは求められているものが違いすぎる。果して、Bの立ち位置で見た当社R&D部門と、Aの立ち位置で見るそれは、同じ風景が広がっているのだろうか?

そんなはずないよね。Aが数年後に失望感や後悔で満たされないことを祈るばかりだが、他人事ではない。

立ち位置や見る角度の違いで、見えるものが変わってくるという当たり前の事を、常に念頭に置きながら、人の話を鵜呑みにしないように、気を付けなければ。

2010年5月28日金曜日

自由と苦痛

先日、アップルがマイクロソフトを時価総額で抜いた、というニュースを読んだ。かつて、アップルがにっちもさっちも行かなくなった時、マイクロソフトに1.5億ドル出してもらった事を考えると、隔世の感がある。改めて、ジョブズの感覚の鋭さ、ギリギリ現実的な解を見つける能力の高さに驚くばかりだ。

夢を追いかけるためにライバルから金を借りれる人は何人ぐらいいるんだろう。

ハード(Mac/iPod/iPhone/iPad)、OS(MacOS/iPhoneOS)、ソフト(iLife/iWork)、サービス(iTS/AppStore/MobileMe)、そして経営に関しても、幻想と現実の谷に挟まれた、本当に狭い狭いイノベーションの尾根を歩き続けている。実際、どの製品も最初は大多数の批判から始まっている。初期段階から肯定が多数を占めるのはiPadぐらいじゃないか?

これは、皆の感覚が追いついてきたのか、ジョブズの感覚がより現実的なところに落ち着きつつあるのか、単に皆がアップルを盲信してるだけというブランディングの勝利なのかは分からない。

そんなアップル製品と十数年付き合ってて、しみじみと感じるのは、アップル製品はできる事が少ない、という事だ。非常に限られた能力/機能しか持っていないのが、アップル製品の特徴だ。ハードが限定され、使えるソフトもさほど多くない。OSも拡張性に乏しい。言い換えれば、ユーザーに自由はない。

でも、その環境が必要十分であれば、自由のなさに不自由さを感じることはない。むしろ迷いがないので、使いやすい。アップル製品には、利用しないボタンやポートが一切ない。なので、アクションを起こす時にあれを押すか、これを引っ張るかと迷うことはない。この不自由さが、便利さ、気持ちよさを作り出している。そして結果として、自由を生み出している。

アップル製品は、よくできた塗り絵なんだ。誰でも用意された広さを一杯に使える。色や余白の使い方で個性も発揮しやすい。

何も書かれていない真っ白で広大なキャンバスに、それに見合った絵を描ける人は、本当に一握りだろう。ほとんどの人は、その広さも白さも利用できず、隅っこでせせこましく落書きするぐらいしかできない。

自由を享受するには、本当に大変な苦労が伴う。時には苦痛と感じることもあるかもしれない。自由を欲して、何でもできるよう作られたWintelマシンは、結果として不自由さを生み出していることに気づくべきだ。

Kozchiも非常に機能を限定したサービスだ。多くの人はメールではなくWebを使った方が良いのではとか、アクセス解析できないと、とか言うが、当面不要だと考えている。シンプルな解こそが正しい道であり、不自由さのない制限された環境を目指している。

Connecting the Shops.
http://www.kozchi.jp/

2010年5月26日水曜日

メールの普遍性

携帯電話に代表されるハード、プラットホームとしてのインターネット、インスタントメッセンジャー(IM)のようなソフトやサービスが、どれだけ進化しようがメールは今後も使われ続けると思う。

大きな理由は、メールがオンラインとオフラインを切り替えて使う非同期サービスだからだ。

TwitterやIMやフェイスブックを活用している人には分かりにくいかもしれないが、多くの人は、常にオンラインでいたい訳ではない。

同期サービスといえば、Twitterなんかは典型的だが、自分が同期していない間も時間は流れ、話題は先に進んでいる。もちろん検索すれば確認できるが、基本姿勢としては、流れに身を任せて過去は追わないんだろう。だからできるだけ流れの中にいて、Twitterを思考の外部フローとして活用している。実際、そこまでのヘビーユーザーが周りにいないので、よく分からないが、Twitterを活用している人はiPhoneが手放せないだろう。

外部フローとしての同期サービスは、良質なディスカッションルームとしての役割を果たすのかもしれない。その意味では理解できるが、外部フローを必要としている人もタイミングも、そんなに多くない。

メールは非同期サービスだ。

コミュニケーションにおいて非同期性は非常に大事だと思う。と言うのは、人の行動もリテラシーも同期しえないからだ。だから、時間、場所、道具を同じくする人たちとのコミュニケーションと同じくらい、時間、場所、道具を共有しない人たちのコミュニケーションも必要だし、なくならない。

メールはインフラだ。

かつては一部の人の道具でしかなかったが、携帯電話で使えるようになって、道具として唯一共有できるレベルになっているのが強みだ。いまや、老若男女問わず、みんなメールを使える。道具を普及させる上で、その作法を周知するのが最も難しいが、メールだけはそのハードルをとっくの昔に超えている。

こういったサービスは、コミュニケーションの質とかスピードによって使い分ける類いのものだが、その意味でもメールが果たすべき非同期サービスとしての役割は大きく、非同期サービスのパラダイムシフトが起こらない限りは使われ続けるのだろう。

Kozchiはメールを使ったサービスです。
Connecting the Shops.
http://www.kozchi.jp/

2010年5月24日月曜日

大企業と拘り

ここ半年ほどグレゴリーの3wayバッグを使っている。グレゴリーはバックパックのロールスロイスと言われるほど、かつては高嶺の花だったが、今はわりと値段もこなれているし、どこでも手に入るようになった。

持ってみると、非常にシンプルではあるが、バックパックにした時の持ち具合の良さは、3wayバッグとは思えないほどだ。

ロールスロイスとまで称されるバックパックメーカーがビジネスバッグを作ることは、なかなか難しかったのではないか、と思う。素晴らしいバックパックメーカーは他にもたくさんあるが、うまく定義を広げることができたのは、グレゴリーぐらいのものなんじゃないかな?

今までも海外の商品をいくつも使ってきたが、最も印象的なのは、その商品定義への拘りだ。自らの拠って立つポジションをしっかり定義付け、そこには何が必要で、何が不必要なのか、しっかりと見極めている。ブランド力というのは、そういうものだろう。

海外のブランドは「何を付けて」「何を付けないか」というポリシーが、日本のメーカーよりも強い気がする。特に、付けてはいけないものへの強い拘りを感じる。その意思決定は、シンプルな「らしさ」の追求だったりする。

翻って日本のメーカーは、総じて拘りが少ないように見える。むしろ拡大の過程で拘りを捨ててきた、と言うほうが正しいかも知れない。その証拠に、事業の拡大=総合化、という方向性が一般的だ。総合電機、総合商社、総合建設業、総合エンターテイメント企業など、企業の冠には「総合」という文字がよく使われる。

この総合化を目指した拡大化の中で、日本企業は拘りをなくし、らしさを失っていった。らしさの喪失は、企業として非常に危険だろう。買い手が積極的に選ぶ理由を手放した訳だから。

また、この総合化の流れは不可逆で、麻薬のようなものだ。今さら何かに絞ろうとするには、相当な痛みを覚悟しなければならないだろう。

そういった企業が取り得るのは、それこそ総合的なマネジメント力の向上のみではないか?積極的に選ぶ理由のない商品を選んでもらうのは、マーケティング力や調達力を中心とする、総合マネジメント戦略しかないように思える。

そのマネジメント力においても、既に優位性がないとすれば、、、いずれの道も無血では開かれないのだろう。

2010年5月21日金曜日

大阪、京都そしてKozchi

先日、大阪に行った。と言っても、帰省しただけだが。

久しぶりに梅田周辺を歩くことができ、街の変貌にビックリした。すっかり私の知ってる大阪ではなくなっていたのだ。主に西梅田界隈を歩くことになったのだが、ここは再開発が進み、まるで東京のような一角だった。土曜日だったが人はまばらで、やや寂しい感じがした。

でも、一番驚いたのは、地下街名物だった阪神の地方名産品コーナーが、おおよそ1/3程度に縮小していたことかな。

御堂筋線梅田駅を降りて、阪神百貨店の横を抜け、西梅田駅に向かう通路の両脇は、かつては各地方自治体が軒を連ねる特産品コーナーだった。お土産を買い忘れたサラリーマンや、なんらかのアリバイ作りが必要な人に愛されてたと聞いていた。一区画が幅3.5m、奥行0.5mの狭隘すぎる店舗だが、多くの地方自治体が、特産品やお土産を並べていた。

それが、いつ頃からか撤退が相次ぎ、その狭隘すぎる店舗条件や、恐らく地方自治体に絞った営業展開から、新たな入居者も得られず、かつての賑わいを失っていったのだろう。まあ、特産品はネットで買えるし、お土産文化もかつてほどではないので、廃れるのも理解できる昭和の名所だろう。

例えば、ネットショップとのコラボ企画を重点的にやるとか、ショーケースとしてさらに小分けにするとか、今なら、という利用方法もありそうだが、通路との兼ね合いもあるので、難しいのかな?

次の日は、京都に行ってみた。
錦市場がtwitterをやってるとの事なので、行けば感じるものがあるかもと思って足を向けた。もちろんKozchiにとってどうか、という視点だ。

かつて、親戚が京都寺町三条で文房具店を営んでいたので、非常に懐かしかった。

四条河原町から祇園方面に歩き、名物と言われるネギうどんを食べた。味はともかく、麺が柔らかすぎて、あまり好みのうどんではなかった。

その後は戻って、寺町京極から北に向かい、寺町に入って、懐かしいお店を見学し、御池近くの本能寺まで行って折り返し、三条で東に向かい鴨川で折り返し、新京極を下り、錦市場を通って四条烏丸へ。そして帰路についた。

京都は、密度濃く、そして広くお店が集まる一大集積地だ。それゆえ、お目当てのお店が埋もれがちだとも言える。何でもあるが、見つけにくい。小さなお店が多い。有名なお店ほど宣伝してないし、路地裏にひっそりと存在するお店も多い。件のうどん屋さんも、そんな感じ。

この街は、お店がつながる意味もメリットも大きそう、と感じた。Kozchiで全てをつないでみると、新しい街の形が見えそうな気がする。

Connecting the Shops.
http://www.kozchi.jp/

2010年5月19日水曜日

Connecting the Shops.

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチがある。2005年のスタンフォード大学での卒業記念講演だ。「Stay Hungry, Stay Foolish.」で終わる、非常に印象的なスピーチで、何かが心に刻まれた人も多いのではないか、と思う。

特に、現代日本の閉塞感打破には「Stay Hungry, Stay Foolish.」の心意気が強く求められるだろう。

スピーチは大きく4つのパートに分かれる。最後の「Stay Hungry, Stay Foolish.」も大好きで、聞くたびに震えるのだが、しみじみと好きなのは、最初のパート「Connecting the Dots.」だ。

これは、幼少期から創業に至るまでのストーリーなのだが、財政的な問題で大学を中退したジョブズは、興味のあったカリグラフィー(装飾文字)の授業にこっそり忍び込んでいたと言う。その美しい文字への拘りがMacintoshをしてDTPやデザイン領域におけるデファクトに導いたと言う。

カリグラフィーとMacは最初から結びついていた訳ではなく、後から考えると、そんなリンクが見える、と言うことだ。つまり、今やっている事は決して無駄ではなく、後になってそこて得た知識やセンスは活かされることがある、と言う事。

今という極めて限られた期間における行動や思考は、広い自分空間にばら撒かれた点(dot)であり、いずれそれらをつなぐ(connect)事ができ、その時になって見えてくる絵があるので、どんな事象でも興味をもって掘り下げ、dotを増やして行く事の大切さを伝えてくれていた。

ジョブズのdotをつないだらappleができたように、世の中のshopをつないでみたらどんな未来ができるんだろう、と言うのがKozchiのコンセプト「Connecting the Shops」に込められている。

お店は、今までただ存在するだけで、つながれるべきdotである、との認識もなかった。地域でつないだ商店街は、いわば狭い領域内で理解が深まった状態(ジョブズの体験で言うと、カリグラフィーについて一定の知識が得られた状態)に等しいと思うが、それですら弱体化している。

そして、お店がつながり合えるサービスはKozchi以外に存在しない。

もっともっとつながり合う事は、カリグラフィーと言う知識がMacというプロダクトに、そしてiPod、iPhone、iPadといったライフスタイルに進化していったような、世界を変える大変化を創り出す可能性を秘めている。

Connecting the Shops.
お店をつないで、世界を変えよう。

2010年5月17日月曜日

iPhoneで便利、ではダメ

ネット環境の進化で、世の中が急速に変化してきている。ほんの1〜2年前とは使えるサービスの量、種類が大きく変わっているのに、時々驚くことがある。iPhoneを使っているとますますそうで、日々アプリやサービスがリリースされ、僕たちに新しい視点を提供してくれる。

グローバルサービスの足がかりとして、iPhoneのプラットホームは非常に魅力的だが、それだけで良い訳でもない。特に、わが国の場合は、iPhoneユーザーのネットサービス利用ユーザーに占める割合は微々たるもので、iPhoneだけで使えることは、それだけターゲットを極端に狭める事につながる。また、iPhoneを喜んで使う人は、いわゆるイノベーターからアーリーアダプターに属する人だろうから、そこで受け入れられたところで、マスに到達する保証はない。実際にはほとんど誰も到達できてないように感じる。少し前のRemember the milkや最近のTwitterにしても。

社会を本当の意味で変えるのは、iPhoneユーザーに象徴される属性の人々ではなく、いわゆるガラケーを使い続けている大多数の人たちだろうと思う。

もっともシンプルな携帯電話が持つ、もっともベーシックな機能は、通話とメールだ。つまり、携帯電話を使ったサービスを考えるなら、面白さだけじゃなくてインフラ的普及を目指すなら、使える機能は通話かメールしかない。

大きな反響を呼んでいるiPadの発売が間近に迫った今、ネットサービスを開発・展開しようと目論む人にとって見れば、iPhoneを無視するのは難しいのかも知れない。でも、あえてiPhone対応に大きな力を注がない事が、今後の継続的発展につながる気がしてならない。

「iPhoneで使ってもらえれば便利、楽しい」では人々はついていけないと、ヘビーiPhoneユーザーの自分は考えている。

個人的にはiPadより次期iPhoneに期待している。ソフトバンクの契約更新月を1ヶ月間から2ヶ月間に延長したのも、次期iPhoneを見越した施策だろう。発売は8月かな?自分のiPhoneもそろそろ2年を迎える。。。

2010年5月14日金曜日

全てはタイミングでしかない

AppleとFacebookが提携するという噂に過剰反応しているエントリーがあった。

曰く、今までの携帯キャリアは電話帳を軽視しすぎている、と。電話帳がソーシャルにつながれば、そのつながりの強弱や関係性が明らかになってくる、と。だから、この提携は今年一番の、いや今世紀一番のニュースなんだ、と。

個人的には、両者の提携というかiPhone OSにFacebookが入り込む事はないと思うが、この記事を読んで、やはりものごとの成否を握るのはタイミングでしかないと、確信した。

たぶん、ソーシャルな電話帳なんてアイデアは、昔から腐るほどあっただろうし、そこから生まれる便益なんてのも語り尽くされているように思える。

しかし、ソーシャルである以上、そこへの参加者が多くないと意味がない。正直な所、Facebookの中だけで全てのコンタクトを網羅できる人は極めて少ないだろうし、日本においてはなおさらだろう。

みんながiPhoneとFacebookを使えば、理想的なソーシャルウェブの世界に近づくかも知れないが、現実としてありえない。

でも、グローバルで数千万台に及ぶiPhoneネットワークと、登録人数が4億人とも言われるFacebookコミュニティが現実としてあればこその、ある種リアリティを持つことができた噂だろう。

同じことを言っても、時代的な必然性や前提となる環境条件が異なると、その現実味はがぜん変わってくる。

そう考えると、その昔に夢だとして片付けたアイデアを掘り起こし、今と近未来を正しく評価することで、非常に実現性が高く意味のあるビジネスへと昇華できるのだろう。

2010年5月12日水曜日

認知バイアス

人間の認知能力には、状況に応じて様々な偏った見方(バイアス)が加わる。例えば、同じ事を言っていても、信頼している人から聞くのと、アカの他人から聞くのとでは、その確からしさは全く違う。

そのようなバイアスの一つに「近視眼バイアス」と言うのがあり、個人的にはかなり重要と考えている。

近視眼バイアスとは、近くのモノが過大に、遠くのモノは過小に評価されるという傾向だが、これは様々な形で応用される。近い/遠いと言うのは、空間軸でもあり、時間軸でもある。

例えば、将来の損失は小さめに、直近の利益は大きめに評価される。よくあるのが、投信など金融商品における、分配金と為替リスクのようなものである。分配金は大きく、為替リスクは小さく捉えられる傾向がある。

ここで、もう一つの大きなバイアスに気づく。「具体バイアス」である。つまり、具体的な事象は大きめに、抽象的な事象は小さめに伝わる、ということである。これは、具体的なモノの方がその影響が見えやすいので当然だろう。分配金は具体的だが、為替リスクはあくまでもリスクに過ぎず、抽象的だ。

以上をまとめると、近くで具体的なメリットと、遠くて抽象的なリスクの組み合わせを、しっかり説明できる商品やサービスが、ヒットの可能性を秘めていると言えるだろう。

2010年5月10日月曜日

ゼネコンの性

勤務先が変わってから、社内の打合せが多くなった。しかも色んな部署を跨いだ、部長〜本部長クラスが10人ほども集まる会議だ。

大企業らしく、会議のための会議で何一つ決まらない。それぞれが部署を背負ってきてるので、余計なリスク(というか、単なる仕事)は負わないように、細心の注意を払いつつ進行する。

まあ、そういう部署にいる訳だから、その不毛さを嘆くことはない。極めてバカバカしくはあるが、得られる情報はさすがにすごい。勉強にはなる。

こうやって比較的社内ヒエラルキの高い人たちの話を聞いてると、当社の若者が抱く不満というか憧れと同じことを感じている事が分かる。つまり、それが哀しいゼネコンの性という訳だ。

どんな打合せでも、議論が終盤にさしかかると、当社は箱を作る以外にどうやって儲けたらいいか分からない、と異口同音に言う。

事業に足を伸ばさなきゃいけないと思うんだが、と部長が無邪気に発言したりする。でも、当社のDNAとして事業には踏み出せないよな、と本部長が他人事のように言う。官庁や電力、デベなど、カネを出す側に回れるものなら回りたいね、と副本部長が何も知らない若者のように呟く。

骨の髄まで、請負気質が染み付いた人たちは、その解決策への一歩を踏み出す事なく、ただ憧れる。ある程度大きな裁量権のある、これらの人が腹を決めてくれないと、話は前に進まないんだが。結局、新入社員の居酒屋でのグチ話のようになる。

恐らく、どこまで行っても、いつまで経っても、この青臭いジレンマからは逃れられないんだろう。

みんな、このジレンマが解消しない理由を潜在的には理解しているんだと思う。

それは、一つには請負業はリスクが少なく、利益率は低くとも着実に売上が立つ、ということだ。もう一つは、その売上の額が極端に大きいということだろう。この二つは、麻薬のように作用し、会社からイノベーティブな考え方やリスクを負ったビジネスへの取組意欲を消してしまう。

つまり、普段リスクの少ないビジネスに身を浸しているのでリスクを過大評価してしまうのだ。ちょっとのリスクでも「危ない危ない」となる。

また、往々にしてリスクのある新規ビジネス(特にサービス領域)は、利益率は高いが売上単価は安く、初期には万の単位の売上しか上げられない場合が多い。もちろん利用者が増え、数量が出ることで莫大な売上に結びつく可能性はあるが、初期は少なくともそうだ。ゼネコンは億の単位の仕事である。初期状態を比べたら、どちらが絶対額として売上/利益を上げるかは自明である。

これによって、将来性のある利益率が高いビジネスは、ゴミ同然の扱いを受ける。「俺とお前はどっちが稼いでで、会社に貢献しているんだ?」と言われれば、ぐうの音もでない。

そうして、強い憧れを持ちながらも、請負業として箱作りに専念することになる。市場はシュリンクし、利益率は下がり、将来の見通しは限りなく暗いにも関わらず、一歩が踏み出せない。そしてジレンマは続く。

高い見識を持ち、旧勢力をものともしない、ゴルバチョフのようなリーダーが出てきて欲しい。自分でやればと言われるかも知れないが、そのパスにいない自分は、リーダーの出現を望むしかない。ここにいる限りは。

2010年5月7日金曜日

ドラッカー語録

今、ドラッカーの「ネクスト・ソサエティ」を読みなおしている。諸般の事情で読了には至ってないが、10年ほども前に著されたものとは思えないほど、現在の状況を書き記している。社会の変化をつぶさに観察するだけで、偉大な予知能力を持つ事ができる事がわかる。

ネクスト・ソサエティとは別に、ドラッカーの卓見を書き連ねたものが手元にあったので、この機会にアップしておく。

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マネジメントには、自らの組織をして社会に貢献させる上で3つの役割がある。
第一に自らの組織に特有の使命を果たすことである。第二に、仕事を通じて働く人たちを生かすことである。第三に、自らが社会に与える影響を処理するとともに、社会に存在する問題の解決に貢献することである

マネジメントには、基本とすべきもの、原則とすべきものがある。しかし、それらの基本と原則は、それぞれの企業、政府機関、NPOの置かれた国、文化、状況に応じて適用していかなければならない。それは、いかに余儀なく見えようと、いかに風潮になっていようとも、基本と原則に反するものは、例外なく、時を経ず破綻する。基本と原則は、状況に応じて適用すべきものではあっても、断じて破棄してはならないものである。

未来を築くためにまず初めになすべきことは、明日何をなすかを決めることではなく、明日をつくるために今日何をなすかを決めることである。

【イノベーションの種】
1.予期せぬ成功と失敗を利用すること
2.ギャップを探すこと
3.ニーズを見つけること
4.産業構造の変化を知ること
5.人口構造の変化に着目すること
6.認識の変化をとらえるとこ
7.新しい知識を利用すること

【イノベーションの原理】
1.7つのイノベーションの種を探し、見つけ、分析すること
2.外に出て、見て、聞くこと(客や利用者を見て、彼らの期待、価値観、ニーズを、知覚によって知ること)
3.焦点を絞ること
4.小さくスタートすること
5.最初から一流、トップを狙うこと

【してはならないこと】
1.凝り過ぎること
2.多角化し過ぎること
3.イノベーションを未来のためだけに行なおうとすること

【ポストモダンの作法】
1.見る、そして聞く
意思決定において、事実ではなく、意見から始めることが重要
2.わかったものを使う
すでに起こった未来。予期せぬ成功。
3.基本と原則を使う
基本と原則を補助線とする。基本を忘れた経営は必ずや失敗する。
4.欠けたものを探す
わからないもの、未知なるものにイノベーションの種がある。
5.自らを陳腐化させる
あらゆるものが陳腐化するがゆえに先手を打って、主導権を握る。
6.仕掛けをつくる
成功を追及していく。うまくいったことの検討に時間を使う。
7.モダンの手法を使う
限界を意識し、使えるものは使う。分解して組み立て直すなど。

2010年5月5日水曜日

リスクの仕分け

リスクには「取れる/取れない」「取る/取らない」の2軸の分類方法がある。前者は可能性による分類であり、後者は意思決定によるそれである。

可能性のないものに対して意思決定することはナンセンスなので、当然ながら、可能性判定が先行させる必要がある。しかし、多くの人は可能性評価を無視して、意思決定のみを行う傾向にある。つまり、できるできないは置いておいて、やるかやらないか、を決めたがる。

そこには「できないと思ったら、何事も実現しない」だとか「成功するまでやり抜けば、できない事はない」といった、ある種の正論を含んだ精神論がある。日本人には古くからあるメンタリティの一つだろう。

第二次大戦へと突き進んだのも、近衛の理論ではなく東條の精神だった。自論を無理矢理通し、その後は決定論的頑なさを拠り所に、精神論を振りかざす。

そこに待ち受けるのは、玉砕だけだ。
ここにも精神論の脆弱さがある。玉砕途上の実行者は、未来への礎としての意識が強く、その道が正しい方向を向いているかには頓着しない傾向がある。つまり、玉砕が目的化して、玉砕に賛同しない異端者は排除される。明治維新の志士たちもその一例だろう。

開国してから常に、欧米の理論にやられてきたにも関わらず、相変わらず、精神論と決定論で物事を進めようとしている。それは国家だけでなく、企業にも言える。そろそろ目をさまし、理論を意思決定の基礎に据えるべきだろう。

ひとつの注意点は、可能性の幅をなるべく大きく見積もることかもしれない。可能性を堅く見積もると、未来が開けてこないだろう。

できるはずだ、というポイントを冷静にかつ、楽観的に見極めなければいけない。ここに、理論と精神のせめぎあいがある。

2010年5月3日月曜日

流され続ける日本

半年ほど前に書いたメモが、今なお正鵠を射ているような気がする。うーむ。。。先が読めない。。

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明治維新以降、主導権を握ろうとしておかしな道に入り込み、結局、主導権を握れずにいる日本がいる。

特に高度成長期は経済発展著しく、政治的成長ができなかった。いや、する必要がなかったのかもしれない。主導権を握ろうとする意思を見せる事もなかった。平和や環境への取組みは、明らかにチャンスだったにもかかわらず、ロクな政治的活動はなかったのではないか?

政治は結局、アメリカに主導権を握られ、アメリカは主導権を握ったまま崩壊へと進んでいる気がする。

経済は、深く考える必要がなく、人件費の安さをトリガーとして主導権を握ることができた。が、他国との差が縮んでも、握ることに頓着しなかったため握り方もよく分からず、議論をしない国民性故握り続けることができなくなったのではないか?

結局、政治三流、経済三流ということか。
一人当たりGDPはすでにトップ集団からは滑り落ち、欧米の後塵を拝している。知識社会では500万人規模の都市が適しており、日本は経済圏として過大であることも指摘されている。地方分権が最良の打ち手のように思えるが、大きな変化を起こすほどには、表面的には逼迫していない。

本当の変化は3〜5年後かな?