2010年2月26日金曜日

さらば、東京三菱UFJ銀行

すっかり、キライになっちゃったよ。

本当に些細な事なんだけど、新規口座を作らせてくれなかった。理由は、既に口座をいっぱい持っているから。最近は、犯罪防止の観点から、多くても二つしか作らせないそうだ。

こっちだって口座を新規開設したい理由は、それなりにちゃんとある。杓子定規にノーと言われて良い気分な訳がない。

何と言っても、態度が良くない。自分が逆の立場なら、「大変申し訳ありませんが、、、」とか、なるべく丁寧な言葉を使って、何とかお客さまに気持ち良く理解してもらえるような努力をするだろう。

対応した行員は、「あー、新規口座は作れませんね」という態度だった。何度言ってもダメで、なんか、口座をいっぱい持ってるこっちが悪い、みたいな言い方をされた。

あげくに、振り込め詐欺がありますからと、人を犯罪者扱いまでして、「口座を作りたいんだったら、他の銀行に行ってくれ」と言い出した。

おいおい、こっちは給与振込から住宅ローンまで、お宅に預けてるんだぜ。その二つは、銀行が何かと特別扱いするプライオリティの高い金融取引商品だろ?サラリーマン顧客の中で、どちらかと言えばプレミアム顧客だよ、東京三菱にしてみれば。それを、言うに事欠いて、振込め詐欺師扱いとは、恐れ入ったよ。

なるべく早く給与口座を変更して、住宅ローンも他所に借り換えてやる。で、だんだん取引をシュリンクさせて、口座だけ残して、最小限かつ煩雑なお金のやり取りだけをする、雑口座として使ってやる。

業種は違うが、ファミリーマートにも同じ感情を抱いている。勘違い企業はなくなってしまった方が社会のためだろう。

2010年2月24日水曜日

繋がる安心 -Kozchi-

Kozchiが提供する心理状態は、不安に対する安心ではなく、繋がる事に対する安心、とでも言えば良いだろうか。

今まで、商店街といえどもお店同士が明示的に繋がる事はなかった。

かつての日本は心の距離が短く、明示的に繋がる必要はなかったのかもしれない。会社の中でも、飲み会や旅行、運動会など、昔は人々の心が否応なく、ウェットな関係の中で自然に繋がっていたと思う。

翻って今は、全ての関係がドライになり、繋がりは極端に希薄になっている。

それに気付かないフリをして、自然に繋がっていた今までのウェット関係からの脱却を怠り、繋がりを明示化してこなかったことが、現在の閉塞感を助長している原因の一つだと思う。

ドライな人間関係の先導者たる欧米では、パーティや交流会など、意図的に繋がりを明示化する集まりが多く開かれる。また、facebookのようなリアル世界での人間関係を補完するようなサービスが人気を集める。

人間関係が極端にドライ化したのは1990年代後半からだと思うが、そろそろドライ化した人間関係に合わせた仕組みとマインドセットを、我々も持つべきだろう。

そのためにも今後は、明示的に繋がる事を目的としたサービスが必要不可欠だと考えられる。

2010年2月22日月曜日

Kozchiって?

Kozchiは現在、提供を進めているサービスです。

リアルとネットを繋ぐ、シンプルで今までに無いサービスとなっており、お店はもちろん商店街としてご利用いただく事で、大きなメリットを得ることができるものです。

従来の情報検索サービス(ぐるなびなど)は、お店(特に予約が可能な、一人当たり単価3000円以上のお店)を中心に提供されてきています。そのメリットは豊富な情報で、欠点はお客さま単価が低い喫茶店や物販店では使えない事です。Kozchiは、仕組みを単純化する事で情報量を適正化し、提供価格を下げる事であらゆるお店でお使いいただけるサービスとして提供しています。

お店が売上を高めるためには、それぞれが集客施策を立てることも大事ですが、お店がつながり互いの集客力を補完しあいながら、街として魅力を高める事がもっと大事だと考えています。

Kozchiはお店を繋ぐ事のできる唯一のサービスです。ぜひ一度ご検討ください。



2010年2月19日金曜日

SECOMメタファー

セコムのステッカーは、安心の証。何かが起こればすぐに駆けつけてくれる、心強いガードマンの代役。

セコムの採用は、不審者に侵入される不安への対抗策である。つまりセキュリティビジネスは、万に一つの不安要素をファイナンスするためにあると言える。

セコムのビジネスで、大きな役割を果たしているのが、ステッカーである。

店頭や玄関に貼ってある、たった一枚のステッカーが、不審者に逡巡させる、あるいは思いとどまらせる効果を持っている。

本来、警備員を常駐または巡回させることによって得られる効用を、各種システムとステッカーによって実現し、格段に安いコストで提供している。

Kozchiも、ステッカーをビジネスの中心に置いている。その意味でセコムのビジネスを参考にして考えてみようと思う。

2010年2月17日水曜日

キレイゴトを言い続ける

世の中が汚いことは分かってる。当たり前だから、うまく立ち回れというのも分かる。

でも、後の世代の思考のベースラインを直前の世代が決めるとしたら、子供たちのために理想論から始めなければならない。

キレイゴトを吐き続ける。

それが唯一絶対神を持たない我々日本人が代々背負ってきた責務だと思う。本当にとことん効率的じゃない国だ、とつくづく感じる。

2010年2月15日月曜日

何様?お互い様

世の中、お互い様と言うべきことは、かなりある。皆が関わり合いながら生きているとすれば、もしかしたら、ほぼ全ての事柄がお互い様なのかも知れない。

そんな中でも、優劣?凸凹?がある。お互い様と言って、一歩下がる側と下がってもらう側だ。

自転者が歩道をチリンチリンと鳴らしながら走っていることがある。お互い様の関係の中で、歩行者と自転者はどちらがより遠慮する側だろう?何も考えず、自分の目の前にあるオブジェクトを全て障害と捉えると、自転者にとっては歩行者が、歩行者にとっては自転者が遠慮すべきで、俺の道を邪魔するなということになる。

でも、そうではない。

想像力を働かせるべきだろう、我の道があるように、彼の道もあるのだ。それを思いやる事がお互い様と言うものだろう。

2010年2月12日金曜日

パーソナルブランディング

本田直之さんの「アフォリズム」という本を読んでいる。この本は、世にある金言をまとめたもので、いわば「他人の褌」である。

他人の褌が悪い訳では決してなく、むしろ素晴らしいコンセプトだと思っている。本を書くとは、既存の意見を整理・編集する事が非常に大事で、その編集結果として新しい解釈が生まれる事もある。そういった物事の整理・編集・解釈が知りたくて、本を読んでいる自分にとって、本の種類に貴賎はない。マンガ、小説、ビジネス本、哲学書、何でも大好き。

その意味で言うと、この本は非常にスッキリと割り切った単純明快な本と言え、本田直之さんの考え方を端的に表したものとも言える。まだ読み始めたばかりなのだが、非常に気になるキーワードがある。

「パーソナルブランディング」である。

人はレッテルを貼ることで、人を分類している。レッテルの貼り方は無限にあるが、その行為が整理・分類スピードを高め、ザックリとした認知レベルを上げている。メタ認知である。

パーソナルブランディングというのは、レッテル貼りの逆で、いわばレッテルの貼り方を指定するために行う一つの戦略だ。

様々なテーマを取り扱う流浪の研究者にとっては悩ましい問題で、いつまでもブランドが確立しないため、段々と立ち位置が苦しくなる。また、企業の研究者である以上は、その方針にピッタリと収まるように、ブランドを上手く微調整していく必要がある。

私の場合、最初に座った椅子は、ブランド化する前に崩壊。その後、様々な椅子に座るが、コレというものが見つからず、辿り着いた椅子も、領域ごと消滅。と、パーソナルブランディングという観点では、完全に失敗している。閉鎖的な大企業では、ブランドがないと思うようには動けないので、中々難しい立ち位置にある。

これからブランドを、どこに、どのように作っていくかは、大きな課題だと感じている。常に気をつけて、パーソナルブランドが強化される方向に向けた、行動、言動を心がけようと感じた。今年、大切にしたいキーワードの一つである。

2010年2月10日水曜日

人には運命がある

昨日、「竜馬がゆく」を読了した。全8巻を約1ヶ月で読んだことになる。意外に時間が掛かった。と言うのも、余りの時代回天の劇的さと、現代との相似感に、何度も今ある状況に置き換えながら読むことになってしまったからだ。

しかし、この幕末維新の物語は、竜馬のみならず、その登場人物全てに必然性があるように感じられる。もちろん、小説なので、必然性がない部分は省いていると言うことではあるが。

竜馬が、差別意識の強い土佐に生まれなければ、土佐でも上士に生まれていれば、坂本家が土佐藩城下有数の金持ちでなければ、幼い時から鋭敏であれば、多芸多彩な乙女が姉でなければ、千葉道場に行ってなければ、塾頭にまでなってなければ、勝海舟を暗殺しに行ってなければ、明治維新はない。

時代の分岐点は無数にある。

その他のプレーヤーも皆そうで、西郷が二度の流刑にあってなければ、受刑時に亡くなっていれば、大久保と幼馴染でなければ、小松、桂、高杉がいなければ、さらに言えば吉田松陰が黒船に乗り込もうとしなければ、維新回天はなかったかも知れない。

登場人物は、場所、時間、才能を選ばずにランダムに生まれ、死んでいく。人は人に影響を与え、それぞれに、その場において合理的な意思決定をする。分岐点ごとに未来が選ばれ、歴史が作られていく。

誰一人が欠けても、時代は動かない。
全ては奇跡のタイミングと言ってよい。

と言うことを考えると、人には運命がある、としか思えなくなる。大いなる意思の力があり、人は誰かが作ったロールプレイングゲームの中に生きている。決められたタイミングで、決められた境遇に生まれ、決められた役割を果たし、決められた終わり方で人生の幕を閉じる。

全てが決まっていると言っても、何もしなくて良い、と言うことではもちろんない。自分が良いと思える方向に向かって全力で邁進する中に、運命があると言うことだろう。

竜馬が「世に生を得るは事を成すにあり」と言ったのは、正にそういった行動を伴う運命論的な感覚があったのだと思う。

さて、自分にはどんな運命が待ち受けているのか?日々考えを尽くし、ベストと思える意思決定をし、結果はただ淡々と受け容れるしかないと思っている。

2010年2月8日月曜日

経営のスピード化

既存の経営をスピード化するのは、かなり難易度が高い。ほとんど無理じゃないか、と思える。なぜなら、スピードが衰えた経営陣にスピードを上げる方策を決めさせるのだから、その発想自体に矛盾がある。

事業部単位では可能なんだろうか?
その成り立ちからして、本体からの独立性を期待される事業部は、本体からの影響を全く受けないか、受け流せるようであれば、可能性がありそうだ。

ただし、ほとんど中興の祖として、創業者並のエネルギーが必要だろう。例えば、ソニーの久夛良木さんのような人じゃないとムリだと思える。ただ、久夛良木さんをしても事業部で花を咲かせられたのではなく、カーブアウトしたベンチャー企業SCEで一時代を作った訳だが。

事業にスピードが求められ、日本を除く各国のスピード感が加速する現在において、意思決定のスピードを上げることは急務だが、多くの日本企業はゆっくりと、ただゆっくりと体を揺すっている。

権限移譲が徹底されていないので、多くのハンコが必要で、社内の官僚組織は自らのレゾンデートルを掛けて、稟議の複雑化を図る。ホリエモンが言っている、民主主義の限界が、そこにはあるように思える。

曰く「民主主義というものは戦争や外圧などで強制リセットされないかぎり、おりがたまって、それを自ら除去できないシステムなのではないか、と。上の世代の既得権益者は新規参入者を排除して、社会構造を固定化する。その結果、社会の活力が落ちて、どこかで崩壊する。(週刊東洋経済 2/6号)」

事業に、経営にスピードを求めるならば、スピードを使命とした企業を立ち上げる事が、唯一の解になるような気がしてならない。

2010年2月5日金曜日

抽象と具体

自分の身の回りには、具体度が高い事象以外には理解を示さない人が多い。自分は、抽象的な言い回しや説明の方が、理解が深まり、発想が広がるので好みだが、どうやら多くの人はそうではないらしい。

理想としては、抽象でアグリーしてもらって、具体は任せてもらえれば有難いのだが、そうはいかないようだ。相談の段階から抽象を排し、具体を詰め、隙なく構築する必要があるんだなぁ。。。

今更ながら、そんな事を感じました。

2010年2月3日水曜日

どんな絵柄が浮かび上がってるのか?

「竜馬がゆく」を読み進めて、現在7冊目(全8巻)。薩長連合は成り、幕長戦争は終わり、亀山社中は海援隊と名を変えた。物語の終焉が近づいている。

「人は反物における縦糸の僅か一本に過ぎない」そんな事を感じながら、読んでいる。

多くの縦糸を並べて、それを、万人に平等に流れる時間と言う横糸で紡いでいくと、一つの反物ができあがる。

個人に関する記録というのは、今も昔も、そして洋の東西を問わず、残りにくいものだろう。きっと、僅かな痕跡としての「点」しか見つけられないと思う。この当時、西国を中心に駆け回り、色んな人と交流し、書簡を取り交わした竜馬ですら、さほど状況は変わらないのではないか。

それらの断片的な点をつないで、絡まったまゆ玉から糸を紡ぎ出し、それを縦糸にして並べて、時間の糸で編んで行くと、不思議な絵柄が浮かび上がる。それをどのような服に仕立てるのかは、作者の技量だが、反物としては、昔も今も変わらずに編まれ続けているハズ。

さて、今の時代を未来の人が見たら、どんな絵柄の反物になっているのだろう?誰かに服を作ってもらえるような上質な生地になっていることを期待するが、果たして。

2010年2月1日月曜日

AVATER

話題沸騰中の「アバター」を観た。折角なので3Dで見ようと思い、どうせならという事で、Dolby3Dで上映している映画館を探して、新宿まで出かけた。ちなみに、3Dの映写方式は3種類あって、中でもDolby3Dが最も自然に見えるらしい。

上映30分くらい前にチケット売り場に行ったら、すでに売り切れ寸前で、最前列か二列目しか空いてないとのこと。並び始めた時に残り席数の表示を見ると、到底回ってきそうにないと思ってたが、条件の悪さに諦めた人が多かったのか、奇跡的に入れた。二列目のかなり端の場所。

入る時に渡された3Dメガネを持って、席についた。少し掛けてみるが、メガネの上からでもいい感じ。かけると視界が少し暗くなる。映画館だからこそ許される仕様のような気がする。また、フレームが太いので視野が限定されて、隣の人が全く気にならず、集中して観れるという副次効果は大きかった。メガネの上からかけると、圧迫されて鼻が痛かったのは、唯一の難点と言えるかもしれない。

3時間もある長編映画だが、全く飽きることなく観られたのは、3Dよりも作品の力によるものだろう。3Dの物珍しさも、最初の数分で慣れてしまった。戦闘シーンのように、何かが飛んでくるような場面以外で、2Dよりもインパクトがあるだろうと思えるシーンは多くなかった。むしろ、惑星パンドラの美しさを観るなら、2Dがお勧めかもしれない。

ストーリーは、ダンス・ウィズ・ウルブスやラスト・サムライと思っていたら間違いはない。この展開はワンパターンだが、無理がなく面白い。伏線も分かりやすくしっかり作り込まれていて、全く不安感はない。さすが、ジェームス・キャメロン。新しい表現方法にチャレンジするために、安定感のある、奇を衒わないストーリーを選んだんだろう。

物質的な豊かさを追い求める人類と、精神的な繋がりを大切にするナヴィとの価値観の違いが主題。目に見える価値しか理解しようとしない人類と、目に見えない価値に重きを置くナヴィ、とも言える。最初から最後まで、見える、見えないのやりとりは続く。

生物と機械
主観と客観
抽象と具体

世にある争いのほとんどは、この映画に描かれたメタファーの中にあるような気がする。一方に見えるものが他方には見えない。一方の利は他方の害になり、利が大きいほど、害も大きくなる。

ある意味でポケモンや宮崎アニメのような世界観が、こんなにも幼稚にならずに、一流のエンターテイメントとして成立するためには、ストーリーもさることながら、細部にまで拘ったCGに依るところは大きいだろう。

CGは素直にすごい。僕たちは何を信じればいいのか、何を疑えばいいのか分からなくなる。細部にこだわる箏で、世界観に説得力が増していく。そこまでの作り込みが素晴らしい。

アニメでもなく、実写でもなく、CGだけでもなく、3Dだけでもない。映画が新しい表現能力を手に入れた画期的な作品であることは間違いないだろう。観るべし。