昨日、「竜馬がゆく」を読了した。全8巻を約1ヶ月で読んだことになる。意外に時間が掛かった。と言うのも、余りの時代回天の劇的さと、現代との相似感に、何度も今ある状況に置き換えながら読むことになってしまったからだ。
しかし、この幕末維新の物語は、竜馬のみならず、その登場人物全てに必然性があるように感じられる。もちろん、小説なので、必然性がない部分は省いていると言うことではあるが。
竜馬が、差別意識の強い土佐に生まれなければ、土佐でも上士に生まれていれば、坂本家が土佐藩城下有数の金持ちでなければ、幼い時から鋭敏であれば、多芸多彩な乙女が姉でなければ、千葉道場に行ってなければ、塾頭にまでなってなければ、勝海舟を暗殺しに行ってなければ、明治維新はない。
時代の分岐点は無数にある。
その他のプレーヤーも皆そうで、西郷が二度の流刑にあってなければ、受刑時に亡くなっていれば、大久保と幼馴染でなければ、小松、桂、高杉がいなければ、さらに言えば吉田松陰が黒船に乗り込もうとしなければ、維新回天はなかったかも知れない。
登場人物は、場所、時間、才能を選ばずにランダムに生まれ、死んでいく。人は人に影響を与え、それぞれに、その場において合理的な意思決定をする。分岐点ごとに未来が選ばれ、歴史が作られていく。
誰一人が欠けても、時代は動かない。
全ては奇跡のタイミングと言ってよい。
と言うことを考えると、人には運命がある、としか思えなくなる。大いなる意思の力があり、人は誰かが作ったロールプレイングゲームの中に生きている。決められたタイミングで、決められた境遇に生まれ、決められた役割を果たし、決められた終わり方で人生の幕を閉じる。
全てが決まっていると言っても、何もしなくて良い、と言うことではもちろんない。自分が良いと思える方向に向かって全力で邁進する中に、運命があると言うことだろう。
竜馬が「世に生を得るは事を成すにあり」と言ったのは、正にそういった行動を伴う運命論的な感覚があったのだと思う。
さて、自分にはどんな運命が待ち受けているのか?日々考えを尽くし、ベストと思える意思決定をし、結果はただ淡々と受け容れるしかないと思っている。
2010年2月10日水曜日
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