2011年9月21日水曜日

陽はまた昇る

日本ビクターのVHS開発にまつわる物語。2002年の映画。
かつてのNHK名番組プロジェクトXで最も反響が大きかったストーリーを映画化したもので、細かいところはフィクションだが、大きな流れは実話だろう。

映像一筋で来た男が、1970年頃にVTR事業部を任される。当時は業務用VTRは存在しており、日本ビクターは参入を果たしていたが、故障が多く、事業として成立していなかった。また、ビクター自体が不採算事業を抱え込んでおけるような経営状態でもなく、会社全体にリストラの嵐が吹き荒れ、VTR事業部への風当たりは日増しに強くなっていった。そのような中での事業部長就任は周りからは左遷と思われていた。

事業環境を好転させる手がかりを得るために、業務用VTRの販売促進を進め、何とか生き残ろうともがくが、退却しながら戦うようなスタンスで事業が大きくなるわけもない。ある時、家庭用VTRのニーズに気づき、本社に内緒で新製品開発に乗り出す。本社をごまかし、開発資金を捻出する。業務用VTRの営業によって得られた2時間録画という開発要件を見出し、開発を推進する。

もちろん、家庭用VTRのチャンスに気づいていたのはビクターだけではなく、いち早く製品化に成功したのはソニーだった。ベータマックスという規格で販売をスタートするが、技術はソニー一社で囲い込む戦略を取った。一方のビクターは、遅れること数ヶ月、ようやく製品化に漕ぎ着ける。後発となってしまったビクターは、規格を公開し誰でも使えるようにすることで、巻き返しを図る。普及展開にあたっての大きなハードルは二つ。通産省と松下。

通産省は規格の統一を図るために、各社にベータマックスの採用を働きかける。そして、1976年11月1日以降に新規格製品を出すことを禁止し、これがVHSの発売日(1976年10月31日)を決める。そして、VHSの飛躍には松下が不可欠だった。日立や三菱も松下の動きを注視していた。松下を仲間に引き入れるためには松下幸之助を落とすしか無いと考え、深夜、車を飛ばして大阪に向かう。その道中で語られた言葉が印象的だった。

同行した次長が、自分は事業部長が赴任してこられてから考えが大きく変わったと語る。
「今まで山に登ろう、山を見ようと思ったこと、もっと言うと、会社に山があると思ったことはありませんでした」

そして事業部長は、生来自分は弱い人間だから、いつも心に言い聞かせている言葉があると言う。
「易しい戦いに勝つよりも、厳しい戦いに負ける方が強くなれる」

最後はサラリーマン的感動で終わる。。。

非常にベタで、日本の企業人的なウェット感と事なかれ主義的な経営陣や通産官僚に嫌悪しつつも、事業の失敗による閉塞感あふれる職場を、夢の共有と、それを実現する技術者のこだわりと、支える事務方の献身的な努力と、なにより、全員の気持ちを背負ってあらゆる困難に立ち向かっていく靭やかなリーダーシップで大きく変えていく、その人間模様に感銘を受けた。

サラリーマンのみならず、全ての働く人、その周りで支える人は必見。

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