2011年9月30日金曜日

戦艦武蔵、そして、男たちの大和

先日、「三陸海岸大津波」や「関東大震災」を読んで、思い出したように「戦艦武蔵」を読んでみた。吉村昭が描く時代の匂いというのは、本当にリアリティがあって、身震いがする。

「戦艦武蔵」は、最後の戦艦となる武蔵の建造から沈没に至る物語だ。

武蔵が、日本の切り札として計画され不沈艦として神格化されていく、そのプロセスは、当時の人間からすれば疑問を挟む余地のない時代の渦だったのかも知れない。しかし、後付けで歴史を見ると、戦争に勝利するという観点において、決して正しい道では無かったと感じる。

そもそも太平洋戦争は、その端緒を切った真珠湾攻撃において飛行機による攻撃の優位性が、日本によって証明された所から始まった。これを機にアメリカは空母と航空兵力を強化していく一方で、日本は旧来の大砲巨艦主義に邁進し、大和型戦艦にまで辿り着く。

大和型戦艦は、その巨大さにおいて従来最大の長門型に対して1.5倍ほどにもなる。大砲も大きく、装甲も厚い。全てが想像をはるかに超える規模だったが、全てが従来パラダイムの延長線上にあったといえる。

哀しいかな日本は、海戦のパラダイムを変革したにも関わらず、それをうまく展開できなかった。

何か現代に似た匂いを感じないだろうか?

携帯電話も自動車も太陽光発電も、全て同じ轍を踏んでいるような気がしてならない。世界的なパラダイムシフトについて行けない、意思決定能力、判断力の欠如が日本の最大の欠点だろう。

武蔵建造に関わる人々も、また大和の乗組員も、一つの大きな大義に包まれて、疑問を抱く余地を奪われる。正確には、皆が疑問を持ちながらも、疑問を口に出せない空気に飲み込まれる。海軍艦政本部は機密を、長崎造船所は品質を、乗組員は故郷を守るという大義を「不沈艦」という言葉に託して、盲目的に職務を遂行する。今思えばもっと冷静な判断はあるはずだし、するべきだったと思うが、時代の空気がそうはさせないのだろう。

「戦艦武蔵」からも「男たちの大和」からも、そういった時代の空気を感じる事ができる。自分自身がこの時代に生まれなくて良かったと、本当に思う。このような不遇な時代に不本意な人生を送った人々にも、自分たちと同じような平和な時間もあったであろう事を、想像すると切なくなる。

過去を教訓にすることが大切だと思うが、日本はパラダイムシフトに素早く乗り、躊躇無く展開することは教訓としなかったようだ。残念ながら。

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