2012年1月18日水曜日

1月17日

忘れられない日だ。自分にとって、様々な事を考える時の原点になっている気がする。

1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こった。この地震は幾つかの意味で衝撃的だった。まず、生まれ育った関西が被災した事。幸いにして、知り合いも含めて人的被害を受けることはなかったが、財産という意味では大きく毀損した。

自分の実家は、マンションの上層階で多少被災する程度で済んだが、当時付き合っていた妻の実家は、大きく傾いた。夜明け前だった事もあって、ほとんどの人が事態を飲み込めないまま避難する事になった。というのも、自分が暮らした20年ほども、それ以前も、関西は地震を受ける経験をほとんどしたことがなかったからだ。妻の実家は、神戸大学に避難した。

新入社員だった自分は、東京で一報を受けたが、正確な情報は伝わってこず、普通の一日だったように思う。その時代、携帯電話もほとんど普及しておらず、インターネットはおろかパソコンもWindows95以前ということで、一般的ではなかった。久しく大災害を受けていなかった日本は、危機管理体制も整備されておらず、全ては場当たり的に対応していた。当然、情報は新聞もしくはテレビから得るしか無く、非常に曖昧で正確性を欠いていた。誰も大地震が起こったとは思っていなかった。

暫くすると事態がやや明らかになって行き、関西方面に連絡を取るも繋がらず、という状態が続いた。自分の実家は割りとすぐに無事が確認できたが、震源地に近く、避難所に居を移した彼女の様子はようとして知れなかった。2日ほどそんな日が続いて、確か19日の夜に初めて電話がかかってきた。全員無事との事。避難所では公衆電話に長蛇の列ができ、彼女もまた、そこに長時間並んでようやく電話できたとの事だった。

次の日も電話がかかってきた。たぶん20時ごろだったと思う。どうやら神戸大学内で避難所を点々としているらしい。それまで京都までしか運行してなかった新幹線が新大阪まで通る事になったのを聞いていたので、思い切って行ってみる事にした。新幹線の最終は21時なのでギリギリだったが、タクシーを飛ばして、東京駅に向かった。

大阪に着いて、同じく彼女が西宮で被災した友人の所に落ち着いた。次の日、神戸、西宮を共に行動する事にして、買い出しに出た。大阪市内はほとんど無被害で、普通に食料品などが売っていたので、必需品と思われるものを買い込み、車に載せて、一路西に向かった。

その日は震災後始めての土曜日で、43号線は阪神高速が横倒しになった事もあって、大渋滞だった。会社に入って初めて建設技術に触れた自分は、その壮大な構造実験に、ただ唖然としていた。いや、誤解を恐れずに言えば、会社では教科書的に語られている建物構造の地震による破壊を見て、感心していたと言う方が正しいかも知れない。その横を自衛隊車両が渋滞に巻き込まれながらも進んで行くのを見て、初めて自衛隊を応援したかも知れない。

青木の交差点に差し掛かった頃、渋滞はピークに達した。この交差点は海からの一方通行を含む五叉路になっていて、信号が消えた状態では全く機能していなかった。そこにいた警官に無駄と知りながら質問してみた。「この渋滞、いつまで続きますかね?」当然帰ってきた答えは「分かりません」。彼の背中を見ると、愛知県警と書いてあった。

そこから針路を北に向けて、幹線道路から住宅街をすり抜けて行く事にした。この作戦は功を奏し、そこからはある程度スムーズに進む事ができた。この住宅街すり抜けで、大規模な家屋倒壊がそこかしこで起こっている事が、よく分かった。道の両側を倒壊した建物が塞ぎ、行き止まりになっている場所がいっぱいあった。

結局、普段だと45分ほどの道のりを6時間ほどかけて進み、神戸大学に着いた時には、既に夕方だった。それから彼女の足跡を辿って、避難している場所を探し当てるのに1時間ほどだろうか。ようやく見つけたはいいが、実はご両親とは面識もなく、その時が初対面。緊張しつつ、支援物資を渡し、激励して帰路についた。

あれから17年。その後も当然何度も神戸を訪れ、その復旧・復興を見つめてきた。今はすっかり綺麗になって、中心市街地を歩く限りは震災の爪痕を感じる事はない。きっと、東日本大震災で被災した地域も10〜20年のスパンで見れば、元通りと言えるような状態になるんだろう。そう願っている。

震災は、それを身近に受けた人々に、一つの契機をもたらす。阪神であれ、東日本であれ、これからの生き方を考える時の原点になる人も多いだろう。哀しみが深かった分だけ、より多くの人にとってのプラスの契機となることを祈っている。

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