2010年8月4日水曜日

建設会社の科学的ポジション

人文科学や社会科学が研究するのは、主観と客観の程良い妥協点なんだろう。

主観的すぎてはもちろんダメだが、客観性の過度な追求もナンセンスだ。「過半数の専門家が納得する事のできる主観性を帯びた主張」という辺りが定義としては適当なのではないか。自然科学系が客観性に立脚しなければ意味がないのとは、当たり前だが立ち位置が違う。

思えば、自分が建設会社にいて研究と言ってきたものは、社会科学系のものが多い。建築なんて自然科学の塊なのに、不思議だが。実は建築には、自然科学で処理できる部分と、社会科学的に解を見つけていかなければいけない部分とが、あまり明確に分かれていないという特徴がある。

分かりやすいのが「設計」と言う行為。大きくは3つに分かれ、相互に依存しあっている。

その中でも全てをまとめ、設計プロジェクトとしてハンドリングするのは意匠設計である。意匠設計は、与えられた敷地と希望の用途を鑑みて、正解のない解を組み立てる役割を担っている。つまり、社会科学的な振る舞いを求められている、と言うことになる。

施工においても同様で、作る行為の裏付けは自然科学的な論理性を基礎としているが、実際の行為は職人さんを取りまとめて運営すると言う、およそ論理からはかけ離れた正解のない世界を漂うことになる。

また、建築を語る上で欠かせない歴史なんて、人文科学以外の何者でもない。

つまり、建築を覆っているのは、そういった科学のカテゴリーを超えた世界観なんだと思う。工学部でありながら、極めて曖昧な定義の中で、自由にそれぞれの立脚点を作り、拡大・拡張に向かう学問領域が建築なんだろう。

この辺りの認識がしっかりしてないと、定義が緩いがゆえに、また、客観性が乏しいがゆえに、道に迷う事になる。要は、客観性だけを求めるような認識を、本人が、上司が、組織が持っていると、人を正しく評価できなかったり、適切に指導できなかったりして、人材をうまく使いこなせず、ダメにしてしまうか、散逸してしまうかになる。

スピンアウトベンチャーや転職などで人材流出が顕著なゼネコンでは、社員たちが誇らしげに「人材輩出企業」と言っている場合があるが、実は、「もの作り」に固執して、会社が硬直化していることの証左なのかも知れない。

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