2010年8月16日月曜日

平和だから幸せなのか?

昨日、終戦記念日だった。65年という何となくの節目でもあり、何となく過ぎたように思う。

テレビを見ていて目立ったのは「今の日本は幸せだと思いますか?」という質問で、TBSドラマ「歸國(きこく)」でも、南の海で戦死し幽霊となって帰ってきた兵士たちが問い続けていた。ドラマ自体は極めて陳腐で、我々がこれら戦死者の犠牲の上にいる事を想起させるほどのリアリティもない、ただの情緒的なドラマだった。

ドラマの中で、現代社会の成功者モデルとして描かれる石坂浩二が「私はどこで間違ってしまったのでしょう」と、幽霊である戦死者のビートたけしに問うていた。このドラマの文脈では、金を稼ぐことに終始することではなく、貧しくとも忠孝を忘れず、祖先を敬い子供を育てる事、小さな世界の小さな満足に幸せを感じるべきだ、という論調だった。足るを知ることで、真の幸せが得られる、と。今の日本は、決して幸せではなく、間違った道を歩いているという事らしい。

きっと民主党が影のスポンサーになって作ったのだろうと推測するが、行き過ぎた資本主義を憎み、最小不幸社会が理想であるとの思想が見え隠れして見苦しかった。

そう考えると、様々な番組で繰り返される「今の日本は幸せだと思いますか?」という質問自体が民主党のキャンペーンなんだろう。「幸せか?」と問われて、多くの人が幸せと答え、不幸せと答える人は直近に離婚したり、職を失った人ばかりと言うのも、かなり作為を感じさせる。

幸せの尺度なんて人それぞれで、金に求めても良いし、家族に求めても良い。それをどうこう言う権利は他人にはないはずだ。が、日本人は他人との相対感の中でしか自分を見つけられないので、他人の幸せを羨ましく感じて、結果、悪平等な最小不幸社会なんて言葉にコミットしてしまう。

一方で「国としての幸せ」の解を、今現在にのみ求める刹那的な回答に、この国の民度の低さを感じる。過去からの流れ、そして未来への展望も含めて、現在の幸せのカタチが見えてくるものだと思う。

未来に責任を持たない人は、「こんな平和で安全な国で不幸な訳がない」と答える。この平和や安全を維持するために何をすべきかに思いを馳せ、現時点としてのやるべき事がなされているか、それが国としての幸せの尺度になるはずだ、という所に思いが至っていない。

今現在のように、祖先の努力、蓄積の上に安穏と暮らし、未来への積み上げに意識が向かない国、さらに言えば政治及び国民性では、国としての幸せは程遠いと言わざるを得ない。

勘違いしてはいけない。平和で安全だから幸せなのではない。

平和で安全になる努力を続けているから、未来もそうだと信じるから幸せなのだ。だから、戦争で亡くなった方々は、ある種の幸せの中にある。個人としては絶大な不幸である事は間違いないが、自分たちの子孫や国の未来という視点で見たときの幸せのみを頼りに死んでいったのだ。

彼らの気持ちを無駄にしてはならないし、こういった視点を未来に対して持ち続けなければならないと感じた終戦記念日だった。

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