2010年1月18日月曜日

行動しないという選択

少し前に同僚と、大げさに言うと日本の行く末のような話をした。

自分は、日本人の国民性として、個人主義で、依るべき宗教もない、そして物質的に満足しきっている状況下では、何かが大きく変わることはあり得ないと思ってる。

しかも、なお一定の経済力を持ち続けることが最悪で、国際的なプレゼンス低下は比較的緩やかに収まり、それが「茹で蛙」状態を確実なものにするだろう。つまり、茹で上がるまで気づかず、座して死を待つのみである。団塊世代が後期高齢者になる15年後あたりは、その谷底じゃないかと思う。

そういった立ち位置で話をしてたら、悲観的すぎる、いずれ立つべき人が立ち、変わっていくはずだから、期待して待つべきと言われた。逆に、なぜ楽観的でいられるのか、何が会社や国を変えると期待するのか、その期待する先の信憑性はどの程度なのか、いちいち聞いてみたい。

先日、出席した下らないシンポジウムで、一人の発表者が面白いことを言っていた。「冷蔵庫の中にある牛乳は古いモノから飲むが、売っている牛乳は新しいモノを選んで買う」と。つまり、全体最適なんて関係なくて、基本的に個人最適でしか動けない、ということ。

人間の本質だとは思うが、寄付やボランティアが社会的に自然な形では広まっていない日本人には特に顕著な行動様式であるとも言える。こんな中で、全体最適を目指しましょう、他人を思いやり、痛みを分かち合いましょう、なんて意味のない提案だろう。

どこに正解があるのか分からないが、行動なくして結果が得られることはない。行動しないという選択は、機を待つ準備段階でなければならない。

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