2010年1月13日水曜日

幕末と現代は相似形

「龍馬伝」に感化されて.司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読んでいる。まだ読み始めたばかりだが、面白い。今まで敬遠してきたが、皆がハマる理由はよく分かる。

時代の流れが急激に早くなる、少し前の時期に生まれ、ちょうど良いタイミングで流れに乗っていく。その時代とのフィット感と、足りないピースを埋めるがごとき人間性が全てだと思う。

また、硬直化した周辺環境も、その存在を後押ししている。強い身分差別の残る土佐に生まれながら、家柄は良く、金持ち。差別の、本当の中心にいなかった事が、竜馬の客観性を育んだのかも知れない。

貴族気取りの上士は「畏れ入る」ことを組織コミュニケーションの核としており、上役や幕府に「お叱りを受けない」というのが、一つの行動判断基準になっていた。結果として、多くの責任を取りたがらない意思決定者の、大局感のない意見に翻弄され、意味のない行動ばかりになってしまう。

黒船が来た時に、竜馬が長州藩の陣地を偵察する任務を受けた。そこに配してある大砲のほとんどが灯籠を横倒ししたものだと上役に報告した時、「それで幕府からお叱りを受けないのなら、土佐でも灯籠を買い込もう」と言ったとか。

こんな意思決定が、大企業には横行している。それがおかしいと知りながら、いつか誰かが流れを変えてくれるはず、と傍観している人もいっぱいいる。変わるための中心部署にいながら、多くは他人事だ。

竜馬の時代も、江戸はどこまでも他人事だった。情報の少ない薩摩、長州、土佐など辺境の国だけが、真剣に日本を憂いていた。情報を得ることが容易になり、今は全員が江戸にいるようなもので、日本に対しても、会社に対しても他人事だ。

だから、将来のために必要だと嘯き、本質とは異なる部分最適解に血道をあげ、人材、時間、金を食い潰す。危機は、今ここに迫っている。

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