2010年7月23日金曜日

脱藩とは

脱藩を考える時、重要なのは「藩」をどのように定義するかだろう。国なのか、会社なのか、それとも自分なのか。それぞれの危機に対して、するべき事とできる事を整理すれば、分かるのかもしれない。

茂木健一郎先生のクオリア日記には最近、わが国に対する憂いが頻繁にアップされている。「日本は今、劣化しつつある。明治維新以来、紆余曲折を続けながらも躍進し続けてきた「近代日本」の「賞味期限」が切れつつあるのかもしれない」だから「自分という殻を脱ぎ捨てよう」と、自分からの脱藩を勧めている。

つまり、日本の危機に対して、自分の殻を破る事に解決策を見出そうという事だ。

ちっぽけな自分ができる事と言えば、自分を変える事ぐらいなので、当然と言えば当然だ。自分すら変えられないのに、会社や国を変えようなんて、おこがましすぎる。

福沢諭吉は「国を支えて国に頼まず」と、独立自尊の心構えが肝要とした。坂本龍馬は土佐藩からの脱藩を利用して自分の殻を破った。そうして作られた近代日本の全てが、しゃぶり尽くされ、出汁殻になってしまったのかも知れない。実は、三島由起夫が嘆いたように40年前から、つまり、福沢諭吉や坂本龍馬が作り上げてから100年ほどで、日本は既に空疎になってしまっていたんだろう。

鮮烈な印象を残す明治維新ですら100年しか持たない。その事に驚くと同時に、次の維新を起こす事に対する不安が増大する。明治維新は外国に侵略されるかも知れない、その巨大な恐怖がトリガーになったが、それに匹敵しうる脅威があるのか。

もの作りは韓中台にやられ、コンセプトや事業化は欧米にやられている、そんな中でも他人事な机上の戦略論に終始している産業界。リアルな脅威無くして動くことのない国民性。危機感を感じる感受性に乏しい社会。果して、IMFの介入をもってしても動けるのか。

もし、人々に行動を促すような具体的な脅威が表面化しなければ、日本の破綻懸念が国民に変化を起こさなければ、日本は次の危機がくるまで、江戸後期のような退廃した期間を過ごさなければならないかも知れない。

そんな事を考えていると、国や会社の事を考えている場合ではないと感じる。やはり、自分が変わる事が社会のためになると信じて、自分からの脱藩を試みるしかないだろう。その時に、自分と会社のベクトルが合えば、自分の変革はそのまま会社の変革に繋がるだろうし、そうでなければ、自分からの脱藩は即ち会社からの脱藩でもある。

いずれにせよ、卵の殻は自ら割らなければならない。自分で割れば命を得られるが、他人に割られる時は食べられる時だ。

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