2011年7月20日水曜日

規律の共有化とフィードバック

組織運営には規律の共有化とフィードバックが大事だと思う。というのも、自分が所属している組織がその両者を完全に欠如した組織だからだ。日本的従来型産業ということでいうと、社内規律は厳格に設定されているが、共有化いう観点では、全く不十分と思える。

本来、企業というのは、組織としての規律を個人個人の規律に置き換える作業が必要で、その作業を段階的に、かつ効率的に行うために組織が存在する。この翻訳作業を個人で行うには、かなり客観的な目と達観した精神を持っていないとムリだろう。

通常は、仕事を通じて、立ち居振る舞いだとか考え方だとか型を学ぶことになる。その過程に介在するのが上司や同僚であって、自分たちの社会的な位置づけ、存在意義などを共有化していくことになる。共有化されている意識は、いわゆる世間一般常識でなくてもよい。組織ごとのローカルルールで十分だが、共有化されている、組織のコモンセンスになっていることが重要だ。こうすることで、個人の意思や行動と組織の価値基準が一致させることができる。

共有作業が不十分だと、個々人が好き勝手に規律を作ることになる。

また、共有していく以上はフィードバックが必要で、個々人の考え方が組織のコモンセンスに沿ったものであるかどうかは、同様に上司や同僚によってフィードバックされるものだろう。フィードバックプロセスを経ることで、個人と組織の価値判断のズレが微調整される。

だが、規律の共有化が未熟な組織には行動に正解も不正解もないため、明確なフィードバックを与えることができない。つまり、自分の行動の良し悪しを自分で考えるということになる。

組織として、規律の共有化とフィードバックができていないと、そこにいる個人は自分で好きなように組織そのものや社会的意味を定義してしまい、その独自の定義に基づいて行動を判断するようになる。組織とのつながりや連携の強弱は、個人の意識に任せられる。そこに組織の意思が介在する余地はない。

当然、制約が無い方が精神的なストレスが少ないため、規律の共有化やフィードバックが自律的に動き出すことはあり得ない。そこには組織としての強制力が必要になるハズだろうが、自分を振り返ると、なぜか今まで規律の共有化やフィードバックを受けてきた記憶がほとんどない。

こういった組織は、組織と呼ぶことができるのだろうか?スイミーのように、大きな流れの中で「群れから離れないこと」だけを規律とする組織って意味があるんだろうか?

なでしこジャパンを見ても答えは明らかにNOだろう。

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