2012年4月25日水曜日

限りある土俵の中では自由

かつて「Macは塗り絵で、Windowsは真っ白なキャンバスだ」と書いた事がある。改めて、サービスというか大きくは商材とはどうあるべきかを考えてみた。

よく日本企業は、利用の自由度を上げて、何にでも使える商品を提供しようとする。実は、今のAndroid端末などもそうなのだが、何にでも使えるものは、よっぽど明確な意志がない限りは何にも使えない、というのが真実だと思う。ほとんどのノートパソコンは筐体の四方に様々なポートが並び、多くの人はその3割ぐらいしか使わない、というか使えない。

本当に必要な機能なのか、という議論がほとんどなされないまま、様々な人の意見を取り込んでいくという、悪い合議プロセスを経ると、こうなってしまうのだと思う。今の自分の立場を振り返っても、ポリシーを持たずに合議プロセスに入ると、声の大きい人もしくは役職の高い人の意見が大きく取り込まれて、どんどん形が変わっていくことになる。出来上がったものを見ると、いかにもグロテスクで、当初思い描いていたものとは全く違うものになっていたりする。

こういったものづくりも、見方を変えれば、全ての人の要求に応える完璧なマシンとも言える。別の見方をすれば、誰が使っても3割ぐらいしか使えないマシンとも言える。これが、真っ白なキャンパスと言い換えている。

真っ白なキャンパスも、その大きさや白さを十分に使い切る事は難しく、全てを有効に使える人はほとんどいない。端っこの方に小さな絵を描いてしまったり、全体に間延びした絵になってしまったりする。そして、いろんな人の意見を聞くと、何を描きたかったのか分からなくなってしまったり、だからといって、誰の意見も聞かないと絵にもならなかったりする。

他方、Macは塗り絵的で、できる事は限られているし、出来上がりも何となくイメージできたりする。だから、幼児から老人まで、特に使い方を教える事なくとも、一定のクオリティの作品が作れるし、ある意味狭い領域で、ある決められた絵を描く事だけに集中して、その完成度を高めていく事ができる。

塗り絵を提供する事は、提供する側としては大変難しい決断だと思う。できる事を限定すると、明らかに使う人の人数が減る訳だから、通常のロジックでは意思決定できないだろう。ただ、これからのものづくりにおいては、必要不可欠な考え方なんだと思う。

一つの考え方として、レイヤーを分ける事で、両者の利点を取り込む事ができるとも考えられる。

使える領域を限定しつつ、その領域内では自由度を高めて上げるということで、塗り絵的なんだけど、テーマが決まっているだけの塗り絵とでも言う形があり得るのではないかと思う。実は、Appleの商品は全てそのように設計されているとも言える。活用するシーンを限定しているが、そのシーンの中で何をするかに対する制限はなるべく少なくなるように設計されているように思える。

これからのサービスは、このような考え方が中心になっていくんだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿