2010年3月22日月曜日

主観化と客観化

昨日の大河ドラマ「龍馬伝」は、第一部終了(脱藩)にむけた、龍馬を取り巻く環境の変化が際立った回だった。

とりわけ、武市半平太が吉田東洋に足蹴にされ、その行き場を失ったシーンは印象的だった。史実とは異なるかもしれないが、あれほどの強烈な挫折がなければ、その後の極端な行動は生まれなかったとも思える。

現時点での龍馬は、まだ思想が固まっておらず、武市や久坂にどんなにアジられようとも、何のためにどんな行動を取るべきかを見出せずにいる。この納得せずして行動しない、周りからみると優柔不断にも見える態度が、将来の日本を救うことになる。

平井を代表とする土佐勤王党のメンバーを見ると、多くの人が、自分の頭では考えず、ただアジられるがままに流されていく様子がよく分かる。彼らのような人は、現代においても大多数を占める。彼らは煽動されやすく、それゆえ、具体的メッセージに弱い。だからこそ、武市のメッセージに簡単に乗せられていく。

現代にも蔓延る、主観的、具体的メッセンジャーのズルい所は、危機感を煽り、反対しづらい大義名分を振りかざしてくることだ。武市の場合は「外国が攻めてくる」と危機を強調し、「天子は攘夷を望んでいる」という大義名分を担ぐ。龍馬が疑問に感じるように「外国は交易を望んで」おり、「天子が攘夷を望んでいるかどうかは(下々には)分からない」と東洋に喝破されるほど、脆弱な根拠であるにも関わらず、だ。

ともあれ、物事を客観的に評価したい龍馬と、主観(己の狭い見識)で物事を評価し、自分の考えが正しいと盲信する武市の違いが、今後の行動を分けていくことになる。

吉田東洋は、自分と同じレベルで世の中を見ている龍馬の将来に期待する一方で、(当時としては当たり前の思考レベルだが)主観的な武市や後藤を鼻で笑い、バカにしている。客観化、抽象化レベルの高い人からみれば、主観的で具体的に過ぎる考え方は、あまりに狭量で、短慮で、底が浅いと見えるのだろう。

その思考レベルの違いによる差別的な意識が、武市をして東洋を、後藤をして龍馬を暗殺せしめるトリガーになっている。主観的であり過ぎるがゆえに、自分の考え方に妄執し、極端な行動へと突き進む。

翻って現代は、様々な事柄が主観的にエキセントリックに決められ、将来の形は建前的にしか語られない。

現在の閉塞感溢れる社会に最も必要なのは、全ての物事について、一旦、一歩引いたポジションから客観的に評価して、未来に向けて、本当に必要な行動を選択して行くことだと思う。

これは、幕末の状況をなぞらえると、決して主流派ではあり得ないだろう。しかし今は、そんな行動が求められている、と思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿