2010年10月8日金曜日

公との関わり方

先日会社の友人と、会社のこと社会のことについて話をした。発端は、ある研究開発テーマのテーマ設定について、感じた強い疑問だったと思う。

そこから議論は流れて、電車の車内マナーや、公共空間のあり方について互いに感じていた事を話し合った。建物や公共空間が気になるのは、ある意味、職業病だろうか。

最近、電車に乗ると、満員電車でギュウギュウの中、立ちながら目を瞑っている人が多い。そういった人は、押されれば押されたままだし、目の前に子供がいても関係ない。自分を取り巻く環境からのインプットを、極力減らす努力をしている。つまり、不特定多数の人と極端に制限された時間・空間を共有する「公」との関わりを、視覚情報を遮断することで、最小化しようとしているように見える。

また、例えばショッピングモールなどの施設では、公開空地が不細工なチェーンで囲ってあることもよくある。この不愉快な取り組みに至った原因は、本当に些細な駐輪という行為だったりする。

公開空地という「公」は、制限が明記されていなければ好きに使ってよいという、間違った認識がそこにはあるように思える。

よしんば、個人としてそんな認識を持ってないとしても、一人が何の気なしに自転車を停めてお咎めがなかったら、行為が承認されたと理解して、皆がこぞってやり始める。結果、誰も責任を取らない無法地帯が広がることになり、見るに見かねた管理者が、止むを得ず不細工なチェーンで囲って「ここは無法に使ってよい場所ではありませんよ」とアピールするに至る。

結果を見ると、得をした人は誰一人おらず、単に窮屈な思いを皆に強いるだけの、つまらない愚策だけが残っている。

今の日本はそんな事ばかりだ。何が原因かと考えると、こういった「公」との付き合い方が未熟で幼稚である事だと思える。

「公」はお上のものであり、庶民が積極的に関わる類のものではない、という意識があるのではないか。税金や年金もそうだし、公的空間もそう。広く言えば政治や領土もそうだろう。

「公」は皆に影響する共有財であり、その存在や管理は、皆の力を合わせて最適化を目指していかなければならないはずだ。でも、現状は全て他人事。ルールがあれば盲目的に守るし、無ければ無法、という思考停止状態が続いている。

また、日本の仕組みはうまくできてて、「公」を考える機会を徹底的に排除してある。税金は源泉徴収で、その意味や使い方などを考えさせない上納金のようになものだし、年金はねずみ講のような仕組みで既得権益者は、そのループから抜けられないようになっている。

まずは「公」に対する意識を改めて、皆の共有財であることをしっかり認識することが、全ての出発点だろう。そして、それらを自分のモノとして考えた時に、空間の使い方、お金の使い方にムダはないのか、皆で気持ちよく使うためには、規制やルールではなく、どんな心構えが必要なのか、を考える必要がある。

つまり、「公」との関わり方を再認識しなければならない。これは、残念ながら学校教育では学べない領域のようなので、皆が自分で気づいて、思考停止状態から脱する以外に道はない。

1 件のコメント:

  1. 全く同感です。最近満員電車に乗ることはなくなりましたが(笑)、公との関わりはまったくokazawaさんの仰るとおりだと思います。
    私もこの件についてじっくり議論したかったです。

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