2011年1月5日水曜日

日本の優位性はどうなるのか?

「ゴルフ」に乗る中国人、乗らない日本人 http://bit.ly/fx8zvb

この記事を読んで、自分がかつて書いたブログのエントリーを思い出した。
アンチ産業構造ビジョン http://bit.ly/hpihsg

経済産業省が6月に公表した産業構造ビジョン2010は、韓国との比較をした上で、多すぎる企業や事業領域を整理統合する必要がある、という結論を示していた。つまり、国内市場における一社当たりのパイを大きくして、売上、利益、研究開発投資を拡大していくべきだ、という論である。それに対して、韓国を範にした寡占化の推奨は、国内競争をグローバル競争に置換えるだけで、つまり、より厳しい消耗戦に導くだけじゃないかという意見を述べた。

ローコスト・コモディティへの本格参入は、結局、販売規模や研究開発投資規模といった規模の勝負になるので、品質がなおざりになる傾向があり、日本は過剰なまでの品質を一つの売りにしているのだから、規模の勝負は避けるべきだと思う。そして、ここからが重要だと思うのだが、その過剰なまでの品質を支えるものについての考察が必要で、それこそが日本企業の比較優位のベースになるだろう。

そう言った観点で日本企業の比較優位について突き詰めていくと、消費者の意識の高さに突き当たると思う。

日本の場合、国内市場の過当競争こそが、品質の向上やオリジナリティの追求につながっている。自動車、電機、飲料等の領域で、出自は異なれど巨大化する過程において横並びで成長し、結果として似通った多くのグローバル企業が生まれた。これらの企業が国内市場で苛烈な勝負をしかけ、その商品・サービスを磨き上げ、それをもって海外に打って出る、というパターンで世界中に日本企業が広がっていった。差別化されていない大衆車のカテゴリーで、トヨタ、日産、ホンダ、三菱、マツダとグローバル企業が5社も存在するのは日本ぐらいのものだろう。

こういった国内における消耗戦が生んだ商品群は、国民に非常に大きな選択の自由を与え、商品を見る目を養う結果となった。つまり、過剰な商品が消費者を鍛え、鍛えられた消費者が商品を選別する、という品質に関する正の循環が回っていたことになる。

少し前までは日本の、国としての成長に伴って商品販売が伸び、低い利益率でも高い利益を生み出す事ができた。そして、その潤沢な利益を研究開発投資に回す事で、他国・他社に先んじた商品開発が可能となっていた。日本が見かけ上成長し続けた1980年代までは、日本の基準がグローバル基準だった。1990年代はその遺産もあり、国内需要が伸びない中でも競争力はさほど落ちなかった(それほどに圧倒的な競争力があったとも言える)が、徐々に商品開発投資力が衰え、競争力の上積みができなくなった。2000年代に入って遺産を食い潰したところで、決定的な競争力不足が露になった。

今後、グローバルなベンチマークは日本を素通りしていくことになる。そうすると、国民の商品を見る目もグローバルな基準にキャッチアップできなくなり、日本企業が造り出した商品やサービスを、グローバル競争力を持った視点で判断できなくなる。現状は、相対的な優位性を持たない企業や商品しかなく、消費者は商品を鍛える目を持たない。それが日本の衰退の原因だろう。もう、グローバル基準を積極的に受け入れて、消費者(国民)の感性を鍛える以外に道はないと思う。

元々日本の優位性だった国民の感性「良いモノってこういうモノなんだ」という感性の輸出が再びできるようにならないと、日本のモノづくりは終わってしまうだろう。

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