2011年4月18日月曜日

見つけるから、見つかるへ

先日の「不安感を変化に」というエントリーの最後に書いた、「人々が漠然と抱いている思いを結晶化させて、分かりやすく提示しなければ。Kozchiの場合は何だろう。」というフレーズについて考えていた。

商品やサービスが社会に与えようとしている価値、それは不安や不満がベースになっているはずだ。より良い製品や生活を目指して、そこに横たわる課題を解決するために、新しい技術や考え方が生まれる。ただ、その課題というものは容易には見つからない事もある。特に、自己完結するのではなく、ユーザーを始めとする他者とのインタラクションから生まれるものについてはなおさらだ。

Kozchiは、集客施設とテナントと個人を対象としたサービスだ。そこにある不満は元を正せば、自分が個人で感じたものなのだが、改めて煎じ詰めると「見つける」という行為に対する不満なんじゃないかと思う。

つまり、検索が持つ制約を潜在的に感じていたのだと思う。

検索は、個人が持つ「気持ち」「イメージ」「記憶」「スキル」などに依存した方法で、要は利用者の意識と知識で「見つけてもらう」ためのメソッドだと言える。

よくよく考えてみると、これって結構ハードルが高い。自分を振り返るとどれも曖昧なことが多い。何を食べたいかのイメージは、案内板を見て決める事も多いし、どんなお店がどこの施設に入ってるかなんて、ほとんど知らない。幸いにして検索スキルは持ち合わせているから、それでも何とか見つける事ができるけど、高齢者はそうでない人も多いだろう。

世の中は「見つける」ナビゲーションばかりだけど、「見つける」には前提条件が必要だ。実際、街中にいるときはお店を探しているようで探していないし、探していないようで探している事が多い。そんな曖昧さに「見つける」という行為は対応できていないように思う、というのが検索に対する不満だ。

Kozchiは「見つかる」ナビゲーションとして、そのような不満を解消できるものと考えている。

もう探すのは止めてもいいんじゃないかな。「見つける」から、「見つかる」へ。そんな呼吸をするような、自然なサービスが求められている気がする。

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