2011年4月22日金曜日

日本は変わらず、ただ淡々と沈み行く

震災は、日本を大きく変えるきっかけになると思っていた。が、今となっては儚い夢かもしれない。

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まず、エネルギー需給のあり方。

それは作る側も使う側も巻き込んだ大きな大きな話になる可能性があった。

原子力に頼れなくなった作る側は、再生可能エネルギーをフルに活用せざるを得なくなる。その不安定さを運用でカバーしつつ技術開発を進める、という美しいストーリーは誰もが思い描いていたんじゃないだろうか。

東京電力は、その職責を果たすべく電源をかきあつめ5,700万kWにまで達しようとしている。通常の夏のピークが5,500万kWである事を考えると、節電なしに済みそうなレベルである。このような状態で省エネのインセンティブは働くのだろうか?きっと、ドラスティックな変化は期待できないんじゃないかと思う。

効率の悪い再生可能エネルギーは、原子力で電源が足りないからこそ上がってくる話であって、電力供給が何とか間に合いそうという前提においては、積極的に導入する意味もないだろう。
このような状況だと、原発は必要悪という位置づけで存続し続けることになりそうだ。そして、FUKUSHIMAは忘れられる。

つまり、電力が足りないという事実を、企業努力で幻想化しつつあると言える。東電にとっては、有利な方向になってきている。

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次が、エネルギー融通の話。

関東以西に出かけると、その明るさに驚く。今まで普通だったのに。話を聞くと、震災後しばらくは節電機運が高く、何かと省エネに励んでいたようなのだが、いくら頑張っても東北や関東の人のためにならないと分かると、従来通りに戻っているらしい。当然だろう。経済活動を減退させる訳にはいかないので、役に立たない自粛は、それこそ自粛しないとバカだ。

どうしてそうなるかというと、電力周波数の問題で東西で融通し合えないからだ。

もし、電力を融通し合えたら、関西の省エネ努力が意味を持ち、日本全体で痛みを分け合う事で最小化することができるだろう。今回の震災で、復興に向けた最大のポイントは、以前にも書いたように地域間の意識差を無くす事だと思う。現状でいうと義捐金レベル、要はお金でしか地域間コミュニケーションができていない。こんなの長続きする訳が無い。

本来なら、今掛けるべきコストは電力周波数統一に向けた設備投資であって、それが無い限りはエネルギーの問題を解決できない。今の状態では、日本中を巻き込んだエネルギー改革はありえず、欧米、アジアの各国に遅れを取るだろう。

そして、地域独占企業たる東電にとっては、周波数を統一しなければ競争をしなくてすむので、メリットが大きい。

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最後が、都市デザインの問題。

津波によって完膚なきまで痛めつけられた三陸地方を、新しい都市の一つのモデルにしたい、というのは誰しも考える事だろう。被害に遭われた方には大変申し訳ないのだが、日本の国土の内、人が住める場所でゼロから都市のあり方を考えられるのは、今現在三陸地方しか無い。

これには少しの希望を持っていたのだが、最近、「三陸海岸大津波(吉村昭著)」を読んで、考えが変わった。本書のp.172にはこうある。

「田老町は、明治二十九年に死者一、八五九名、昭和八年に九一一名と、二度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的打撃を受けた田老は、人が住むのに不適当な危険きわまりない場所と言われたほどだった。

しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかったのだ。

町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿勢をとった。」

地元の人はこういったメンタリティで土地を見ている。当たり前だと思う。

国が被災地を買い上げ、新しいグランドデザインと犠牲になられる方への賠償などを含めて周到に検討し、着実に、しかも素早く実行して行かないと、このメンタリティを覆す事はできない。

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菅内閣は、会議でこういった事に対する結論を導きだそうとしているようだが、大きな方針は議論するまでもなく決まっている。エネルギー政策で最重点は電力周波数の統一であり、都市デザイン政策では、被災地の国有化である。

この二つが実現できない限りは、日本に新しい夜明けはやってこないだろう。

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