2011年6月8日水曜日

アンチ合理的判断

東北地方の復興について議論すると、どうも噛み合わない。正しいかどうかは分からないが、自分はアンチ合理的判断派だからだ。

東京にいる人のほとんどは、ある一定の合理的判断をした結果の人だろう。故郷を離れ、一人暮らし。家を持つ時も、土地に対する情念的な判断はなく、費用対効果が中心的な価値になる。

東北地方、特に三陸辺りに住む人は先祖代々、合理的判断を拒否してきた人ばかりだろう。そうでなければ、あの土地のあの海辺には住めないと思う。

そんな情念が絡みつく土地に合理的な判断を持ち込んでも、誰もイエスとは言えないだろう。それで納得できるなら、とっくの昔にやってるハズだ。

でも、東京に住む人は、基本的に合理的に行動を決めてきた人々なので、情念の判断が理解できない。

この両者間のコミュニケーションは、たぶん交わる事がない。

情念派は、合理派の言っている事は分かるが、そんなの判断材料にならないと思っている。合理派は情念派の言う事が分からないし、定量化し得ない情念なんてものは考慮する必要がないと考えている。

この哀しい平行線に終止符を打つには、互いの言ってることが、それぞれに理解できるようにならないといけないだろう。

自分のポジションは、情念派として、そこに住み続ける事が前提だ。

(1) 40年後に家が流される事を覚悟して、できるだけ持たない生活を目指す
(2) 財産はなるべく大きな銀行に預けるか、株などにしておく。
(3) 写真、ビデオ、手紙、思い出の品などは、なるべくデジタル化し、クラウドに置いておく。
(4) 非難経路を確保する。
(5) 堅牢な避難場所を、動線も含めて確保する。
(6) 地域のコミュニティに参加する。
(7) 避難訓練を欠かさない。
といったところか。

つまり、東京の人が考えるようなスマートな案ではない、というか解決策ですらない。こんな、被災前提の案が通るわけもないが、命と雇用と街を残していくには、これしかないんじゃないか、とも思う。

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