2011年6月13日月曜日

責任と権力と役割

東電を見ていると、大きな会社には相応の大きな責任がある事がよく分かる。

より広く、社会に役立つような会社は、より大きな責任を負うことになり、それが、社会をより良くして行く。とりわけインフラ企業は、特に日本の場合は地域独占も手伝って、責任が重い。

小さな会社は、社会へのインパクトも小さく、利用者も少なく、責任も小さい。必然的に産業ヒエラルキーが生まれ、暗黙的な産業ヒエラルキーは、日本の産業構造の中に身を置くと、否応なく理解できる。

下から見上げると明らかな産業構造も、上から見下ろすとそうではないのかもしれないが、問題は、その責任の大きさを社員が理解しているかどうかにあると思う。

自分たちが持つ大きな責任が生み出す大きな権力に溺れてなかったか、が問われている。

1000年に一度の権力を揺るがす事態に、自身が持つ責任の重さと、責任を全うするに足る諸行動のあり方を議論すべき時だろう。今まで、そこまで大きな権力と責任を我社が負っていると、深刻に考えた東電社員はさほど多くなかったのではないかと思う。

東電の中で、どのような議論か行われているか分からないが、権力と責任に関する道筋が明らかになれば、少しは光明が見えてくる。これまではどんな責任を負っていて、それに対してどの程度の権力を行使してきたか。また、今後についてはどのように考えるのか。皆で議論してもらいたい。

実はこれは東電に限らない。それぞれの会社で、負うべき責任と、振りかざすべき権力の大きさを、よく理解しておくべきだと思う。その中に、各人が果たすべき役割があるはずだ。

僕たちはもっと、社会に対する責任と権力と役割について、敏感であるべきだ。今までの年功序列、終身雇用の内向き世界では、無用の長物かもしれないが、もう、内向きではいられないということだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿