2011年12月26日月曜日

憂いなければ備えなし

浅間山荘事件で有名な佐々淳行の名言。

一般的な慣用句としては「備えあれば憂いなし」だが、「備え」と「憂い」の前後関係を考えると、「憂いなければ備えなし」が正しいだろう。

今回の大震災・津波・原発事故を考えてもそうだ。

ある想定内の備えを万全にして憂いはないと考えていたが、想定外の事が起これば、軽々と備えを超えて行ってしまう事が分かった。憂いのない備えなんて無いんだ、という知見を、多くの犠牲を払って、ようやく手に入れたと言ってもいいだろう。その知見が活かされるかどうかは、今後の取組にかかっているのだが。

一方で、何かを限界を設定して備えを充実させる事から離れて、限界を設けず全てに憂いることは、現実的にはとても難しい。全てに憂いてみたところで、掛けられるコストや時間には限りがある。その妥協点で想定内外の境界線が引かれてきた。そして、その境界線設定が、ご都合主義に走り、本来あるべき境界線からずれたところで、事故は起きたということだろう。

今までの時代は明確な目標を持って、まさに「坂の上の雲」を目指すかの如く邁進する事が是だったが、そういった考え方を超越するほどに、世界は複雑化したと言えよう。

たぶんこれからの社会で必要なのは、明確な線引きによる二元化による備えではなく、曖昧で緩い線引き、一応の境界線を超えた淡い憂いに対しても何らかの対策が打てるような、柔軟性のある備えのあり方なんだろう。

つまり、震災を期に明らかなパラダイムシフトが起こっていると考えられる。

憂いなければ備えなし。どれだけ想像力を逞しくして、「憂う」かに掛かっている。

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