2011年12月7日水曜日

ソーシャルの限界

事業者側よりも利用者側で情報を作り込むということは、情報に対する責任が曖昧になる。特に匿名の場合は。

利用者の人数もしくは密度でその有用性が決まり、ある閾値を下回ると極端に使えなくなる。

情報密度を上げるためには情報発信できる人を集めなければならず、世の中の限られたリソースを奪い合うことになる。

また、意味のある情報密度を得るには、ジャンルをかなり絞りこむ必要がある。

そのため、利用者から届けられる情報は本来の多様性を失い、ある意味画一的になる危険性を孕んでいる。

決まった人が決められたジャンルのネタを、不必要なまでの高解像度で表現することになるか、さもなければ、必要な解像度も得られないような低解像度の情報が広く薄くばら撒かれた状態になるか、の両極端な二択になる可能性も高い。

いずれにせよ、その解像度を制御することはできない。

コントロールされた世界では見つからない情報が見つかる可能性は大いにあるが、普段見逃さないものにも気付かない危険性もある。

ソーシャルが意味を持つにはビッグデータが必要になり、ビッグデータを集める仕組みは、それゆえ普遍性を持たなければならない。

つまり、自然なニーズに対して愚直にシンプルに突き進んでいるサービスが、結果としてソーシャルな価値を持つだけであって、ソーシャルな価値を生み出すことを命題としたサービスが、その目的通りの価値を生み出すことは稀だろう。

ソーシャルって、そういうものだと思う。

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