2011年8月8日月曜日

鶏口となるも牛後となるなかれ

最近よく思い出す慣用句。史記の一節だが、昔の人は正しい。

頭が何を考えているか分からない尻尾の辺りにいると、自身の存在意義も疑問に感じる。牛の尻尾であることの意味は、牛の一部だということ以上ではなく、牛の行動に対してなんらの影響力を与えることはない。

対象が何であれ、主体的に動くのと、そうでないのではまったく意味が違うということだろう。このように考えると、牛そのものを対象にすると対象が巨大すぎて、尻尾にならざるを得なくても、牛と共生している何らかの生き物を対象にすれば、頭となって主体的に行動することも可能だと思える。ただし、牛に取り付いている以上、牛の行動がベースになるのは変わらないのだが。

実は、牛の頭たち(牛口?)も、ほとんど牛の行動に責任を持っていないし、ポジティブな影響を与えていないのは、尻尾にいても理解できる。

例えば、東電の経営陣が震災前に作り上げた組織は、極めて内向きな自由競争を無視したものだったことは、周知の事実になった。とりわけ、社長になれるのは秘書、総務、企画畑の人たちだけで、具体的には社内外の事情に詳しい人、総会などトラブル諸事を仕切れる人、発電所立地に際して地権者などに大して上手に立ち回れる人、ということが全てを表している。

別に、東電を批判したいわけではない。日本の企業は多かれ少なかれこのような性質をもっている、ということだ。つまり、組織の結束を強めるために、極めて内向きな行動を取ることが是とされており、そのことがもたらす影響は、社会的にはゼロだし、社内的にはネガティブだということに対しては関心を持たない、ということになる。

これは牛がでかくなればでかくなるほど、また、インフラ企業ほどその傾向は大きくなる。鶏口というのは、そこから脱却した自由な存在としての鶏を指すのだろうと思う。自分の体を維持することだけが目的と成り下がった牛ではなく、社会にポジティブな影響を与える鶏。それは牛とは独立した存在だと言える。

今の自分は完全に「牛後」にいることを、つくづくと感じる。

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