2011年8月24日水曜日

平時と非常時

今日、とあるセミナーで、日本人は非常時に対する備える力が遺伝子レベルで存在していない、という話を聞いた。その人が言うには、地震や台風などの自然災害に備えることは、戦争や暴動などの人的災害に備えるより難しいとのこと。

遺伝子まで話を広げるのは、ちょっと暴論だとは思うが、主旨は理解できる。

日本的な意思決定は極めて極端なゼロイチで、ゼロでなければイチ、白じゃなかったら黒というものだからだ。こんなメンタリティで非常時の判断なんかできるわけがない。

非常時の備えというのは、万が一の時のゼロ限りなく近いがゼロでない場合を想定して行う。これを日本的なメンタリティに置き換えると、どんなにゼロに近くてもイチという事になる。で、イチというのは非常時ではなく、平時だ。

つまり、非常時への備えは、どんなにレベルが高くても、逆にどんなに発生確率が低くても、平時の備えと同義になる。

結局、Fukushimaに見られるように、その当時の知的レベルにおいて想定された問題以外の問題(または、コスト等の観点から意図的に想定したくなかった問題)は、全て想定外として、人知の及ぶ世界ではなかったとしてしまう他ない。そうしないと想定しなかったことの責任を問われるからだ。

そんなこんなで、対応できる問題だけを選択的に想定し、100%確実な対応を実現する。この結末が、津波被害であり、放射能汚染だ。

間違いなく、日本は同じ道を進んでいる。

また以前とおなじように、想定しうる中で100%の対策を講じようとしている。そこには景観に対する配慮も、生活に対する配慮も、建前上は謳っていても、本質的にはない。

キッシンジャーは言ったそうだ。
「日本と安全保障の問題は議論できない」
チャーチルも言ったらしい。
「日本語は近代戦争(クリティカルな状況)を議論するのにふさわしくない」

まさに、そういう事だろう。ゼロかイチしかない世界に、戦略も交渉も不要だし、不毛だ。日本はいつまでもこのままで良いのだろうか?ゼロとイチの間にある状況は無視し続けて良いのだろうか?この判断による未来は、生活も文化も歴史も景観も、人間の思考能力さえ奪って、全てを破壊して、最後には何も残らないように思えてならない。

遺伝子が問題なら、遺伝子を進化させよう。思考能力が問題なら、思考能力を鍛えよう。判断基準が問題なら、判断基準を変えよう。日本語が問題なら、状況に応じて英語で議論すれば良い。破綻しない可能性がゼロでない日本国債を信じ続けることの意味を考えてみよう。

ゼロかイチに結論を収斂させることで、思考は止まる。思考停止からの脱出に必要なのは、ゼロとイチの間にある存在に気付くだけでなく、それをゼロに持っていくでもなく、イチに持っていくでもなく、ありのままに理解することだろう。

思考を停止させず、ゼロとイチの間にある存在を考え続けること、これこそが今、求められている。

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